徐庶元直は、頴川出身の学者である。若い頃は撃剣の使い手として名を馳せ、刺客の仕事をしていたのだが、あるときを境に殺しが嫌いになり、儒学の道へ転向したという変り種である。青びょうたんどもとは一線を画する剛毅闊達な人柄を、劉備は愛し信頼していた。徐庶の方でも、放浪の客将が気に入って、良く世間話に立ち寄るのである。
「ああ、そいつなら知ってます」徐庶は、新野の謁見室で豆を噛みながら答えた。
「本当か」
「諸葛亮、字は孔明。我々の仲間(襄陽学派)うちでは、伏龍と呼ばれています」
「伏龍。ああ、水鏡先生からもその名を聞いたぞ。どんな人物なんだ」
「そうですな」徐庶は、少し思案してから言った。「一言で説明するのが難しい人物ですから、実際に会って話を聞くのが一番ですぞ」
「いいから、君の知っていることを教えてくれ」
「ふうん、そうですか」
徐庶が、豆を食べながら語るところによると。
諸葛亮孔明は、徐州瑯邪郡陽都県の出身である。祖先は、漢の司隷校尉も勤めた士大夫の家柄である。父の諸葛珪は、泰山郡の丞にまで昇進したが、亮が幼いうちに亡くなったという。兄の諸葛瑾はこのとき既に成人していたので、江南に仕官した。幼い諸葛亮は、母や姉や弟と徐州で暮らしていたのだが、戦乱に巻き込まれて荊州に疎開し、叔父の諸葛玄を頼った。この叔父は、荊州の劉表と旧知の仲だったので、彼のために江南の諸勢力と戦い、その渦中で死んだのだが、ある程度の遺産を残してくれたので、亮は母の死を見取った後、襄陽に移って弟と共に学究生活に入ったのだという。
ただ、亮の能力は、あまり襄陽学派では評価されなかった。彼は、儒学の細部にはまったく関心が無く、古今東西のあらゆる学問の概要を押さえることに専心したからである。学者としての専門知識を持とうとしない彼を、同僚たちは軽蔑して疎んじた。それでも亮は、自らの才能を管仲と楽毅(いずれも春秋戦国時代の宰相と名将)に例えていたので、みんなは笑いものにしたが、崔州平と徐庶は彼の才能を見抜いて友達付き合いしていた。
亮は、朝晩ののんびりした時間には、八尺(一九〇センチ)の巨体を床に横たえて、好きな『梁父吟』を歌ってくつろいだ。あるとき、仲間たちに向かって言った。
「君たちの才能なら、仕官すればきっと刺史か太守になれるだろう」
その場にいた石韜、孟建、徐庶は、誉められたと思って喜んだ。
「そういう君は、どこまで出世するつもりだい」
亮は、笑うばかりで答えなかったという。
劉備は、これらの逸話を聞いて、大いに胸に感じるものがあった。彼の脳裏に浮かび上がる諸葛亮の姿は、諸学に通じ、実務に遠大な抱負を持つ優秀な士大夫だ。この人こそ、彼が探していた人物に相違ない。
「会いたい、ぜひ、会いたい」劉備が子供のように席から飛び上がるのを見て、徐庶は豆を口から吹き出してむせ返った。侍女が、慌てて水差しを持ってきて背中をさする。
「元直、頼むから連れてきてくれ」
「ごほ、ごほん、いやあ、無理でしょう、ごほ、ごほ」
「どうして」
「彼は、たいへんに誇り高いから、私が呼びに行っても来はしません」
「じゃあ、どうしたら会える」
「将軍自ら訪れるのが、最も効果的だと思いますよ。彼は、襄陽から西方二十里の隆中というところで自耕して暮らしています」
「分かった」劉備は、子供のように目を輝かせて頷いた。
劉備という人の偉いところは、他人に対してとことん謙虚になれる点である。普通なら、四十七歳の左将軍が、二十七歳の無位無官の若造に会いに行くなど考えられない。そんな非常識を簡単に超越するところが、この人物の偉さなのである。
そういうわけで、劉備は徐庶と別れるとさっそく隆中に出かけた。お供は、劉封と趙雲の二人だけである。十二歳の腕白を馬の鞍壷に抱きかかえた左将軍は、鼻歌交じりの上機嫌である。真面目な趙雲は、厳しい顔を崩さずに主君を護衛する。
隆中は、のどかな田園地帯だった。そこかしこで農民が汗を流して働いている。彼らの間から時折聞こえてくるのは、『梁父吟』の歌だ。これは、徐州の民謡であるから、諸葛亮が教えたのに違いない。
「懐かしいな、荊州で徐州の民謡が聞けるなんてな」もとの徐州牧は、ますます上機嫌だ。
「父ちゃん、おれは早く狩がしたいよ」劉封は、いつものように駄々をこねる。
「いいから、今日は大人しくしとれ」
子供を連れてきたのは、相手の心を和ませるための方便であった。
目指す家は、緩やかな丘の上にあった。茅葺の農家だ。
高鳴る動悸を押さえながら門を叩いた劉備は、若い女性に出迎えられた。赤茶けた短い髪の獅子鼻の女だ。これほどの醜女は、久しぶりに見る。
「諸葛亮先生にお会いしたいのですが」劉備は、笑顔を作る。
「主人なら、今日は留守ですよ」醜女は、透き通った優しい声で答える。
「ああ、奥方ですか。不在とは残念です。また出直します」劉備は、落胆の色を隠せない。
「今度は、こちらから訪ねさせますよ。お名前とご用件を申し付けくださいな」
「いや、名乗るほどの者ではありません」
「ほほほ」醜女は、口を手に当てた。「それじゃあ、新野の劉左将軍が、お話を聞きに訪ねてきたと伝えておきますわ」
劉備は、思わず女の顔を見つめた。見かけによらず鋭い女性のようだ。
三人は、すごすごと帰途についた。
「父ちゃん、つまんないよお」劉封がまた駄々をこねる。
「うるさい」劉備は、頭のてっぺんに拳骨をくれた。「父ちゃんだって、つまんないんだ」
新野に帰ってみると、襄陽から使者が来ていた。劉表が、ぜひ面談したいと言っているらしい。
翌日、馬車を仕立てて南に向かう。
劉表は、病床にあった。二日前に立ちくらみがして、寝たきりなのだという。
「わしも、もう六十六じゃ。いつお迎えがきてもおかしくない」
「気の弱いことを申されますな」劉備は、枕もとでささやく。「きっと、すぐに良くなりますよ」
「曹操は、烏丸から帰ってきたそうじゃな」
「・・・・・」
「わしは、後悔しておる。曹操が長城を越えたとき、君は直ちに出兵すべきだと進言したね。わしには勇気が無かった。千載一遇の機会を逃してしまった」
「また、次の機会が巡ってくるでしょう。悲しむほどの事はありません」
「君は優しいな」病人は微笑んだ。「徐州牧・陶謙どのの今際の気持ちが良く分かる。君の優しさに触れた者は、心まで溶かされてしまうよ。わしの死後、この州を任せられるのは君しかいない」
劉備は、思わず劉表の目を覗き込んだ。かすかに輝く猜疑の光。
「いけません」客将は、とっさにかぶりを振った。「景升どのには、二人の子息がいらっしゃるではありませんか」
「どちらも、曹操から見たら、豚みたいなもんじゃ」荊州牧は、吐き捨てるように言った。「gもjも、州を背負える器ではない」
劉備も、内心では納得していた。二人の息子は、勉強漬けの坊ちゃんで、父以上に覇気が無い。
「後継ぎは、どちらが良いかのう」劉表は、すがるような目で見た。
「客将が意見を言える事柄ではありません」劉備は、そう言って席を立った。これ以上、痛くもない腹をさぐられてはかなわない。
劉表の長男・劉gと次男・劉jは、異母兄弟である。そして、劉jの母は、襄陽の有力士大夫・蔡瑁の妹であるから、その政治力の差は歴然である。劉gは追い詰められていた。
他人の家庭問題を頭から振りほどいた劉備は、その足で再び隆中に向かった。
今度は、亮の弟の諸葛均が出迎えてくれたが、またもや目的の人は留守だという。
「人の気も知らずに、どこで遊んでいるんだ」
劉備は、すっかり不機嫌になって新野に帰ってきた。
驚いたことに、その留守中に諸葛亮がやって来たらしい。
「それで、先生は」
「さっきまで待っていましたが、もう帰りましたよ」麋竺がそっけなく答える。
「ちいっ」劉備は、慌てて馬を飛ばしたが、もう追いつけなかった。
「縁がないのかなあ」頬杖ついて悩む。「何の、縁なら人力で築いて見せるわ」
その翌日、今度は趙雲と二人で隆中を目指した。今度こそ、会えるまで帰らない決意である。
三度目の正直という言葉があるが、物事はしばしばそうなる。
諸葛亮孔明は、香を馥郁と焚いた部屋で賓客を迎えた。
「劉将軍」青年は、深々と頭を下げた。「度重なる無礼をお許しください」
「先生、やっとまた会えました」劉備は、彼の前に座って微笑んだ。