第十二話 インパール作戦

 

 ・・・いよいよ、世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦について書かなければなりません。

 さて、1944年初頭に入ると、戦局の趨勢は誰の目からも明らかになっていました。アメリカの大艦隊は、いまやマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン)を目指し、日本軍はこれを待ち受けて、伸るか反るかの大決戦を行なおうとしていたのです。東条首相は、マリアナ諸島を「絶対国防圏」と名づけて、日本の国運をこの一戦に賭ける決意だったのです。

 しかし、日本軍は、全力でこの国難に当たろうという態勢にはなっていませんでした。どうしてかといえば、この期に及んで、お役所の詰まらぬセクト意識が幅を利かせていたからです。

 既述のとおり、日本陸軍の主要敵国は、あくまでも中国でした。彼らにとって、アメリカとの戦いは副次的なものでした。アメリカが日本本土に迫っても、それはあくまでも海軍の責任であるから、彼らには関係ないと思っていたのです。だから、陸軍は、百万近い大軍を動員して、中国大陸とインドで大攻勢を行なったのです。前者は「大陸打通作戦」、後者が「インパール作戦」です。そんな余裕があるなら、どうしてアメリカとの決戦に回さないのか?そんなこと、お役所のキャリアに言っても無駄です。彼らは、己の省益のためなら、国益すら犠牲にする連中ですから。  

 こうして、マリアナ諸島の戦力は、相対的に低下しました。

 「政治家不在」は、いまや致命的な破局を招こうとしていたのです。

 このような無駄は、現在でも日常的に起きています。一刻も早くIT革命を成就させねばならぬのに、富山に新幹線を敷こうなどという計画が進んでいるでしょう?何でも役人任せにしていると、無駄と不効率で国中が埋めつくされてしまうことでしょうね。

 さて、「大陸打通作戦」とは何か?占領下の広東と武漢の間、すなわち湖南省を占領して、長江沿岸と広東の間に連絡路を造ろうという作戦でした。具体的には、桂林のあたりを攻撃したのです。 いちおう、この辺りに設置されつつあったB29の基地は破壊できたのですが、そんなことをしても四川省に立て篭もる蒋介石には、大したダメージにはなりません。陸軍のお役人は、わざと弱い敵をやっつけて、点数稼ぎをしたかったのかもしれませんね。

 さて、「インパール作戦」とは何か?文字通り、インパールを占領する作戦です。インパールというのは、ビルマ(現ミャンマー)との国境にあるインドの街です。ここは、イギリス軍の最前線基地になっていました。

 そもそも、どうして日本陸軍はビルマを征服したのか?これは、実は日中戦争を有利に進めるためだったのです。アメリカとイギリスは、中国に対して戦略物資の援助を行なっていました。その物資は、英領ビルマから昆明を経由して蒋介石軍に届けられていました。ゆえに、日本がビルマを占領すれば、米英は中国を支援できなくなり、中国は世界から孤立してしまうのです。そして、日本軍はこれに成功したのでした。1942年初頭、イギリス軍は、強力な日本軍の前に成す術も無く敗走し、ビルマを放棄してインドに逃げ込んだのです。

 しかし、1944年に入ると、状況は大きく変化しました。その最大のものは、制空権です。連日のように続く空中戦で、日本のパイロットは次々に失われていきました。あの加藤健夫中佐が戦死したのも、ビルマ上空です。そして、圧倒的な物量を誇る連合軍は、いつしかビルマの制空権を一手に握っていたのです。そして、彼らは中国との連絡路の奪回に動き出しました。少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、これに空から補給を行なって、中国軍と連携させることに成功したのです。

 この情勢を放置しては、ビルマを征服した意味が無くなってしまいます。そこで、日本陸軍は、イギリスの最前線基地であるインパールを攻略し、彼らの意図を挫折させようとしたのでした。

 インパール作戦は、戦略的には道理に適った作戦だったのです。しかし、問題はその手段です。

 ビルマとインドの国境には、チンドウイン河という大河が横たわり、それを超えた後はアラカン山系という、標高2000メートル級の山々が聳えていたのです。もちろん、まともな道路はありませんから、自動車はもちろん、荷車だってロクに通れないのです。歩兵が、文字通り歩いて越えるしかありません。ここで当然問題になるのは「補給」です。どうやって、前線部隊に武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか?

 補給畑の将校は、連日のように知恵を絞って考えました。そして得られた結論は、「不可能」でした。

 しかし、この作戦は強行されたのです。1944年3月、10万の将兵が、ビルマ-インド国境に殺到したのです。

 どうしてこんなことになったのか。強烈な個性を持った一人の将軍が登場します。牟田口廉也です。
 
 在ビルマ日本軍の編成は、次のようでした。

 東南アジア方面を統括するのが「南方軍」。寺内寿一元帥がヘッドです。この人は、親の七光りでのし上がったキャリア君で、実務の事にまるで興味ありませんでした。シンガポールで、美食と観光三昧の生活を送っていたそうです。

 その下に、「ビルマ方面軍」があり、ヘッドは河辺正三中将でした。

 その下に、「第15軍」があり、これがインドのイギリス軍と対峙していたのです。ここのヘッドが牟田口廉也中将でした。そして、河辺と牟田口は、親友の関係だったのです。

 インパール作戦をやりたいと言ったのは、牟田口でした。彼は、「軟弱なイギリス軍など、あっというまに倒して見せる」と豪語しました。だから、歩兵の携帯用食糧だけで十分で、補給の事を考える必要が無いというわけです。

 補給の専門家は、一人残らず反対しました。しかし、彼らの意見は黙殺されてしまったのです。日本軍は、補給を軽視する伝統があり、補給畑に行く人は、だいたいノンキャリアでした。キャリアがノンキャリアをバカにするのは、当然のことなのです。

 河辺は何と言ったか。「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」と言ったのです。明らかに、職務に情実を挟んでいたわけです。

 寺内は何といったか。「良きに計らえ」でした。

 東京の東条は何と言ったか。「やれるならやりたまえ」でした。彼は、インドの亡命政治家チャンドラ・ボースを利用して、政治的なプロパガンダを打ちたがっていました。すでに、捕虜となったインド兵を中心に、インド解放軍を編成させていた彼は、「日本軍のインド侵攻」に、甘い夢を見たい気分だったわけです。

 こうして、十分な検討もなされぬまま、作戦はノリと勢いのみで走り出したというわけです。

 もっとも、牟田口は、彼なりに画期的な補給作戦を案出して見せました。「ジンギスカン作戦」です。すなわち、ビルマの民衆から大量に牛を徴発して、これに荷物を運ばせようというのです。兵隊は、腹が減ったら牛を殺して食えば良いというのです。牟田口は、「これぞ一石二鳥」と、悦に入っていたようです。古のジンギスカンの故事に学んだつもりで、己の教養をひけらかしたといいます。

 牟田口は、牛という生き物を見たことが無いのでしょうか?牛は、背中に重い荷物を背負ったまま大河を泳いだり、険しい山道を進むことが苦手な動物なのです。仮に平野ばかりを進んだとしても、あの足の遅さでは、足手まといにしかならないでしょう。だいたい、実際の歴史上のジンギスカンは、牛ではなく羊を連れて草原地帯を進軍したのですから、状況が全然違うのです。

 案の定、「ジンギスカン作戦」は失敗に終りました。チンドウイン河で牛の半数が溺れ死に、残りの半数も山道を進むことができずに、放棄されたのです。

 それでも、牟田口は意気軒昂としていました。彼は、幕僚にこう語ったといわれています。「日本人は、もともと農耕民族で草食動物なのだ。ジャングルの中で草を食えば、補給などいらぬのだ!」

 無知蒙昧と不見識も、ここまで来ちゃうと芸術的ですが、受験勉強で成り上がったキャリアの中には、現代でもこういうのがウジャウジャいます。実に恐ろしい事です。

 ともあれ、日本軍は良く頑張りました。アラカン山系を突破して、インパールの街を、北、東、南の三方から包囲したのです。インパールは山間の盆地なので、陸上の連絡路は、北方のディマプールに延びる一本道しかありません。佐藤中将の第31師団は、この道を遮断し、コヒマ部落でイギリス軍を大いに苦しめました。コヒマの戦いは、イギリスで出版される戦史物で、必ず詳説されているそうです。それほどに、激しい戦いだったのでしょう。

 佐藤師団が、コヒマでイギリス軍を食い止めている間に、残りの2個師団が、補給切れになったインパールを占領する手はずでした。しかし、この計画は失敗に終りました。なぜか?インパールが補給切れにならなかったからです。制空権を完全に掌握していたイギリス軍は、空から飛行機で補給物資をこの街にドシドシと送り込んだのです。日本軍首脳部は、このような事態を、まったく想定していなかったというわけです。

 こうして、先に補給切れに陥ったのは日本軍の方でした。日本軍の大砲は、5月の段階で、一日に一門当たり3発の砲弾しか発射できなかったそうです。この時点で、作戦の失敗は明白になっていました。

 しかし、牟田口はそれを認めようとはしませんでした。インパール攻略に苦戦する2個師団を「軟弱」と決め付けて、師団長を2人ともクビにしてしまったのです。そして、神社(日本は、占領地域に神社を造りまくっていた)に立て篭もり、毎日、奇声を上げながら水垢離していたそうです。総司令官が神頼みでどうする!

 こうしている間に、前線の日本軍は、まさしくジャングルの草を食って生きている状態になってしまいました。彼らはもちろん、補給を送るように後方に督促したのですが、牟田口司令部は、「もうすぐ届く」などと嘘をつきまくっていました。実際には、何もしていなかったし、やりようも無かったのです。

 いつしか7月に入り、雨季が到来しました。この辺りのジャングルは、雨季になると疫病の巣と化すのです。骸骨のように痩せ衰えた日本兵は、次々に病に倒れていきました。

 コヒマの佐藤師団は、銃剣で戦車に渡り合うという苦境に陥っていました。補給は一向に行なわれず、このままでは全滅です。彼は、悲痛な決断を余儀なくされました。「抗命」です。彼は独断で、全部隊を撤退させてしまったのです。これは、日本陸軍発祥以来の大事件でした。

 牟田口は、これを理由にインパール作戦の中止を言い出しました。部下が背いたから負けたのだ、という言い訳が出来るからです。

 その間、河辺はどうしていたのか?牟田口の心境を考えると気の毒なので、何も言い出せずに、優しく彼を見守っていたのです。友達としては立派なのかもしれませんが、組織の長としては無責任ですね。

 日本陸軍は、機能的組織ではなく、単なる共同体と化していたのです。

 10万の日本軍将兵のうち、無事に生還できたのは3万人でした。残りの殆どが、飢えと病で帰らぬ人となったのです。日本軍の退却路は、死体の山が散乱したことから、「白骨街道」と呼ばれました。

 さて、生還した佐藤師団長はどうなったのか?彼は、日本刀を引っさげて牟田口司令部に乗り込みました。「叩っ斬ってくれるわ!」という剣幕だったそうです。このときは、牟田口が逃げ回ったので、何事も無く済みました。佐藤は、軍法会議で死罪になることを覚悟していました。ただ、その裁判の壇上で、牟田口や河辺の「犯罪」を弾劾してやろうと準備していたそうです。しかし、軍法会議も裁判も行なわれませんでした。なぜか?佐藤中将は、「精神病」という事にされたのです。別に、佐藤を庇ったわけではありません。佐藤の責任を追及すると、牟田口や河辺をはじめ、みんなが責任を問われるでしょう?それが厭だから、「事故」ということにして「無かったこと」にしちまったのです。

 最前線で倒れた兵士たちは、まさに「死に損」でした。

 無責任な庇い合いの馴れ合い組織。現代の日本でも随所に見られる光景です。

 インパールの悲劇を、決して無駄にしてはいけないと思います。二度と同じ過ちを繰り返してはならないのです。

 我々は、歴史の悲劇を、より深刻に受け止める必要があるのです。