第四話 孔明石田三成

 


 

1、諸葛孔明の仕事

 

2、孔明と石田三成

 


 

 

1、諸葛孔明の仕事

 

 

さて、劉備の参謀となった孔明は、草庵を引き払って就職します。彼は、どのような仕事をしたのでしょうか?

 

『演義』では、「軍師」になったことにされています。すなわち、攻め寄せた曹操軍を、卓抜な計略で罠にはめ、火攻めや水攻めにかけて撃退する話が勇壮に描かれるのでした。しかし、これらは全て虚構です。史実の孔明は、劉備の生前は、軍事関係の仕事をほとんど任されなかったのです。

 

それでは、何の仕事をしていたのか?

 

租税を集め、法律や通達を作り、兵糧の管理や計算を行い、駅舎の整備を行い・・要するに、「管理」の仕事をしていたのです。

 

劉備の傭兵集団は、これまでどうして群雄の間を寄生虫のように転々として来たのか。それは、この集団に「管理部門」が存在せず、人材も払底していたため、高度な管理業務を大手群雄に委ねるしかなかったからです。現代企業に喩えるなら、劉備集団には体育会系の営業人員しかいなかったので、給与計算、決算書作成、予算編成、そして資金調達といった管理業務を自前で行えなかったのです。というより、もともと単なる「傭兵集団」だから、そういった管理系の必要性や有用性を認めていなかったのかもしれません。

 

しかし、劉備は荊州で暇を持て余しているうちに、管理業務の大切さに気づいたのです。単なる「傭兵集団」を群雄という名の「政治組織」に昇格させるためには、そういった業務を行う人材が必須でした。そして孔明は、その適格者だったのです。

 

孔明と同じ時期に、彼の親友の徐庶も劉備に仕えました。『演義』では、彼も「軍師」だったことになっていますが、これも虚構でして、史実の徐庶はやっぱり管理人員だったようです。

 

『演義』はどうして、実際には管理部門職だった人材を軍師にしたがるのでしょうか?その理由は非常に簡単です。『演義』はそもそも「大衆向け娯楽小説」ですから、大衆が興味を持たない部分はオミットします。そして大衆は、派手な戦闘シーンには興味があるけれど、兵糧の計算とか法令の作成なんてことに興味を持ちません。みんなのヒーロー諸葛孔明が、そんな地味で暗い仕事をしている場面を書こうものなら、小説の読者がいなくなって本が売れなくなってしまうでしょう?それは、作者(羅貫中)としては避けたいところです。だから、あえて史実を変えたというわけなのです。

 

『演義』に限らず、「歴史小説」というものは、あくまでも「カネ儲け」のために書かれるのだから、この手の虚構はいくらでもあります。ですから、小説をたくさん読んで歴史通を気取っている人は、実は何も分かっていないのです。この辺、要注意ですね。

 

 

2、孔明と石田三成

 

 

閑話休題。

 

諸葛孔明は、日本史の人物にたとえるなら、いったい誰に似ているのでしょうか?

 

『演義』の孔明は、その仕事が「軍師」なのだから、楠木正成、竹中半兵衛、黒田官兵衛、山本勘助、真田幸村、秋山真之・・・いずれを挙げても正解でしょうね。ちなみに、ここで挙げた日本史上の人物も、「小説」によってかなり歪曲され誇張されています。その内容については、いずれ採り上げる機会もあるでしょう。

 

それでは『正史』の孔明はどうか?

 

実は、石田三成にそっくりなのです。

 

両者の人生を、対比しながら解説しましょう。

 

(1)   仕官

 

石田三成は、近江(滋賀県)の土豪の家に生まれました。たまたま領主の浅井氏が織田家に滅ぼされたとき、代わって領主になったの織田家の部将・羽柴(豊臣)秀吉です。人材不足だった秀吉は、管理部門の人材を痛切に求め、そして学才のある三成(佐吉)に目を留めたのです。

 

このとき、有名な逸話がありますね。秀吉が、鷹狩の帰りにある山寺に寄ったとき、たまたまその寺で茶坊主をしていた三成が、秀吉に茶を振舞ったのです。最初は温いお茶、次に少し熱いお茶、最後に熱めのお茶を出した三成の機転に感心した秀吉は、住職に頼んで三成を部下に貰い受けたと言われています。

 

おおかた作り話なんでしょうけど、なんとなく「三顧の礼」に似た雰囲気のエピソードですな。あえて言うなら、「三茶の礼」ってとこでしょうか?

 

異例の抜擢を受けた三成は、もともと義理堅い性格だったため、秀吉のために粉骨砕身する決意を固めます。

 

 

(2)仕事

 

秀吉に仕えた三成は、「管理部門長」として抜群の功績を挙げます。検地や刀狩はもちろん、遠征軍の兵站整備など、三成の才能はとめどなく開花します。

 

秀吉は、しばしば20万とも30万とも言われる大軍を小田原や朝鮮半島に送り込んでいますが、それほどの大軍のロジスティックを整えることは、16世紀の技術を鑑みれば驚異的な偉業です。その偉業の仕掛け人こそ三成。石田三成は、まさに超絶的な天才管理部門長だったのです。

 

そして、孔明も劉備のもとで、このような仕事をしていたのでした。

 

 

(3)その最期

 

豊臣秀吉の死後、彼に従属していた徳川家康が、その後釜に座ろうと野心を燃やします。このとき三成は、あくまでも幼君・秀頼を守り立てて家康を除き去ろうとしてこの強敵に挑みます。これが「関が原の戦い」です。

 

管理者として優秀だった三成は、巧みな根回しの力で、家康を圧倒する大軍を糾合することに成功しました。しかし、彼には軍人としての奇才に欠けるところがあったため、重要な局面で常に退嬰的な戦法を取ってしまい、戦場でイニシアチブを握ることが出来ません。島津義弘などは、何度も積極攻勢を進言したのですが、三成は「危険だから」という理由でその意見を全て握りつぶしてしまいました。彼は、結局、防戦一方に陥ったところを味方に裏切られて敗れ去るのです。

 

管理部門長は、「リスクの軽減」を至上命題とする仕事なので、リスキーな戦法を極端に嫌う性向があります。それが、この局面で仇となったのです。

 

三成が敗北して逃走した後、彼の本拠地であった近江佐和山城は、徳川勢に占領されました。略奪の喜びに胸を輝かせて倉庫に殺到した徳川勢は、そこがもぬけの殻であることを知って愕然とします。三成は、「関が原」の決戦のために、全財産を投げ打ったのです。彼は、逆賊・家康さえ倒すことが出来れば、自分はどうなっても構わないと思っていたのでしょう。

 

三成は、結局、徳川勢に逮捕されて処刑されます。しかし、最期まで堂々とした態度を崩そうとはしませんでした。

 

 

劉備死後の孔明の生き様は、三成にとても良く似ています。もちろん、孔明は大敗を喫することなく畳の上で死んだのですが、戦場での保守的な進退の様相や、清貧な生き様は瓜二つといっても良いくらいです。

 

三成と孔明は、その本質を一言で表現するなら「正義派の官僚」でした。真面目に厳格に仕事をこなし、信義と誠実を何よりも重んじるのです。もちろん、他者にムチャクチャに厳しい。そうじゃなければ「管理」になりませんから。

 

三成は、同僚たちを容赦なく管理し締め付けたために、豊臣政権内で多くの政敵を作ってしまい、それが「関が原」大敗の原因になったのです。それは彼の「正義派」としての厳格な仕事ぶりが、正義よりも和(もたれあい)を重んじる平均的な日本人の精神風土に忌避されたからでしょう。そういう意味では、三成の最大の不幸は、正義や道義を重んじないこの島国に生まれたことかもしれません。

 

その点、孔明は、正義を大切にする文化を持つ中国で活躍したがゆえに、その不朽の名声を後世に残すことができたのでしょう。

 

・・・以上のことを前提に、孔明のその後の人生を見て行きます。