あとがき

 

 筆者がこの大河小説の執筆を思い立ったのは、二十二歳の冬であった。その年の正月に父方の祖父の葬儀に参列した日の夜、叔父の書斎で暇つぶしに読んだ雑誌が、執筆の直接の動機となったように記憶している。その雑誌のタイトルは全く憶えてないが、『日本の名家』の歴史を紹介したものであった。そして、その中に菊池一族があったのである。

 筆者は、実をいうと小学生のころから菊池氏に深い興味を抱いていた。いわゆる歴史少年であった筆者は、昼休みの図書室で歴史の本を読み漁るのが常であったが、当時、特に興味をもったのが日本の南北朝史であった。足利尊氏、楠木正成、新田義貞など、活躍する武将たちのことを想像するだけで、胸がワクワクして、他のことが手につかない有り様だった。小学校高学年のころ、楠木正成の伝記小説を書いたことを憶えている。

 さて、筆者と菊池氏との出会いは、よく学校でくれる日本歴史地図帳の中でのことだった。こういう地図帳は、見開きの1ページに日本全図が描かれ、北朝方の勢力と南朝方の勢力が色分けで記してあって、当時の政治社会が一覧できるようになっている。うっとりと地図を眺めながら、ふと視線を九州に移すと、周囲を北朝勢力に囲まれた形で、わずかな南朝方勢力が肥後に固まっているのがすぐに分かる。南朝方が圧倒的に不利であることは、子供心にも一目瞭然であった。この人たちは、どうして周りを敵に回して頑張れるのだろうか、どんな利益があって不利を覚悟で南朝に味方しているのだろう。この素朴な疑問は、どんどん膨らんで行った。彼ら・・・菊池氏と阿蘇氏のことを、もっと知りたいと思った。しかし、当時は(おそらく今でも)子供が読むような本で、彼らを詳述したものは存在しなかったので、せいぜい『太平記』の多々良浜合戦の描写で満足する以外になかったのである。

 筆者の南北朝熱は、しかし大学生になっても衰えなかった。南北朝関係の小説を、ことごとく読破していた筆者は、満足しきれないものを感じていた。その理由は簡単である。南北朝史を最初から最後まで舞台にした小説が存在しないからである。なにしろ、古典『太平記』ですら、足利義満の三代将軍就任時で筆をおいているのであるから。

 そこで筆者は、なんとか自分の手で、完全な南北朝の通史を小説にできないものかと暗中模索していた。特定の人物ではなく、特定の武家を主人公にすることで、ドラマ性を持った南北朝通史を創造することは可能なはずだと考えていた。しかし、自分なりに考えた主人公の条件は、相当に厳しい。その条件とは、@南北朝勃発から合体まで、終始活発に活動する武家であること。A汚い裏切りを駆使して勢力を広げるタイプではなく、あくまでも正攻法で時代を切り抜けるタイプの武家であること。できれば、ただの一度も裏切りをしていない武家が望ましい。B親子兄弟が仲良しで、一族内部で殺し合いをしない武家であること。C武家の活動そのものが起伏に富んでおり、ドラマチックであること。できれば、強力なライバルがいてくれると面白い。D権力を恐れず、むしろ反骨精神が盛んな武家であること。Eその武家に関して、豊富な資料が残っていること。

 本編を一読された方は、ああなるほど、と思ってくださるだろう。これらの厳しい条件を全て満たす武家は、九州の菊池一族以外にはあり得ないのである。

 ところが、筆者はいきなり機先を制された形となる。北方謙三氏が、菊池氏を主人公にした小説を著したのである。『武王の門』である。これは、厳密には懐良親王を主人公にした小説ではあるが、興味の中心は菊池武光の活躍におかれている。職業作家に先を越されては、仕方ない。筆者の意欲は急激にしぼんで行った。

 ところが、二十二歳の正月に、叔父の家の書斎で発見した記事が、筆者の目を開いたのである。そこには、菊池武時から武朝に至る一族の活躍が簡潔に記されていたのだが、特に筆者が強い印象を受けたのは、菊池武重の破牢の記事であった。これはドラマだ。足利尊氏の虜になりながら、単身脱走して九州まで走り、再び勢力を回復するなんて、並の痛快さではない。こんな面白い話を、埋もれさせておくものか。

 こうして筆者は、会計士試験の受験生でありながら、日夜小説の構想に明け暮れることとなった。夏に受験が終わると、いきなりワープロ(シャープの書院)を購入し、何度も書き直しながらも執筆に熱中していった。そのせいか、その年の試験は敢え無く失敗に終わる。それでも執筆は休みなく続け、その割りには翌年の試験にはパスしたのだから、世の中どうなっているのかよく分からない。

 筆者は現在、朝日監査法人というところで地味な仕事をしているが、ちょうど入社2年目、二十六歳の5月に、めでたく完成の運びに至った。足掛け3年がかりだったわけだが、未完の大作にならなかっただけで良しとしなければなるまい。

 『黄花太平記』というタイトルは、 頼山陽 ( らいさんよう ) の詩から取った。彼は、『日本外史』を著した江戸後期の国学者で、どちらかと言えば勤王論者である。彼は、南北朝の菊池氏を讃えるに際して、菊にちなんだ黄花という言葉を用いているが、それをたいへんおもしろく感じた筆者が、小説のタイトルに頂いたのである。

 この小説の主人公は菊池一族だが、その中で強いて主人公に該当する個人を挙げるなら、架空の女性・早苗という事になろう。物語は早苗の誕生で始まり、早苗の死をもって終わる。時代小説の主人公を女性にしたのは、ニューウエーブのつもりだったのだが、あまり効果は上がっていないようだ。他に書くことが多すぎて、早苗の個性を詳しく書き表せなかったのが残念である。ちなみに彼女のモデルは、トルストイの『戦争と平和』のヒロイン、ナターシャ嬢だったのだが、やはりトルストイには全然適わないことが良く分かった。

 なお、菊池一族の女性の名前は、ほとんど菊池(または菊地)姓の実在の芸能人や有名人(ときどき、筆者の個人的な知り合い)の名前を拝借しているが、これは自分で考えるのが面倒だったためである。男性の名前にも、川崎ヴェルデイのゴールキーパーの名前が使われていたりするから、探してみると面白いかもしれない。ほんの遊び心である。

 ・・・少し解説が長くなったが、最後に、本編で活躍した主な武家のその後について軽く触れて、筆を置きたい。

 

 菊池氏

 

 その後の菊池一族は、室町幕府の肥後守護として発展を続ける。ただし、渋川探題とそれを庇う大内、大友氏とは仲が悪く、少弐氏と手を握り、彼らとしきりに干戈を交えた。

 室町時代の九州は、そもそも渋川探題が無力なために幕府権力が及ばず、無法地帯と化していたのが実情である。大内氏は北九州の支配を狙い、休みなく少弐氏と戦うため、菊池氏もそれに巻き込まれ、少弐氏を助けて北九州を転戦することが多かった。

 守護としての菊池氏の全盛は、武朝の二代後の家督、 持朝 ( もちとも ) の代に訪れる。彼は、大内氏に味方するなど臨機応変に行動して戦果を挙げ、室町六代将軍 義教 ( よしのり ) により、肥後に加えて筑後の守護も任されたのである。

 しかし、持朝の跡を継いだ 為邦 ( ためくに ) の代から、没落が始まる。為邦は、大友氏との争いに連戦連敗し筑後を失う。そのため、一族内部で為邦の意向に逆らうものが現れだし、一族は分裂しはじめる。菊池氏は、このころになっても武重以来の寄合衆制度に拠っていたため、無能な家督が現れると、とたんに一族が勝手な行動を始め、収拾がつかなくなる傾向にあった。

 やがて中央で『応仁の乱』が勃発すると、為邦の跡を継いだ 重朝 ( しげとも ) は、西軍に味方して功績を挙げる。この重朝という人は学問が好きで、菊池に孔子廟を建てたり、一晩に一万句を詠む連歌大会を開催したりして、肥後の文化の発展に貢献したことでも有名である。

 だが、菊池氏の栄光も、もはやこれまでだった。重朝の死後、菊池氏の結束は大いに乱れ、同族が家督をめぐって血を流す悲惨な状態となったのである。南北朝期の、あの鉄の団結力はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。

 この肥後の有り様に目をつけたのが、豊後の大友 義鑑 ( よしあき ) である。彼は、阿蘇氏を通じて菊池の混乱をあおり立て、ついには自分の弟の 重治 ( しげはる ) に菊池姓を与えて肥後に送り込む。菊池本家の 武包 ( たけかね ) はこれと争って敗れ、島原へと逃亡してしまう。これが、菊池本家の滅亡である。時に大永三年(1523)、菊池は大友氏に乗っ取られたのであった。

 残された城や赤星といった一族は、戦国時代を逞しく生き抜くが、太閤秀吉の時代に国一揆に加担して加藤清正らと争い、そのために取り潰された者が多く、江戸時代までは生き残れなかった。

 一方、島原に逃亡した菊池本家は、最後には日向にたどり着き、 米良 ( めら ) と名乗って庶民に身を落とした。やがて明治維新が来ると、勤王思想が強調されるようになる。南北朝時代の菊池氏は、その尊王ぶりが明治政府によって大いに持て囃された。その結果、隈府城跡には菊池神社が建立され、日向の米良氏は東京に迎えられ、菊池姓に戻って貴族院議員となった。今日、関東圏に多く見受けられる菊池(あるいは菊地)姓の人は、おそらくこの華族の縁者なのであろう。

 菊池一族は、その滅亡こそ実に呆気なかったが、子孫は実に幸せな境遇にめぐまれたと言えよう。

 それでは次に、南北朝期の彼らのライバル、少弐氏のその後を見てみよう。

 

少弐氏(および大内氏) 

 

 室町時代の少弐氏は、周防の大内氏との争いに明け暮れたといっても良い。

 海外貿易を独占したい大内氏は、博多を狙ってしきりに北九州を侵略し、少弐氏を大いに圧迫したのである。この大内氏の行動には、彼と縁戚関係にある大友氏も加担したため、少弐氏は常に苦しい戦いを強いられた。

 応永十一年(1404)六月、少弐貞頼は大内盛見との戦に敗れ、討ち死にした。その跡を継いだ 満貞 ( みつさだ ) は、永享三年(1431)に果敢な奇襲攻撃で大内本陣を襲い、ついに父の仇の盛見を討ち取った。ところが、怒りに燃える大内 持世 ( もちよ ) の反撃をまともにくらい、壊滅的打撃を受けてしまう。永享五年、満貞と主立った一族は玉砕し、生き残った一族は九州を捨てて対馬に亡命してしまうのだ。

 その後、旧領奪回を目指す少弐氏は、対馬の宗氏や肥後の菊池氏の援護のもとに、何度も筑前に上陸作戦を行うが、ことごとく大内軍に追い払われる結果となった。

 非運の少弐氏は、しかし中央で『応仁の乱』が勃発すると、西軍の主力として上京した大内 ( まさ ) ( ひろ ) の留守を巧みに衝いて、文明元年(1469)には念願の大宰府奪回を果たし、筑前全土を掌握するのである。ところが、急を知った大内軍主力の来襲には歯が立たず、結局、龍造寺氏を頼って肥前に落ち延びてしまう。

 その後、少弐氏は肥前の一画で雌伏の日々を送る。しかし、肥前併呑の野心を抱く大内、大友両氏の圧迫は、次第に強くなる一方であった。そんな中で、少弐 冬尚 ( ふゆひさ ) と参謀の 馬場 ( ばば ) 頼周 ( よりちか ) は、天文十四年(1545)、何を思ったのか、彼らの最大の味方である龍造寺氏を突然襲い、その一族多くを討ち果たす。どうやら、大内氏の仕掛けた罠に陥って、龍造寺氏が敵に内通したと思い込まされた結果であるらしい。その結果、かろうじて滅亡の淵から這い上がった龍造寺氏は、大内側につき、少弐氏と敵対することになる。ここに、名門少弐氏の命運は尽き果てたのである。

 彼らにとって唯一の慰めは、彼らよりも先に大内氏が滅亡したことであろう。大内家最後の主・ 義隆 ( よしたか ) は、重臣の 陶晴賢 ( すえはるかた ) の突然の謀反の前に倒れた。天文二十年(1551)九月のことである。その後、晴賢は大友 宗鱗 ( そうりん ) の弟を山口に迎え、大内 義長 ( よしなが ) と名乗らせて傀儡とし、 実権はその手に握ったのであるが、弘治元年(1555)十月の厳島合戦で 毛利 ( もうり ) 元就 ( もとなり ) の謀略の前に敗れ戦死した。大内義長が、攻め寄せた毛利軍の前に自害したのは、それからわずか半年後の弘治二年四月のことであった。このとき毛利元就は、大内氏の屋形から『日本国王の印』を発見している。これは、足利義満が明国から拝領したものを、大内 義興 ( よしおき ) (義隆の父)が幕府からの恩賞として手に入れたものであった。

 肥前の少弐氏に目を移すと、永禄二年(1559)正月、龍造寺 家兼 ( いえかね ) の大軍は、 ( じょう ) 福寺 ( ふくじ ) 城に少弐冬尚を襲った。冬尚は必死に抵抗したが、衆寡敵せず敗れ、主な一族とともに自害して果てた。これが、かつて北九州一帯を睥睨した名門の、悲惨な最期であった。

 少弐氏のわずかな生き残りは、戦国時代を通じてお家復興を目指して奮闘努力したが、結局成功せずに庶民となった。今日、武藤姓を名乗る人が、少弐一族の子孫であろう。

 以上のように、南北朝時代を疾風のように駆けた、菊池、少弐、大内の三氏は、戦国時代の初頭に相次いで滅亡したのである。

 

大友、島津氏 

 

 南北朝時代をからくも乗り切った大友氏と島津氏は、ともに共通の悩みを解決する必要に迫られた。すなわち、南朝派と北朝派とに分裂した一族の混乱の収拾である。

 大友氏は、南北朝合体時に親世と氏継の兄弟間に和睦が成立し、以後の家督を二人の子孫から交互に出すことに取り決められた。しかし、両派の対立は事あるごとに表面化し、一族全体の政治力、および武力を大いに弱めたのである。この状態に終止符が打たれたのは、ようやく寛正三年(1462)に、氏継の孫の 親繁 ( ちかしげ ) が、家督を嫡子 政親 ( まさちか ) に譲ったときであった。

 政親の四代後の家督は義鑑であったが、彼はなかなかの人物で、豊後国内の不穏勢力を一掃し、大友氏の戦国大名化を大いに推進するとともに、南蛮船を領内に誘致し、経済面にも多大な成果を挙げるのである。その一つの結実が、宿敵菊池氏の制圧であり、九州最大の米所である肥後の占領であった。

 義鑑の跡を継いだのが、有名な大友 義鎮 ( よししげ ) (宗鱗)である。彼は、フランシスコ・ザビエルの影響を受けて入信し、キリシタン大名として名高い人物だが、その政治手腕には優れたものがあった。彼は、幕府によって永禄二年(1559)に九州探題に任命されて以来、毛利元就を門司に撃退し、台頭してきた龍造寺氏を肥前に押し込め、北部および中部九州六ヶ国を手中におさめ、大友氏を文字どおり、九州の霸者に押し上げた。そして、このときが豊後大友一族の絶頂であった。

 ちなみに、室町時代中期の九州探題、渋川氏は、少弐と大内の争いに翻弄されているうちに、いつのまにか消滅してしまっていた。

 次に、島津氏に目を移そう。島津氏は、南北朝時代に政策的に家督を二つに割られた上に、今川了俊の策略によって領内の土豪(国人)たちに背かれ、非常に苦しい立場のまま戦国時代を迎えるのである。この一族を立て直すのが、島津氏久から九代目の家督である 貴久 ( たかひさ ) である。彼は、艱難辛苦の末に一族の統一に成功し、伊集院や肝付といった国人衆を傘下におさめることに成功する。また、積極的に南蛮貿易を行い、着々と勢力を拡大させていった。

 貴久は、永禄九年(1556)二月に、家督を嫡男の 義久 ( よしひさ ) に譲るが、この義久とその三人の弟たちは極めて有能な武将であり、厳しい訓練によって島津軍を無敵の軍団に育て上げるのである。

 天正六年(1578)十一月、九州制覇を狙う大友宗鱗は、日向で島津義久と対決した。 耳川 ( みみがわ ) の合戦である。これは、兵の数の差を見て油断した大友方の大敗となり、九州の勢力地図は逆転する。

 島津氏は、九州制覇を目指して怒涛の進撃を開始する。天正十二年(1584)三月、島津軍は龍造寺氏と肥前に決戦し、当主の ( たか ) ( のぶ ) を討ち取り、致命的打撃を与える。天正十四年には、大軍で大友宗鱗を攻撃し、これを滅亡の淵に追いつめるのである。

 あと一歩で九州統一。そんな島津氏を阻んだのは、既に天下人となっていた豊臣秀吉であった。秀吉の二十五万という圧倒的大軍の前に、精強無比の島津軍も蟻同然。島津義久は剃髪した上で降参し、ここに九州の戦国時代は終わりを告げたのである。時に、天正十五年(1587)五月七日のことであった。

 しかし、武士たちには平和が訪れなかった。秀吉の朝鮮出兵が開始されたためである。九州の武士たちは、戦いの矢面に立たされた。時に、文禄元年(1592)。

 大友宗鱗の跡を継いだ 義統 ( よしむね ) (後、吉統)は、朝鮮に渡って戦うが、圧倒的な明軍の攻撃を前に敵前逃亡したために秀吉の怒りを買い、お家取り潰しの罪を言い渡される。義統は、秀吉の死後、家門復興を狙って関ヶ原合戦で西軍に味方し、豊後に上陸したものの、東軍の黒田如水に打ち破られ、その試みは失敗に終わる。義統は常陸に流罪となり、ここに鎌倉時代以来の名門大友一族は、実に呆気なく滅亡したのである。

 一方島津氏は、関ヶ原で西軍に味方したものの、本国まで敵の重囲を突破して逃げ帰った武勲を称賛されたこともあって、薩摩の外様大名として明治維新まで生き残る。島津氏の薩摩藩(藩主 忠義 ( ただよし ) )と毛利氏の長州藩(藩主 敬親 ( たかちか ) )が、維新回天の原動力となったことは、誰にも異論のない事実である。

 余談ではあるが、維新の英雄、西郷隆盛は、菊池一族庶流の子孫である。彼は南北朝時代の先祖に強い憧れを抱いて、偽名には常に菊池姓を用いたことで有名である。維新政府における菊池氏顕賞運動の仕掛け人は、実は西郷さんだったのかもしれない。

 

足利氏(および今川氏)

 

 最後に、足利義満と今川了俊の子孫の運命について述べる。

 日本国王となった義満は、次男の ( よし ) ( つぐ ) を天皇位につけることによって、足利一族による皇位算奪を目論むが、その野望達成の直前に病死する。応永十五年(1408)のことである。

 跡を継いだ将軍 義持 ( よしもち ) は、ことごとく父と反対の政策を進めるが、大名たちの利害に翻弄される幕府の姿に絶望し、世継ぎを指名せずにこの世を去る。やむを得ず、幕府は、将軍を有資格者四人に ( くじ ) 引きをさせて選出した。 義教 ( よしのり ) (義持の弟)が、こうして将軍となる。

 この義教は、父の義満以上の謀略家で、幕府権力を高めるために有力な豪族を取り潰す政策を取る。永享十五年(1438)には、ついに長年幕府に敵対していた関東公方を滅亡させるのである。しかし義教は、その三年後の嘉吉元年に、彼のあまりに強圧的な政策に反感を持つ赤松 満祐 ( みつすけ ) (播磨守護)によって暗殺されてしまうのだ。

 その後、足利将軍家は衰微し、管領や諸国の大名によって利用される飾り物に堕していく。南朝の残党は畿南で蠢動し、力を付けた民衆はしきりに一揆を起こし、幕府を動揺させた。 

応仁元年(1468)には、将軍 義政 ( よしまさ ) の後継者争いに、細川氏と山名氏の対立が複雑に絡み、いわゆる『応仁の乱』が勃発する。十年に及ぶこの戦争の結果、京は一面の焼け野原となり、幕府権力は完全に失墜し、世は戦国時代に突入するのであった。

 こんな中で、いち早く戦国大名化に成功したのが、駿河遠江の今川氏であった。あの今川了俊の子孫(厳密には彼の兄の子孫)である。特に、 義元 ( よしもと ) 家督の時にその勢力は最大となる。三河も併呑し、三ヶ国の大守となった義元は、いよいよ大軍とともに上洛し、倒れかけた幕府を建て直す決意を固める。永禄三年(1560)、三万の大軍を引き連れて駿府を起った今川義元は、尾張で新興勢力の織田氏と対決するが、織田信長の奇襲に敗れ、主立った家臣ともども討ち取られてしまう。有名な『桶狭間の戦い』である。その跡を継いだ 氏真 ( うじざね ) は凡庸な人物で、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟み撃ちにあって、今川家は実に呆気なく滅亡してしまうのだ。

 なお、あの南朝生え抜きの北畠氏は、伊勢国司として戦国時代まで生き延びるが、 具教 ( とものり ) の代になって、織田信長に滅ぼされてしまった。

 その後、上洛して天下人となった織田信長は、足利将軍 義昭 ( よしあき ) (第十五代)と対立し、ついにこれを放逐する。足利幕府の滅亡である。時に元亀三年(1573)七月十八日のことであった。

 なお、楠木氏はこのとき 正虎 ( まさとら ) が家督となっていたが、彼は優秀な 右筆 ( ゆうひつ ) (書記)として信長、秀吉の二代に仕える。彼は、朝廷に莫大な献金をして、南北朝時代の先祖の逆賊の汚名を取り消してもらったのである(注、楠木氏は、北朝の朝廷にとって逆賊であった)。彼は、先祖を苦しめた室町幕府の滅亡に、どのような感慨を抱いたのであろうか。 

 そして日本は、ここにようやく中世の残滓を振り払い、近世の扉を開こうとしていた・・・。