織田信長

 

 

 永禄十二年(一五六九年)の正月、明智十兵衛光秀は六条堀川の本圀寺(ほんこくじ)にいた。

 吹きすさぶ寒風の中で、火縄の加減を慎重に見定めてから、黒光りする鉄の筒を抱え上げる。そして、その先端を斜め下方に向けつつ照準を定める。その次の瞬間、爆音とともに筒から飛び出した丸い弾丸は、半町(五十メートル)先の騎士の胸甲を貫通し、相手はもんどり打って落馬した。たちまち周囲に歓声が上がる。

「次!」

 十兵衛は、顔色も変えずに従者が準備しておいた別の鉄砲を抱えると、同じようにして狙いを定め、次の騎士を撃ち倒した。

 鉄砲は、準備に手間がかかる兵器である。特に、今日のような寒風が吹きすさぶ中では尚更だ。だから十兵衛は、本堂の二階の欄干にて、風除けの遮蔽物を巧みに利用しつつ、二人の郎党に三丁の鉄砲の火薬掃除や弾込めをローテーションさせつつ、効果的に百発百中の技量を発揮しているのだった。

「さすがですな!」

 十兵衛から数十歩離れたところで、同じく百発百中の技量を発揮している巨漢が声をかけた。ただし、この巨漢が用いている武器は、四枚合わせの大弓である。二十九歳になったばかりの、石谷孫九郎頼辰なのだった。

「貴殿も、さすがじゃ」

 明智十兵衛は、薄く笑った。

 もっとも、今はそんな余裕を見せていられる局面ではない。

 正月早々、本圀寺に押し寄せて来ている三好勢は三千。それに対して、防備不十分なこの寺で新将軍・足利(あしかが)義昭(よしあき)を守っている奉公衆は、明智十兵衛以下わずか五百なのである。

 それでも、防衛軍の士気は高かった。彼ら室町幕府奉公衆は、四年前の悪夢を忘れていなかった。あの時は、三好勢の不意打ちによって将軍・義輝を弑虐され、悔しく惨めな思いを味わった。そして今回も、三好は同じように不意打ちをして来た。だが同じ轍は踏まない。今度こそ絶対に、新将軍を守り抜く。その決意こそが、彼らを強くさせるのだった。

 若狭衆と近江衆が白兵戦で敵を食い止めている間に、明智十兵衛や石谷孫九郎ら射撃の名手は、高所に陣取って敵の指揮官クラスを片端から狙撃した。特に十兵衛の鉄砲の威力は驚異的で、轟音が一つ鳴るたびに名のある勇士が何も出来ずに斃されて行く状況は、寄せ手の士気を大いに鈍らせたのである。

 あまりの損害の大きさに恐れをなした三好勢は、夕刻になると早々に撤収して行った。だが、これで蹴りが付いたわけではない。

 兜を外した明智十兵衛は、顔と首筋に付着した火薬を手拭いで擦り落とすと、仏間に戦況報告に向かった。

 将軍・足利義昭は、鷹揚な態度で功臣を出迎えた。だが、内心の恐怖心を隠し通すことは出来ず、その唇が紫色なのは寒さのせいばかりとは言えなかった。

「上様、本日は我が軍の大勝利にございます」笑顔を浮かべつつ御前に平伏する十兵衛に向かって、新将軍は「御苦労であった」と、気丈に労いの言葉をかけた。

 足利義昭は、故・足利義輝の弟である。もともとは、覚慶として興福寺別当に出家する予定であったのだが、兄が攻め殺された際に松永久秀によって捕縛され、興福寺の一室に幽閉されたのである。本当なら、この時に殺されてもおかしくなかったのだが、興福寺の心証を害することを恐れた松永久秀が幽閉で済ませたことから運が開けた。細川藤孝や一色藤長といった忠臣たちによって救出された後、諸国を流浪の末に織田信長との提携に成功。そして、織田軍の支援によって三好党を追い出して京に入り、室町幕府の第十五代将軍を襲名することが出来たのだった。

 ただし織田信長の失敗は、新将軍と新編成の奉公衆だけを防備の薄い本圀寺に残したまま、本拠地の岐阜に引き揚げてしまったことである。不意打ちが得意な三好党が、このチャンスを逃すわけがない。案の定、失地挽回をはかって、四年前と同様に将軍を襲殺しようと試みたのであった。

「上様、もうしばらくの辛抱でござります。やがて、細川兵部をはじめとする洛中の奉公衆や、織田上総介(信長)どのが援軍に駆け付けてくれましょう」

 明智十兵衛に確信はなかったのだが、今はそう言って主君を慰めるしかなかった。だが、彼の心の中には楽観があった。自分の運気は明らかな上昇傾向にある。天が、今のこの自分を滅ぼすはずがない。なぜか、はっきりとそう思える。こういった語り手の空気は、周囲の人々に伝わるものである。足利義昭と左右の側近たちは、明智光秀の言葉を聞くうちに目に見えて安堵した。

 そして、この翌日が決戦だった。態勢を立て直した三好勢は、鉄砲と強弓を警戒して、民家の屋根を剥がした急造の楯を前面に並べて攻めて来た。しかし、明智十兵衛と石谷孫九郎をはじめとする歴戦の勇士たちには、そんな小細工は効かない。ほんの少しでも楯に隙間が出来ると、そこに向かって百発百中の一撃を放つのだった。

 恐れをなした三好勢の動きが滞り、戦線が膠着したその時、期待していた援軍が現れた。細川藤孝とその兄の三淵(みふち)藤英(ふじひで)、戦友の一色藤長、そして松永久秀(信長に臣従した)らが、寄せ手を取り囲むように押して来たのだ。これに続いて、信長の同盟者である近江(滋賀県)の浅井長政、摂津(大阪府)の池田勝正らも駆け付けた。

 これに戦意を喪失した三好勢は、退却を図ったものの、桂川で追いつかれて大敗を喫して四散したのである。

 大歓声に包まれる本圀寺。ここに幕府奉公衆は雪辱を晴らした。互いに感涙にむせび肩を叩き抱き合う彼らは、今度こそ室町将軍を守り抜いたのだった。

 

 

 その翌日、織田信長が、わずか十騎の供回りとともに現れた。本拠地の岐阜城から、豪雪の関ヶ原を突破して二日で駆け付けたのだ。

 豪雪の関ヶ原は、今日でも新幹線が足止めを食うほどの難所であるから、十六世紀なら尚更である。すなわち、信長にここを突破させるために、多くの人足や雑兵が凍死した。

 織田信長の登場は、戦局には直接の影響は無かったが、心細い思いをしていた足利義昭や奉公衆にとっては、彼の命がけの忠誠心の発露は何よりも嬉しいことだった。仏間で後見者を迎えた将軍・義昭は、縁戚関係も無いというのに「義父上どの!」などと織田信長を呼んで感謝の涙にむせんだ。そして、決断の速い信長は、激しく損傷した本圀寺を放棄して、新たに将軍のために二条城を築くことをその場で決めたのであった。

 明智十兵衛は、負傷者を見舞いつつ寺の損傷状況をチェックしていたのだが、信長に呼び出されて客間に向かった。織田信長は、畳の上に敷かれた幾通もの書面に同時に目を通しているところだったが、入室した十兵衛を見ると破顔した。

「明智十兵衛、怪我はないか?」持ち前の甲高い声を出す。

「もったいなきお言葉。上様の御威光により、息災にござりまする」十兵衛は平伏する。

 彼の立場は微妙であった。形式上は将軍家奉公衆の一員なのだから、信長とは主従関係にない。だが、心の一部はそれを否定していた。むしろ、明智光秀はこのような英雄のために働きたいと願っていた。そして、織田信長もそのような光秀の気持ちを分かっていた。

「大樹さま(義昭)が、今回の十兵衛の働きを絶賛しておったぞ。百発百中の鉄砲の腕前という口上は、嘘ではなかったようじゃな」

「無我夢中でしたので、何発かは仕損じもあったかと」

「けけけけけけ」信長は楽しそうに笑った。「褒美は存分に取らせる。これからも、わしのために働いてくれ」

「ありがたき幸せ」

 明智十兵衛は、心の中を幸福感でいっぱいにして部屋を出た。三十六年もの長い間、彼は自分の居場所を探し求めて彷徨ってきた。武者修行といえば聞こえは良いのだが、彼は自分が人生の中で何をしたいのか分からずに、ただ食って寝て生きていたのだ。そのせいで、妻子にもたいへんな苦労を強いて来た。だが、そんな生き方ももう終わる。ようやっと、命をかけて仕えるべき真の主君に出会えたのだから。

 襖を開けて廊下に出たところで、痩身の小男に出くわした。こいつは、まだ三十歳なのに猿のように皺だらけの顔をしているので、実際よりも遙かに老けて見える。思わず「猿どの」と声をかけそうになったところで、この小男の名前が木下(きのした)(とう)吉郎(きちろう)であることを思い出した。

「明智十兵衛どの。上様のご機嫌はいかがですか? 笑い声が聞こえましたけど」皺くちゃ顔に埋まった小さな口から声がする。

「上機嫌です。今は、貴殿の出番はなさそうですな」明智十兵衛は冷ややかに言った。

 この小男が卑しい身分の出で、信長の草履取りから身を起こしたことは、織田家中では有名な話だった。才覚はあるのかもしれないが、いつも信長のご機嫌取りをしているので、身分のある重臣たちから大いに嫌われ軽蔑されている。そして今の十兵衛も、こいつの猿面によって、せっかくの幸福感が削がれたような気分になって不愉快だった。

「そうですか」木下藤吉郎は、無表情に小さく頷いた。

「猿どのも、せいぜい励みなされ」明智十兵衛は意地悪く言うと、足早に去った。

 その背後で、皺くちゃの顔の中の目が冷たく光ったことには気付かなかった。

 

 

 そのころ石谷孫九郎頼辰は、本圀寺の書見室にて信長の従者たちに戦況報告をしながら、ここ数年の世の中の移り変わりの早さに思いを馳せていた。

 永禄八年に三好・松永の不意打ちで将軍・義輝が襲殺された後、孫九郎は家族を連れて弟の所領が置かれた美濃(岐阜県)に落ち延びた。

 その当時、彼の実弟・斉藤利三は、美濃国主の斉藤(さいとう)龍興(たつおき)のために、尾張の織田信長と戦っていたのだが、程なくして彼が属していた部将・稲葉一鉄が信長に寝返ったので、斉藤利三と石谷頼辰も織田勢の一員となって美濃国主に牙を剥くことになった。

 この稲葉一鉄らの寝返りの影響は決定的であり、永禄十年に入ってついに斉藤龍興は滅亡し、美濃は織田信長の領土となった。

 それから間もなくして、越前・朝倉家の客将・明智十兵衛光秀が織田信長を訪れ、越前に亡命中の足利義昭を美濃に引き取るよう提案した。明智十兵衛は、当初は朝倉義景(あさくらよしかげ)に上洛を焚きつけていたのだが、優柔不断な義景がなかなか乗って来ないのに業を煮やしていたのだった。

 この十兵衛の話に乗った信長は、六角(ろっかく)氏ら道中の敵対勢力を蹴散らしつつ上洛し、そして義昭を正式に室町将軍に就けてくれたのである。

 明智十兵衛と石谷孫九郎は、こうして晴れて将軍家奉公衆に復帰した。それまで義昭に近侍していた細川兵部と一色式部らも同様である。

 思えば、亡き足利義輝と「いろはの会」の過激派は、以前から織田信長か上杉輝虎の力を借りて幕府権力を復興することを夢見ていた。義輝の代では叶わなかったその夢は、弟の義昭の代になってようやく実現した形である。

「夢というものは、諦めなければいつか必ず実現するのだな」

 彼自身は「いろはの会」の会員ではないけれど、先が見えないこの悲惨な乱世の渦中で、ようやく一筋の光が見え始めたことに安堵する孫九郎頼辰であった。

 仕事を終えて廊下で伸びをしていると、緊張した風情の明智十兵衛がふらっと現れた。彼は、空き部屋に孫九郎を誘うと、低い声で相談を持ちかけた。

「土佐の長宗我部のことじゃ」

「長宗我部が何か?」

「あそこに、蜷川新右衛門がおるじゃろう?」

「ああ、義兄なら元気にやっているみたいですぞ。わしらは最近、一条卿を介して手紙のやり取りをしているのだが、義兄はどうやら土佐で連歌の師匠になっているらしい」

「だったら好都合。長宗我部を動かして、阿波を背後から攻撃してもらいたいのじゃ」

「なるほど。阿波は三好の本拠地じゃ。三好を倒すには、それが一番の妙策というわけじゃな」

 昨年末、怒涛のごとき勢いで上洛した織田・足利連合軍に恐れをなした三好党は、畿内の支配をいったん諦めて淡路と阿波に撤退した。ところが、それでこちらがすっかり油断したところを、いつの間にか和泉(いずみ)(大阪府)に舞い戻って強襲して来たのである。三好党は、畿内の戦況が不利になると四国に逃げ込んで態勢を立て直す厄介な敵であった。すなわち織田・足利連合が、この危うい状況を打破するためには、四国に力強い同盟者が必要となる。

「上様に、この策を提案しようと思う。我らの出世は、これで間違いなしじゃ」十兵衛は拳を振り上げた。

「出世が目的ですか。まあ、悪いことではないが、今の公方様に恩賞が出せるかの?」

「公方様は関係ない」明智十兵衛は不敵に微笑んだ。「わしが上様と呼ぶのは、織田上総介どのじゃ」

 石谷孫九郎は、きょとんとした。

「土佐への根回し、頼んだぞ」と言い捨てて、足早に去っていく十兵衛の背中を見つめながら、彼は人の心の移ろいやすさに想いを馳せた。

 昔の明智光秀は、あんなガツガツした雰囲気の男では無かったような気がする。

 

 

 春の海風が香ばしくなる時節、蜷川新右衛門は軍船の上にいた。

 空は快晴で海は凪いでいるから、見渡すすべてが気持ちの良い青色に染められていて、すこぶる気持ちが良い。二十間(約四十メートル)の大きさの関船(せきぶね)大黒丸(だいこくまる)は、その中を静かに進んでいる。静かにと言っても、屈強な漕ぎ手たちの掛け声はそれなりに喧しいのだが。

「あそこを!」案内人の漁師が指さした遠い波間に、黒い塊が見え隠れする。

 近くで書状を読んでいた長宗我部元親は、目を上げて小手をかざした。

「ああ、やっと見つけたな。新右衛門どの、新右衛門どの」

「はい。長宮どの、あの黒いのが?」

「そうじゃ、あれが鯨じゃ」

「おお、鯨か。初めて見ます。大きいですな。あっ、水を吹いている」

「あれが潮吹きじゃ。鯨はエラを持っていないから、ああやって息をするのじゃ」

「奇妙な生き物ですなあ!」

「塩漬けにして食ったら美味いぞ」

「あんなに大きい生き物を、どうやって捕まえるのですか?」

「屈強な漁師が、何本も何本も銛を打ち込んで、弱らせたところで港まで引っ張り込むんじゃ」案内役の漁師が、鼻をこすりながら語る。彼は、捕鯨の経験が豊富なようだ。

「あれ一頭で、随分と大勢の人がお腹いっぱいになるでしょうね」

「じゃけん、手間暇を考えたら、(採算が)合わないことが多いけんな」漁師は頭を掻く。「春先なら、カツヲの方が味は美味いしなあ」

「あしは、ああやって潮を吹くところを見ているだけで愉快だ」元親は、カラカラと笑って右手をブンブン振った。「無理して食わんでも良いきに」

「春の海 白糸のぼる 蒼き空」そう詠んだ新右衛門は、すかさず元親の顔を見た。

「クジラよりも カツヲ好きかな」元親は、そう詠んでしまってから目を白黒させた。

 連歌の先生は、深くため息をついた。

「何度も言いますけど、連歌というものは、語呂と平仄が合えばそれで良いわけではありません。ちゃんと前句と後句が、意味と詩情とで対にならないと」

「新右衛門どのは厳しいの。いつも、いきなり句を振るけん」

「日頃の訓練こそが大切なのです。こうやって、常日頃から頭と心を鍛えておけば、いざというときに間に合うのです」新右衛門は胸を張る。

 元親は、しょんぼりと頷いた。

 いつの間にか鯨の姿は見えなくなり、帰路に入った大黒丸は安芸郡の陸地へ近づいた。この辺りは、海と山とが極端に接近しているので、海沿いを渡る一筋の断崖の細道を使わないと東西に行き来できない。

 この難所、八流(やながれ)には安芸氏の砦があって、少数の安芸兵が駐屯していた。退屈していた彼らは、船を見つけると、声を上げたり手を振ったりし始めた。船上の新右衛門たちと手を休めた漕ぎ手たちも、彼らに手を振り返してあげる。長宗我部と安芸は、長期にわたって講和中なので、双方のムードは友好的であった。

 長宗我部元親は、腕組みしてニコニコ笑いながらも、断崖の細道を遮断する砦の造作構造を観察していた。

「ふむ。陸側の備えは完璧だが、海からの攻撃は想定していないようだな」

「いよいよ、やるのですか?」と、新右衛門が問うと、

「もちろん」元親は、手にしていた上方からの手紙を頭上でヒラヒラさせた。「安芸を潰さない限り、阿波の三好を攻撃できぬ。つまり、石谷孫九郎どのや織田上総介どのの要請に応えられぬ」

 長宗我部家は昨年の終わりに、宿敵・本山氏を完全に降伏させ従属させていた。

 今や、その旺盛な軍事力の捌け口は、安芸方面にしか無いのだった。

 

 

 永禄十二年(一五六九年)四月、長宗我部元親は安芸国虎を岡豊城に招いた。すると、これを降伏の勧めと解釈した国虎が絶交を言い出したので、両家は手切れとなった。長宗我部元親から見れば、目論見どおりに開戦の大義名分が得られた形だ。

 手切れとはいえ、農民を補助兵力として動員する必要上、大規模な合戦は農閑期を待たなければならない。特に、一領具足を主力に位置づける長宗我部家はそうだった。

 刈入れが終わって農閑期を迎えた同年七月、岡豊城下に七千三百の長宗我部勢が集結した。その内訳は、侍が三千、一領具足が四千三百。海沿いの難所を、一列になって東へ進む。

 対する安芸国虎は、安芸城下に五千の兵を集め、さらに舅の一条兼定に援軍を求めた。うまく運べば、長宗我部領を東西から挟み撃ちにできる算段だ。そして、進軍して来る長宗我部軍を要撃(ようげき)するべく、最大の難所である八流の砦に主力を送った。

 防衛側が有利と見えるこの状況。ところが、安芸勢はたちまち崩れた。

 八流の砦は、突如として海から襲来した長宗我部の軍船と漁師たちに横撃され、矢玉や銛を激しく撃ちかけられて浮足立ったところを、すかさず突撃を仕掛けた一領具足によって打ち破られたのである。この戦況を見て、かねてより長宗我部に調略されていた安芸の家臣たちが次々に寝返りを打った。

 しかもその間、北方の山岳地帯を抜けて来た福留親政率いる別動隊が、安芸城を背後から奇襲したので、安芸国虎は指揮下の全軍を城に戻して籠城策を採らざるを得なくなった。

 そして、肝心の一条家の援軍も来なかった。このころの一条家は、伊予(いよ)(愛媛県)の西園寺家と戦闘状態にあり、しかも苦戦の連続であったから、とても土佐東部に援軍を派遣する余裕など無かったのである。

 それでも、安芸国虎に忠誠を誓う生え抜きの家臣団の結束は堅かった。安芸城の包囲は二十四日も続き、寄せ手にようやく疲れが見え始め糧食の補給の心配が始まったころ、城方の横山(よこやま)民部(みんぶ)が寝返りを打って井戸に毒を投げ入れたことから勝負がついた。八月十一日、安芸国虎と、その忠臣・有沢石見と黒岩(くろいわ)越前(えちぜん)は腹を切り、ここに安芸一族は滅亡したのである。

「見事な軍略だった」蜷川新右衛門は、素直に感心した。

 彼は、軍事には比較的疎いのだが、今回の元親の作戦が、「孫子」や「六韜(りくとう)」に基づいた理詰めの高等戦略に拠っていることには気付いた。長宗我部元親は、やはり「いろはの会」の英雄になれる器の持ち主かもしれぬ。

 ともあれ、ここに土佐東部は長宗我部元親によって統一平定され、土佐の国は長宗我部家と一条家によって東西に二分される形となった。