31.水魚の交わり

 

「最近、玄徳兄貴、変じゃないか」

「うむ、何かが変わったな」

「俺たちと、ろくに口も利かぬ」

「宴会も全然やらなくなった」

「家族のところにも、まったく顔を出さないようだ。封くんも、怒ってたぞ」

「ずっと、のっぽと話し込んでいる」

「新しい性の世界に目覚めたんじゃないだろうな」

「怖いことゆうな、益徳」

「分からんぜ、のっぽ、若い上に随分と美形だ」

「奥さんはブスだけどな」

「雲長兄貴も、えげつないこと言うな」

「これは内緒だぞ、俺の品性が疑われる」

「品性なんか無いくせに」

「お前に言われたかあないぞ」

「とにかく、これは、兄貴に忠告したほうがいいな」

「うん、一緒に行くか」

「そうすっか」

関羽と張飛は、連れ立って新野の政庁に向かった。

二人の噂の主は、政庁の中庭を散策していた。

「曹公の偉大さは、自分の弱点をしっかりと見据え、それを克服しようと努力する点です」

「うん」

「将軍も、それを見習うべきです」

「俺の欠点って何だろうか」

「無欲で、物事に執着がない点です」

「それって欠点なのか」

「乱世の英雄となる上では、欠点です。もっと欲望を剥き出しにして、執着を持つべきです」

「だが、人の性格は、簡単には変えられないぞ」

「私が、その都度、注意します」

「それは頼む」

「なお、曹公の失敗は見習ってはいけません」

「失敗・・・」

「無闇に人を殺した事です。彼は、過去の虐殺に加えて、法治主義を厳格に適用するために処罰を厳しくしています。先ごろも、官渡の功労者である許攸を、賄賂をとった罪で処刑してしまいました。将軍は、曹公の逆をしなければなりません」

「うむ、人に優しくするのだな。それならば出来そうだ」

「仁徳を強調するのです。仁徳の力で天下に臨むのです」

「仁徳を表看板にしながら、欲望を剥き出しに生きるのか。やっぱり難しいな」

「やるのです。それをやらなければ、必ず曹公に殺されます」

「分かっている・・・」

「なお、みだりに下賎の者と席を共にしてはなりません」

「下賎・・・」

「士大夫ではない庶民出身者です。将軍の威信が下がります」

「それだけは従えない」

「なぜですか」

「俺だって、下賎の者だからさ」

「しかし・・・」

「皇室の末裔というのは、ただの宣伝だ。俺の心は、無頼にある」

「・・・そうですか。ならば何も言いません」

二人が通り過ぎた後で、柱の影で立ち聞きしていた関羽と張飛は、顔を見合わせた。

「なんだよ、ありゃあ」

「兄貴のあの態度・・・新興宗教の信者さんみたいだぞ」

「むかつくなあ、下賎の者だとよ」

「自分は何様のつもりだい。農家に住んでいたくせに」

「絶対に仲間には入れたくないね」

二人は、意を決して主君に訴えることにした。

「何だよ、二人して」寝所にいるところを来訪された劉備は、面食らった。

「兄者は、我らとの友誼を軽んじていられますな」関羽が詰め寄った。

「そんな事はないぞ」

「本当にそうかい」張飛は、酒くさい息を吐いた。

「もしかして、孔明のことを言ってるのか」

「言うまでもないでしょう」

劉備は、しばし考えてからこう言った。

「・・・俺に孔明が必要なのは、魚が水を必要としているようなものだ。お前たちの気持ちは分からんでもないが、二度と文句を言わないでくれ。今にきっと分かるから」

関羽と張飛は、互いの顔を見合わせて溜息をついた。

 

建安十三年(二〇八)、運命のこの年に、最初に行動を起こしたのは東呉の孫権だった。

三月、二万の軍勢で江夏の黄祖を攻撃したのである。黄祖は、劉表の部将であると同時に、孫権の父(孫堅)の仇でもあったから、東呉は孫策の代から黄祖討伐を悲願としていたのである。黄祖は、彼らの襲来を予期していたから、長江の狭くなった部分に船を横に繋ぎ合わせて遮ろうとした。だが、孫軍の先鋒・呂蒙は、奇襲部隊を編成してこの船を切り離し、董襲、淩統らが江夏を急襲した。黄祖は、身一つで逃げようとしたが、孫軍の騎将・馮則がこれを討ち取ったのである。主君の仇討ちを成し遂げた江夏に凱歌が上がる。だが、孫軍は占領地域を確保せず、住民だけさらって東に帰った。背後で山越族が動き出したため、この地に軍を留めておく余裕がなかったからである。

かくして、江夏は、治める者のない地となった。

病床の劉表に向かって新任の太守を志願したのは、長男の劉gだった。彼は、後継者争いの渦中から逃れるため、敢えて襄陽を離れる道を選んだのである。彼は、一万の軍兵を連れて即座に出発した。

その姿を見送った劉備は、新野への帰路で馬車に同乗した軍師と語らった。

「孔明が、劉gどのに献策したという噂は本当か」劉備は、興味深そうに尋ねた。

「ええ、本当は嫌だったのですが、是非にとせがまれて。劉gどのは、継母に暗殺されるのではないかと、たいへんな怯えようでしたから」諸葛亮は、笑顔で答える。

「ここも、袁家の二の舞になるかなあ」

「そうならないように、献策したのですよ。彼に恩を売っておけば、いずれ役に立つこともあるでしょう」

「さすがだね、孔明」

「まだまだ、これからです」

しかし、諸葛亮の行動は、劉jを擁する蔡一族らに、余計な警戒心を与える結果となった。彼らは、劉備の勢力を劉g派と断定し、敵対心を強めたのである。

 

六月、曹操が新たな政治行動に出た。漢の臣下の最高職であった三公(司空、司徒、大尉)を廃止し、新たに丞相を設置したのである。初代丞相に就任したのは、もちろん曹操。ここに彼は、天子に次ぐ最高位に登りつめたのである。

曹操は、今や北方を残らず平定し、中華最強の勢力に成長していた。関中の馬騰と韓遂、益州の劉璋らは、服属の証に貢物を寄越しているし、揚州の孫権は一応、友邦である。明確に敵対しているのは荊州の劉表と劉備のみだから、この二人さえ倒せば天下統一は完成するという情勢であった。

自信を高めた曹操は、今や独裁者への道を歩みだしていた。今こそ過去と決別し、自分だけの新たな中華を創設するときだ。そして、その総仕上げが荊州の征討である。荊州さえ叩き潰せば、東呉の孫権も自動的に降伏するだろう。

七月、丞相は大号令を発した。百万と号する大軍を、一挙に荊州に南下させたのである。

このとき、孔融は、あからさまに曹操を非難した。

「悪をもって善を討とうとは、敗北は必至である」

彼は、儒を軽視する曹操の政策に、常々批判的であった。孔融だけではない。保守的な士大夫は、水面下で独裁者に対する敵対心を強めていたのである。

曹操も、そのような空気に鈍感ではない。見せしめのために孔融を処刑したが、それで片付くほど簡単な問題ではない。それだからこそ、早期に天下を平定し、反対派の発言力を封殺しなければならなかった。

曹操の南下を知った荊州は、熱湯で手を洗うような狼狽を見せた。劉表の病は重くなり、防衛準備はまったく整わない。取り敢えず、新野の劉備を後退させて、襄陽の北を守る要害・樊城に移すことしか出来なかった。

劉備たちは、七年間の住処であった新野を名残惜しげに振り返りながら、南下の道程を辿った。

「樊城なら、曹操を防げるとでも言うのかな」劉備は、軍師に問う。

「樊城は、三方を河に囲まれた要地ですから、新野よりは守備に適しています」諸葛亮は、いつもと変わらぬ冷静な口調だ。「問題は、前面の敵よりも背後の襄陽です。とても、一致団結して抵抗する体制にはならないでしょう」

「劉表の病気が心配だ」

「あの人は、元気なときでも何も出来ません」諸葛亮は、突き放したように言う。

その噂の主は、八月に死去した。

蔡一族らは、反対派の動きを抑えるために君主の死を秘密にし、速やかに劉jを後継者に擁立してしまったのである。

そして、和平交渉が始まった。

もともと劉表配下の士大夫たちは、大規模な荘園を持つ豪族である。その経済力ゆえに、劉表に重用されていたのだ。そして、その経済力は、曹操にとっても魅力のはずである。つまり士大夫たちは、早期に降伏すれば曹氏政権下でも重用が期待できるのだから、惰弱な君主を促して降伏に一決したのは、むしろ当然であったろう。そして、劉表に養われていた儒者たちも、漢朝への投降に否やは無かった。

しかし道義的に頷けないのは、彼らが降伏の決定を、樊城の劉備に秘密にした点である。彼らは、『劉g派』の客将を、曹操への生贄に捧げようとしていたのだ。

劉備は、何も知らされずに樊城の防戦態勢を整えていた。篭城戦で時間を稼ぎ、敵の大軍の補給切れを待つという戦略である。現状では、それしかできない。

そんなとき、襄陽から、徐庶がひょっこりとやって来た。

「やあ、元直」出迎えた諸葛亮が、旧友との再会を喜ぶ。

「孔明、ようやく穴倉から出て来たんだってな。どういう風の吹き回しだい」

「劉将軍の三顧の礼にほだされたのさ」

「噂は本当だったのか。羨ましいなあ」

横で会話を聞いていた劉備が、笑顔で歩み寄る。

「元直になら、十顧の礼でもしてあげたよ」

「またまた、私など、蚕豆の一袋で心もおなかも一杯ですよ。こないだは、食いすぎたもんだから、家で屁ばっか出てたいへんでした。オッカサンに叱られて、もう」

「あっははは」劉備は、腹を抱える。

「ところで、こちらに宋忠が来ているでしょう」徐庶は、真顔になる。「あいつ、何しに来たんです」

「よく分からぬ。劉jどのの督戦状を持ってきたようだが」

「あくまでも白を切りつづけるつもりだな」元の殺し屋は、迫力ある怒声を発した。「気をつけなさい。荊州は、とっくに曹操に降ってしまいましたぞ」

「何だって」劉備は驚いた。

三人は、宋忠の待つ謁見室に走った。

「本当ですか、宋忠どの」劉備は、蒼白な顔で詰め寄った。

「ああ、いや、その、お知らせしようと思って」儒者は、目を白黒させる。

劉備は、小柄な道服の襟首を掴むと、その痩せた背中を壁に叩きつけた。

「曹操軍は、もう宛に到達しているんだぞ。いつ、本当のことを言うつもりだったんだ。ええっ、あんた儒者だろうが。いつも奇麗事ばかり言っているくせに、一皮剥けば、これが本性だったというわけか」

宋忠は、恐怖に怯えて一言もなかった。

関羽、張飛、趙雲、簡雍、麋兄弟、孫乾、劉琰、陳到、周倉らは、自分たちの置かれた苦境を思いやり、茫然自失した。いまや腹背に敵を受けて、篭城など思いも寄らない。

諸葛亮と徐庶は、物資の仕分けと荷造りに取り掛かった。もはや、劉gの駐屯する江夏へ逃走する以外の選択肢はないのだ。

だが劉備は、大音声で叫んだ。

 「襄陽に行くぞ。劉jの真意を確かめる」