36.周瑜の夢

 

建安十五年(二一〇)正月、劉備は、群臣たちの論功行賞を一斉に執り行った。これは、彼の政治人生の中で始めての行為である。彼は今や、漢帝国の行政組織を抜け出して、新たな政府を築いたのである。

この結果、諸葛亮は軍師中郎将、関羽は襄陽太守・盪寇将軍、張飛は宜都太守・征虜将軍、そして趙雲は桂陽太守に加えて牙門将軍、簡雍と麋竺と孫乾は、共に従事中郎となった。

今や立派な君主となって息あがる劉備は、新妻を連れて東呉に挨拶に向かう決意をした。もっとも、挨拶というのは口実で、孫権に荊州租借の直談判をするのが本当の目的であった。

諸葛亮をはじめ、関羽や張飛も猛反対した。危険すぎるからだ。

「東呉には、親劉派と反劉派の二色があります。この両者は互いに鬩ぎあい、状況が予断を許しません」諸葛亮は、必死に諫言した。

「だが、反劉派筆頭の周瑜は、いまは江陵で執務に追われている。逆に、親劉派筆頭の魯粛は、京口で孫権の膝元にいるのだから、今が恰好の機会ではないか」劉備は、妙に楽天的である。新妻との仲が良好なので、肝が大きくなっていたのだろう。

正月下旬、群臣の反対を押し切った荊州牧は、新妻とともに長江を遊覧船で下った。気候は少々寒いけれど、風光明媚な長江の旅は、新婚旅行としては理想的だった。

そのころ孫権は、合肥方面の曹操軍に備えるため、本拠地を紫桑から京口(南京のやや東)に移していた。

「本当に自らやって来るとはなあ」孫権は、劉備の魅力の秘密が分かったような気がした。「新婚の挨拶とはいえ、あいつは俺より格上の英雄だろう。よくもまあ、ここまで腰を低く出来るよ。俺には、とても真似はできない」

とにかく、東呉政権は、盛大な歓迎式典で同盟者を出迎えた。

笑顔を絶やさない劉備とその新妻は、年の差を感じさせぬほど仲睦まじくふるまったので、兄と群臣たちは大いに安心したのである。

「さすがは劉玄徳。よくぞあの鉄火娘を女にしてくれた」孫権は、大満足である。

劉備は、孫権のことを兄と呼び、目上の者に対するような態度を取り続けたので、自尊心の強い碧眼児は大いに喜んだ。そのため、宴会の合間を縫っての頂上会談も、順風満帆の雰囲気で行なわれたのである。

劉備は、諸葛亮と二人で考えた究極の策を、人に安心感を与える彼独特の話術を使って披露した。

「荊州には、長江を挟んで北に四郡、南に四郡あるでしょう。現在、北の四郡を、曹操と兄上が奪い合っています。その一方、南の四郡は、私が完全に占有しています」

「うんうん」

「そこで、この両者を取り替えるというのはどうでしょう。つまり、南の四郡は兄上の物、北の四郡は私の物という具合に」

「しかしそれでは、玄徳どのの領土は、江陵、夷陵、江夏の三箇所だけになってしまうぞ。これでは、襄陽の曹操軍には対抗できないだろう」孫権は、心配になってきた。この無欲で腰の低い義弟は、お人よしの愚か者なのではなかろうかと。

「ええ、問題はそこなのです」劉備は、得たりとばかりに頷いた。「そこで兄上の情けを借りなければなりません。つまり交換の後、南の四郡を私に貸してはもらえませんでしょうか。南の四郡の経済力があれば、曹操を打ち破る力が得られます。そして、曹操を撃破して新たな領土が得られたなら、四郡は熨斗をつけてお返しする所存です」

「なるほど」孫権は大きく頷いた。

これは、割の良い話だ。何よりも、荊州に裂いている周瑜の大兵力を、合肥方面に投入できるメリットは大きい。傍らで侍していた魯粛も、劉備の案を支持したので、交渉はすらすらと纏まりそうであった。

しかし、南郡太守・周瑜は、この交渉経過を江陵で聞いて、烈火のごとく怒った。

「うちの殿は騙されている」美青年は、執務机を掴んで歯軋りした。「劉備は、舌先八寸で嘘を操っているのだ。子敬よ、そばにいてどうして気付かないのだっ」

彼は、必死に手紙を書いた。劉備を信じてはならない。むしろ、劉備が一人で京口にいる好機なのだから、彼を軟禁して人質にして、その兵力を奪い取るべきだと説いたのである。

実は周瑜には、荊州を失いたくない重大な理由があった。彼は、軍を西に進めて巴蜀(益州)の地を占領するという壮大な野望を持っていたのである。すなわち、長江を境にして、まずは中華を南北二分割し、次に、漢中の張魯や西涼の馬騰らと提携して、機を見て曹操を包囲殲滅しようという天下統一計画なのだった。これは、諸葛亮の天下三分の計に匹敵する雄大な方略である。だから周瑜は言うのである。この策を実行するための基地として、江陵や夷陵は決して手放してはならない。そして、野心家の劉備は抹殺するべきなのだと。

しかし、彼からの手紙を読んだ孫権は、大きな溜息をついた。

「公瑾は、あの好人物のどこが気に入らないのかなあ」

周瑜にとって不幸なことに、京口の劉備は、得意の『仁徳』を最大限に使って、要人たちの心をしっかりと掴んでしまっていたので、劉備の野心を見抜く見識を備えた人物は、少数派となっていた。都督の呂範と部将の呂蒙は、うさんくささに気付いたのだが、彼らの意見は周囲の友好的な空気に飲み込まれてしまったのである。

また、慧眼の魯粛は、劉備の油断ならない権謀に気付いてはいたが、曹操との決戦に際して劉備を先鋒に立てるという計略を抱いていたので、この時点での客将の戦力強化は望ましいことと考えていた。

こうして、劉備の荊州領有は正式に決定されたのである。

やがて出立の日が訪れた。新婚の夫妻は、桟橋で兄たちとの別れを惜しんだ。

「仲謀兄上、また遊びに来ますぞ」

「ああ、今度は仕事抜きでゆっくりと飲もうよ」

劉備と孫権は、がっしりと手を握り合った。

二月上旬、夫婦を乗せた遊覧船は、東呉の護衛船に守られながら長江を遡上して行った。

若妻のつややかな髪を撫でながら、劉備は冷静に思考を巡らせていた。東呉で恐るべき人物は、誰だろうか。あの碧眼児は、癖のある男だが、うまく丸め込むことができた。周瑜の不在が幸いしただけかもしれないが。ただ、呂蒙という大男の藪にらみが気に入らない。あの男は、この先、要注意かもしれないな・・・。

劉備は幸運だった。入れ違いに、京口に周瑜が駆けつけて来たからである。

「どうして劉備を逃がしたんですか」周瑜は、孫権に詰め寄った。「後悔しても追いつきませんぞ」

「公瑾、ちょうど良かった」孫権は、冷ややかに言った。「江陵は撤収と決まった。陸口に引き上げたまえ」

「陸口で、いったい何をするのです」周瑜は首をかしげた。

「決まっているだろう、曹操の南下に備えるのだ」

「曹操は、すぐには来ませんね」周瑜は、すかさず反論した。「彼は、先ごろ『唯才令』という布告を出しました。人材登用を、身分問わず才能のみで行なうことを天下に示したのです。また、鄴に銅雀台という大宮殿を着工したとのこと。つまり、当面は内政に勤しむつもりなのです」

「むう」孫権は、一言もなかった。確かに、周瑜の言うとおりかもしれぬ。

「私に一軍を与えてください。今のうちに、巴蜀に攻め入ってあの地を将軍に進呈して御覧にいれましょう。いや、私は副将で構いません。総大将には、奮威将軍・孫瑜さま(孫権の従兄弟)を寄越してくだされ」

「むう、巴蜀を・・・」孫権は眉をしかめた。「玄徳は何と言うかな」

「もちろん、協力を仰ぐのです。そのために、あいつを飼っているのです。逆らうというなら、攻め潰すまで・・・」そう叫んで拳を振り上げた周瑜は、そのままの姿勢で主君の足元に崩れ落ちた。

一瞬、何が起きたのか分からずに立ち尽くした碧眼児は、我に帰ると、慌てて忠臣を両手で抱きかかえた。その体は、ものすごい高熱を発している。

「こ、公瑾・・・」孫権の声はかすれた。

周瑜は、重い病を押して京口に飛び込んだのだった。

 

さて、公安に帰還した劉備は、自分の京口行きに反対した群臣を集めて言った。

「いやあ、針の筵に座っているようだった。孫権はなんとか騙せたけれど、周瑜の到着が間に合っていれば、今ごろ俺は呉に軟禁されていただろう。結果こそ良かったが、諸君の意見に逆らったのは危険な賭けだった。今度からは自重するから、どんどん意見してくれよな」

群臣は、満足げに頷いたのである。

ようやく人心地の劉備の元に、孫権から使者が来たのは一ヵ月後の事だった。

「仲謀(孫権)の奴、荊州を抜けて巴蜀に攻め込むらしい」劉備は、群臣を集めて相談した。「一緒にやろうと言ってきたが、どうしたものかな」

簡雍、麋竺、劉琰、孫乾、馬良、伊籍らは知恵を絞ったが、彼らの意見は概ね賛成であった。ただ、主簿の殷観のみが反対した。彼が言うには、

「益州侵攻が成功した場合、その利益はほとんど呉に攫われてしまいます。また、失敗した場合、弱小の我が軍が一番割を食って、進むもならず退くもならずという状況に陥ることでしょう。ですから、やんわりと断るべきと思われます」

この意見に、満座は大いに感心した。

劉備も、我が意を得たりと頷いた。彼はもともと、巴蜀侵攻は、曹と孫が争っている隙に単独で行なう心積もりだったのである。彼は、直ちに殷観を別駕従事に昇進させた。

こうして劉備は、孫権に断りの手紙を書いた。益州の劉璋は、劉姓の同族なので攻めるに忍びない。また、我々が益州に入ったとたんに曹操が攻めてきたらどうするのか、などと理由を述べたのである。

劉備が反対したので、東呉の巴蜀侵攻計画は中止になりかけた。しかし、病床の周瑜は納得しなかった。彼は、主君に蜀への出兵を確約させると、高熱の体をおして江陵へ向かったのである。この地で孫瑜の軍勢と合流し、一気に長江を遡る計画だった。

「何が何でも、巴蜀を我が手に入れなければならぬ」周瑜は、馬車の中でうなされながら、考えるのは蜀のことのみであった。「劉備に先を越されてはならぬ。天下三分などという詭計に、この中華を委ねてはならぬ」

だが、この英雄の病状は、旅の途中で急激に悪化した。

「ここまでか・・・」周瑜は、目頭を潤ませながら広大な星空を見上げた。「俺の魂が星のように空を飛べたなら、必ず成都(益州州都)に落ちることだろう・・・」

建安十五年(二一〇)五月、周瑜公瑾は、江陵を北に臨む巴丘の地で没した。享年、わずかに三十八歳であった。

知らせを受けた孫権は、悲しみの余り思わず椅子から崩れ落ちそうになった。

「天は、我を見捨てたのかっ」

思えば、孫権が東呉に君主権を確立できたのは、赤壁の勝利のお陰である。そして、赤壁で曹操の大軍を破ったのは、周瑜の卓抜な軍略だったのだ。

もちろん、孫権も偉かった。彼の真に偉大なところは、優れた人材に全権を任せたらこれを完全に信頼し、嫉妬したり疑ったりしない点である。

そして周瑜は、この信頼に命懸けで応えた。

昨年末、曹操は、周瑜を誘降しようと試みた。周瑜の古い友人である蔣幹を、江陵に派遣したのである。しかし周瑜は、自分の預かる全軍と屯営、糧秣の全てを客に見せてこう言った。「俺ほど主君に信頼されている者は、天下に他にいないだろう。俺は、男と生まれて最高の幸せを満喫しているのだ」。蔣幹は、虚しく引き上げたのである。

こうした君臣の固い絆は、東呉の最強の武器だった。

ところで周瑜は、その遺言で後継者に魯粛を指名していたので、彼の部曲と四千の私兵は、全て親友の手に渡ることになった。遺児の周胤は、体が弱く指揮官の器ではないために、部曲の継承が認められず、わずか一千名の兵を率いる騎都尉になったのである。

東呉の軍事制度は、『世兵制』という。前述のように、東呉政権は大豪族の連合体であるから、軍隊はそれぞれの部曲が自主管理する。この部曲は、世襲が原則であるが、後継ぎに人を得ない場合は、故人の遺言ないし主君の裁量で他人が継承できるのである。これだと、無能な人物が大兵力を擁するという事態は回避できるわけだ。何となく、我が国の徳川幕府の封建制度に似ていなくもない。

死に臨んだ周瑜は、魯粛の能力を認め、己が培った全てを彼に託そうと考えたのである。そして魯粛も、亡き旧友の気持ちに応えようと心ぐんだのである。

ただ、魯粛は親劉備派の筆頭であるから、東呉の政策も劉備に優しくなった。巴蜀侵攻計画は沙汰止みとなり、荊州の交換と租借は、滞りなく行なわれたのである。

劉備は、江陵の城頭に立ちながら、微風を心地よげに浴びた。

「公瑾の急死は、俺の人生にとって最大の幸運だ。俺も、五十の坂を間近にして、ようやくツイてきたということらしい・・・」

 彼の視線は、自然と西の長江上流に流れていく。そこには益州、すなわち巴蜀の大地が広がっている。ここを手中に収めれば、天下三分の計が完成することだろう。