16.  ( たく ) 麻原 ( まばる ) の合戦

 

 「かたじけない、義弘どの、親世どの、貴君らの救援がなければ、この了俊の首級はきっと今頃、荒野に打ち捨てられていたことでしょう」今川了俊は、二人の援将の手を取って心から礼を述べた。「我が軍は、これから勝ちに乗って再び肥後に攻め入り、今度こそ菊池一族の息の根を止める所存です。どうぞ、ご協力くだされい」

 この提案を受けた大内義弘は喜んで、大友親世は渋々ながら、肥後遠征に従軍することを承諾した。

 しかし、幕府軍の戦況は、南九州では必ずしも順調というわけには行かなかった。天授三年三月、今川満範率いる日向の軍勢は、 都城 ( みやこのじょう ) での島津氏久との決戦に敗れ、大損害を出して敗走中だったのだ。そんな窮地にある満範を救ったのは、千布・蜷打合戦における幕府方大勝利の確報であった。征西府方の不利を知った氏久方の豪族が、次々に今川方に寝返っただけではない。年頭に永眠した島津師久の跡を継いだ薩摩守護の 伊久 ( これひさ ) が、幕府方に転向して叔父の氏久の背後を牽制したのである。東西を敵に挟まれた氏久は持久策に入り、ここに南九州の戦いは膠着状態に入った。

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 疲れ切った敗残兵を引っ張って菊池隈府城に入った賀々丸は、良成親王と図って戦死者の菩提を弔うと、来襲が予想される十八外城の防御線を強化した。てきぱきと戦争指導する賀々丸の豪気な姿は、大敗によって低迷した味方の士気を、急速に回復に向かわせたのである。

 「うちのお屋形は、実に偉い」

 「まだ元服前の若さとは、とても思えないよなあ」

 「ほんに、先行きが楽しみなお方じゃ。あのお方の瞳が輝いているうちは、まだまだ我らは負けぬぞ」

 菊池の郎党たちは、賀々丸に対する信頼を日ごとに強めて行った。

 しかし、部下の前では強い賀々丸も、居室に一人きりになると、さめざめと涙を流して眠れない夜を過ごすことが多かった。

 「おいが、もっともっとしっかりしてさえいれば、武安伯父や武義大叔父、それに阿蘇大宮司(惟武)どのも死なずに済んだのじゃ。あんなに多くの郎党が、朱に染まらずとも済んだのじゃ・・・」

 目を閉じる度に、あの千布・蜷打の悲劇が脳裏に蘇る。賀々丸は、両腕で頭を抱えて嗚咽した。

 彼の部屋に、出家した母の亜由美と大叔母の早苗が訪ねて来たのは、そんな日の夜だった。小姓の 琵琶丸 ( びわまる ) から知らせを受けた賀々丸は、袖で涙を拭うと笑顔を作って出迎えた。

 「これは母上、それに大叔母上、どうなさいました、こんな刻限に」

 賀々丸の腫れた目を見た早苗には、彼の心の苦悩が手に取るように分かった。

 「賀々丸、おはんももう十五。そろそろ元服の相談をしようと思ってね」 

 「元服・・・・・」

 「藤五郎(武勝)どのが、烏帽子親になってくれるそうよ」亜由美が優しく言った。

 「そうそう、綺麗なお嫁さんも見つけてあげないとね・・・」と、早苗。

 「・・・今のおいは、それどころではありませぬ」賀々丸は、冷たい怒りを露にした。「我が一族の故郷は、今まさに逆賊の襲来におののいているのでごわす。元服も婚礼も、この戦の蹴りがついてから考えさせてくだされ」

 「いつまで、子供の気分でいるつもりなの」早苗は、一転して厳しい口調で言った。 

 「子供・・・ですって」賀々丸は、不満げな目を向けた。

 「そうだ、おはんは子供じゃ。みんなのことが見えていない小さな子供じゃ」

 「お言葉ではごわすが、おいは、みんなのために、今日まで自分を捨てて必死にやってきました。大叔母上は、おいのこの努力を認めないというのか」

 「そこまでは言わん」早苗は、今度は慈愛に満ちた優しい眼差しを向けた。「おはんは、実に良く頑張って来た。泣き言も言わず、ほんに強い子だったと思うよ。じゃどん、おはんももう大人。大人には、大人の振る舞いちゅうもんがある。きちんと元服し、妻を娶り、子供を育てる。それができて、初めて本当に強い男と見られ、みんなの安心と信頼を得ることができるもの。それが人の営み。どんなに恐ろしい戦があろうとも、人として成すべきことまで止めてはいけないよ」

 「・・・人として成すべきこと・・・」

 「成すべきこともできぬ男が、あの今川入道に勝てるわけがない。そうは思わぬか」

 「・・・分かりました大叔母上、もうそれ以上言わないで。よきに計らってくだされ」

 このときの賀々丸の表情は、あたかも永い眠りから覚めたかのようだった。

 天授三年五月、賀々丸は元服し、菊池次郎 武朝 ( たけとも ) と名乗った。それと同時に、亡き阿蘇惟武の一人娘・ 麻衣子 ( まいこ ) を妻に迎えた。

 しかしこの若い夫婦に、愛を語る十分な時間などなかった。今川了俊の大軍が、ついに肥後への侵入を開始したからである。

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 天授(永和)三年五月、満を持して大宰府を発向した今川軍四万は、了俊嫡子・義範を先鋒にして肥後に突入した。

 今川義範勢三千は、六月には山鹿郡 志々 ( しし ) 木原 ( きばる ) に着陣し、菊池を北西から脅かした。しかし、彼らは予期せぬ事態に直面した。死に体と思われていた菊池勢に、突然の逆襲を受けたのだった。

 六月十日、油断し切っていた義範は、早朝の寝込みを菊池武朝勢二千に襲われた。たちまち混乱して浮足立った今川勢は、大損害を出して西へと後退したのである。

 「なんてことだ。千布・蜷打で壊滅させたと思ったのに、あれから半年にしてこれほどの勢力を回復するとは・・・・」

 今川了俊は、そのころ筑後に在陣して首尾を待っていたが、菊池勢が籠城策に出るものと思いこんでいたので、嫡子の敗報を聞いて驚愕した。彼は取り急ぎ、弟の仲秋勢三千を増援に派遣して義範を助けさせることにした。

 さて、勝利の凱歌をあげた菊池勢は、逃げる義範を追って ( うす ) 間野白 ( まのしら ) 木原 ( きばる ) を占拠し、敵と対峙した。武朝の元に、隈府城から続々と援軍が駆けつけたが、その中には、伊倉宮武良と ( わさ ) 田宮 ( だのみや ) 実良の姿もあった。

 「戦況は、まだまだ予断を許しません。宮たちは、水島あたりで待機していてくだされ」

 菊池武朝は、懐良の子たちに強く言った。しかし、彼らは聞き入れなかった。両親王は、凛々しい鎧姿を陣頭に見せて、兵の士気を高揚させたのである。

 八月十二日、増援を得て態勢を立て直した今川勢五千と菊池武朝勢三千は、白木原で激突した。数刻の戦いの後、数に勝る今川勢が優勢となり、武朝は一時後退を決意した。

 「ここはいったん水島に籠城し、頃合いを見て再び出陣するのが良策よ・・・」

 兵を纏め水島城に向かおうとした武朝は、しかし郎党から悲痛な知らせを受けた。

 「たいへんにごわすっ、稙田宮が敵中に突入し、孤立してしまいましたぞっ」

 「なんと・・・」思わず天を仰いだ武朝は、しかし迷い抜いた末、非情な決断を下さねばならなかった。引き際を誤れば、蜷打の二の舞いを演ずる羽目に陥るのだから・・・

 「大叔母上(早苗)、武朝をお許しくだされい・・」

 胸中で叫んだこの若き菊池惣領は、構わずに全軍を退却させた。しかしその結果、稙田宮は圧倒的な敵に押し包まれ、壮烈な自刃を遂げたのである。

 勝ち戦の勢いに乗る今川勢は、仲秋を先鋒に、合志郡板井原に押し寄せた。ここには、十八外城の一つ、 板井 ( いたい ) 城がある。これは木野一族が守る堅城にして、さすがの仲秋も攻めあぐんだ。その隙に、菊池武朝は再び勢力を立て直し、疲労した仲秋勢に襲い掛かったのである。この戦いは菊池方の勝利となり、退路を断たれた仲秋勢は、やむなく南方に逃れ、肥後国府(熊本市)にて兄たちの救援を待った。

 「いかぬ、菊池はまだ生きておる。軽率な攻め方は禁物じゃが、弟たちの苦境を見捨ててはおけぬ・・・」

 筑後の今川了俊は、ただちに全軍で肥後に突入しようとした。しかし、突然の早馬が、彼のこの企図を妨げたのである。

 「殿、博多に高麗王朝からの外交使節が参っており、どうしても九州探題にお会いしたいと言って来ておりますが・・・」

 「ううむ、どうせ 禁寇 ( きんこう ) (倭寇の禁圧)を求めてのことだろう。じゃが、会わないわけにも行くまい・・・戦は来年までお預けじゃ。仲秋には、肥後国府を守り抜くように伝えよ」

 こうして今川了俊は、押さえの兵力を残し、戦場を後にして博多へと向かった。

 ところが、博多で彼を待っていたのは、高麗随一の学者である 鄭夢周 ( ていむしゅう ) であった。鄭は詩人としても高名であったから、彼の来朝は、文学好きの了俊を大いに喜ばせたのである。

 「九州くんだりまで、来た甲斐があったというものよ」

 今川了俊は、鄭夢周と酒を酌み交わし、日朝の文学談義を大いに楽しんだ。異国の学者の来日目的である倭寇禁圧要請を、了俊が快く受け入れたのは言うまでもないことである。                               

 翌年の六月、了俊は、使僧の 信弘 ( しんこう ) に軍兵六十九名を付けて高麗に送り込み、倭寇の討伐に当たらせることとなる。

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 一方、隈府の菊池武朝は、了俊のように文化を楽しむ余裕など持ち合わせて居なかった。板井原の勝利を祝う民衆の歓呼の声には目もくれず、まっすぐに早苗のところに向かい、彼女の子を白木原で見殺しにしたことを謝った。

 だが、気丈な早苗は、彼の前で感情を露にはしなかった。

 「戦だもの、実良のことは仕方ない・・・あまり気にせいでもよか」

 彼女はそう言って、むしろ武朝の奮闘を称えるのであった。

 しかし、矢部の夫(懐良)に息子の戦死について書き送る時、早苗は双眸から溢れる悲しみの涙を止めることが出来なかった。夫も、この手紙を読むとき、息子のために泣いてくれるに違いない。彼女は、このときほど夫を必要としたことはなかった。帰って来て欲しいと、強く思った。だが、矢部の懐良は、息子の死を遺憾に思うこと、菩提の弔いに心を尽くすことを述べ、挫けずに頑張るようにと早苗に書き寄越したのみで、結局、隈府城には姿を見せることはなかったのである。

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 年が改まった天授(永和)四年(1378)八月、鄭夢周の帰朝を見送った今川了俊率いる大軍は、ついに肥後へと動き出した。彼は、今度こそ菊池氏の息の根を止める覚悟であった。

 大内義弘を先鋒とする今川軍三万は、しかし意外な進路を取った。これまでのようにまっすぐには菊池に向かわず、海岸沿いに南下し、肥後国府に向かったのである。

 ここには既に昨年から今川仲秋がいて、相良 前頼 ( さきより ) や島津 伊久 ( これひさ ) といった南九州の軍勢を集めていたが、国府近郊の 隈本 ( くまもと ) 城には 高瀬 ( たかせ ) (菊池)源三郎武尚の手勢が立て籠もり、仲秋勢と睨み合って頑強に抵抗していた。しかしこれは、ただちに大内義弘が強襲し、菊池へと追い落とした。

こうして、完全に制圧した肥後国府の本陣にて、了俊は武将たちを招集して語った。

 「未だに戦意強固な菊池勢を、十八外城に攻めるのは下策である。それゆえ、わしは菊池武朝らを城からおびき出し、野戦で一気に壊滅させる作戦を立てたのだ・・・」

 了俊の披露した作戦に、大内義弘は大いに感嘆した。なるほど、我ら幕府軍が肥後国府を占拠し、肥後南部を押さえる素振りを見せれば、菊池武朝は、名和、阿蘇といった同志を救うため、どうしても城から出陣せざるを得なくなる。さもなくば、征西府の主将としての信用と威信が保てなくなるからである。

 「これぞ、『孫子』軍争篇における、 迂直 ( うちょく ) の計というやつよ」

 今川了俊は、得意げに満座を見回した。

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 だが、菊池武朝は、さすがに敵の作戦を看破した。国府あたりに展開している幕府軍の狙いは、征西府軍主力を城から釣り出すことにあるに違いない。

 「そうと分かっても、おいは出陣するしかない。この事態を放置していては、おいは頼りにならぬ腰抜けと思われ、南肥後の同志たちに次々に背かれてしまうことだろう。よか、ここは運を天に任せて、罠に嵌まってくれようぞ・・・・」

 武朝は、心中密かに死を決意していた。もちろん、彼には彼なりの勝算はあったが、なにしろ敵はあまりにも強大である。戦局は、まったく予断を許さない。

 「麻衣子、例えおいに何があっても、決して涙を見せるな。おいは、いつでもお前の胸の中にいる」彼は妻に、それとなく別れを告げた。

 「うちはいつだって、あなたの元気な姿を待っていますわ」にっこり微笑んで、夫の胸に顔を埋める麻衣子は、年こそ若けれど、さすがに武士の妻であった。

 天授四年九月二十日、征西府軍主力は一斉に南へと発した。陣頭に立つ面々は、良成親王と菊池肥後守武朝を筆頭に、高瀬源三郎武尚、藤五郎武勝、武方、武世、木野武貞、武直、 武郷 ( たけさと ) といった菊池一族の面々に加え、葉室親善、名和顕興、川尻広覚といった気鋭の勇将たちである。ただし、その総勢は五千にも満たない。

 現在、熊本市を東西に貫く流れを 白川 ( しらかわ ) というが、菊池勢は、この南岸に回り込んだ。白川北岸に展開する幕府軍の機先を制した形である。

 「いつもながら、動きが早いな、菊池武朝。そんなに死を急ぐこともあるまいに・・・まあ良い、こちらから川を渡って勝負を決してくれよう。戦場は託麻原じゃ」

 そう嘯いた今川了俊は、ただちに将星たちを引き連れて出陣した。その面々は、今川一族の歴戦の勇将に加え、大内義弘、毛利元春、吉川経見らの中国勢、龍造寺家兼、深堀時広、相良前頼、 碇山久安 ( いかりやまひさやす ) (島津伊久の弟)、 新納 ( にいろ ) 久吉 ( ひさよし ) といった九州勢である。その総勢は、三万は下らない。怒涛のごときこの大軍は、大内義弘勢を先鋒に据えて猛然と突進した。

 託麻原は、東部は阿蘇山地へと続く丘陵地帯、西部は見通しの良い平原である。陽光に撒き散らした水滴を輝かせながら渡河を完了した幕府軍先鋒は、凄い勢いで東からまっしぐらに駆けて来る一軍に遭遇した。その陣頭に翻るは、紛れもなく『並び鷹羽』である。

 「おお、菊池武朝か・・・見たところ、総勢二千がいいところだな。最後の死に花を咲かせようというのだな。よしっ、この俺が死に水を取ってやる」

 大内義弘は、ただちに馬首を敵に向けた。たちまち激しい乱戦の渦が巻き起こる。

 しかし、菊池勢は恐ろしく精強だった。自ら陣頭で白馬を操る武朝の姿が、全軍の士気を否が応にも高めたのである。さすがの大内勢も押されに押された。

 「義弘どのを救えっ」

 その時、今川義範、仲秋らが加勢に駆けつけ、形勢は逆転した。疲労した菊池勢はたちまち押し返され、じりじりと東の丘陵地帯へと下がって行く。それでも菊池武朝は、あくまでも雄々しく振る舞い、全軍の殿軍を引き受けて奮闘していた。

 「あれが、武朝か・・・」

 小高い丘の上から戦況を観察していた今川了俊は、白馬に乗った小柄な若武者に、なぜか強く心を魅かれた。これが、滅び行くものの美しさというものか。殺すには惜しい男だが、しかたない。ここで手を引いたら、天下太平は訪れないのだ。心を鬼にして、あの若武者を討つしかないのだ・・・

 了俊の合図とともに、今川本陣も攻撃に移った。いつしか退路を断たれ、圧倒的大軍に押し包まれた菊池武朝の姿は、もはや嵐の前の木葉同然となった。

 ところが、そのときである。

 丘陵地帯の隘路から突然飛び出した一隊が、今川軍の手薄な左側面に襲い掛かったのである。翻るは、征西将軍宮の旗。良成親王率いる二千である。武朝一人に殺到していた今川軍は、予期せぬ奇襲に混乱した。たちまち、毛利、吉川らの軍勢の旗幟が乱れ立つ。

 「いかん、伏兵がいたのかっ」

 騎上から味方前衛の混乱を感得した了俊は、いつしか全軍が、見通しの悪い隘路に引きずり込まれていることに気づいた。この地勢では、味方の数の利益が生かしきれない。

 「そうか、武朝め、自らの体を囮に使い、わざと後退して我が軍を死地に誘い込んだというわけか。天晴な武者振りよっ」了俊は、我を忘れて絶賛した。

 そのとき、今川軍右翼に、またもや新たな敵が出現し、疾風のごとき勢いで突入してきた。その数およそ一千。その陣頭には、名和の『帆掛け船』と新田の『一引両』が翻る。

 今川軍の混乱の輪が、ますます広がった。

 「今ぞ、者共、総攻撃じゃっ」それまで頽勢だった菊池武朝勢は、この戦況を前に、再び勢いを盛り返した。一斉に、乱れた敵陣に斬りかかる。

 今川軍前衛部隊は、これにはたまらず、ついに敗走を開始した。大内、吉川、毛利、相良勢は、隣に押される形で玉突き状に逃げて行く。崩れた前衛は後衛へとなだれ込み、ここをも混乱の渦に巻き込んだ。

 「ばかな・・・」

 今川了俊は、とても眼前の光景が信じられなかった。三万の大軍が、わずか五千の敵に追われて逃げ惑っているのだから。

 託麻原の合戦は、征西府方の大勝利と決まった。大打撃を受けて敗走した今川軍は、肥後国府に撤退し、白川を挟んで再び征西府軍と睨み合ったが、その士気は上がらなかった。  

「やむを得ぬ。ここは博多に退却し、いったん全軍解散し、秋の収穫を待って作戦を練り直そうぞ」

 今川了俊は、肥後での抗戦を断念した。幕府軍は北方に去り、征西府軍は国府を無血で奪還し、凱歌を上げた。菊池武朝と良成親王は、手に手を取ってこの喜びを分かち合った。

 「顕興どの、広覚どの、貴公らの救援のおかげで勝てました。この武朝、心よりお礼を申し上げますぞ」

 全身疵だらけの菊池武朝は、伏兵として敵に決定打を与えた援将たちに、心の底から礼を述べた。

 「なあに、同志として当然のことです」名和顕興は、すかさずそう答えたが、内心では、宮将軍(良成)から賜るべき言葉が、武朝の口から出て来たことが気に入らなかった。

 「武朝め、若造のくせに生意気なやつだ。我らのことを、部下としか思っておらぬ・・・我らは、宮将軍の下では平等ということを、今に思い知らせてやるわ・・」

 顕興のこの不穏な心中にも気づかずに、菊池武朝は、勝利の余韻を味わっていた。

 そしてこの託麻原合戦は、南朝方の勝利に終わった最後の野戦として長く記憶される。