37.巴蜀を望む

 

諸葛亮は、公安政庁で湖南三郡の統治に注力していた。彼は、かねて草櫨で考えていた統治策を実験的に導入し、好感触を得ていた。

「やはり民衆は、儒家のいい加減な統治に飽きている。多少厳しくても、法家に基づくけじめある統治こそが、民を幸せにするのだ」

諸葛亮は、税の取立てを厳しく行なったが、私利を挟まず公平な施政を行なったため、民衆は喜んで彼に従ったのである。その結果、劉備軍の財政基盤は強固になり、荊州の治安も大いに安定した。

そんなある日、長身のこの青年は、奇妙な噂を耳にした。耒陽県の新任の尉が、仕事もしないで飲んだくれているというのだ。

「なに、龐統だって」諸葛亮は吹き出した。「あの士元が県尉じゃ、腐るのも当然だ」

彼は、さっそく対岸の江陵に出かけた。

「久しぶりだね、孔明」劉備は、喜んで出迎えた。

「耒陽の県尉のことで話に来ました」諸葛亮は、簡単な礼をした後、単刀直入に切り出した。

「ああ、あの酔っ払いか。とんだ評判倒れだ」劉備は唇を歪めた。「首にしようかと思うんだ。君も賛成だろう」

「ええ」諸葛亮は笑顔で頷いた。「首にした後で、軍師に迎え入れてくださるなら」

「なんだって」

「殿は、鳳雛の噂を聞いたことがあるでしょう」

「鳳雛・・・ああ、水鏡先生が言ってたな。伏龍か鳳雛・・・」

「それが、龐統士元なのです」諸葛亮は、語気を強めた。「あのような大人物を、たかが県尉に使うとは、感心できませんな。どうしてです」

「どうしてって・・・」劉備は困った顔で首をかしげた。「あいつ、もともと周瑜の秘書だったんだろう。周瑜の葬式で泣きながら棺を挽いたらしいぞ。また、魯粛の古い友人で、今回登用したのも魯粛の推薦を受けたからだし。要するに、孫権の回し者だと思ったんだよ」

「ははは、回し者なら、殿の後宮に一人いるじゃありませんか」

「ああ、女房か」劉備は、不機嫌になった。

孫夫人は、近頃ますます高慢になり、劉備の部下たちを顎で使う有様だった。おまけに公然とスパイ活動をしており、その態度を隠そうともしていない。性に淡白な夫に、愛想を尽かし始めたのだろうか。

「士元は、風来坊の自由人なのです」諸葛亮は説明した。「好きなところに住み、好きな人に仕え、好きな物を食べる。魯粛との関係だって、裏があるようには思えません」

「随分と詳しいね」

「だって、彼は私の親戚ですから」

「へえ」

「私の姉が嫁いだ龐山民どのの兄が龐徳公どの。そして、士元は龐徳公どのの甥なのです。あいつは、いい加減そうな外見とは裏腹に、神のような智謀の持ち主ですぞ」

「だったら、どうしてもっと早く推挙してくれなかったのさ」

「すみません。あいつ、呉に移り住んでいたので、てっきり孫権に仕えたものと思ったのです。まさか、未だに風来坊だったとは」

「とにかく、すぐに呼び戻そう」

こうして龐統は、江陵にやって来た。

髪はぼさぼさ。顔一面にあばた。鼻毛は伸び放題。酒臭い息を吐きながら饒舌に語る。しかし、粗末な外見の内側に宿る優れた知性は、たちまち劉備の心を捕らえたのである。龐統は、特に軍事に熟達していた。古今東西のあらゆる兵書を脳髄に収め、過去のあらゆる戦いについて実に鋭い分析を開陳したのであった。

「先生」劉備は、あばた男の手を取った。「これからも、私の側近くでいろいろと教えてくださいな」

「いいですよ」気の無い態度で無表情に応えた龐統だが、劉備のことが気に入ったらしく、江陵にそのまま落着いたのである。

こうして、伏龍と鳳雛の両巨頭が、劉備の帷幕に納まった。文武の両輪がきっちりと嵌り、劉備政権はようやくその実力を天下に問おうとしていた。

そんな彼らが狙うのは、西の沃野、巴蜀の地であった。

 

ここで、巴蜀の情勢について語ろう。

この地は、北を秦嶺山脈、西を岷山山系、東を大巴山脈、南を素竜山脈に囲まれた天然の要塞である。山々に囲まれた巨大な盆地部は、四川平野(盆地)と呼ばれ、その名のとおり、四つの大河に潤される豊かな土壌に恵まれていた。

もっとも大昔は、洪水が多くて人が住める場所ではなかったらしい。この地域の治水工事と干拓を最初に始めたのは、戦国時代、秦王国の恵文王である。この国は、中華の西に位置する弱小国であって、他国との角逐で苦戦の連続であった。そこで、未開の地である巴蜀を開拓し、経済力の強化を図ったのである。この戦略は成功し、巴蜀の土壌は秦による天下統一の重要な原因となった。その後、漢の高祖・劉邦も、この地を経済拠点にしてライバル頂羽を倒しているし、前漢末には、公孫述がこの地に割拠して、最後まで光武帝を苦しめた。後に、唐の玄宗皇帝も、安禄山の戦乱を、巴蜀に逃れて態勢を立て直すことで乗り切っている。つまり巴蜀は、天下争覇において、常に重要な役割を果たす土地なのである。

さて、後漢末に話を戻すと、益州と呼ばれたこの地には、皇帝の一族が割拠していた。初代の州牧は劉焉という人物である。この人は予言に嵌るタイプだったらしく、巴蜀の地から新たな皇帝が生まれるだろうという予言を信じ、自ら志願してこの地の牧に就任したのであった。そもそも、州牧制度を発案したのはこの人だから、漢帝国の衰退について重い責任がある。しかし彼は、僻遠の地をいい事に、やりたい放題の生活を送ったらしい。勝手に皇帝専用馬車を乗り回し、中華の混乱から逃避を決め込んでいた。

さて、四川平野の政治状況はどうだったか。ここも、江南と同じく異民族の侵略に怯える土地柄だったから、大規模な軍閥が多く割拠していたのである。その地に乗り込んだ劉焉は、豪族を巧みに懐柔し、あるいは互いに争わせ、己の覇権を確立していった。そのやり方は、孫策のそれに近似している。

ただ、劉焉のユニークなところは、豪族の支配から漏れた小作民や侠客、中原からの避難民を手元に集め、『東州兵』という親衛隊を造った点である。また、北の漢中に割拠する道教系の新興宗教『五斗米道』と秘密同盟を結び、関中(長安)方面からの巴蜀への干渉を排除させた点である。

このまま事態を傍観していれば、劉焉は安楽な人生を送れたことだろう。しかし彼は、柄にもなく一世一代の賭けに打って出た。興平元年(一九四)、涼州の馬騰や韓遂と手を組んで、長安に陣取る李確と郭から天子を強奪し、朝廷の実権を握ろうと考えたのである。しかしながら、この作戦は、情報漏れによって失敗に終わった。馬騰と韓遂は大敗を喫し、劉焉の長男・劉範と次男の劉誕が、李確によって殺されてしまったのである。劉焉は、二人の才能を深く愛していたため人生に絶望し、悶々のうちに病死してしまった。

劉焉の後を継いだのは、三男・劉璋である。年少の彼は、あまり政治が得意ではなかったらしい。彼はまず、勝手な行動を取り始めた『五斗米道』の教祖・張魯の母を殺害し、この宗教勢力を敵に回してしまったのである。次に、『東州兵』を贔屓する政策を打ち出したため、土着の豪族たちに不信感を与えてしまったのである。こうして、反乱が続発する益州の治安は悪化し、民心は混乱状態に陥っていた。

この地の心有る士大夫は、密かに劉璋を見限り、新たな主君を探していた。そんな彼らの視点は、おのずと定まっていく。希望の星は、荊州で勢力を強化している劉備玄徳である。

最初に、荊州への使者となったのは、法正という士大夫であった。彼は、劉備の荊州領有を祝うという口実で、その人物や勢力を見極めようとしたのである。

心密かに巴蜀を狙う劉備にとっても、法正のもたらす情報は得がたい武器となる。さっそく彼を江陵に迎え入れて、大いに歓待したのである。

法正は、その非凡な能力にもかかわらず、故郷で劉璋とその側近に軽んじられていたので、劉備の丁寧な応対やその優しさに胸を打たれ心を引かれた。

「仕えるなら、このような人物が良い・・・」

満面の笑顔で益州に帰った彼は、同志の張松と密謀を重ねた。劉璋の首を、劉備に挿げ替える計略を練ったのである。

 

建安十五年(二一〇)冬、鄴で大宮殿・銅雀台が落成した。

五十五歳になった曹操は、この地に群臣を集めて大武術大会や文芸大会を繰り広げ、大いに笑い興じたのである。もっとも、これはただの遊びではなかった。赤壁で敗れたとは言え、己の財力と権勢が健在であることを、満天下に示す目的が隠されていたのだ。

曹操は、壮麗な宮殿を前に詠じた。

 

酒に対してまさに歌うべし

人生 幾ばくぞ

たとえば 朝露の如し

去りし日は はなはだ多し

概して まさに以って慷すべし

幽思忘れがたし

何を以って憂いを解かん

ただ杜康(酒)有るのみ

青々たり 子の衿

悠々たり 我が心

ただ君の為の故に

沈吟して 今に至る

ゆうゆうとして鹿鳴き

野の蓬を食らう

我に嘉賓有り

琴を鼓し 笙を吹く

明々として月の如し

何れの時か取るべけん

憂いは中より来たりて

断絶すべからず

陌を越え 阡をわたり

まげてもって相存す

契闊談讌して

心に旧恩を念う

月明らかにして 星稀なり

烏鵲 南に飛ぶ

樹を巡ること三匝

いずれの枝にか依るべき

山は高きを厭わず

海は深きを厭わず

周公は哺を吐きて

天下は心を帰す

 

有名な『短歌行』の第一である。いつまでも若い頃のバイタリティを失わぬ、彼の前向きな熱い生き様が良く伝わってくる。

歴史に名を残す大詩人・曹操は、中国の文学の在り方を決定的に変えたとされる。魯迅の研究によれば、曹操以前の詩は、重たく儀礼的で固い内容だった。曹操が、これを有りのままの感情の発露の場に広げたのだという。そういう意味では、李白や杜甫も、曹操の後継者に過ぎないのだ。

そんな大詩人は、良き父親でもあった。彼は、子供たちの成長振りに心を輝かせた。長男の曹昂は十三年前に南陽で戦死していたが、次男の曹丕、三男の曹彰、四男の曹植は、いずれもひとかどの人物に育っていた。

三男の曹彰は、武芸の達人で、馬上疾駆しながら百発百中の弓を放った。黄色い髯を生やしていたので、父から「うちの黄髯」と呼ばれて可愛がられている彼は、主に匈奴や鮮卑族といった塞外民族対策に手腕を発揮していた。

四男の曹植は、文章と詩作の天才だった。「銅雀台の賦」を始め、天下の文人たちをあっと言わせる名詩を、瞬く間に読み上げてしまうのだ。父の曹操も、詩作の天才だったので、この息子とは馬があった。彼らが中心となって広めた「建安文学」は、中国の文化史を一新する重要な意義をもっている。

さて、次男の曹丕は、何でも出来る器用な息子だった。武芸も政治も詩作も、人並み以上に上手にこなしてしまうので、これといった特徴がない。逆に、そこが面白味に欠けている。性格も、果断であった。審配の守る鄴城を落としたとき、一番乗りを果たしたのはこの息子であったが、その目的は袁氏の後宮にいる一人の美女であった。彼は、袁熙夫人の甄氏を略奪するために、命の危険を冒したのだ。この甄氏は、かねてより評判の美女だったので、曹操は息子に先を越されて大いに悔しがったという。ちなみに、曹丕が彼女に産ませた子供が、後の明帝・曹叡である。

そろそろ、後継者のことを考える時期かな。曹操は、銅雀台の宴席で、物憂げに杯を口に運んだ。順当に行けば曹丕だが、あいつは可愛くない・・・一番可愛いのは、植だな。

口に出して言ったわけではないが、こういう雰囲気は周囲に伝わるものである。いつのまにか、曹植に侍る取り巻きグループが形成されつつあった。

「いいや、次代のことを考えるのはまだ早い。俺の目が黒いうちは、走りつづけなければならぬ」

十二月、曹操は布告を発した。その内容は、一風変わっている。己の激動の半生について饒舌に語り、また、もともと野心など持っておらず、唯一の望みは、墓に『漢の曹操将軍』と刻まれることであったと説く。要するに、漢を簒奪する意思を持っていないと言いたいのである。丞相は、なぜ、このような布告を出したのだろうか。恐らく、政権内部で漢王朝を支持する士大夫たちとの暗闘が激しくなったからだろう。曹操は、彼ら保守派勢力を押さえながら、覇道を進みつづけなければならなかったのだ。

そんな曹操の脳裏に浮かぶのは、巴蜀の地であった。ここを占拠できれば、天下統一の可能性が大きく開けることだろう。

曹操、劉備、孫権の三者の眼は、期せずして巴蜀を指したのである。

 

建安十六年(二一一)は、まさに巴蜀の年であった。

三月、夏侯淵と徐晃に并州の反乱を鎮圧させた曹操は、彼らをその足で漢中に侵攻させようと考えた。ここは、巴蜀への入り口とも言うべき要地であり、古くから『五斗米道』の張魯が割拠している。しかし、漢中に到達するためには、関中平野の長安を経由しなければならないが、ここには関西十部将と言われる土豪勢力が割拠していた。その代表は、馬騰の後を継いだ馬超と、その盟友の韓遂である。彼らが、曹操軍の通過を素直に認めるか否か。

「逆らうなら、蹴散らせばよい」

この時期の曹操は、華々しい戦果を挙げて威信を高める必要にかられていたから、その相手は、張魯でなくても良かったのである。馬超らは、いわば生贄の羊であった。

そうとも知らず、関西十部将(馬超、韓遂、侯選、程銀、楊秋、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩)は、それぞれ一万の兵を率いて、長安の東を管制する潼関に集結を始めた。彼らは、曹操軍の進入を侵略行為とみなし、断固として排除する構えを見せたのである。

関西の諸軍は、古くより独立割拠し、異民族との戦闘に揉まれ続けた精鋭である。その騎馬隊は、馬上から長矛を振るって突進する戦技に長けていた。

曹操軍先鋒の鍾繇、徐晃、夏侯淵は、潼関の前面に陣地を造って対峙した。曹操は、自ら十万の兵を率いて出征し、七月、彼らに合流した。

戦局は、予断を許さない。

 

一方、巴蜀の劉璋は、曹操軍が漢中目指して動き出したと聞いて、大いに驚き慌てた。曹操の真の標的が、この益州であることは間違いないからだ。

別駕従事の張松が、進言した。

「曹操の軍勢は、強力です。もしも彼が、張魯の軍需物資を手に入れてこの地に侵攻してきたなら、防ぐ手立てがありませんぞ」

「ど、ど、どうしたらよかろうか」気の弱い劉璋にとっては、方策を立てるどころの話ではない。

もともと劉璋は、曹操に恭順を誓うつもりで毎年、貢物を贈っていたのであるが、赤壁の戦いの年に江陵に使いした張松が、曹操の無礼な態度に憤って丞相の傲慢を讒言したため、そのとき以降の朝貢を止めてしまっていたのである。今さら曹操に謝っても、きっと許してもらえないだろう。

「私に、起死回生の方略がございます」小柄な従事は、胸を張った。

「な、なんじゃ」

「荊州の劉備どのに、爪牙になってもらうのです。劉備どのは、殿と同族の上、信義に厚い名将です。彼に張魯を攻め潰してもらい、ついでに曹操を食い止めてもらえば良いのです」

「おお、それは良い」劉璋は、思わず両手を打った。

こうして、法正と孟達の二名が、四千の兵とともに荊州に向かった。

 

劉備は、西方の使者の本音を聞いて煩悶した。

法正と孟達は、隠し持ってきた益州の地図や人口などの統計資料を山のように差し出して、こう言ったのである。

「ここに蜀がございます。どうぞ、お取りください」

彼らは、劉備軍を巴蜀の心臓部に導き入れ、その後ろ盾を得てクーデターを起こそうと目論んでいたのだ。

「渡りに船ではありませんか」軍師中郎将の龐統が、主君の私室を訪れて言った。「何を悩まれているのです」

「確かにそうだが」劉備は、耳たぶを掴みながら憂い顔である。「俺は、騙まし討ちは好かぬ。だいたい、劉璋は同族ではないか」

「この乱世に、そのような情けは無用ですぞ」

「だが、人々は何と言うだろう。俺は、曹操の逆手を打つことで彼に対抗してきた。彼が権謀を使えば俺は誠実を、彼が厳格なら俺は寛容を用いて、天下の信望を掴んできたのだ。その方針をここで覆せば、俺に付いてきた者たちの心が離れてしまうぞ」

「それは、大事の前の小事ではありませんか」龐統は、背筋を伸ばした。「この乱世では、能あるものが上に立つ事が民の幸せなのです。劉璋のような無能な政治家は、存在自体が民の不幸であり、彼自身にとっての不幸なのだから、これを倒すことは、民はもちろん彼のためでもあるのです。同族のよしみが気になるのでしたら、彼を帰順させて丁重に扱えばよい。そして、事が成就し天下を平定した後で、彼に多くを報いてあげれば良いではありませんか」

「ありがとう、士元」劉備は立ち上がって、軍師の両手を握った。「おかげで、迷いが晴れた」

劉備は、出陣令を発した。自ら一万の軍勢を率いて、法正らとともに長江を遡るのである。ただ、曹操軍の動向が予断を許さないので、荊州には諸葛亮を始め、関羽、張飛、趙雲ら名だたる人材を残して行かなければならなかった。ゆえに、劉備に随従するのは軍師の龐統を筆頭に、新参の黄忠、卓膺といった面々である。だが、成算はあった。劉璋の膝元に座す張松が、内応の手はずを整えていたからである。

 

そのころ曹操は、関西十部将を撃破し、これを壊滅させていた。

兵法の達人の曹操は、あっと驚く軍略で彼らを翻弄したのである。

まず、自らを囮にして敵の全軍を潼関に引き寄せた。その隙に、徐晃と朱霊の二将に三千の兵を与えて北方を迂回させ、敵の背後を突く構えを見せたのである。挟撃の危機に陥り、驚き慌てる十部将だったが、曹操は一気に彼らを攻撃しようとせずに和睦を申し入れた。そして、和睦交渉中の休戦期間を利用して彼らに誘降の手を伸ばし、互いに疑心暗鬼の状態に陥れたのである。

もともと十部将は、独立意識の強い豪族たちであるため団結力は弱かった。また、首領格の馬超と韓遂の仲もそれほど良く無かった。馬超の父・馬騰は、韓遂と義兄弟の契りを交わしたこともあったが、三年前に仲たがいし、追い出されるような形で許昌に隠居してしまっていたので、馬超は、むしろ盟友の心底を疑っていたのである。

九月、十部将の混乱を感得した曹操は、軍師・賈詡の助言の元に休戦を破棄し、一気呵成に総攻撃を仕掛けた。十部将は、自慢の長矛を使う余裕もなく崩れ立ち、雪崩を打つように西方に逃げ散ったのである。李堪と成宜は逃げ遅れて斬られ、楊秋は降伏した。

かくして、長安を中心とする関中平野は、曹操の勢力下に収まった。

しかし曹操は、余勢を駆っての漢中侵攻は取りやめた。士卒が疲労し、補給も続かなかったからである。慎重で合理的な彼は、もともと無茶な戦いは決して仕掛けない男だったが、赤壁での敗戦が、その傾向をさらに強めた。補給線の確立した安全な戦場での勝利こそ、彼が望むことだった。

曹操は、夏侯淵を長安に残して十部将の残党を追撃させるほかは、全軍を率いて鄴への帰途に就いたのである。その途中、

「劉備が、巴蜀に入りました」賈詡は、密偵が掴んだ情報を主君に伝えた。

「攻め込んだのか、あの玄徳が」曹操は驚いた。

「それが、どうやら劉璋に招かれたとのこと」

「ふふん、劉璋は、玄徳を爪牙として使うつもりか」

「御意」

「ふふん、玄徳を使うのは難しいぞ。劉璋には荷が重いだろう」

「・・・いずれにせよ、南方を攻撃する絶好の機会到来ですな」

「運が向いてきたようだ」曹操の豪快な笑い声は、蒼天に吸い込まれていった。

 

噂の劉璋は、劉備が来てくれると知って大いに喜んだ。

「持つべきものは、力強い同族じゃあ」

彼の敵は、曹操や張魯だけではなかった。益州の内部にも、彼に反感を持ち、反逆の機会を窺う豪族たちが多かったのである。劉備の入蜀は、そんな連中に対する有効な牽制になることだろう。このときの劉璋の心境は、徐州牧就任当時の劉備が、呂布を信頼して招き入れた時の状況に酷似している。

当然、反対論も多かった。主簿の黄権や従事の劉巴は、劉備を油断ならぬ虎に例えて排斥するよう進言し、王累という者は、城門に自らの体を逆さ吊りにして主を諌めた。しかし、劉璋は聞き入れなかった。信頼する側近の張松が、劉備奉迎を熱心に勧めたためでもあるが、政権を維持するためには劉備の力が不可欠であったからだ。

劉璋は自らの誠意を見せるために、三万の軍勢を連れて成都北方の涪城まで出迎えた。

険しい三峡の激流を越え、ようやく四川平野に入った劉備は、州牧自らの心を込めた歓迎にあって大いに喜んだのである。

両軍の将兵は、百日にわたって互いの陣営を訪れて、歓を尽くした。

劉璋季玉は、撫で肩が印象的な、人の良い優しい男であった。劉備は、そんな彼が気に入った。どこかに置き忘れてきた、自分の理想の人格を見ているような気持ちになった。

連日の宴会騒ぎの中、劉璋の警護は著しく手薄であった。それだけ、客将を深く信頼していたのだろう。

「今捕らえれば、事は簡単に済みますぞ」龐統は、小声で進言した。

成都の張松や同道の法正と孟達も、同じ事を言ってきた。

「俺には忍びない」劉備は、顔を左右に振った。「あいつの泣き顔は見たくない」

「なるほど」龐統は、口ひげを捻りながら頷いた。この程度で腹を立てていては、劉備玄徳の部下は勤まらない。「確かに、騙まし討ちはうまくありませんな。もう少し時期を見ましょうか」

 劉璋からの増援を得て二万に膨れ上がった劉備軍は、漢中との境にあたる葭萌関に向かった。この傭兵軍団は、張魯と対決することを州牧から期待されていた。