終  章

 

 1

 

アドルフ・ヒトラーとは、一体なんだったのか。

 ヒトラーの死は、ナチス党の解体を意味した。それだけではない。ドイツ第三帝国の崩壊を意味したのである。あれほど世界を揺るがせた千年帝国は、泡沫と化して消え去ったのだ。

 ヒトラー夫妻の遺体はガソリンで焼かれ、砲撃でできた穴に埋められた。ゲッベルスは、総統の死体の後始末を終えてから、妻子とともに殉死した。ボルマンは行方不明となったが、どうやら脱出しようとして果たせず爆死したらしい。

 新総統デーニッツは、シュペーアやリッベントロップと力を合わせて内閣を立ち上げ、5月8日、連合軍に無条件降伏したのである。

 今や、全世界を敵に回して孤軍奮闘していた日本も、アメリカ軍に原爆を投下され、ソ連軍に満州を侵攻されて、ついに抗戦を断念。8月15日、連合軍の軍門に降ったのである。

 第二次世界大戦は終わった。そして、新たな戦争が始まった。

 アジアとヨーロッパで、ソ連を中心とする共産主義勢力と、米英仏を中心とする自由主義勢力が、世界の覇権を巡って対峙したのである。冷戦の始まりだ。

 また、1948年に国連によって樹立されたユダヤ人国家イスラエルは、現地パレスチナに住むアラブ人と「生活圏」を巡る紛争を起こした。狩られる側が、狩る側に回ったというわけだ。今や、ヒトラーの信じた「ユダヤ人による世界征服の陰謀」は、事実無根の幻想であることを世界は知った。ユダヤ人は、中東の一角を守るために汲々とする小さな存在に過ぎなかった。ロスチャイルド家などのユダヤ財閥は、自らの金儲けしか考えていない無害な存在だったのだ。

 さて、連合軍は、ソ連との対決の必要上、占領下の日独を早期に復興させ、有力なパートナーにしたかったので、占領政策は比較的寛大だった。その一環として、連合軍は、占領地域の一握りの人間に戦争犯罪を押しつけて、残りの国民を免罪しようと企てた。これが、ニュールンベルク裁判と東京裁判の本質的意義である。

 ニュールンベルクの立て役者は、ヘルマン・ゲーリングであった。彼は意気軒昂としていた。彼は、裁判を利用してナチスの大義を世界に訴えようと考えていたのである。ヒムラーは、既に終戦直後に毒を飲んで自決していたので、ナチス草創期からの大幹部の生き残りは、もはやゲーリングただ一人だった。彼は、責任逃れを目論む仲間を叱責し、弱音を吐く同志を励ました。24名の被告の中で、彼だけが最後までヒトラーを弁護したのである。

 1946年10月、判決がくだった。被告中、無罪となったのはシャハト博士とパーペン副首相(戦時中、ずっとトルコ大使だった)とフリッチュのみ。デーニッツ、シュペーアやレーダーら8名は、禁固刑となった。そして、残りは全員絞首刑とされたのだ。

 「私に出来ることは全て成し遂げた」ヘルマン・ゲーリングは、獄中で笑みを浮かべた。「総統も、きっと涅槃で喜んでいてくれるだろう」

 ゲーリングはその夜、奥歯に隠した青酸カリのアンプルを噛み砕いた。これが、彼の最後の勝利であった。

 10月16日午前零時、最初に13階段を登ったのは、リッベントロップだった。彼の後ろにはカイテルとローゼンベルクが続く。

「ドイツ万歳っ」元外相は、絶叫して呼吸を止めた。

 

 2

 

連合軍の追及は、民間人にも及んだ。

 弁護士のコンラート・モルゲンは、強制収容所でのナチスの蛮行を、実際以上に残酷に証言するよう求められた。

 「法を守る立場として、偽証は出来ません」毅然と言い放つ警察犬判事は、連合軍に監禁され、激しい拷問を受けた。それでも、彼は信念を貫き通したのである。

やがて、業を煮やした当局は、この頑固者を解放した。

 唇から血を垂れ流したモルゲンは、西ベルリンの街で、今まで以上に正義を貫き、ドイツ国民の名誉を守る決意を固めたのである。そして彼は、西ドイツでもっとも優秀な弁護士の一人となる。

 エルンスト・ハンフシュテングルは、アメリカに骨を埋め、晩年に自叙伝『褐色と白い家の間で』を書き記した。その子エゴンは、成長して母国に帰って母と再会し、戦後復興に尽力する。

 映画監督レニ・リーフェンシュタールは、ヒトラーが命じて行った犯罪行為がどうしても信じられなかった。当局に見せられた強制収容所の映像に打ちのめされた彼女は、深い虚脱状態に陥ってしまったのである。彼女が元気に作品を発表し出すのは、それから10年を待たなければならない。

 ヒトラーの親族、アンゲラやパウラは、人目を避けて細々と生き抜き、天寿を全うした。

 

 3

 

 アウグスト・クビチェクは、リンツの街でアメリカ情報局に呼び出された。狭い取調室に案内された彼は、鋭い目つきの係官に尋問されたのである。

「あなたが、ヒトラーの親友だったというのは本当ですか」

「本当です」

 係官は、くたびれた背広を着た役人を、上から下まで眺め渡した。それから、また尋問を再開した。

 「1905年に知り合って、共同生活をしたこともある。その後は長い間音信不通となる。そうですね」

「はい」

 「再会は、1938年のウイーン。それからは、毎年のように会っていますね。どうしてですか」

 「共通の趣味を持っていたからです。二人ともワーグナーが好きだったので、バイエルンのワーグナー祭には、毎年招待されたのです」

「・・金品や美しい夫人をあてがわれましたか」

「いいえ」

「何か、社会的地位のようなものは」

「いいえ」

係官は、質問に詰まって万年筆を舐めた。

「会見するとき、護衛は何人付きましたか」

「いいえ、誰も。会うときは、いつも二人きりでした」

 「それは、本当ですか」係官は、驚いて身を乗り出した。「それなら、どうしてあなたは、悪魔のようなあの男を殺さなかったのです。あなたは、英雄になれたのですぞ」

 「どうしてって」グストルは、目をしばたいた。「彼が、私の親友だったからです。誰がどう思おうと、彼は私の大切な友達だったのです」

係官は、ペンを置いた。

 目を閉じたグストルは、二人が初めて出会ったあのころに思いを馳せていた。

 夢と希望に満ちた少年時代。若い二人は野心に燃え、ともに敗れ去ったのだ。

 千年帝国を主宰した魔王の名は、人々の脳裏に永遠に刻み続けられることだろう。

アドルフ・ヒトラーとは、何だったのか。

 歴史上最も傑出した革命家であり、洞察力に優れた政治家であり、卓越した戦略家であり、同時に類例のない犯罪者であった。しかし、その原型は、理想に燃える一個の少年の魂であった。英雄を志して挫折した、純粋な心だったのだ。

 グストルは、家路を辿りながら空想した。それぞれ音楽家と画家として成功して二人が、妻子に囲まれ、みんなでワーグナー祭に出かける光景を。戦争のない世界を。

 しかし、現実を生きる彼の眼前には、いつ果てるともしれない廃墟が連なっている。

これが、彼の親友が成し遂げた偉大な仕事なのだった。

 これが、千年帝国の夢の結実なのだった。

                                               

 

 

                 完  結