27.荊州の劉表

 

劉表は、わざわざ襄陽郊外まで劉備たちを出迎えた。

年の頃は六十くらい。長身で堂々とした優しそうな男である。

「丁重なお出迎え、痛み入ります」劉備は、丁寧に礼をした。

「なあに、同族同士じゃ。遠慮は無用ですぞ」劉表は、人好きのする笑顔を見せた。

城内に導かれた亡命の将とその幹部たちは、歓迎の接待攻めにあった。

劉備が驚いたのは、この地には学者肌の士大夫が多いことである。ここには『襄陽学派』という儒学の潮流があり、劉表はそのパトロンをしているらしい。中原の戦乱で失われた文化を、この地で保護することが、荊州牧の生きがいなのだという。そのため、故郷を追われた学者や文化人が大勢集まってきていたのだ。

その一方で劉表は、劉備を『爪牙』、すなわち最前線の傭兵隊長として使おうと考えていた。つまり、建安初期の張繍と同じ役割を期待したのである。そこで、劉備軍を襄陽北方の新野に常駐させることにした。

「兄者、劉表をどう思いますか」関羽は、新野への道中で聞いてきた。

「難しい人物だな」劉備は、馬上で草の葉を噛みながら応えた。

「そうかねえ、優しそうな学者という感じだけど」張飛は、首をかしげた。

「それは外見だけさ。彼の目の中に時々光るのは、ありゃあ猜疑心だろう。俺たちが、謀反を起こすのじゃないかと警戒しているのだ」劉備は、草を吐き出す。

「あまり余計な動きをせずに、大人しくしていようぜ」簡雍は、主君の見識に賛成したようである。

「それに、足しげく襄陽にご機嫌伺いした方が良い。憲和と公祐は気に入られたようだから、俺と一緒に時々襄陽に行ってくれよな」劉備は、古参の仲間に優しい目を投げる。

「劉さんのためなら、水火も辞さねえ」簡雍は、冗談めかして答えた。

 

新野での生活は、比較的平穏であった。曹操は袁紹との戦いに注力しており、劉表はその情勢を観望する方針だったからである。

劉備は、新野で内政に励み治安を強化したため、彼の徳を慕う人々が大勢移住して来た。その兵力はたちまち一万を数え、侮れぬ勢力へと成長したのである。

劉表は、表向きは喜んでいたが、内心ではそんな劉備に不安を感じていた。

劉備も、海千山千の苦労人であるから、その辺の勘所は良く分かっている。暇を見ては簡雍や孫乾とともに馬車に揺られ、襄陽にご機嫌伺いに出かけた。

劉表は、酒宴よりも、士大夫を集めて学問の話をすることを好んだ。賓客として出席する劉備は、あまり学問には興味が無かったが、主の機嫌を損ねないように、笑顔を絶やさず拝聴するのだった。

劉表景升は、朝廷の連枝の中では最も優秀な清流士大夫であり、若い頃から八俊の異名を持っていた。その立派な容姿のお陰もあって出世も早く、何進の下でも北軍中侯を勤め上げた。大動乱に際しては、同じ名門清流士大夫である袁紹と手を組んで袁術に抵抗し、孫堅を討ち取り張済を屠るなどの活躍をし、荊州全土を守り抜いてきた。しかし儒学に傾倒するあまり軍事には興味がなく、積極的に天下を統一する野心は持っていなかった。荊州に独立勢力を保ち、文化守護者としての名を後世に残したいと考えていたのである。

しかし、学問を愛好すると言いながら、彼が好むのは、漢王室が伝統的に重んじる儒学であって、それ以外に対する関心は薄かった。また、儒学を愛好すると言いながら、朝廷に対する態度は曖昧だった。

官渡の戦いがたけなわの頃、従事の韓嵩と別駕の劉先は、劉表に進言した。

「袁と曹が対峙している今、天下の帰趨を決めるのは将軍の態度にかかっています。将軍に大事をなす気持ちがあるのなら、今こそ彼らの疲弊に付け込むべきです。もしその気持ちが無いのなら、直ちに使者をつかわして服属すべき相手を選んでください。もしもこのまま曖昧な態度を貫きますと、両者の恨みを一身に受けますぞ」

「ならば、許昌の様子を見てきてくれ」劉表は、韓嵩に命じた。

韓嵩は、許昌で朝廷の様子や人々の生活ぶりを観察し、天下の帰趨が定まったとの感を強く抱いて帰ってきた。そして曹操に降伏し、人質を差し出すよう劉表に勧めた。しかし、

「韓嵩、きさま、わしを裏切ったな。曹操に内通したのだろうが」

怒り狂った荊州の主は、韓嵩と彼に同行した従者たちを捕らえて全員殺そうとした。群臣が必死に宥めたので、この暴挙だけは思いとどまったが、この後、群臣たちは、主に直言できなくなってしまったのである。

儒学を愛する学者肌でありながら、劉表の実態は猜疑心の強い独裁者なのであった。

そのため劉備も、自分の意見を彼に押し付けようとはしなかった。曹操の背後を襲う絶好の機会が到来しても、切歯扼腕するのみであった。

 

そのころ曹操は、しきりに北方に兵馬を出して袁紹の勢力と戦っていた。もしも劉表が後方から十万の大軍を発すれば、天下の帰趨はまだまだ分からなかったかもしれない。しかし、荊州が傍観の構えを見せているうちに、冀州の軍馬は次々に打ち破られていった。

度重なる敗戦に心労が重なったのか、袁紹は病の床についた。

建安七年(二〇二)五月、河北の巨星は墜ちた。五十三歳の若さであった。

それにしても、後継者をはっきり指名せずに死んだのは、彼らしい優柔不断さである。袁紹には三人の成人した息子がいたが、その中で後継者と目されていたのは、長男の袁譚か三男の袁尚であった。長男は青州刺史として外に出ていたが、三男は冀州に残り、父の膝元で可愛がられていたのである。これだと、後継者に三男が指名されたという解釈が可能である。そしてここに、派閥抗争が分け入った。郭図と辛評は袁譚を推し、審配と逢紀は袁尚を推して争ったのである。しかし、鄴に居座る袁尚の方が政治的に有利である。彼は生母の劉夫人と結託して反対派を追い落とすと、亡父の後継者としての地位を確保したのであった。

思えば河北の袁氏勢力は、高名な士大夫の連合体であった。袁紹自身が高名な士大夫であったために、彼の組織は士大夫合議体の枠から抜けきれず、最後まで独裁権力を樹立できなかったのである。勢力内部で、激しい派閥抗争が恒常的に展開されたが、これを解消することが出来なかった理由もそれである。その点で、朝廷の名のもとに独裁権を行使できた曹操に遅れをとったのだ。

そして今、後継者争いを契機として袁氏勢力の分裂が始まろうとしていた。

 

九月に入ると、曹操は再び黄河を渡って黎陽に侵攻した。これを迎え撃つのは、自称車騎将軍の袁譚とその謀臣・郭図である。

鄴を守る冀州牧・袁尚は、兄が曹操に殺されることを願っていたので、援軍を出そうとせず傍観し、ただ監軍として逢紀を派遣した。激怒した袁譚は、陣中で逢紀を殺害して、その首を鄴に送ったので、驚いた袁尚は自ら軍を率いて黎陽の兄のところに合流した。

実にギクシャクした関係の兄弟だが、力を合わせて必死に防戦したので、曹操軍は攻め倦んだ。両軍の対陣は、長期にわたって続けられたのである。

 

さて、この情勢を見た劉備は、ただちに出陣の準備をした。曹操の留守中に積極攻勢をかけて有利な地歩を占めようと考えたのである。

「宛にいる夏侯惇と于禁を叩きのめそう。奴らを痛めつければ、劉表も兵を出す気になるやもしれぬ」劉備は、拳を握り締めた。

劉備軍の出陣を聞いた夏侯惇は、思わず鼻で笑った。

「あの戦下手が、この俺に挑もうというのか。笑止千番だわい」

片目の猛将は、ただちに旗下の二万を引き連れて迎撃に出たのである。

両軍は、葉という地で遭遇したのだが、先着していた劉備軍一万は、堅固な陣地を構築して夏侯惇と于禁を待ち受けていた。彼らは亀の子のように閉じこもって挑戦に応じようとしないので、夏侯惇らは面食らった。

「何だよ、大耳め。やる気あるのか」

一方、劉備には夏侯惇の焦燥が手にとるように見えていた。

「あの片目め、留守にまわされて扼腕しているのだろう。俺を討ち取って、曹操にいいところを見せたいのだろう」

季節は冬だから、空気は乾いている。十日あまりの対陣の後、劉備軍は自ら陣地に放火して、一斉に退却を開始した。

「やっぱり逃げるのか、腰抜け」夏侯惇は喜んだ。「追い討ちして、そっ首引っこ抜いてくれるわ。でかい耳は、塩漬けにして酒のつまみにもってこいだ」

しかし、これは劉備軍の罠だった。彼らは、博望という丘陵地帯に伏兵を配置して待ち受けていたのである。

隘路の中で隊列が延びきった夏侯惇軍は、道の両側から奇襲されて大混乱に陥った。

「ちくしょう、味な真似を」

夏侯惇は怒ったが、劉備軍はこうなったら強いのである。何しろ、関羽、張飛、趙雲は、一人で一万人の敵を相手に出来るという猛者たちである。そんな彼らが、休養十分な精鋭を率いて突撃してくるのだから、夏侯惇軍はたちまち四分五裂になった。

数刻後、命からがら北方に逃げ出した夏侯惇と于禁は、数千の死傷者と大量の物資を戦場に置き捨てて、悔し涙にくれたのである。

「殿に合わす顔がない。あの劉備に負けたなんて信じたくない」

その劉備は、将兵に凱歌を挙げさせながら複雑な心境であった。

「片目のやつめ、随分と単純な罠に引っかかったな。ってことは、俺ってよっぽど戦が下手だと思われているわけだ。あまり素直には喜べないな」

この戦いで、趙雲は旧知の夏侯蘭という者を捕虜にした。彼は、この捕虜が法律に詳しいことを知っていたので、熱心に説得して劉備軍に帰順させる事に成功したのである。

「よくやったな、子龍」劉備は大いに喜んだ。「我が軍に足りないのは、法に詳しい文官だ。これからも、戦場で人材を見つけたら俺のために説得してくれよ」

趙雲は、笑顔で頷いた。

このころ劉備は、多種多彩な人材を欲していた。単なる武闘集団の枠から脱皮したいと、痛切に念じていたのである。

さて、博望の戦勝にもかかわらず、襄陽の劉表の態度は煮え切らなかった。劉備を増強すれば、彼に母屋を乗っとられるのではないかと心配していたからである。そのため、戦勝の成果は、まったく生かされることがなかった。

「せっかくの好機なのに、何ともったいない」劉備は、天を仰いで嘆息した。

 

翌建安八年(二〇三)、黎陽の対陣を切り上げた曹操は、秋の収穫を待ってから、その主力を荊州に向けてきた。西平というところに陣取って新野に臨む。

すると冀州で、袁譚と袁尚が兄弟同士で戦争を始めたとの知らせが入った。曹操がいなくなったので、安心して後継者争いを再開したらしい。

「さて、どうしたものかな」曹操は、満座を見回した。「戦いに敗れた袁譚は、平原に逃げ込んで、我が軍との同盟を求めているそうな。北と南、どちらを先に片付けようか」

荀攸が進み出た。「北を先にするべきです。兄弟喧嘩に付け込めるのは、天が与えた配剤というべきものでしょう」

「だが、玄徳は出てこないかな」

「南は、当面心配ありません。昨年末の戦果を、劉表は生かすことが出来ませんでした。これは、劉表と劉備の仲がうまく行っていないことを意味します。あの二人は、互いに足を引っ張り合って身動き取れないのです」

「なるほど」曹操は笑顔で頷いた。「まずは北から平らげるか」

十月、曹操は再び黎陽に出兵した。驚いた袁尚は、平原の包囲を解いて鄴に退却する。助かった袁譚は、自分の娘を曹操の息子・曹整に差し出した。政略結婚をしようと言うのだ。苦笑した曹操は、その申し出を受けてから、一旦許昌に引き上げたのである。

 

「実の弟を倒すために、父の仇と手を組むとは嘆かわしい事よ」

儒者の劉表は、冀州の有様に胸を痛めた。あるいは胸を痛めた振りをした。というのは、袁譚から密書が送られてきて、共に曹操と戦おうと言ってきたからである。その気がない劉表は、長い手紙をしたためて平原に送りつけた。兄弟が仲直りして共に戦いなさいと諭したのである。

「さすがは景升どの」その話を聞いた劉備は、本心を隠して微笑んだ。

劉表が、奇麗事を言って問題を先送りしたことは百も承知だった。

「正道が廃れて、嘆かわしいことですわい」劉表は、肩をすくめながら言った。「どうして兄弟で仲良くできないのかのう」

「まったくですな」劉備は頷いた。しかし、劉表の二人の息子同士も仲が悪いのだ。この父は、それに気づいていないのだろうか。

「そういえば、玄徳どのは、陳元龍(陳登)と親しかったね」劉表は、思い出したように顔を上げた。「彼は先日、赴任先の揚州東城で病死したそうな。齢三十九。死因は、回虫に臓物を食われたためらしい」

「そうですか」劉備は目を見張った。「わが国は、惜しい人物を失いました。彼こそは、天下の英雄だったのに」

「そうでしょうか」傍らで会話に耳を傾けていた許が、口を挟んだ。「彼は田舎者で、最後まで傲慢な態度が抜けなかったですぞ」

この許という人は、劉備に劣らず数奇な運命に翻弄されてきた人物である。兗州の士大夫であった彼は、最初は刺史の劉岱に仕えていたが、劉岱が黄巾軍に殺された後は、後任の曹操に仕えた。しかし、張邈と陳宮の謀反に加担し、呂布の配下となって徐州に移った。そして、呂布が曹操に包囲されたときに城を抜け出して、袁術のところに援軍を求めに行ったのだが、その間に主は殺されてしまった。その後、袁術も滅びたので、劉表のところに転がり込んだのである。

「元龍が傲慢などと、どうして言えるのですか」劉備は、鋭い目を向けた。

「私が昔、下邳で彼の邸宅を訪れたとき、彼は賓客をもてなす気持ちを持たず、話もせずに、自分は大きな寝台の上に寝て、私を寝台の下に寝かせたのですぞ」

「なるほど」劉備は、冷ややかな目で許を見た。「君は、国士という評判が高い人物でした。当時、天下は大混乱に陥り、天子は身の置き場もないありさま。そんな中で、国士は家を忘れて国を憂い、世を救済する気持ちを持つことが嘱望されていたのです。ところが、君は田地を求め邸宅を探し、賓客としての最上の待遇を人に求めるだけだった。元龍が君と口を利かないのはそのためだったのでしょう。私なら、百丈の楼上に寝て、君を地べたに寝かせたいと思ったでしょうな。寝台の上下の差どころじゃないですぞ」

許は顔を赤らめ、劉表は両手を打って大笑した。

「元龍のように文武両道で、何者をも恐れぬ勇気と志を持った人物は、古代にしか見当たらず、とっさに比較できる人物を探すことは難しいでしょう」劉備は、そう言い終えると落涙した。旧友の死の悲しみが、急に胸にこみ上げてきたのであった。

 劉表と許は、そんな客将の様子を優しく見つめていた。