28.脾肉の嘆

 

劉備には、家庭の悩みがあった。もう四十四歳になるというのに、後継ぎがいない事である。最初にこれを指摘したのは、劉表だった。

「もう若くないのだし、後継ぎを作らないとまずいのでは」

「うちの奥さんたちは頑張ってくれているのですが、死産したり女の子だったりで」

「新しい奥さんを貰えば良いのに」

「いやあ、二人いれば十分です。あんまり多いと、いざというとき身動きできなくなりますから」そう言ってしまってから、劉備は、口が滑った事に気付いた。

「どこかに、また移る気ですかな」劉表は、猜疑心に満ちた眼を向けてくる。

「いやはや、過去の放浪生活の苦労が抜けきれなくて」

「まあ、そんなものでしょうな」劉表は、頷いてくれた。「実は、貴君のために養子縁組の話があるのだが」

「養子・・・ですか」

「長沙の劉盤の甥で、今年で十歳になる元気者がいる。劉盤は、我々と同族だから、血筋上は問題ないと思うが、どうでしょうか」

「ええ、喜んで」劉備は首を縦に振った。断る理由は一つもないからだ。

こうして、劉封少年が新野にやって来た。たいへんな腕白坊主で、放っておくと悪戯ばかりする。あるときなどは、居間の壁を落書きだらけにしてしまった。そんな少年を、おっとりした麋夫人は優しく、しっかり者の甘夫人は厳しく躾るのだった。

劉備は、初めての男の子が嬉しくて仕方がなかった。乗馬や弓の使い方を教えてあげる。

「早く大きくなって、父さんと一緒に狩や釣りに出かけような」

「それよりも、武芸を教えてよ」腕白坊主は頬を膨らます。

「ばあか、狩や釣りは、武芸の初歩なんだよ」養父は、指で息子の額を小突く。

劉備の仲間たちも、みんな妻帯して平和な家庭を築いていた。

関羽は、地元の豪族の娘を妻にした。張飛と夏侯夫人との間には、一男一女が生まれていた。無骨者の趙雲も、それなりに円満な家庭を築いたようである。

荊州には学者が多いので、子供に勉強させるのに不自由はない。

平和境のなかで過ごすうちに、いつしか乱世の厳しさや恐ろしさを忘れ行くのだった。

 

だが、外界では激しい戦火が燃え上がっていた。

建安九年(二〇四)二月、鄴の袁尚は、再び軍を発して平原の袁譚を攻撃した。

曹操は、この機会を待っていた。既に、前年の後半から黄河流域に運河を張り巡らせて、糧道を確保してある。今度こそは、袁家の息の根を止める決意だった。

まっしぐらに鄴城を取り囲んだ曹操軍五万は、土山と地下道を掘って猛攻したが、守将の審配は必死に抵抗して、寄せ手を受け付けなかった。曹操は、直ちに兵糧攻めに切り替えた。周囲の城塞を次々に攻略して糧道を断ちきり、さらに漳水を決壊させて得意の水攻めに持ち込んだのである。このため鄴は、城内の半数が餓死するという悲惨な状況に陥った。

七月に入って、ようやく袁尚は平原から引き返してきた。その兵力は精鋭三万である。

曹操軍の諸将は、敵の必死の決意を恐れて退却を進言した。しかし、曹操は笑顔で語った。

「俺は、既に冀州を手に入れたぞ。諸君は、それを知っておるか」

「いいえ、知りません」満座は、かぶりを振る。

「諸君は、まもなくそれを知るだろう」

曹操は、少数の兵に鄴の包囲を続けさせ、自ら精鋭を率いて袁尚と渡り合い、卓抜な戦術でこれを壊滅状態にしたのである。もはや、冀州牧に残された道は、身一つで北方に遁走するしかなかった。残された将兵は全て降伏し、袁尚の冀州牧の印綬も曹操の手中に落ちたのである。

八月、曹操は、降伏した将兵を鄴城の前に並べ、城内の兵士たちに袁尚の印綬を見せつけた。援軍の全滅を知った城内の士気は崩壊し、守兵たちは争って城門を開けたのである。守将の審配は、最後まで屈せずに戦ったが、ついに敗れて捕虜となる。曹操は彼を帰順させようと試みたが、あくまでも断るので、涙ながらに斬り捨てた。

こうして、袁氏の本拠は曹操の手に落ちたのである。

その間、袁譚は、冀州東部の各県を攻略し、中山に陣取る袁尚を攻撃して幽州に敗走させ、その軍勢を奪い取った。さらに、曹操側に寝返った青州の郡県を回復しようと試みたのだが、これは明らかに同盟者に対する反逆である。

怒った曹操は、都に来ていた袁譚の娘を平原に送り返し、鄴の軍勢を進発させて平原を攻略し、袁譚を勃海の南皮城に追い落としたのである。

翌建安十年(二〇五)正月、袁譚と郭図は、包囲下の南皮城から最後の突撃を試みた。その決死の勢いに、曹操軍は押され気味となったが、曹操自らが太鼓を叩いて士気を鼓舞した甲斐もあって、やがて戦局は逆転した。袁譚と郭図は乱戦の中で戦死し、かくして冀州全土は曹操の手中に収まったのである。

この情勢を見て、并州の高幹は、州を挙げて曹操に降伏した。黒山の張燕も、十万の軍勢を引き連れて曹操に帰順を申し入れた。

袁尚と袁熙(袁尚の兄で幽州刺史)は、幽州を根城に抵抗しようと考えたが、ここでも士大夫や豪族たちが次々と曹操に寝返ったため、恐れて北方に逃げ出した。彼らが頼るのは、今や異民族の烏丸のみである。

ここに、曹操の北方四州平定は完成した。もはや、その勢いを止められる者はいない。

曹操の挙げた成果は、内政面でも目覚しかった。

占領地域の北方四州に対して租税を軽減すると同時に、大荘園を持つ士大夫たちの経済特権や治外法権を撤廃し、国による監査を厳しくした。また、厚葬や仇討ちの風習も廃止させ、すべてを司法のもとに一元化する政策を推進した。さらに、学校制度を導入し、子弟教育の増進に意を用いた。

つまり曹操は、法家による統治を行なおうと試みたのである。これまで中華を律してきた儒家の政治をリセットして、法を中心とする合理的な社会の樹立を目指したのである。これは、特筆すべき革命的な出来事である。そのことを内外に示すためか、曹操は鄴を新たな本拠地とし、許昌の朝廷とは一線を画す構えを見せた。こうして、中原に、曹氏と劉氏の二つの政権が並立する形となった。

しかし、このような施策が、保守勢力、すなわち士大夫階級の非難を浴びるのは当然であろう。孔融のような激しい気性の儒家は、これ以降、曹操に対して敵対姿勢を見せることになる。

君主独裁制を目指す曹操と、士大夫階層との確執は、次第に大きくなっていった。つまり、曹操の政権は必ずしも磐石ではなかったのである。

 

その間、劉備は何をしていたかというと、何もしていなかったのである。新野と襄陽を馬車で往復し、劉表の話し相手になることしか仕事がなかったのである。

そんなある日、厠に立った劉備は、自分の太ももに贅肉がついているのに気付いて愕然とした。

「ああ、俺ももう若くは無いのだ」

このような毎日を送っているうちに、曹操との差は決定的に開いてしまった。許昌で曹操に、英雄だと評価されたのは、あれは夢だったのだろうか。俺は、このまま他人の膝にすがって、老後を過ごす羽目になるのだろうか。悲しくなって、虚しくなって、涙が溢れてきた。いったい、何が悪くてこうなったのだろう。考えても考えても分からない。

客間で待っていた劉表は、そんな客将を不思議そうに見つめた。

さて、荊州では、州牧の劉表を筆頭に儒者が多かったので、曹操の法家一辺倒の政策に批判的だった。

「曹操は、墓穴を掘りましたわい」学者の宋忠が言った。「法で人心を縛る政治の限界は、秦の御世で、既に明らかになっていように」

漢の前政権である秦は、極端な法治主義で人々を苦しめたため、人民反乱を招いて崩壊したのである。その後継者である高祖劉邦は、儒学を中心とした徳治主義を用いて四百年の漢朝の礎を築いたのであった。

「うむ、いずれ内から滅びることだろう。我々は、それを座って見ていれば良い」許も、曹操の政策に否定的な儒者であった。

議論を聞いていた劉表は、満足そうに頷いている。

「そうでしょうか」劉備が横から反論した。「曹操は、秦の皇帝たちとは訳が違いますぞ」

満座は、客将の口元を注視する。

「聞くところによると、曹操は法治主義の布告を発した後で、鄴の袁紹の墓前で、大いに涙を流してその死を悼んだそうです」

「あれは、単なる演技でしょう」宋忠は、鼻を鳴らす。

「その演技が重要なのです。天下の人々は、曹操の本質を、法治主義といいながらも、儒の優しさを忘れない政治家だと思ったはずなのです」

「なるほど」劉表はつまらなそうに呟いた。「あの奸者は、何もかも計算づくという事か」

「曹操は、驚くほどの勉強家です。彼は古今東西の歴史を諳んじていますから、秦の過ちを犯す望みはございません。必ずや、法の中に儒の理を織り交ぜた政を展開するに違いありませんぞ」語り終えた劉備は、自分の心境が不思議だった。ライバルを絶賛する自分の心が、少しも痛くならないのである。むしろ、偉大なライバルが誇らしかった。

俺は、ここにいる学者どもより、曹操のことが好きなのだな。

劉備は、冷静に自分の心理を分析した。

 

建安十一年(二〇六)正月、袁家の二兄弟を擁する烏丸が幽州に侵入を始め、いったん曹操に降伏した并州の高幹が、これに呼応して反乱を起こした。しかし、烏丸の侵攻は、曹操が迅速に大軍を派遣したために敢え無く撃退された。孤立した高幹は、壷関に立て篭もって匈奴の援軍を待ったが、関の食料が尽きるほうが早かった。単身、関を抜け出した高幹は、荊州に落ち延びようとしたところを洛陽で捕らわれて殺されたのである。

曹操の奮戦は、止まなかった。八月、徐州の沿岸部で海賊行為を働く豪族連合を攻撃し、楽進と李典を先鋒としてこれを打ち破った。海賊の管承は東の海へと逃げ出して、徐州は平定されたのである。管承はどこへ行ったのだろう。日本に亡命したのだろうか。

さて、曹操は徐州から鄴に帰ると、次々に布告を発した。まずは、人材を大々的に募集すると共に、全ての役人に、毎月一度の政治批判を義務付けた。いわゆる目安箱の制度を設けたのである。次に、これまでの征戦で功績のあった二十余人を列侯に封じ、さらに戦死者の孤児にも経済上の特権を与えたのである。

ここで、曹操の兵制を紹介しよう。彼は、画期的な兵士供給システムを発明していた。これを『兵戸制』という。従来の徴兵は、身分を問わず、兵士志望者を高札などで募集していた。しかし、この方法だと質の高い兵が集まるとは限らないし、また、応募者が過剰だった場合、経済活動に支障が起こる可能性もある。そこで曹操は、兵士の世襲を義務付けたのである。つまり、『兵戸』という特別な戸籍を設け、ここに登録されている者は代々兵役と婚姻を義務付けられるが、その代わり租税は免除されるという仕組みだ。これなら、『兵戸』以外の良民は、生涯にわたって正業に専念できるし、『兵戸』は、幼い頃から軍事教練だけしていれば良いことになる。つまり曹操は、いわゆる兵農分離を行なったというわけ。こうして、彼のもとには質の高い兵士が安定供給され、その強さの源泉となった。この『兵戸』の筆頭は、いわゆる青州兵である。勇猛な彼らは、全軍の模範であった。

しかし曹操は、戦争において何よりも大切なのは補給なのだと喝破していた。官渡の決戦で彼が勝利できた理由は、補給に対する重要性の認識力が、袁紹に立ち勝っていたからである。そして、曹操のこの見識は、圧倒的優位な戦場でも変わらなかった。鄴や南皮の攻略も、大土木工事で運河を掘り、糧道の確保を万全にしたから成功したのである。

そして建安十二年(二〇七)二月、曹操は幽州でいくつもの運河を造らせた。今度の標的は、袁家兄弟を匿う烏丸族である。しかし、万里の長城を越えての大遠征は、膨大な物資と期間を必要とするから、群臣たちは、口を揃えて反対した。

「袁尚などは、力のない逃亡者です。蛮族が彼のために働くものですか。そんなことより、南の劉備が心配です。殿が中華を離れて蛮地に向かったと聞くや、必ず劉表を説き付けて許昌を狙うでしょう」

「いいや」軍師の郭嘉が進み出た。「猜疑心の強い劉表は、劉備を任用することなど出来ません。今こそ北方の憂いを断ち切って、中華の威光を蛮族に思い知らせるべきです」

「さすがは奉孝」曹操は、白い歯を見せた。

こうして、曹操軍三万は長城を越えた。山を掘り谷を埋め、五百余里にわたって道をつけ、鮮卑族の領土を横切って東方の柳城を目指したのである。激しい行軍で脱落者が続出したが、その戦意は旺盛だった。

柳城に陣取る袁尚は、二百里手前で敵に気付いた。

「ちくしょう、ここまで追って来るとは」

慌てて烏丸族に召集をかける。遼西の単于・楼班、右北平の単于・能臣抵之、遼東の単于・速僕丸、そして、先の大単于・蹋頓が馳せ参じた。その総勢は五万。

八月、白狼山で大会戦となる。烏丸の騎馬軍は強力だったが、単于同士の連絡がうまくいかず連携が取れない。山の上に陣取る曹操軍は、敵の弱点を的確に見極めて、効率的に兵力を投入した。そして、張遼が蹋頓を討ち取ったことで勝負は決まった。

二十万の烏丸は曹操に降伏し、生き残った単于たちは、袁兄弟とともに遼東の公孫康のもとに落ち延びていったのである。

群臣は、遼東攻撃を主張したが、曹操と郭嘉は首を横に振った。その必要はないというのだ。果たして九月、公孫康は、袁尚、袁熙、速僕丸らの首を斬って、曹操の陣中に送り届けて恭順の意を表したのである。

ここに、中華の北方は完全に平定され、袁氏は滅亡したのである。

 曹操の次なる標的は、南方以外に無い。