23.徐州の失陥

 

建安五年(二〇〇)正月、曹操は非情な決断を余儀なくされていた。

董承を初めとする廷臣たちの粛清である。

この行為は、漢王朝の守護者としての曹操の政治的立場を危うくする。しかし、彼らを生かしておくことは、これからの決戦において大きな障害となるだろう。

董承、王子服、仲輯、呉子蘭とその一族七百余名は、刑場に引き出されて斬首された。罪状は、国家反逆罪である。犠牲者の中には、身重な皇后(董承の娘)も含まれていたという。

この事件は、曹操の度重なる挑発に怒りを募らせていた袁紹陣営に、恰好の大義名分を与えることになった。

「曹操は、天子を束縛する逆賊と決まった。曹操を打ち滅ぼして、漢王朝を救うのだ」

河北四州を掌握する袁紹軍は、北方異民族の騎馬戦力も加え、極めて強力な戦闘力を有していた。また、袁家の名声は多くの人材を引き付けており、智謀の田豊、沮授、許攸、荀ェ。武勇の顔良、文醜、張郃、高覧、韓猛。そして軍政の審配、逢紀、郭図、辛評など、名を列挙するのが不可能なほどの人材大国なのであった。さらに、袁紹の三人の息子・袁譚、袁熙、袁尚、そして甥の高幹は、いずれも経験豊富な軍司令官である。

これらが大挙して押し寄せてくるとなれば、曹操の苦戦は必至である。

しかし、曹操は、その主力軍を最初に東に向けることにした。

「どうしてですか」居並ぶ諸将は驚いた。「今、殿と天下を争う敵は袁紹ですぞ。それを放置して東へ向かうと仰るが、その間に袁紹が南下してきたらどうなさるのですか」

「東の劉備は人傑だ。これを放置しておけば後の災いとなる。奴の勢力が固まる前に撃破するべきだ。一方、北の袁紹は、大きな志を持ってはいるが、機を見るに敏ではない。きっと行動を起こさないだろうよ」曹操は言い放った。軍師の郭嘉も、主君の意見に賛同した。

こうして曹操軍三万は、全速力で徐州に向かったのである。

劉備は、まさか曹操が自ら攻めてくるとは思っていなかった。

「曹操でなければ俺は倒せない」部下に向かって日ごろから豪語していた劉備は、件の曹操の大軍が接近中と聞いて、大きな耳を疑った。

「嘘だ、信じられない」徐州の主は呆然とした。「袁紹を放ってこっちに来るなんて非常識だ」

「兄貴、とにかく出陣しようぜ」張飛は、義兄の袖を引いた。「この目で真偽を確かめようじゃあないか」

かくして劉備は、張飛や陳到、そして袁紹が派遣した騎馬軍の援将・夏侯博を連れて、二万の兵力で出撃した。

豫州州境の小高い丘に達した劉備軍本陣は、地平のかなたから接近してくる砂埃を見つめた。やがて出現する雲霞のごとき大軍。その中軍には、明らかに『帥』の旗が翻っていた。

「間違いない。あれは曹操だ」劉備は愕然とし、そして狼狽した。

曹操本陣の接近は、小沛の将兵たちの士気を大いに落とした。彼らの大将は、常日頃、曹操でなければ俺には勝てぬ、と豪語していた。ということは、曹操が来たら勝てないという意味ではないか。

「これは無理だ。下邳に逃げて雲長と合流しよう」

戦う前から敗北と決め付ける、気弱な大将である。

そして、敵に後ろを見せて逃げる軍隊は、もっとも脆弱な状態となる。

兵法に熟達した曹操は、そのような敵を見逃しはしなかった。精鋭騎馬軍を選抜して陣頭に置くと、全速力でこれに追撃戦を行なわせたのである。

劉備軍は、たちまち蹴散らされて大混乱となった。援将・夏侯博は一戦の後に捕虜となった。一足先に逃げ出した劉備と張飛は、城を捨てて北方に走った。後に残した軍勢は壊滅し、小沛城は陥落し、劉備の家族はまたもや敵の手中に落ちたのである。

下邳の関羽は、小沛落城の報に大いに驚いた。逃げ込んでくる敗残兵の中には、義兄弟の姿は見当たらない。

「まさか、みんな死んだのではあるまいか」一抹の不安を胸に抱きながら、美髯の武人は兵馬を整える。

雲霞のごとき大軍は、数日後には城下に達し、下邳を十重二十重に取り囲んだ。

「それにしても、袁紹は何をしているのだ」関羽は、真っ赤な顔を紅潮させた。「俺たちが、命懸けで囮になってやっているのに、眠っているんじゃあるまいな」

彼の疑いは、ほぼ正しかった。袁紹軍は、総大将の幼い末子が急病にかかったため、河南への進撃を延期していたのである。

「子供の病気くらいでなんですか」参謀の田豊は、激怒して、杖を大地に叩きつけた。「千載一遇の機会じゃないですか」

しかし袁紹は、参謀の言うことを聞き入れずに好機を逸したのである。

かくして、下邳城は絶体絶命となる。

窮した関羽のもとに、曹操の軍使がやって来た。軍使は、張遼だった。

「久しぶりだな、文遠」関羽は、城門の脇で旧友を出迎えた。「今日は、何の用だ」

「君のために、降伏を勧めに来たのだ」張遼は、真摯な眼差しを注ぐ。「君の主、劉備どのは、張飛らとともに北方に逃亡した。東海の昌覇も、我が別働隊に打ち破られた。もはや君は孤立無援だぞ」

関羽は、それを聞いて安堵した。兄弟たちが生きていてくれるなら、自分はまだ独りになったわけではない。

「・・・兄者や義弟たちの家族はどうなった」

「劉備どのと群臣の妻女は、我が軍の捕虜となっている。彼らを生かすも殺すも、君次第というわけだ」

「そうか」関羽は大きく頷いた。「兄者と益徳の所在が分かったら、捕虜となった家族を送り届けてあげてくれないか。それが降伏の条件だ」と、寂しげに笑う。

喜色を浮かべる張遼。

こうして徐州は、曹操によって再び平定されたのである。劉備の反乱は、わずか三ヶ月で粉砕されたことになる。

そのころ、劉備と張飛は、わずか二騎になって北へと走りつづけた。袁紹領の青州に逃げ込めれば、命は助かるはずだ。

いつしか日は落ちて、乗馬は疲労困憊してその口から泡を吹く。

二人は、崩れ落ちるように馬から降りて、草原に横たわった。全身に滲む汗は、寒風を浴びてたちまち冷たくなっていく。

「雲長兄貴は、無事だろうか」張飛は、ようやく口を開いた。

「袁紹が黄河を渡れば、曹操は兵を退かざるを得ない。そうならなきゃ絶望だ」劉備は、荒い息の中で答える。考えてみたら、彼は今年で四十だ。いつまでも無理の利く体ではない。

「ちくしょう。どうして、こんなことになったんだ」

「俺のせいだ。曹操の能力を侮りすぎた」

「これからどうなるんだ」

「分からない」劉備は、兜を脱いで、草の香りを鼻腔いっぱいに吸い込んだ。

良かった、まだ生きている。劉備の心は、生の実感に満たされた。

ここ数日、呂布の夢ばかり見ていた。太い縄で絞め殺され、舌を伸ばし、飛び出した眼球を向けてくる醜い死体。その顔は、夢の中では、途中で劉備に変わるのだ。決まって、そこで目が醒める。全身、汗まみれになって。

だが、呂布は死んだ。自分は、まだ生きている。命さえあれば、何とでもなる。

次に劉備は、昨年の沛城陥落の状況を思い起こした。あのときも、張飛と二人で野山を逃げたのだった。

「なあ、益徳」

「なんだ」

「今度は、もうどこへも行くなよ」

「ああ。ずっとそばにいるよ」

「きっとだぞ」

「きっとだ」

いつしか二人は、身を寄せ合って眠りに落ちていた。劉備は、呂布の夢を見なかった。

 

一月下旬、乞食のような風体となった二人は、ようやく青州に入ることができた。

青州刺史の袁譚は、かつて劉備が推挙した茂才だったので、大喜びで敗残の将を迎え入れたのである。

「良くご無事で。父ともども、心配しておりました」袁紹の長男は、人好きのする好青年だった。精一杯の手配りで二人をもてなすと、劉備無事到着の報を各地に喧伝したのである。

この結果、敗戦で散り散りになっていた将兵は、主の所在を知って続々と青州に参集を始めた。その中には、簡雍、孫乾、麋兄弟、陳到、劉琰の姿もあった。

二月初旬、再び五千の兵の大将となった劉備は、袁譚に伴われて袁紹の元へと向かった。北方の王者は、黎陽の本陣から二百里先までわざわざ馬車を駆って出迎えてくれた。

「これは、わざわざ。もったいない」

馬から降りて挨拶する劉備を、袁紹は優しく抱きかかえた。

「遠路ごくろうだった。左将軍よ、これから共に戦おうぞ」

袁紹は、亡命の客将を大いに歓待したのである。劉備は、今や宮廷クーデターグループの最後の生き残りであるから、彼を優遇すれば漢朝救済の大義名分が強調されるからだ。

袁紹は既に、部下の陳琳に命じて曹操討伐の檄文を書かせ、これを全国各地に発していた。この文章は稀に見る名文で、曹操の出自の卑しさに始まり、朝廷をないがしろにするその非道さや、袁紹から昔受けた恩を仇で返す非情さ、そして多くの人々を大量殺戮する残虐さについて、これでもかとばかりに書き連ねている。これを読んだ曹操が、「俺は自分が嫌いになったよ」と、冗談交じりに言うほどの出来だった。曹操は、後に陳琳を捕らえたとき、その命を助けて大いに優遇する。彼の類い稀れな文章力を愛したからであるが、それは後の話。

さて、大義名分と檄文に煽られて勇気百倍の袁紹軍は、十二万の大軍で一挙に黄河を押し渡ろうとした。

しかし、これには反対論もあった。

軍師の田豊は、全軍の一斉渡河に反対したのである。

「曹操が、その主力で徐州を攻撃している最中であれば、この作戦は成功したでしょう。しかし、曹操が帰還して防備を固めた今となっては困難です。むしろ、全軍を三つの軍団に分割し、それぞれに曹操領の各地を一撃離脱で攻めさせて、敵を奔命に疲れさせるべきです。このような戦いを三年も続けていれば、さしもの曹操も疲弊して、我が軍門に降ることでしょう」

これは、見事な作戦であった。曹操は、袁紹と違って腹背に敵(孫策や劉表)を抱えているから、長期の消耗戦に持ち込まれれば不利になるのである。

しかし、郭図と逢紀は、田豊の案に反対した。その理由は、「辛気臭いから」であった。必勝の戦略は、彼らによって叩き潰されたのである。

もともと、袁紹の勢力は、複数の派閥間の激しい抗争にさらされていた。

人材を愛する袁紹は、優秀な士大夫や豪傑を多く揃えることには成功したが、彼らの人間関係を調整する能力を持っていなかった。また、袁紹軍には、派閥抗争を抑える能力を持つ飛びぬけた人材が育ちにくい風土があった。なぜなら、猜疑心の強い袁紹が、自分よりも優秀な人材を嫌うからである。飛びぬけた人材が現れた場合、わざと低い地位につけるか、ひどい場合には殺してしまうのである。例えば、公孫瓉との抗争に大活躍した麴義は、態度が悪いとの理由で、昨年中ごろに誅殺されていた。また、監軍(総軍司令官)の沮授は、その権力が強すぎることを警戒されて、昨年末にその地位を剥奪されていた。

そして、田豊の運命は窮まった。彼は優秀な士大夫だったが、それゆえに主君に警戒されていたからである。ライバルの郭図らは讒言を繰り返し、これを信じた袁紹は、田豊を「軍の士気を低めた」罪で牢に押し込めるという愚挙を敢えてしたのであった。

こうして袁紹陣営は、小粒の人材間の派閥抗争に足元を洗われながら、天下分け目の決戦に乗り出そうとしていたのである。

「大丈夫だろうか」客将の劉備は、この情勢を見て不安になった。「曹操のところの事情とは、随分違うようだが・・・」

不安を拭いながら戦闘準備に勤しむ劉備の軍営に、ある日ひょっこり、彼と張飛や群臣たちの妻子が馬車に乗って帰ってきた。

「鈴、媛」劉備は大いに驚いた。「どうして帰ってこられたの」

「雲長さまのお陰なのです」甘夫人は、落着いた口調で言った。「雲長さまが、あたしたちを逃がしてくれるよう、司空に口利きしてくれたのです」

「それで、雲長は・・・」青ざめる夫。

「許昌におられます。司空さまの配下になられました。それが、あたしたちを解放する条件だったのです」麋夫人は、そう言い終えるや、しくしくと泣き出した。

張飛は、愛妻を抱きしめながら呟いた。「よもや、雲長兄貴と戦場で戦うことはあるまいなあ」

「あいつが出てきたら逃げよう」劉備は、平然と言い放った。「弟と殺しあうまでの義理は、袁紹にはないぜ、俺は」

「でも、もうお別れなのかよ。俺には信じられないよ」張飛は、べそをかいた。

「あいつを信じよう」劉備は、語調を強めた。「何か考えがあるに違いない」

そういう劉備にも、何か具体的な確信があるわけではなかった。関羽のためを思うなら、許昌の朝廷のもとで安楽に出世したほうが良いのだから。

しかし、関羽には、そんな気持ちは毛頭無かったのである。

許昌に到着した関羽は、曹操によって下にも置かぬ丁重な扱いをされた。立派な邸宅を与えられ、多くの財宝と侍女たちに傅かれる生活が保証されたのである。

それだけではない。曹操は、関羽が秦宜禄の妻に惚れていたことを思い出し、都にいたこの女性を、関羽に娶わせるよう手配してくれたのである。

初めて一家を構えた関羽の胸は高鳴った。しかし、その情熱は数日にして薄れていった。新妻は、江南に逃れた前夫のことを想い続けて泣き暮らしているし、食べなれない豪華な食事や、使い慣れない財宝は、彼にとって煩わしいばかりであった。脳裏に浮かぶのは、劉備や張飛と過ごした無頼の日々。もはや、都にも妻にも未練が無くなっていた。

曹操は、関羽の人物と能力を高く評価していたので、鬱々と楽しまぬ彼の様子が気になった。そこで張遼を派遣して、関羽の本心を問いたださせることにした。

「雲長、俺は君の本心が知りたいのだ」関羽の邸宅を訪れた張遼は、単刀直入に切り出した。「曹司空は、君のことを深く想っているのだ。その気持ちに応えてはくれないか」

「曹公が俺を厚遇してくれるのは、本当にありがたいと思っている。だが、俺は劉将軍から受けた恩義を忘れることができない。俺と劉将軍は、一緒に死のうと誓い合った仲だ。二人の間には、他の誰にも分け入ることが出来ない堅い絆があるのだ。あの方を裏切ることは、俺には断じて出来ない」

「雲長・・・」張遼は、思わず居住まいを正した。

「俺は、ここには留まらないが、必ず手柄を立てて、曹公に恩返しをしてから去るつもりだ」美髯の人は、優しい眼で客を見た。

「雲長、俺は、君が羨ましい」張遼は、感に耐えない面持ちで言った。「君は、終生、義侠の絆を貫き通すことができるのだね。俺は、丁原どのとの間にも、呂布どのとの間にも、君と劉将軍の間に通うような絆を結ぶことができなかった。今の俺は、侠客の心を無くしたただの朝臣だ。君が羨ましい。本当に羨ましいよ」

屋敷を退出した張遼は、煩悶した。関羽の言葉をそのまま曹操に伝えたら、怒った曹操は関羽を殺してしまうかもしれない。かといって、報告を怠るのは臣下の道から外れてしまう。さて、どうしたものか。

張遼は、晴れた青空を見上げた。「司空は、君であり父である。雲長は、兄弟にすぎない」

決意を固めたこの武人は、主君にありのままを語って聞かせた。

意外なことに、曹操は怒らなかった。肩を落とし溜息をついて、こう言った。

「関羽は、天下の義士であるな」

「殿・・・」張遼は、顔を上げる。

「手柄を立ててから帰ると言ったのか。ならば、思う存分に働いてもらおうよ」

 寂しげな口調で遠い目をする曹操は、やはりただの人ではなかった。