30.天下三分の計

 

「どうぞ、おあがりください」諸葛亮の妻が、盆を持って入ってきた。三つの皿には、手打ちの麺が盛り付けてある。

「これは、うちの糟糠の手造りの逸品です」庵の主人は、嬉しそうに箸をとる。

劉備と趙雲は、諸葛亮の前に並んで座して、その美味に舌づつみを打った。

「いやあ、料理上手の奥方ですな」劉備は、心から言う。

「あれは、この地方の名士、黄承元の娘です。知恵が回って機械いじりが得意なので、気に入って貰い受けた次第。この麺も、機械でこしらえたのですよ」

「ほお」劉備と趙雲は、思わず顔を見合わせる。

「こちらを御覧あれ」主人は、二人の客を導いて台所に行った。

赤毛の奥方が、何やら大きな木製の道具の前で手を動かしている。

「お前の麺打ち機を見にきたよ」夫は、優しく話し掛ける。

「この人ったら、初めてのお客さんには、いつもこうなんですのよ。気に障ったらごめんなさい」妻は、二人の客に向かって肩を竦める。

「いえいえ」手を打ち振った二人は、主人が説明してくれる機械に目を奪われた。

「麦粉をこねたら、形を揃えてここに入れます。すると、ここの刃物で裁断して、こっちの容器に落ち込みます。ここで量を測って、自動的に皿に移し変えるのです」諸葛亮は、嬉しそうに、木製の歯車をいじりながら語る。

「何、自慢してんのよ。あたしの機械なのに」妻は、悪戯っぽい笑顔で夫を小突く。

「すごいですな」劉備は感嘆した。機械の原理自体は、それほど複雑ではない。しかし、普通の人にはなかなか思いつかない道具である。この夫婦は、当たり前のところから新しい何かを見つけ出す才能があるようだ。

三人は、黄夫人を残して客間に引き上げた。

「そうだ、左将軍どの」亮は、座につくとさっそく尋ねた。「戸籍調査はどうなりました」

「あれは、これからです」劉備は、表情を変えずに答えた。

劉表が重病なので、進言できなかったとは言えない。州牧の健康状態は、今や最重要機密なのだから。

「子龍、すまぬが、部屋の外で警戒していてくれぬか。ここからは、人に知られたくない話になるから」劉備は、忠実な護衛隊長に命じた。

「はっ」趙雲は、素早く立ち上がって中庭に出て行った。

諸葛亮は、偉丈夫の後姿を見送りながら言った。

「先日、新野の政庁をお訪ねしたのは、水鏡先生に勧められたからなのです」

「やはり」

「将軍が物思いに沈んでしまわれたので、私が何か余計なことを言ったのではないかと心配になって、黙って出てきてしまったのです。ご無礼をお許しください」

「とんでもない」劉備は頭を振った。「あまりに適切な助言だったので、つい考え事をしてしまったのです」

「そうですか」亮は頷くと、妻が運んできてくれた白湯に口をつけた。

 二人は、しばし廊下の向こうに広がる中庭に眼をやった。枯れ木の間から、歩き回る趙雲の姿が視界に入る。

「将軍の人生の目的は、いったい何でしょうか」諸葛亮は、いきなり難しい質問をぶつけてきた。

「目的・・・」劉備は面食らった。他人にそんな事を聞かれたのは、初めてだったから。

「ここには二人きりです。包まずにお話ください」

「・・・乱世の英雄になることだ」

「乱世の英雄」亮は、思案げな表情だ。「英雄って何ですか。例えば、歴史上の人物に例えるなら」

「高祖劉邦だ」

「高祖・・・。なるほど」青年は、穴の開くほど客の顔を見つめた。

「なんですか」劉備は、居心地が悪くなって尻を浮かす。

「将軍は、曹操を頂羽だと考えていられますね」

「頂羽・・・」劉備は、目を見張った。明確に意識したことは無かったが、確かにそうかもしれない。

 頂羽と劉邦は、秦末の英雄である。二人は、民衆動乱の中で立ち上がり、力を合わせて秦帝国を滅ぼした。頂羽は、かつて秦に滅ぼされた楚の遺臣であるから、楚王の末裔(懐王)を擁立して天下に覇を唱えようと考えた。しかし、自分の意のままにならない懐王を暗殺し、また敵対者を残虐に殺害したため、諸侯の反感を買ってしまった。その諸侯をまとめて立ち上がったのが、侠客出身の劉邦である。戦下手の劉邦は、勇猛な頂羽との争いに百戦百敗を重ねたのだが、最後の一戦で逆転勝利を収めて天下を平定し、漢帝国を樹立したのである。

劉備が、曹操との争いに連戦連敗を重ねても、未だに希望を捨てないのは、劉邦の故事があるからだった。いつかは逆転できると、無意識のうちに信じていたからだった。

「頂羽は、天下無敵の豪傑だったのに、どうして劉邦に敗れたのでしょうか」諸葛亮は、静かに問いかける。

「それは、己の武勇を過信しすぎて人材を軽んじたからだ。そして、経済や民生に目配りをしなかったからだ」劉備は、淀みなく答える。これは、広く知られた史実である。

「・・・曹公は、どうでしょうか。人材は」

「彼は、人材を大切にする。広く集めるのみならず、適材適所に任用し、その言うことを良く聞く」

「経済と民生は」

「彼は、経済と民生を何よりも重んじる。屯田制を施行し、法に乗っ取った政策を展開する」

「つまり、曹公には、頂羽のような大きな弱点がありません。将軍は、あるいは劉邦かも知れません。しかし曹公は頂羽ではないのです」

劉備の肩は、がたがたと震えだした。

「つまり、俺は曹操に決して勝てないということか・・・」

決して認めたくない真実に到達するのは恐ろしい事だ。心のどこかでは分かっていたことが、今、思考の表層に浮かび上がってくる。

「そうです」諸葛亮は、平静に答えた。「今の将軍では、決して曹公には勝てないのです」

 「ありがとう、先生」劉備は、崩れ去りそうな心を立て直した。「それなら、俺は、これからどうしたら良いだろう。降参して首を刎ねられるか、蛮族のところに亡命するか」

「その前に、お尋ねします。将軍は、かつて許昌で曹操に深く任用されていました。どうして彼を裏切ったのですか」

「・・董承の陰謀に巻き込まれたからだ。とても言い逃れが効かないと思ったからだ」

「それだけではないでしょう。包まずにお話ください」

「・・・俺は、曹操が恐ろしかったのだ。立派な政治家でありながら、徐州で数十万の民を虐殺した心底が窺い知れなかったからだ。あいつは、俺を指差して英雄と呼んだ。それだけ高い評価を受けているってことは、いつ理不尽な理由で殺されるか分からないだろう」

「それだけではありません」諸葛亮は、頬を怒りで紅潮させながら言った。「彼は、官渡で、投降した八万人を穴埋めにして殺しました。徐州といい官渡といい、頂羽にも劣る非道な所業です。天下の心有る者は、このような暴君を決して許しはしません」

劉備は驚いた。いつでも冷静だと思った青年は、いまや溢れる怒りを隠そうともしない。

「曹公は、頂羽よりも優秀な英雄かもしれない。しかし、頂羽より奸智に長けている分、より一層、始末に悪い存在なのです。何としても、その野望を挫かなければなりません」

そう言うと、諸葛亮は座を立って別室に向かい、しばらくして大きな竹簡を抱えて戻ってきた。彼は、それを自分と劉備の間の卓上に広げた。竹簡は、中国全土の地図なのだった。

「曹公は、今、黄河の流域を全て支配しております。天子を擁し、民生は充実し、人材も組織も完備され、その軍勢は精強です。正面からは、とても太刀打ちできません」

劉備は、黙って頷く。

「翻って、南の長江に目を移すと、下流域は全て孫権の勢力下に置かれています。彼は人材を待遇する英傑である上に、三代の統治を経て、民衆も頗る孫氏に懐いています。これは奪い取るべきではなく、むしろ味方に付けるべき勢力でしょう」

劉備は、再び頷く。

 「残るは、ここ荊州と」諸葛亮は、地図に置いた指を長江の中流域から西へと滑らせた。「ここ益州(四川平野)です」

劉備は、思わず両手の拳を強く握り締めた。

「荊州は、北方は漢水と沔水にまたがり、その経済的利益は南海(広東)にまで達し、東方は呉会に連なり、西方は巴蜀に通じており、まさに中華最大の要地です。それなのに、現在の領主(劉表)は、とても持ちこたえることができません。これこそ、まさに将軍の拠って立つ地です。お分かりですか」

「うむ」

「益州は、四方を山に囲まれた要塞の地であり、沃野が千里も連なる天の庫です。高祖も、ここを本拠地に定めて天下を平定しました。現在の領主・劉璋は惰弱であり、民生をないがしろにし、しかも部下の心も掴んでおりません。これぞ、天の配剤と言うべきでしょう」

「うむ」

「将軍は、荊と益を支配し、その要害を保ち、西方と南方の異民族を手なづけて、外では孫権とよしみを結び、内では政治を修められ、三国鼎立の構えを取るのです」

「おお・・・地政に基づく戦略だな」劉備は、思わず膝を打った。

「名づけて、天下三分の計です」青年は、白い歯を見せた。前歯が一本欠けているのが印象的だった。「そして、将軍は大義名分を、すなわち政治目標を天下に示さなければなりません。そしてそれは、『漢室の復興』でなければなりません。なぜなら将軍は、漢皇帝の血筋なのですから、それを天下に広く宣伝しなければなりません」

「うむ、政治目標か」

「そして、曹氏政権内部の不協和音か失策を待つのです。天下にいったん変事あれば、一人の大将に命じて荊州の軍を洛陽に進ませ、将軍自身は自ら益州の軍を率いて長安を衝くのです。そうすれば、曹公に圧伏されている士大夫をはじめ、天下の人民はこぞって駆けつけ、天下のことはたちまち定まることでしょう」

「見事だ、諸葛先生」劉備は、思わず立ち上がった。「俺は、今までそのような遠大な計画を立てたことがなかった。乱世の英雄と言いながら、自分が何者なのかも分かっていなかったのだ。先生、ありがとう。俺は、昨日までの俺じゃない。俺は、今日から生まれ変わったのだ」

 劉備はこれまで、一介の傭兵隊長として動いてきた。三十年近くも群雄の間を転々としながら、いつまでも馬商人の用心棒気取りが抜けなかったのだ。明確なビジョンも無ければ気概も無い。それだからこそ、恥も外聞も無く逃げ回ったり亡命できたわけだが、それでは曹操に対抗できるわけがないのである。

しかし、今の劉備はそうではなかった。明確な政治目標を与えられ、その達成のために尽力する闘士になったのである。一介の傭兵隊長から、一個の政治家へと成長を遂げたのである。

 劉備玄徳と諸葛亮孔明。まさに歴史を動かす究極の主従の誕生であった。