32.当陽、長坂の戦い

 

樊城と襄陽は、今日、襄樊市として統合されていることからも分かるとおり、漢水によって隔てられてはいるが、地理的に近接している。

劉備は、急を知ったその日のうちに、五百の騎馬隊を率いて襄陽に押し寄せた。城門は閉じられ、城壁の上には強弩兵が居並んだが、戦意は感じられない。城内からは、動揺と混乱の気配がする。

「俺は、州牧に会いに来たのだ。門を開けろ」

三度目の絶叫で、門は開いた。

大通りを疾駆した騎馬隊は、たちまち政庁に達する。

「劉jどの、話がある。貴君の真意が聞きたいのだ」劉備は、政庁舎に向かって声をあげた。「七年間、この州のために戦いつづけたこの俺を見捨てるとは、いったいどういうことだ。そのような不仁の仕打ちを、あなたの亡き父上が知ったなら、いったい何と思うだろう。どうか、返事を聞かせてくれ」

しかし、劉jは答えることが出来なかった。恐怖のあまり、執務室の奥で震え上がっていたからである。

「なんと情けない」天を仰いで嘆息した劉備の目から、涙が溢れ出た。

そんな劉備の様子を見ていた襄陽の市民や、降伏に納得しかねていた士人や軍兵は、争って劉備の周りに集まってきた。彼らは、劉備に付き従う決意をしたのである。

涙ながらに城門から出て来た劉備を、諸葛亮が騎乗で出迎えた。

「孔明、家族や物資の荷造りは済んだのかい」

「・・・混乱に乗じて、漢水の基地を関羽に占拠させました。襄陽の水軍は、我が掌中にあります」

「なんだって」

「張飛と趙雲の戦闘態勢も整いました。さあ、号令を下してください。今なら、襄陽を乗っ取れますぞ」

「それは出来ない」

「なんですと」諸葛亮は眉をひそめた。「天下三分の計をお忘れか」

「俺には忍びない。七年間の恩を、仇で返すことはできない」大声で言う。

「劉jは、あなたを裏切ったのですぞ」冷静な軍師も、声を高めた。

劉備は、静かに駒を寄せて、青年の耳にささやいた。

「君は戦を知らないな。曹操の怖さも知らないな。今ここで襄陽を占領しても、心を合わせて戦うのは無理だ。必ず敗北する。勝ち目の無い戦を戦うより、劉gのところへ逃げて時節を待つべきだ」

「なるほど」諸葛亮は、思わず主君の顔を見直した。劉備玄徳は、いつだって冷静だ。

「ただし、漢水の水軍はいただいていこう。重い輜重や病人は、それに積んでしまおう。きっと、劉gにも喜ばれる」主君は、笑顔を絶やさぬまま小声で言った。「指揮官は、雲長に任せる。準備が整い次第、江夏に向かわせろ」

数刻後、劉備の軍勢五千は、襄陽郊外の劉表の墓に到達して休憩をとった。

その後ろには、劉jを見限った荊州の将兵や庶民が続く。

劉備は、自分の『仁君』としての役割を意識した。彼は劉表の墳墓の上に立つと、墓石に向かって挨拶をした。

「景升どの、七年間、本当にお世話になりました。これでお別れです」

そして、墓石に取りすがって慟哭した。最初は演技のつもりだったが、七年間の想い出に加えて、自分のこれからの身の上も不安になって、本当に悲しくなってきたのだ。

この様子が伝わると、城を抜け出して後を追う者がますます増えた。劉備軍が行軍を開始すると、その後ろに従う隊列は、地平線の彼方まで長く延びた。この人数では、関羽の水軍に乗せるわけにはいかない。

「どうします」諸葛亮は当惑した。これは、予想外の事態である。

「付いて来たいなら、そうさせるさ。我々は陸路を採ろう」劉備は、余裕で微笑んだ。

そのとき、徐庶が馬を添わせてきた。

「将軍、南の江陵に、漢王朝の大貯蔵庫があることをご存知ですか」

「いや」

「あそこを占拠すれば、長江沿いに江夏と江陵の二つの拠点を持つことができますぞ。それ以上に大きな効果として、曹操は長江で軍船と物資を確保できなくなるのです」

「さすがは元直」諸葛亮は、前歯の欠けた白い歯を見せた。「曹操がいかに大軍を連れて来ようとも、軍船を確保できなければ長江を制することはできないね」

「よし、江陵に向かおう。雲長の水軍にも、その旨を伝えよ」劉備は、逆境にもかかわらず胸の高鳴りを感じていた。

今の自分には、優秀な軍師が二人も付いてくれている。こんなに嬉しいことはない。

劉備軍は、進路を真南に変えた。

彼らが当陽県に差し掛かるころには、後続の避難民の数は十数万にも上っていた。家財道具を馬車や荷車に積んだ老若男女の群れは、街道をびっしりと埋め尽くす。

これらの人々は、もともと中原から一家を挙げて荊州に疎開してきた人々である。戸籍をごまかして、豪族の荘園の中に住んでいた人々である。その多くは、曹操が徐州で行なった大虐殺を知っていた。もともと祖先の土地を捨てているから、再度の疎開など物ともしないし、虐殺は怖いのである。その群集心理が、このような大移動を引き起こしたのだ。

しかし、その行程は、一日当たりわずかに数十里という遅さである。

「置いていきましょう」諸葛亮が進言した。「これでは、江陵どころの話ではありません。敵に追いつかれてしまいますぞ」

劉備は、馬上から後ろを振り返った。大群衆は、地平線まで埋め尽くす。彼の心に、昔ながらの侠客の魂が蘇った。

「この人々は、幼い子供が親を慕うかのように、俺を頼りにしているのだ。俺には、彼らを見捨てて行く事はできない」

「しかし・・・」言いかけた諸葛亮は、途中で口を閉じた。

群集を見つめる劉備の目に、言い知れぬ不思議な力を感じたからである。

この人は、私が思っている以上の器の主なのかもしれぬ・・・諸葛亮の心は震えた。書斎で学んだ理論では割り切れぬ、自分の理性を超えた世界が開けていくのを感じていた。

 

襄陽に入城した曹操は、劉jを始めとする荊州の人士を引見した。人心を安定させるため、劉jを青州刺史に任命し、士大夫十五人を列侯に封じたのである。

曹操は、蔡瑁をはじめ、蒯越、蒯良、王粲、韓嵩、ケ義といった高名な士大夫たちのお礼言上を受けている最中も、劉備の行方が気になっていた。

「玄徳め、相変わらずの逃げ足の速さだ。宛に輜重を置いて急追したのに、間に合わなかったわ。今ごろは、江陵か江夏を固めていることだろう。やりにくい」

しかし、満寵の放った諜者が、耳よりの情報をもたらした。劉備は、十万を超える群集に囲まれて動きがとれず、まだ江陵への道程の半分も消化していないという。

「なんという僥倖か」丞相は、思わず飛び上がって喜んだ。

曹操は、自ら劉備を追撃した。虎豹騎(親衛騎馬隊)五千を走らせる。虎豹騎は、その多くが烏丸兵から構成され、「天下の名騎」として知られた中華最強の部隊である。これを率いた曹操は、一日に三百里を進むという強行軍を二日重ね、当陽にて地平を埋める人の群れに追いついた。

「そこか、玄徳」馬上の曹操は、会心の笑みを浮かべた。

奇襲を受けた劉備軍は、大混乱に陥った。後ろから襲われた軍隊ほど脆いものはない。

「もう追いついたのか」諸葛亮はうめいた。

傍らで馬を操る徐庶は、背中に負った撃剣を引き抜いた。

「今日の俺は、昔の俺だ。撃剣使いの徐福だ」

その横では、子馬にまたがる十三歳の劉封も、護身用の短剣を振り回した。

「父ちゃんの命は、この俺が守るぞ」

騎乗の劉備は、二人の軍師と一人の子供に守られながら、自分の背後の悲惨を痛ましげに見ていた。群集は、蜘蛛の子のように四散し、悲鳴の声が轟き渡る。

「曹操め」劉備は、目に涙を一杯にためて叫んだ。「徐州の愚行を繰り返すつもりか」

幸か不幸か、曹操の関心は劉備の命しか無かった。群集を掻き分けながら、ひたすら大将首を目指す彼は、今度こそライバルの息の根を止める決意だったのだ。

逃げ惑う人々に追われて四分五裂した劉備軍は、戦闘隊形をとる間もなく撃破されていった。しかし曹操軍も、民衆の群れに囲まれて、その速度を次第に鈍らせる。

劉備は、必死に逃げながらも次第に将士を集めて、五十人の騎士の一団となって逃げ場を探した。家族を乗せた馬車を後ろに置き捨てて。

「もはや江陵は無理です」徐庶は、顔を歪めた。「進路を東に変えて、関羽どのと合流するしかありません」

「私も賛成です」と、諸葛亮。「ここで進路を変えれば、江陵を目指す曹操軍をやり過ごせるかもしれません」

「うむ、しかし、後方の将兵や民衆たちに、どうやってその事を知らせるのだ」劉備は、眉間に皺を寄せた。「見捨てることは、断じてできんぞ」

その言葉を聞いた趙雲と張飛は、凄まじい勢いで乗馬に鞭を当てた。後軍に伝令に向かったのである。劉封もそれに続こうとしたが、徐庶がこれを抱きとめた。

「劉将軍」徐庶は、涼やかな顔を向けた。「あなたは、真の仁者です。危機に臨んで、ますます信義を明らかにするその真心、この元直、確かに受け取りましたぞ」

そう言うや、劉封を諸葛亮に預け、脱兎のごとく後軍に向かったのである。

張飛は、全速力で馬を飛ばしながら趙雲に叫んだ。

「子龍、おめえは、みんなの家族を守れ。御車の群れを探して漢水に誘導してくれ」

「益徳どのは、どうされる」

「取り残された仲間を集めて、血路を開く。あわよくば、曹操を斬り殺してやる」

「・・・死ぬ気なのか」

「誰が死ぬかよ。兄貴の天下を見るまでは、この世に噛りついてやるわ」

「そうだな、ようし、頑張れよ」

「お前もな」

趙雲は馬速を緩めて群集の中で馬車を探し、張飛はまっしぐらに突っ走った。

そのころ、逃げ惑う群集に密集突撃を阻まれて業を煮やした虎豹騎は、その隊列を崩して単独行動に移っていた。数騎単位で行動して前進突破し、劉備の首を狙おうというのである。そのため、戦場の混乱はますます激しくなった。どこに敵がいて、どこに味方がいるのか分からない。

趙雲は道々、十騎の騎馬兵を取りまとめると、街道沿いに馬車の群れを探した。目にも止まらぬ戟さばきで敵騎を次々に仕留めつつ、ようやく探し当てた馬車は七輌。

「奥方さま方、ご無事ですか」声を嗄らす。

「おお、子龍どの」麋夫人が、先頭の馬車の御簾をあげて喜びの声を上げる。その横から、甘夫人も顔を出す。「ああ、良かった。また人質になるかと思いましたわ」

「もう慣れっこだけどねえ」二人は同時に言って、嬌声をあげる。車の中からかすかに聞こえる赤ん坊の声は、劉禅のものに相違あるまい。

「殿は、進路を東に変えました。私に続いてください」趙雲は、安堵の溜息をつきながら、御車の群れの先頭についた。七輌の車のどれかには、彼自身の妻もいるに違いない。しかし、今の趙雲は私情を捨てて、任務に邁進することしかなかった。

そのとき、右手の丘の上から五騎の烏丸兵が現れた。彼らは、聞きなれぬ言葉で雄たけびを上げながら突っ込んでくる。

「うぬ」

趙雲と従兵たちは、戟をしごきながら馳せ向かった。敵の放つ矢を兜に受けてかわしながら、自慢の戟を先頭の騎士に叩き込む。

その後ろに控えていた敵は、弓を戟に持ち替えて、死に行く戦友の頭越しに繰り出してきた。しかし、趙雲は素早く避けてその戟を掴むと、怪力で手元に引きずり込み、その敵を落馬させたのである。

その間、味方二騎が、敵一騎を道づれにして脱落していた。

振り返った趙雲の眼前で、御車が一台転覆した。転がり落ちた女性は、敵の馬蹄に踏み殺された。趙雲の妻だった。

「おのれええええ」咆哮した猛将は、全速力でその騎士に向かうと、戟をその胸に投げつけた。そいつは、もんどりうって落馬し、自らの愛馬の下敷きとなった。

いつのまにか、左翼からも十騎の敵が現れた。趙雲の奮戦を見て、目指す大将首がここにあると思ったのである。彼らは木陰に馬を並べて、一斉に弓矢を放ってきた。衛士や御者は次々に射殺され、何台もの馬車が動きを止めた。

敵の戟を奪い取った趙雲は、ひたすら劉備夫人の馬車の後を追った。視界に入った目指す車は、いたるところに矢を受けて見るも無残な有様だ。御者を殺されたらしく、負傷した二頭の馬が、本能に導かれながら千鳥足で前に進んでいた。

「奥方さま」馬を沿わせて御簾を開けた趙雲は、悲惨な光景に目を見開いた。

麋夫人は、劉禅に覆い被さった形で倒れている。その背中には、三本の矢が立っていた。甘夫人は、肩に一本の矢を受けて失神している。泣き喚く赤ん坊は、無傷のようだ。

愛馬を捨てて馬車に飛び乗った趙雲は、感情の起伏を懸命に押さえて、赤ん坊を抱き上げた。

「阿斗さま、もう大丈夫ですぞ」

そのまま御者台に移って鞭を振るう。再び走り出す車。背後には、依然として追尾してくる敵の影。打ち減らされた従兵たちで、どこまで防げるか。

「天よ」趙雲は、思わず空を仰いだ。中天には、真昼なのに月の影が見える。腕に抱かれた赤ん坊の泣き声は、ますます盛大だ。

そのとき、前方から二十騎ほどの騎士が猛然と駆けて来た。敵かと見れば、その先頭は徐庶なのだった。

「趙将軍、後のことはお任せあれ」撃剣を大上段に被る軍師の姿に、無敵の猛将も安堵の溜息をついた。

 

小高い丘の上から戦況を見ていた曹操は、状況が把握できないので苛立っていた。

「さすがの烏丸兵も、二日の猛追撃で疲れている。深入りは危険だったか・・・」

「劉備を逃がしても良いのですか」賈詡が、冷徹な目を向けてきた。

「ううむ、今日のところは仕方ない。日が落ちてきたら退き鐘を鳴らせ。いったん、この丘に集結させよう」

「丞相」親衛隊長の許楮が、息せき切って丘に登ってきた。「人質を捕らえましたぞ」

「また、劉備の細君か」苦笑する曹操。

「違います。敵の軍師・徐庶の老母を捕らえたのです」

「そうか」曹操は、嬉しそうに頷いた。「徐庶に、投降を呼びかけよ」

曹操の伝令兵は、次々に前線に飛んだ。

 

日が暮れると、曹操軍の追撃は止んだ。

長坂という平地に本陣を置いた劉備は、続々と集まってくる負傷兵や民衆の姿に心を痛めた。家族と引き離され、家財を置き捨てた人々の苦悶の声が耳朶を打つ。

やがて、その群れの中から、ひときわ精悍な騎馬団が姿を現した。

「おお、益徳」劉備は、思わず歓声を上げた。「無事だったか」

「あたぼうでしょ」張飛は、泥だらけの鼻をこすった。彼の後ろには、陳到や麋竺、麋芳、孫乾、劉琰の姿も見える。彼らの従兵に守られて、その家族を乗せた馬車も続々と現れる。 

「後から、憲和も来ます。・・・あれ、子龍は戻っていないのですか」

「ああ・・・心配だ」劉備は、腕を組んで唸る。

「きっと、逃げたんだ」劉備の衛士の一人が、ぽつりと言った。

劉備は、腰の短戟を抜いて、柄でそいつの顔面を殴りつけた。

「子龍が、この俺を見捨てるものかよ」

そのとき、負傷兵の間から歓声が上がった。劉備の家族を乗せた御車が現れたのである。御者の席に座り、赤ん坊を抱いているのは趙雲だった。

「ほれ、見たことか」劉備は、不遜な衛士の首根っこを掴んで怒鳴った。

しかし趙雲は、うずくまったまま席から降りようとしない。劉備が駆け寄って覗き込むと、彼は泣いているのだった。

「どうしたのだ、子龍」

「あ、あ、殿、殿」

「どうした、泣いていては分からないぞ」

「麋夫人が、麋夫人が」

「鈴」劉備は、慌てて馬車に飛び乗ると、御簾を巻き上げた。

麋夫人は、床に横たえられていた。その死に顔は、安らかだった。

「鈴さんは、身をもって阿斗をかばったのです。阿斗の上に覆い被さって、降り注ぐ敵の矢から守ってくれたんです」甘夫人は、肩の傷の痛みにうめきながら、彼女の死の状況を語った。

劉備は、馬車の床に跪いた。そして、愛する人の冷たい耳にささやいた。

「鈴、苦労ばかりかけてごめんよ」

彼の後ろでは、妹を失った麋竺と麋芳が、互いに抱き合って嗚咽している。

「私が悪いのです」趙雲が、涙を拭きながら立ち上がった。「妻が目の前で殺されるのを見て、かっとなり、護衛がおろそかになったのです。この罪、万死に値します」

「それは違います」

一同が振り返ると、そこには徐庶が立っていた。返り血を浴びて壮絶な様相だ。

「子龍どのがいなければ、一人も助かりませんでした」

彼の背後を見ると、彼の従兵たちが、三台の馬車を守りながらこちらに進んでくる。

「元直、見事だ」諸葛亮は、笑顔で親友のもとに駆け寄った。

その肩を優しく叩くと、徐庶は劉備のもとに歩み寄り、その眼前に跪いた。

「お暇をいただきに参りました」

「・・・どうしたのだ、元直」劉備は狼狽する。「何があったのだ」

「老母が、敵の捕虜となったのです。見捨てては行けません」そして、心臓を指差した。「私は、大義を成し遂げるために、ここの方寸で殿に仕える決意をしました。しかし、今や方寸は散々に乱れて、使い物になりません。どうか、お許しください」そして、大地に突っ伏して号泣した。

劉備は、この勇士を優しく抱き起こした。

「行ってあげなさい。そして、思う存分に孝養を尽くしてあげなさい」

徐庶は、何度も振り返りながら、北へと去っていった。

劉備と諸葛亮は、打ち沈んだ気持ちを押し隠し、笑顔で友を見送ったのである。

 

その翌日、曹操軍は、夜が明けきらないうちに行動を開始した。前日、早めに野営して休養を取った騎馬軍は、今日こそは獲物を逃さぬ決意であった。

「群集は、だいぶ散ったな」曹操は、丘の上から小手をかざす。

「これなら、敵の動きも戦局も、手にとるようです」賈詡は唇を歪める。これが、彼の笑った顔なのだ。

「我々も行くか」

主従は、それぞれの乗馬に駆け寄った。

一方、劉備軍は、不眠不休の強行軍で漢水を目指していた。伝令の報告では、関羽の水軍が渡し場で待ってくれているとのことである。

「もう少しの辛抱だぞ」劉備は、疲労による眩暈に耐えながら、大音声で全軍を叱咤する。

やがて、眼前に大きな川が現れた。木製の橋が架かっている。長坂橋だ。

「兄者」張飛が、馬を寄せてきた。「俺がここで殿軍となる」

「益徳、死ぬなよ」

二人は、手を堅く握り合わせた。

張飛は、配下の中から元気そうな二十騎を選抜すると、これを川の対岸に伏せさせた。そして、全ての部隊や民衆と馬車が渡り終えた後で、橋の上に陣取った。

数刻待つうちに、曹操軍の斥侯に続いて、騎馬の密集隊形が押し寄せてきた。彼らは、橋の上にただ一騎で立つ武将に、怪訝な眼差しを向けた。

張飛は、頭上で蛇棒を一閃すると、大音声で呼ばわった。

「我こそは、燕人・張飛なり。命が要らない者は寄って来い。一緒に死ぬまで戦おうぞ」

その甲冑は、陽光を浴びて燦然と輝いた。

騎馬軍は、その異様な迫力に押されて、互いに顔を見合わせて前へ進もうとしない。

曹操は、恐るべき偉丈夫の姿を遠望して、感嘆の声を上げた。

「凄いな。あれが、張飛か」

「・・・あいつ、粗暴なように見せて、実に良く計算していますよ。あの位置は、ギリギリで強弩の射程距離外です。水の流れは急だから、橋以外の場所からは襲撃できません。それにほら、御覧ください。奴の背後の林が静まり返っているでしょう。きっと伏兵が配置されているのです」賈詡が、冷静に分析した。

「・・・張飛は、一万人を相手に出来る猛者だ。あの呂布も、一騎打ちを申し込まれて逃げ出したというぞ」

「本当ですか。それは凄い」賈詡は、素直に頷く。

「玄徳のやつ、良い部下を大勢養っているな」

この会話を聞いていた許楮は、憤慨して前線に出た。

「目にもの見せてやれ。恩賞は思いのままだぞ」

許楮に叱咤された命知らずが、五騎、縦列になって橋に突進した。

「おお、動いたぞ」賈詡は、小手をかざした。「おや・・いかん」

五騎の烏丸兵は、先頭から順に、次々と蛇棒に骨を砕かれて、河面に突き落とされてしまったのである。

「な、何と言う棒さばきだ。動きが、まったく見えなかったぞ」全軍から武勇を賞賛される虎痴・許楮も、その頬を引き締めざるを得ない。

彼の周囲の騎士たちも、敢えて橋に近寄ろうとはしなかった。

「なんだ、ここまでか」

哄笑した張飛は、少しずつ後退し、いつのまにか対岸に渡っていた。そして、掲げた蛇棒を前後に二度振り下ろして合図を送ると、林に隠れていた力自慢が、二人で縄を引いた。事前に壊しておいた土台に結びつけた縄を引かれて、音を立てて崩れ落ちる長坂橋。壊れた板は、激流に洗われながら下流へと押し流されていく。

曹操軍は、しばし呆然となった。

「やはり、罠が仕掛けてあったのですな」賈詡が憮然とした口調で言う。

「今から追っても玄徳には追いつけん。橋を架け直す時間はない」

「・・・・・・」

「俺たちの負けだ。玄徳の首は、お預けだな」曹操は、寂しげに笑って馬首を返した。

  対岸に棒を横たえて立つ張飛の勇姿は、今なお陽光の中に健在だった。