第七話 ガダルカナル戦

 

 さて、ガダルカナル島のお話です。

 どこにあるのか?一応、ソロモン諸島の首都です。ニューギニアから南東方面に数珠繋ぎになっている島の、かなり東端です。

 どうして日本軍がここに進出したのか?この辺りの島は、濃いジャングルに覆われているのが普通なのですが、ガダルカナル島(以下ガ島)の北部だけには平野があったので、ここに飛行場を造れるのです。ここに飛行機を置けば、アメリカとオーストラリアの交通網を遮断して、積極的にはオーストラリアを兵糧攻めにできるし、消極的にはオーストラリアを策源地とする敵の反攻を遅らせられると踏んだわけです。

 ただ、日本軍は、アメリカの反攻開始時期を1943年以降だと思いこんでいたので、この島には飛行場の設営隊がいるだけで、防備が非常に不十分でした。

 1942年8月、戦艦と空母に護衛された1万人のアメリカ海兵隊が、突如としてこの島に押し寄せてきました。目障りな日本軍の前線基地を潰そうと考えたのです。油断していた日本軍は、なすすべもなく島の奥地へと敗走し、完成したばかりの飛行場は敵手に落ちました。

 これが、太平洋戦争最大の激戦の幕開けだったのです。

 日米両軍とも、まさかあれほどの地獄図会が展開されようとは、この時点では夢にも思わなかったでしょう。

 最寄の日本軍基地は、ニューブリテン島のラバウル港でした。ここに駐留していた日本の巡洋艦艦隊は、夜陰に紛れてガ島に接近し、巡洋艦を中心とするアメリカ艦隊に奇襲をかけました。この「第一次ソロモン海戦」は、日本軍の大勝利となりました。ガ島沖は、沈没したアメリカ艦で埋め尽くされ、取り残された米兵は恐怖に震えたのです。この翌朝、ラバウルから飛び立った日本の爆撃機編隊は、生き残ったアメリカ艦を痛めつけました。

 ここで、アメリカ軍が首をかしげたのは、日本艦隊も爆撃機も、肝心かなめのアメリカの輸送船を、無傷のまま放置した点です。このおかげで、ガ島の海兵隊は、十分な武器弾薬や食糧を無事に揚陸し、確保できたのでした。

 一方、日本軍は己の戦果に慢心しました。「アメリカは、きっと偵察に来たのだ。そして、海戦に敗れて意気消沈し、逃げようとしているに違いない」と思い込んだのです。

 そこで、わずか数千の陸軍部隊(ミッドウェーを占領し損ねて暇していた一木支隊)を夜陰に乗じて送り込み、一気にアメリカを叩こうと考えたのでした。

 この兵団は、重火器を海岸線に置き去りにし、小銃だけ持ってアメリカ軍に突貫し、そして圧倒的多数、圧倒的火力のアメリカ軍に待ち伏せされ、全滅状態になったのです。「アメリカ軍が逃げ腰だ」といういい加減な情勢判断に惑わされたゆえの悲劇です。

 メンツを潰された日本陸軍は怒り、何が何でもこの島を奪い返そうと考えました。

 海軍は海軍で、ミッドウェーの屈辱を晴らすチャンス到来に小躍りしました。空母2隻を中核とする南雲機動部隊は、敵空母との決戦を求めて南洋に進出したのでした。これは、早期決戦を志向する山本長官にとっても渡りに船でした。

 陸軍と海軍は、それぞれ別の思惑でアメリカと決戦しようと考えたのです。

 対するアメリカは、まさか日本軍がこれほど本気になるとは思いませんでした。しかし、島の守備隊を見殺しにするわけにはいかず、積極的に挑戦を受けて立ったのでした。

 こうして、陸海空の3面で、立体的な戦闘が開始されたのです。

 日本海軍は、ミッドウェーの教訓を生かして、たいへん健闘しました。二つの目標を同時に追わないわ、索敵は十分に行なうわ、小型空母を囮に使うわ。

 アメリカ軍は、空母ワスプ、ホーネットを失い、エンタープライズは傷だらけになるし、サラトガは大破するわで散々だったのです。ガ島を放棄しようかと悩むこと、二度に及んだのでした。

 しかし、結局アメリカが勝ったのは何故か?理由は簡単なのです。日本海軍は、敵空母は追いまわすけど、敵の輸送船を無視していたのでした。

 逆に、アメちゃんは、敵空母は無視しても、律儀に日本の輸送船を沈めて回ったのです。

 ガ島の上では、完全武装で元気一杯のアメリカ軍に対し、日本軍はハラぺコの病気持ち(マラリア、赤痢、テング熱)の上、武器弾薬はいつでも不十分なのでした。

 どうして日本軍が補給に無関心だったのか?結局、日本本土付近での短期決戦のみを戦略の前提にしていたので、敵の補給をどうするかなんて、考えるだけ無駄だと思っていたのです。

 なにもかも、大所高所に立って国家戦略を考える人材がいなかった事が原因なのです!

 悲劇を更に拡大したのは、陸軍省の不見識でした。前線の兵士たちが、武器弾薬の枯渇や食糧不足を訴えても、東京に座すキャリアどもは、「根性が足りん」「敵の食糧を奪えばいいじゃん」などと、訳のわからぬことをほざいて、有効な対策を立てようとはしなかったのです。

 現場を知らぬキャリアがもたらす悲劇。この傾向は、ますます拡大していくのでした。


 さて、ガ島の戦局も終盤に向かったところで、少し欧米のエリートと日本のエリートの違いについて考察して見たいと思います。というのは、あの戦いの勝敗を決したのは、戦争指導者の資質によるものだと考えるからです。

 まず、勝海舟の『氷川清話』を見てみましょう。

 老中「そちは、一種の眼光をそなえた人物であるから、定めて異国へ渡ってから、何か目をつけたことがあろう。詳しく言上せよ」

 勝「アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者は、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全く我が国と反対のように思いまする」

 勝のこの言葉は、現在の日本に当てはめても十分に成立すると思います。

日米のこの差はどこから来るかといえば、エリートというものに対する考え方の相違なのでしょう。

日本におけるエリートは、「社会的な権威のある人」です。家柄や財産、受験の成績や卒業した大学といった形式基準にクリアした人が、エリートと見なされるのです。つまり、その人の人生経験や能力といった実質的な部分は、あまり重視されないのです。

これに対してアメリカでは、形式よりも実質を重んじます。その人が、どのような人生経験をしてきたのか、どれくらい広い見識を持っているのか、どのような考え方をするのかを重視するのです。

 私自身も、外国人と接して、いろいろと考えさせられる事がありました。私は、前の会社にいたとき、5年間連続で、「社内英会話教室」に通っていました。ちゃんと、外人講師が来てくれる奴です。私はこういう性格なので、教室だけで付き合いが終るのが我慢できず、講師と積極的に仲良くなって、授業の後で一緒に飲みに行ったりしたのです。そこでプライベートな話をしていると、外国人と日本人の考え方の違いが良く分かりました。

まず、私の能力は「公認会計士」という肩書きだけでは評価されません。例えば、私が同じ会社に5年もいると知ると、講師(アメリカ人)は「君は体が悪いのか?」と聞いてくるのです。どういう意味かというと、アメリカのエリートは、若いうちに色々な職種を転々とし、経験と見識の幅を広げるものなのだそうです。エリートのくせにそういう努力をしない者は、「怠け者」か「身体障害者」のレッテルを貼られるのです。つまり、人間の能力を評価する上で、肩書きよりも経験を重視する伝統があるということです。私は、「怠け者」だと思われたのです。

また、別の講師(オーストラリア人)とは、こんな会話をしました。
 私 「オーストラリアって、どんな所ですか?」
 講師「日本と全く同じさ」
 私 「そんなことは無いでしょう」
 講師「いや、同じだ。人間よりも羊が多い」
 私 「え?」
 講師「日本人なんて、ほとんどが羊と同じじゃないか。メエメエ鳴いているだけで、自分の考えを持っていないから」

私は、カチンと来たので、激しく反論したのですが、内心では彼の言うことももっともだと思っていました。さて、議論をふっかけられた講師は、気を悪くするどころか大いに喜び、前よりも私に心を開いてくれました。欧米の文化圏では、自分の考えをしっかり持ち、それを表現できる者でないと評価されないし、下手をすると人間扱いすらされないのです。私は、ディベートの能力を評価されて、ようやく人間と認められたのでした。

 このように、アメリカのエリートは、人生経験の豊富さと能力を基準に評価されます。ビル・クリントンが、大多数のアメリカ国民からランクと思われていた理由は、おそらく彼がベトナム戦争を徴兵忌避した事にあるのでしょう。戦争がどうのこうのと言うよりは、若い頃に貴重な経験を積むチャンスをフイにした点が問題視されたのだと思います。

アメリカの大統領の中には、太平洋で日本軍と戦った人もいます。JFKは、魚雷艇の艇長として、ソロモン海で日本海軍と戦いました。彼の船は、日本駆逐艦「天霧」の体当たりを受けて沈没するのですが、JFKは、卓抜した判断力で、生き残りの乗員を全て生還させたのです。また、ジョージ・ブッシュ(もちろんパパの方)は、爆撃機のパイロットとして小笠原諸島で戦い、日本の高射砲によって撃墜されましたが、味方の潜水艦によって救出されたのでした。彼らのこのような経験が、大統領選で好影響を与えたことは間違いないでしょうね。

さて、我が日本はどうか?エリートの基準は、江戸時代までは門閥家柄でしたが、明治時代以降は、受験勉強の成績になりました。そして、この傾向は現代でも変わっていません。ここで注意すべきは、日本における受験勉強というのは、その人に能力を与えることを目的にしているのではないという点です。あくまでも、「権威」を与えるためのツールなのです。

だから、難解だけど実社会で役に立たない事が出題されるのです。例えば、大学の入試試験で、古文や漢文の文法を覚えたところで、学生生活や社会で何の役にも立たないでしょう?これが、日本の受験教育の本質なのです。そして、日本のエリートの多くは、この異常な本質に気付かずに、自分が偉いものだと思い込んでしまうのです。

しかし、言うまでもないですが、受験勉強の能力は人間の能力を表彰しないのです。私は、仕事柄、キャリアや東大卒と接する機会が多かったのですが、頭の良い人もいれば、どうしようもないバカもいましたね。どういう具合にバカかというと、要するに世間並みの一般常識が無いのです。人生の中で、受験勉強しかしたことが無いので、それ以外の能力が中学生レベルという人が少なからず実在するのです。こういう人は、想像力も状況判断力も応用力もありません。だけど、こういう人たちが、日本を実質的に支配していたりするのだから恐ろしい・・・。

太平洋戦争当時の日本のエリートも、これと同じ事でした。キャリア軍人は、士官学校での試験の成績と年功序列だけで昇進できる仕組みになっていましたから、教科書に書かれていることには詳しいのですが、具体的な実務の事を何も知らなかったのです。教科書に書いてあるとおりの事をすれば、戦争に勝てると思い込んでいたのです。

当時の士官学校の教科書では、何を教えていたのか?実は、「日露戦争」の戦術を教えていたのです。

「日露戦争」では、補給線の遮断があまり問題になりませんでした。実際には、日露両軍は、相手の補給を断とうとして奮闘したのですが、どちらも成功しなかったので戦訓から忘れ去られてしまったのです。海軍のキャリアが、敵の補給に無関心だったのは、「教科書に書いてなかった」というのが主な理由だったのでしょう。

陸軍はガ島で、歩兵の大軍にジャングルを突破して大きく南に迂回させ、敵陣の後方を襲わせる作戦を乱発しました。もちろん、大砲などの重火器は運べませんから、攻撃方法は銃剣突撃になります。迎え撃つアメリカ軍は、鉄条網に高圧電流を流し、地雷を山のように設置した上に、機関銃と大砲で待ち受けたのです。結果はどうなったか?ムカデ高地は「血染めの丘」と呼ばれました。もちろん、流れた血の90%は日本人の血です。しかし、市ヶ谷の会議室に座す陸軍のキャリアは、この無謀な作戦を再三に渡って現場に強制させました。現場指揮官の中には、「戦争は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」と言ったかどうかは分かりませんが、ボイコットする者も出たのですが、敵前で更迭されてしまいました。

どうしてキャリアは、勝ち目の無い無謀な作戦に拘ったのか?それは、「迂回してからの銃剣突撃での夜襲」というのが、学校教科書での金科玉条のキーワードだったからです。「日露戦争」の日本軍が、この戦術で勝ちつづけたからです。彼らは、戦争の技術が日進月歩で進むという事が分からなかったようですね。

第二次大戦の主要国の戦争指導者たちは、ルーズヴェルト、チャーチル、ヒトラー、スターリン、蒋介石、みんな下積みの軍務を経験した者たちです。だから、現場の事が良く分かるのです。しかし、日本軍のキャリアには、そんな人はいなかったのです。

本当に気の毒なのが、現場の兵士たちです。飢えと病気で倒れ、身動きするのがやっとの状況に陥った上、さらに非現実的な作戦を強要されるのです。アメリカの小説「シン・レッドライン」では、この恐るべき状況が克明に活写されています(テレンス・マリックの映画版は詰まらなかったけれど)。

 さすがに、戦局の停滞に頭を悩ませた陸軍キャリアは、現場の様子を観に行くことにしました。辻政信が、ガ島の土を踏んだのです。辻は、予期せぬ惨状に戦慄しました。3万の兵士のうち戦死者は数千なのに、餓死者が2万という数字の意味が、初めて理解できたのです。

 1943年1月、日本軍の撤退が始まりました。

 この過程で、日本海軍の損害も急増していました。陸軍を揚陸するために輸送船の代わりに駆逐艦や潜水艦を用いたため、これらの艦船が敵に狙われて大きな損害を受けたのです。また、敵の飛行場を砲撃しようとした(巡洋)戦艦霧島と比叡が、アメリカ艦隊の待ち伏せを受けて撃沈されました。日本空母の艦載機も、度重なる空中戦の連続に大きく損耗していました。

 ガダルカナル戦全体では、沈んだ船の総トン数は、アメリカのほうが多いのです。しかし、国力差を考慮に入れれば、日本軍の惨敗といっても良い結果に終ったのでした。

 そして、アメリカ軍の本格的な反攻が始まったのです。