第七話  蜀漢暗雲

 


 

1、荊州の失陥

 

2、漢帝国の滅亡

 

3、夷陵の戦い

 

4、孔明は、何をしていたのか?

 


 

 

1、荊州の失陥

 

 

漢中戦に敗れた曹操は、逆境に沈みます。

 

旭日昇天の劉備によって主力を撃破され、彼の威信は地に落ちました。また、荊州の関羽の猛攻によって、曹仁の荊州守備隊は蹴散らされて樊城(襄樊市)に押し込められてしまいました。

 

焦った曹操は、手元に残る最後の予備軍を救援に発したのですが、于禁将軍率いるこの救援軍は、樊城郊外で鉄砲水に襲われ、そこにすかさず急襲を仕掛けた関羽軍によって全滅させられました。この鉄砲水は、関羽の水攻めだったのかもしれません。

 

樊城自体も洪水に襲われて、城内の士気は落ちる一方です。水軍を操る関羽の攻囲の環が、それを厳しく締めつけます。

 

この情勢を前に、荊州北部で次々に豪族や侠客の反乱が起こり、弱気になった曹操は遷都を考えるようになります。これはまさに、曹魏政権最大の危機でした。樊城が陥落したなら、もはや関羽を食い止める障壁は存在しなくなるのです。それを知る曹仁は、必死にこの城を守ります。

 

もしもここで、蜀の劉備がその精鋭を出撃させていたらどうでしょうか?この当時、最後の予備隊を使い果たした曹魏の抵抗力は極めて乏しかったので、無人の野を行くがごとき快進撃の後に、劉備による天下統一が実現していたかもしれません。しかし、劉備も無傷ではありませんでした。勝利したとはいえ、漢中戦で国力を超える無理な動員を行い、物資を使い果たしていたのです。成都に帰った彼は、孔明とともに内政整備に尽力して国力を回復させねばならず、とても関羽に呼応するどころではなかったのでした。

 

ここで、状況のキャスティングボードを握ったのは孫呉です。

 

孫権は、この2年前の戦いで曹操と対決し劣勢になったため、名目上だけ曹魏に「降参」を申し入れていました。そのため、関羽に協力しにくい心理状態に置かれていたのです。もちろん、朝議の場では、関羽に呼応して北方の徐州を奪い取るべきだという議論も起こりましたが、やがて「曹操と同盟して、手薄になった荊州を襲うべし」というまったく逆の戦略が浮上したのです。この議論の中心となったのは、部将の呂蒙です。

 

ここで重要なのは、2年前に魯粛が病死していたことです。もしも親劉派の魯粛が存命なら、呂蒙の戦略は即座に否定されたことでしょう。呂蒙は、前述のように、古くから「荊州は孫呉が領有するべきだ」という持論を掲げていました。

 

こうして、曹操と孫権の秘密同盟が結ばれます。

 

関羽は、孫権の動向を無視していたわけではありません。最初のうちは、十分な守備隊を拠点に残していたし、烽火台を築いて孫呉の動きをキャッチできる仕組みを整えていました。しかし、孫呉が仕掛けた「対劉強硬派の呂蒙を病気静養させ、穏健派の陸遜に交代させる」という謀略に、すっかり騙されてしまったのです。こうして孫呉に気を許した彼は、樊城がなかなか落ちないものだから、少しずつ守備隊を前線に抽出してしまいます。

 

病気静養したはずの呂蒙は、荊州が十分に手薄になったのを見極めると、コマンド部隊で哨兵を暗殺して烽火台を無効化させてから、3万の大軍で江陵に襲い掛かりました。これは完全な奇襲となり、もともと手薄だった守備隊はあっけなく降伏します。こうして、荊州の劉備方拠点は、ほとんど無血のうちに孫呉の掌中に収まったのです。

 

一瞬にして後方の補給拠点を失った関羽には、もはや交戦能力はありません。慌てて南へ戻ろうとした彼は、呉の裏切りがどうしても信じられなかったらしく、何度も江陵の呂蒙に「どうしたというのですか」と手紙を書いています。しかし呉は軍勢を出して関羽を迎え撃とうとしました。家族を人質同然にされ、しかも補給を絶たれて士気の落ちた関羽軍の将兵には戦う意欲など残っていません。精強を誇ったその軍勢は今や散り散りとなり、わずかの残兵とともに蜀に逃れようとした関羽は、待ち伏せしていた孫軍に捕われ斬首されました。

 

こうして、天下三分の計は、あっというまに崩壊したのです。

 

荊州の失陥については、しばしば関羽の傲慢な性格に原因があると言われます。関羽は、『演義』では「徳性溢れる義人」として描かれています。もちろん、そうした側面も否定できませんが、『正史』を読む限りでは、それと同時に傲慢で自意識過剰な人格も垣間見られるのです。すなわち、呂蒙の奇襲を前に江陵があっけなく開城した背景には、関羽の人望の無さが伏在していたようです。

 

でも、それは一種の結果論でして、関羽の置かれた立場を鑑みれば、彼はなかなか見事に立ち回っていたように思えます。彼は2万程度の遠征軍しか動かせなかったはずですが、それでも曹操をギリギリまで追い詰めているのですから。

 

私は、荊州失陥の最大の戦犯は、他ならぬ劉備だと思います。劉備は、孫権というファクターが天下三分の計の最重要の前提であることを忘れてしまい、孫呉を怒らせる行動ばかり取り、しかもそれに対して何のフォローもしませんでした。劉備は、もう少し孫権に気を遣うべきだったと思うのですが。

 

 

 

、漢帝国の滅亡

 

 

関羽の横死後、呉の呂蒙とその副将・孫絞が相次いで病死し、さらには魏の曹操まで病死します。当時の迷信深い人々は、それを「関羽の怨霊の仕業だ」と言い合って恐れました。「関帝廟」は、現在では「商人の神様」ということになっていますが、もともとは関羽の怨霊鎮魂のために建てられたもののようです。

 

さて、曹操の死後、後継者となった曹丕は、これまで亡父が傀儡にしていた漢帝国皇帝に迫ってその帝位を譲り受けました(22010月)。いわゆる「禅譲革命」です。こうして、漢帝国はその400年の寿命を閉じ、曹一族による魏帝国が発足したのです。

 

これは、荊州とともに関羽を失ったばかりの劉備政権にとって、致命的とも言える大鉄槌でした。

 

もともと劉備は、漢室の連枝を名乗り「漢帝国の復興」をスローガンに掲げることで、その実力を10倍にも20倍にも膨らませて来ました。純粋に国力だけを比較するなら、魏の総人口500万人に対して、今や益州だけを領有する蜀の総人口はわずか90万人。まるで、大人と子供の勝負です。このハンデを埋めるためには、全体主義的なスローガンの力で国民の士気をとことんまで高めなければなりません。ところが、それが今や、力の源泉とも言える錦の御旗が取り去られてしまったのです。これは、まさに国家存亡の危機でした。

 

この情勢に対応するため、劉備が採用した手段は、「自分が皇帝になること」でした。すなわち、「漢帝国は滅亡したわけではない。皇室の血を引く俺が継承したのだ」ということにして、当初のスローガンを継続させたのです。こうして、一つの中国に二人の皇帝が並び立つという異常事態が現出しました(221年4月)。四川省のみを領有するこの新国家の国号は、もちろん「漢」です。同時代人は「季漢(末っ子の漢)」と呼んだようですが、この論文の中では「蜀漢」と呼称します。

 

このとき、孔明は、軍師将軍から丞相(総理大臣)に昇進しました。

 

この国の目的は、逆賊である魏を滅ぼして、中国を漢帝国のもとに再統合することでした。しかし、新皇帝・劉備の最初のプロジェクトは、「呉との戦争」だったのです。皇帝は、「関羽の仇討ち」を声高に喧伝しました。

 

部将の趙雲などは、「逆賊は呉ではなくて帝位を簒奪した魏なのだから、先に魏を討つべし」と正論を唱えたのですが、皇帝は聞き入れようとしません。

 

こうして劉備皇帝直卒の4万の軍勢が、長江の流れを下りました(221年7月)。

 

「夷陵の戦い」の開幕です。

 

 

 

3、夷陵の戦い

 

夷陵の戦いの真の目的については、学者の間でも様々な説があります。

 

小説『演義』では、「人徳者の劉備が、純粋に義弟・関羽の仇討ちをしたかった」というドラマチックな筋立てになっていますけど、劉備はいちおう政治家なのだから、それ以外にも目的があったことでしょう。

 

なんといっても、荊州の政治的重要性が大きいと思います。天下三分の計の具体的内容について想起していただきたいのですが、荊州の領有は孔明の天下統一計画にとって必要不可欠の前提なのです。益州だけを治める皇帝というのは、「総人口90万人の過疎化した盆地の親玉」にしか過ぎず、天下統一どころか自存自衛すらおぼつきません。ですから、劉備としては、何としても荊州を取り戻したかったでしょう。

 

また、劉備旗下の精鋭は、もともと荊州出身者から構成されていましたから、彼らのために故郷を取り戻すことは、軍規を維持する上でも必要だったのです。

 

しかし、劉備は魏という強敵を北方に抱えた状態で征旅に出ました。蜀漢の全体主義的イデオロギー(漢朝復興!)の前では、魏との休戦は許されませんから、この弱小国家は二正面作戦を余儀なくされたのです。そのため、趙雲、馬超、魏延といった勇将は、魏の侵攻に備えて国内に留め置かなければなりませんでした。また、劉備が片腕と頼んだ謀臣・法正と部将・黄忠は、この2年前に病没していたのです。さらに、出陣の直前になって、もう一人の義弟・張飛も部下に暗殺されるという大波乱。劉備皇帝は、衰えかけた二線級の将兵で呉に決戦を挑んだのでした。もちろん、孔明は成都で補給兵站に専念します。

 

対する呉は、孔明の実兄・諸葛瑾を使者に派遣して劉備の怒りを宥めようとしますが、これが失敗に終わると、今度は柔軟な外交戦略に打って出ました。

 

すなわち、孫権は魏の曹丕に使者を発し「降伏します」と言ったのです。当時、魏と呉の間柄は険悪となっていて、魏が蜀漢に呼応して呉に攻め寄せる可能性は非常に大きかったのです。しかし、出鼻をくじかれた形となった魏の曹丕は、半信半疑で「ならば、貢物をよこせ。また、子供を人質に差し出せ」と法外な要求をしたのですが、孫権はそれを全て受け入れます。こんな主君の卑屈さを見た孫呉の重臣たちは、歯軋りして悔しがったのですが、鷹揚な孫権は、「まあ、今に見ておれ」と満座を宥めました。

 

こうして、魏は蜀漢に呼応して呉を攻撃する名分を失ってしまったのです。見事に北方の脅威を封じた孫権は、陸遜(呂蒙の後任)率いる5万の主力を劉備軍迎撃に充てることに成功しました。

 

これは、劉備にとって予想外のことだったでしょう。

 

劉備率いる二線級の4万は、それでも良く健闘します。夷陵前面で睨み合った呉蜀両軍は、7ヶ月にも及ぶ長期持久戦に入りました。

 

なお、『演義』では、劉備軍が70万だったことにされています。これは、蜀漢の国力を誇張すると同時に、孔明不在の劉備の無能さを強調するための創作でしょう。

 

劉備は、険しい山岳地帯に陣地を築いて立てこもる陸遜をどうしても攻め切れません。まあ、4万対5万だから当然でしょうね。これが『演義』の世界だと、70万対5万なので、14倍の兵力を持ちながら手も足も出せない劉備の無能ぶりが思い切り強調されてしまうのですが。

 

対する陸遜は、数の上では優勢だったにもかかわらず、劉備の見事な布陣と蜀漢軍の旺盛な士気の高さを前に、攻め口を見出すことがどうしても出来なかった。史実の劉備は、こうして見るとなかなか優秀な軍略家だったのかもしれません。

 

長期戦になると不利なのは、実は呉の側でした。なぜなら、孫権は曹丕に嫡男・孫登を人質に差し出す約束をしたのですが、この約束を履行する気がなかったからです。彼は、「息子が病気になったから」とか「準備に時間がかかる」と言い訳をして問題先送りをし続けたのですが、これに不信を抱いた曹丕は、密かに呉を攻撃する準備を開始したのです。

 

劉備は、おそらくこうした情勢を期待して、無意味とも思える長期持久戦を頑固に続けていたのだと思います。彼は、やがて根負けした孫権が妥協の意志を表明し、せめて荊州の西半分を返還してくれることを夢見たのでしょう。

 

しかし、先に根負けしたのは劉備の方でした。盛夏に入ると、夷陵の蜀軍の士気は弛緩し、警戒を怠るようになりました。陸遜は、そこに火攻めを敢行したのです。この地方は夏季になると木々が乾燥するので、あっというまに猛火に包まれた蜀軍は、ろくな抵抗も出来ずに壊滅しました。

 

劉備は、多くの部下を失いながら、身一つで逃走し白帝城に逃げ込みます。そして、この地で病に伏して起き上がれなくなったのです。

 

これは、漢帝国再興の夢を打ち砕く止めの鉄槌でした。

 

 

 

4、孔明は、何をしていたのか?

 

 

さて、蜀漢の運命がボロボロになっていく様を見ていきましたが、その間、我らが孔明は、いったい何をしていたのでしょうか?実に珍しいことに、『正史』と『演義』では同じ説明がなされています。すなわち、「指をくわえて眺めていた」のです。ただ、両者ではニュアンスが全く違います。

 

 

まず『正史』では。

 

孔明の仕事は「管理本部長」です。『正史』を注意深く読む限り、彼は劉備の存命中は内政や補給の仕事に特化していて、外交や軍事にはノータッチでした。こういう仕事は、劉備や法正や関羽がやるものだと割り切ってしまい、全く無関心だったみたいです。だから、関羽の破滅を傍観し、劉備の呉遠征の発議を聞いてもノーコメントだったのです。戦略的判断を要する事項は、全て劉備任せだったわけですね。

 

この時期の孔明の発言で唯一『正史』に記載があるのは、夷陵の戦いの顛末を聞き知ったときに嘆息した一言です。「ああ、法正さえ生きていてくれたなら、陛下にこんな無茶な遠征はさせなかっただろうし、仮に遠征が開始されたとしても、こんな惨めな負け方はさせなかっただろうに!」

 

このセリフは、なかなか意味深です。第一に、孔明は本心では呉遠征に反対だったこと。第二に、自分よりも法正の方が有能だと思っていたこと。第三に、劉備は孔明よりも法正の言う事を良く聞いたらしいこと。

 

孔明=天才軍師という先入観に縛られてしまうと、このセリフは「無責任」にも聞こえます。しかし、史実の孔明の仕事は「管理」だったのだから、このセリフは「無責任」ではないのです。一人の人間としての孔明の生の肉声というか無念さが感じられるセリフですよね・・・。

 

 

次に『演義』では。

 

孔明の仕事は、「超絶的スーパー天才軍師」です。魔法も使えるし予知能力も使えます。だけど、関羽の敗死から劉備の惨敗に至るまで傍観者に徹しているのです。しかも、その間にとった行動は「無責任な評論家」と言っても良いものでした。私は、初めて『演義』を読んだとき、この孔明の無責任な姿勢に激怒したものです。そして、孔明のことが大嫌いになりました。

 

どうして『演義』の孔明がこんな風に書かれてしまったかと言うと、それは羅貫中の執筆姿勢に欠陥があったからです。羅貫中は、孔明のことを史実の100倍くらい過大評価して書くくせに、「歴史的事件は変えたくない」人でした。中途半端に生真面目な人だったわけです。その結果、「全く機能しないスーパー軍師」が登場する羽目になったのです。じゃないと、歴史が変わってしまいますからね。そして、孔明が機能しなかった理由については全く説明がありませんから、孔明の「無責任さ」が際立ってしまうのです。これは、小説としては大失敗ですね。

 

私が羅貫中の立場なら、例えばこう書きます。「天才軍師の孔明は、絶世の美女に巡り会って色ボケになってしまった。そのため、関羽の戦死や劉備の惨敗に際して仕事が出来る状態ではなくなってしまったのだ!」。孔明のイメージが落ちるかもしれませんが、この方が物語の構成として無理がありません。少なくとも、「何の理由も無く職務放棄した奴」という汚名は免れるでしょう?

 

ちなみに、トーマス・マロリー卿は、小説『アーサー王の死』の中で、この技法を用いています。『アーサー王の死』はイギリスの歴史小説ですが、その成り立ちや物語構成が『三国志演義』に酷似しています。主人公のアーサーは、劉備と同様に「無個性なお人よし」として描かれます。彼がイギリス全土を制覇できたのは、天才軍師マーリンのお陰でした。そして、その没落は「マーリンが機能しなくなった」ために起こるのです。どうしてこの軍師が機能しなくなったかというと、ある妖精(ヴィヴィアンだっけ?)に恋をして、その妖精の悪戯で「迷いの森」に幽閉されてしまったからです。この結果、アーサーと円卓の騎士たちの破滅が、無理なく説明されたのです。

 

羅貫中は、マロリー卿の作劇術を参考にすれば良かったのに。まあ、当時の中国人は、『アーサー王の死』なんて読めなかったでしょうが。

 

ともあれ、羅貫中がヘボだったために、『演義』の孔明は無責任な嫌な奴に成り下がってしまいました。

 

では、『演義』版・孔明の無責任ぶりを見ていきましょう。

 

 

まずは関羽敗死に際して・・・。

 

成都の孔明は、いつものように夜空を見ていました。すると、死兆星(?)が一つ・・・。「わー、荊州でヤバイことがあったみたいだよーん!」

 

大慌てで劉備のところに駆けて行きます。軍師から星占いの結果を聞かされた劉備は、不安になります。そこに荊州から急を告げる早馬が。「関羽様が、魏と呉の挟み撃ちを受けてヤバイっす!」。

 

劉備と孔明は、大急ぎで援軍に行く準備をしたのですが、出陣の直前に第二の使者がやって来て、「関羽様は、孫権に殺されてしまったよーん!」。劉備は、ショックのあまり悶絶してしまいました。

 

以上を見ても分かるように、孔明はこの緊急事態に何の役にも立っていません。星占いで関羽の危機を知ったのは偉いように見えるけど、手遅れになってからでは何の意味も無い。っていうか、日ごろから、ちゃんと人間を使った情報活動をやっておきなさいよ!星を見るまで、荊州に無関心だったのは軍師失格だぞ!

 

 

次に、夷陵の大敗に際して・・・。

 

まず、『演義』の孔明は、主君の呉遠征に反対でした。そして、反対意見だからという理由で遠征軍から外されてしまったのです。その理由付けが今ひとつ良く分からない。『演義』の世界では、劉備はたいへんなバカ殿であって、孔明の手助けが無ければほとんど何も出来ません。そんな彼が、「反対意見だった」というだけで頼みの綱の孔明を置いていったのは、不可解としか言いようがありません。そして、素直にそれを受け入れて留守番役になっちゃう孔明の心境も分からない。だって、この戦いは「天下三分の計」の正念場なんですよ!どうしてこの緊急時に傍観者でいられるんだ?

 

さらに驚くべきことに、孔明はこの戦役の推移にまったく無関心でした。

 

7ヶ月もの対峙の後、夷陵の劉備は陣地を山沿いに移しました。そのとき側近の馬良は、「なんか変な陣形になってしまいましたね。すごく不安です。孔明なら何と言うでしょうか?」と意見を述べました。すると劉備は、「バカ言うな!この陣形は完璧なんだぴょーん!でも、軍師殿は漢中にいるみたいだから、近いところで聞きに行ってみな!」と応えたのです。

 

どうして夷陵と漢中が近いんだか良く分かりませんが、馬良は劉備軍の陣形を絵図に写して馬を飛ばしました。

 

孔明は、馬良に絵図を見せられて愕然とします。「なんだ、この陣形は!火攻めを受けたらイチコロじゃんかよ!どこのどいつだ!こんな陣形を考えたアンポンタンはよ!」「それは・・・陛下ご自身で」「ええ?アンポンタンというのは安保闘争の一種であって、しどろもどろ。陛下にチクっちゃ嫌よん。ともあれ、もう一度、夷陵に戻って陛下をお諌めしておくれ!」

 

でも、馬良は間に合いませんでした。劉備軍70万は、呉軍の火攻めにあって壊滅してしまったのです。

 

以上の経緯を見ても分かるように、孔明は夷陵の戦況に全く無関心で、得意の星占いすらしていないのです。劉備の敗北を陣形から予見したのはすごいみたいですが、「お前は軍事評論家の先生かい!」とか突っ込みたくなりますわな。

 

ただ、羅貫中は、孔明の名誉を守るためにある詐術を用いています。

 

劉備が白帝城に逃げ込んだとき、陸遜は全軍で追撃をかけました。その途中、数年前に孔明が築いたとされる「石兵八陣」という場所を通ります。地元の人の話では、孔明はこの地に10万の兵を隠したとか。興味にかられた陸遜は、その地を視察したのですが、そこにあるのは巨石建造物の群れでした。「なんだ、これが10万の兵だってか?孔明もアホウなハッタリをかますなあ」と、陸遜と呉の諸将は笑います。ところが、この巨石群は迷路のようになっていて、一度入ったら外に出られないように出来ていたのです!帰り道を失って焦る陸遜たちの耳に、長江の音が響きます。ここは川沿いなので、長江が満潮(?)になったら、彼らは全員溺れ死んでしまうことは必定でした!

 

「わーん、孔明様をバカにしたバチがあたったよーん。もうしませんから許してぴょーん!」泣き叫ぶ陸遜のところに、ある老人が現れます。

 

「あんたたち、孔明の悪戯に嵌ったんだね。私が抜け道を教えてあげましょう」。この老人は、孔明の舅の黄承元だったのです。どうして婿の足を引っ張るんだろう?ともあれ、こうして陸遜たちは助かったのでした。

 

まあ、八陣の話は、いうまでもなく「作り話」です。こういう変てこな作り話の力で、羅貫中は孔明の名誉を守ろうとしたのですが、なんだかなあ。

 

 

以上、『演義』の孔明は、自らの人生の夢である「天下三分の計」が崩壊していく有様を、全く無関心に傍観していたのです。軍師としてだけでなく、人間としても問題ですな。この人は、何のために草庵から出て来たんだろうか?

 

「法正が生きていれば・・・」と嘆息する『正史』の孔明の方が、人間的に好感が持てますね。