2.盧植塾

 

盧植は、いわゆる清流派の士大夫であった。

漢帝国は、儒教を国教とし、儒教道徳による統治を国是としていたので、高級官僚は全て儒学の大家でなければならなかった。そして、そのような高級官僚を士大夫といった。

しかし、帝国も末期になった近頃では儒教道徳は形骸化し、爛熟し腐敗した宮廷では、熾烈な権力闘争や汚職が日常茶飯事となっていた。

盧植の属する清流派とは、皇帝に取り入り権勢におぼれる宦官や外戚(皇后の一族)の横暴に反対する士大夫集団である。宦官は、皇帝の妻たちの住む後宮を管理するため去勢された役人のことであるが、皇帝や皇后に容易に接近できるため、強大な権力を握りやすい。漢帝国の歴史は、この宦官と外戚間の政権闘争の歴史と言っても過言ではない。清流派は、この両者を濁流と呼び、彼らを排除することで腐敗した政治を建て直そうと動いていたのである。

この当時は、十常侍と呼ばれる宦官一派が、政権を我が物としていたのだが、彼らを打倒しようとした清流派官人たちは、逆に謀反の罪をなすりつけられ、その多くが処刑され追放された。これが、いわゆる「党錮の禁」である。

盧植は、この政変の犠牲者であった。中央を干されて、地方に落ちてきたというわけ。彼が私塾をひらく気になったのも、地方から多くの清流を汲み上げ、反撃の準備を進めるためであった。

劉元起は、このあたりの事情を薄々と察していたが、いずれにせよ劉一族に出世の機会が巡ってきたことに変わりはない。彼は、息子の徳然と甥の劉備を盧植塾に入れる手配をした。

「お気持ちはとても嬉しいのよ、だけど・・・」劉備の母は、眉を寄せた。

「学費のことなら心配いらぬ」元起は笑顔で言った。「俺が全部出してやる」

「そんな、それじゃあ悪いわ・・・」

「何を言う。これはお前一家のためじゃあない。我が一族のためなのだ。後はお前が、働き手の抜けた厳しさにどこまで耐えられるか、だ」

「・・・あたしは、阿備のためなら、なんだって耐えられるわ」

「そうとも、その意気だ」

こうして劉備は、故郷を離れて盧植塾の門下生となることに決まったのである。

 

劉徳然は、幼馴染の劉備がそれほど好きではなかった。この感情は、父の元起が従兄弟に異常に肩入れしていることへの嫉妬だったかもしれない。徳然の母は、そのことで良く元起と喧嘩していた。

 「うちだって、そんなに豊かじゃないのよ」

 「阿備は只者ではない。お前も今に分かる」

 この父の言葉を聞いて、徳然は発奮した。従兄弟以上に勉強して、父を見返してやるんだ。

 ところが、こんな徳然の気持ちは、軽くかわされた。

涿郡の盧植塾は、多くの若者たちで一杯だった。みんな出世を夢見て、盧植先生の儒教講話に耳を傾けて熱心に勉強したのである。

ところが劉備は、授業に出なかった。彼は、儒教の世界にはまったく興味がなかったので、こんな事を学ぶのは、時間の無駄だと考えたのだ。

「道徳や孝行や忠義を習得しても、英雄にはなれっこない」

そう考えた劉備は、町の雑貨屋で古びた刀を買ってくると、授業を抜け出して一人で剣技の特訓をする日々を送ったのである。

 「白い大蛇が現れたら、一刀両断にしてやるんだ」

 いつものように町外れの林の中で黙々と剣を振るう少年は、ふと人の気配を感じて背後を振り向いた。

 そこに立っていたのは、鷲のように鋭い目をした胸板の厚い青年だった。青年といっても二十歳くらいか。上等な絹の服を着ている。

 その青年は、上から下まで劉備を眺め渡すと、太い声で言った。

 「おめえ、何やってんだ」

 もろ脱ぎの肌を汗でぬらした劉備は、悪びれずにその青年に向き直った。

 「見てのとおり。あんたは誰だい」

 「俺を知らないのか」青年は薄く笑顔を浮かべると、厚い胸を張って言った。「俺の名は遼西の公孫瓉。盧植塾の塾頭だ」

 「ああ、どっかで見た顔だと思った」

 「言うことは、それだけか」

 「うん」

 「・・・先生が、おめえに会いたがっている。立腹していらっしゃるぞ。やっぱりこんなところで油を売っていやがったな」

 「油なんて売ってない」劉備は、塾頭を睨んだ。「これが俺の勉強なんだ」

 「なまくらを振り回すのが勉強だあ?」公孫瓉は吹き出した。「おめえ、基本が全然なっとらんぜ」

 「あんた、武芸に詳しいのか」劉備は、その目を輝かせた。

 「あたぼうよ。遼西の公孫家は、代々武門の家柄だ」

 「俺に、武芸を教えてくれないか?」人懐こい目で見る。

 「おめえが・・・なんのために?」

 「俺は、英雄になりたいんだ。まずは武芸から始めたい」

 「英雄だって・・・」公孫瓉は、険しい表情で、劉備の全身をゆっくりと眺め渡した。「おめえ、変わった奴だな」

 「だめなのか」少年は、小首をかしげた。

 「いや」公孫瓉は、唇をほころばせた。「面白いやつめ。体がでかくて手が長いから、撃剣ならうまくなりそうだ。いいとも、教えてやる。その代わり、授業にはちゃんと顔を出せ。俺の立場というものもある」

 「ありがとう」劉備は、にこにこして頭を下げた。

 「その前に、先生がお会いになる。俺についてこい」

 「分かったよ、兄貴」

 「兄貴か、なれなれしい奴よ」公孫瓉は、愉快そうに笑った。「まあ、いいだろう」

 劉備は、兄弟子に連れられて盧植塾に向かった。

盧植塾は、涿郡の役所内の一室にあった。生徒は、全部で五十人くらいだろうか。劉備がやって来た時は、ちょうど昼の講話が終わったところで、生徒たちがぞろぞろと外へ出てきていた。その中には、従兄弟の徳然の姿もあった。

「阿備」徳然は、駆け寄ってきた。「今までどこにいたんだよ。お前が一向に勉強しないという噂を聞いて、俺の親父が怒っているぞ」

「ああ」劉備は、無表情で徳然の目を見た。「代わりに謝っておいてくれ」

徳然は、憮然として溜息をついた。従兄弟が、とうとう非行に走ったのだと思って切なくなったのだ。

そんな従兄弟の気持ちも知らず、劉備は兄弟子に聞いてみた。

「やっぱり、先生に会わなきゃいけないか」

「俺様に武芸を習いたいのなら、文句はなしだ」

「・・・分かったよ」

先生は、教室で待っていた。

盧植は年のころ四十半ばだろうか。紺色の礼服を身にまとい、黒い顎髯を撫でながら、教卓の上から不肖の教え子をじっと見つめた。

 「こいつは英雄になりたくて、町外れの林で武芸の練習をしておりました」公孫瓉が、かいつまんで経緯を話した。

「英雄・・・武芸・・・」盧植は、物珍しげに大柄な少年の全身を見やった。

劉備は、何やら居心地が悪くなって尻を掻いた。

「惜しいことだ」盧植は、ぽつりと言った。

「・・・なんですか」

「君は、あたら優れた才能を持ちながら、それを無駄に捨てようとしておる」

「どういう意味でしょうか」劉備は、先生の藪にらみの目を見やった。「僕には、きれいごとを机の上で覚えることが、世のためになるとは思えないのです」

「ならば問う」先生は、鋭く言った。「英雄とは何か」

「それは・・・世の乱れを平均し、民を幸せにする者です」

「それは、乱世の英雄であろう」盧植は、髯を撫でる手を休めた。「今は、治世の英雄が必要な時代である。治世の英雄は、剣ではなく、儒の力で世の不正を懲らす者でなければならない。君は、治世の英雄になる資質を持ちながら、それを捨てるつもりか」

「儒が、どうして悪を懲らす力になるのでしょうか」劉備は、身を乗り出した。「僕には分かりません」

「儒は、この世の理ぞ」温厚な先生も、さすがに語気を強めた。「君も知ってのとおり、ここ数年の凶作で、民は飢え、流民が大勢出ておる。これらの流民は、豪族の所領に逃げ込み、国に対する租税義務から逃れおる。この結果、国の財政は急激に悪化し、軍隊の維持すら難しくなっておるのだ。天子(霊帝・劉宏)は、官職を豪族層に売って金に替えることで、この危機を乗り越えようとしておられるが、それだけではとても足りぬ。なぜなら、宮中に侍る宦官どもが私利私欲にはしり、国の財産を食いつぶしておるからだ。この濁流どもは、儒の理を忘れ、国を破滅の危機に追いやろうとしている。分かるか」

「は、はあ」劉備は、目を白黒させた。

「奴らを打倒し、帝国の屋台骨を立て直さなければならぬ。よいか、そのために、いっそう儒の理を明らかにし、理の力で世を覆うのだ。これこそが、治世の英雄のなすべきことぞ」

「治世の英雄ですか・・・」劉備はうなだれた。

何か釈然としないものを感じながらも、先生の憂国の思いに深く感じ入った劉備は、この翌日からなんとなく授業に出るようになった。

 儒の講義は相変わらずつまらなかったが、士大夫教育の必修科目である乗馬は、若き劉備を夢中にさせた。また、公孫瓉が教えてくれる剣術にもご機嫌だった。要するに、劉備は、部屋で講義を聞くのが嫌いな男だったのである。