39.益州平定

 

その間、涼州の馬超は、再起不能の大敗を喫していた。一時は曹操軍を連破して占領地域を広げた彼は、士大夫を弾圧し虐殺する政策を展開したために民心を失い、自滅同然の形で領土を追われたのである。

馬超の勢力を完全に駆逐した夏侯淵は、そのまま西進して韓遂と宋建を打ち破り、涼州の安定を不動のものとした。

故郷を追われ、妻子眷属をほとんど失った馬超は、従兄弟の馬岱とわずかの従者を引き連れて漢中に移り住んだ。しかし漢中の張魯は、曹操に敵対心を持たれたくなかったので馬超の存在を迷惑視していた。

剣呑な空気を察した馬超は、西の氐族のところに移り住もうと考えた。

「もともと、抹香くせえ宗教団体など、俺には向かねえ」馬超は、従兄弟に負け惜しみを言った。「もう、漢民族はうんざりだ。行く行くは大秦国(ローマ)に渡って、青い目の奥さんと金髪の子供に囲まれて余生を送るとするぜ」

「まだ四十歳なのに、一族の仇を討とうとはしないのですか」生真面目な馬岱は、怒声を発した。「曹操は、罪の無いあなたの父上や二人の弟を殺したのですぞ。昨年は、逃げ遅れたあなたの妻子を皆殺しにしたのですぞ」

「もう、どうしようもないだろうが」馬超は、目を潤ませた。「俺は負け犬なんだ」

なんと情けない・・・馬岱は目頭を押さえた。馬超と言えば、若いころから武勇絶倫で『錦将軍』と呼ばれる猛者だった。ある戦いでは、右足に重傷を負ったものの、その足を布で包んだまま単騎で敵陣に突入し、五人の騎馬武者の首級をあげる活躍をした。それが今や、逃げることしか考えていないとは。

氐族の陣幕で寝転んでいた馬超は、しかし意外な人物の訪問を受けた。父の旧友であった李恢という士大夫である。

「久しぶりですな」馬超は喜んだ。「四川なまりを聞くのは何年ぶりだろう」

「孟起よ、こんなところで何をしている」李恢は、厳しい口調で言った。

「そういうあなたは、何をしているので」

「私は、今や劉左将軍の部下なのだ」

「へえ、劉璋を見限ったので」

「・・・まあ、そういうことだ」

「俺を招聘しに来たのですな」

「・・・まあ、そういうことだ」

「劉備は、蜀を平定したら、曹操と戦うつもりですか」

李恢は、大きく頷いた。

馬超は、久しぶりに心からの笑顔を見せた。彼の壮心は、まだ枯れ果ててはいなかったのである。

 

そのころ劉備軍は、成都城を四方から包囲していた。

諸葛亮と久しぶりの対面を果たした劉備は、二十歳になった養子の劉封に引き合わされた。

「父上」劉封は、相変わらずの腕白坊主の面影を残している。「俺は、孔明どのの先鋒になって、敵の陣地を三つも落として兜首を十三個もとったんだぜ」

「おお、それはすごい」劉備は喜んで、養子の頬を優しく叩いた。「二人の叔父に負けない猛将になれよ」

「いつ、総攻撃をかけるの」

「まあ、待て。もう少ししたら、叔父たちに負けない猛者が味方につく。それを待ってからでも遅くはない」

やがて、馬超の一行が現れた。その威風堂々とした武者ぶりは、劉封の肝を奪った。

馬超と馬岱は、劉備の前で馬から降りて平伏し、丁重な挨拶をした。

「曹操に苦もなくひねられた愚物ではありますが、今後とも、よろしくお願いします」

劉備は、あわてて駆け寄ると二人を助け起こした。

「我々は、漢王朝復興を目指す同志なのです。そんなに畏まらないでください。私こそいたらぬ者ではありますが、互いに助け合って大願を成就させましょう」

馬超たちは、劉備の丁寧な物腰と屈託のない笑顔に大いに安心したのである。

 

さて、錦将軍・馬超が劉備に合流したとの知らせは、成都城を震撼とさせた。

成都城には一年分の食料と、三万の兵士が温存されていた。しかし、士大夫階層の脱走が相次いだ上、総大将の劉璋にも徹底抗戦の覇気が乏しかった。

やがて、成都城下に馬超が現れ、大音声で降伏を呼びかけるにいたると、城内の戦意は目に見えて落ちていった。

劉璋は、徹底抗戦を訴える部下たちにこう語った。

「我々は、親子二代に渡ってこの州に君臨してきたが、民衆になんの恩徳も施さず、いたずらに苦しめてばかりだった。もうこれ以上は忍びない」

劉璋は、民衆を思いやる優しい人物であった。しかし、人間的な優しさと政治家としての能力は、必ずしも両立しないのである。彼は、部下たちや民衆を統制するケジメを持たなかったため、結局、国の乱れを招いてしまった。これは、親に甘やかされた子供が、長じてもロクな大人にならないのと同じことである。

劉璋は、劉備が差し向けた使節・簡雍に、降伏の意思を表明した。闊達無類の簡雍は、かつて涪城で対面したときに劉璋に好印象を与えていたので、この大切な局面で特使に選抜されたのだった。

建安十九年(二一四)五月、成都は、その城門を侵略者の前に大きく開いたのである。

ここに、足掛け三年に及ぶ益州平定戦は終わった。今や劉備は、荊州と益州を実効支配し、その勢力は東呉に匹敵するものに成長したのである。志を抱いて郷里を飛び出してから、実に三十年。五十四歳にして初めて、誰にも侵されない自前の領土を手に入れたのだった。

「ようやく、天下三分の計が成功したな、孔明」城門を馬車に乗ってくぐりながら、劉備は傍らに座す参謀の肩を叩いた。その心には、まだ大成功の実感が湧かずにいる。

「たいへんなのは、これからなのです」諸葛亮は、厳しい眼差しを主君に向けた。「国は、興すより治める方が遥かに困難です。ましてや力で強奪した以上、民心はなかなか落着きません。これからの一挙一動、心してくだされ」

「ありがとう」劉備は、深く頷いた。「よろしく助けてくれよ、孔明。今や、君だけが頼りなのだ」

「士元は、本当に残念でした」諸葛亮は、悲運に倒れた旧友を想って目を伏せた。

「ああ。でも、君でなくて本当に良かった」劉備は、目頭を押さえながらそう答えた。

これは、お世辞ではない。彼は、龐統と諸葛亮の才能は異質だと考えていた。龐統の代わりは法正でも勤まるが、諸葛亮の代わりが勤まる者は、おそらくこの中華に一人もいないだろうと考えていたのである。

堂々と入城した劉備は、劉璋と対面してその潔い決断を賞揚すると、その身柄を公安に移すよう手配した。彼が、かつて朝廷から拝領した振威将軍の印綬を、そのまま持たせてあげたのが、せめてもの情けである。

劉備は、劉璋に代わって益州牧を名乗った。これで彼の肩書きは、漢の左将軍・領豫州荊州益州牧・宜城亭侯という、舌を噛みそうなくらいの物々しさとなったわけである。

さて、仕事熱心な諸葛亮は、さっそく書庫に入って財政の調査を始めた。倉庫に莫大な金銀があることを知った彼は、劉備に助言して、部下たちへの戦利品とするよう手配したのである。

州牧の椅子に座った劉備は、これまでの苦闘の日々を思い返して深い感慨に浸った。

「せめて士元には、この俺の姿を見せてやりたかったなあ」

城下では、戦利品を貰った将兵たちが、大喜びでどんちゃん騒ぎを繰り広げている。

「あいつはやっぱり、不仁の行いと評して鼻で笑っただろうか」

その双眼には、涙が浮かんだ。

降伏した劉璋の臣下たちは、そんな劉備の様子に目を見開いた。勝ちに奢って傲慢になるどころか、あくまでも君主の役割を忘れない彼に、初めて尊敬の気持ちを抱いたのである。

人材登用も、公平無私に行なわれた。降伏した者も最後まで敵対した者も、その能力に応じて高位に就けられ、大事な仕事を任されたのである。

譜代の家臣の論功行賞は、以下のとおりである。

諸葛亮は軍師将軍兼益州郡太守、関羽は官職は従前のまま荊州軍事総督、張飛は以前の官職に加えて巴西太守、趙雲は翊軍将軍、馬超は平西将軍都亭侯、法正は揚武将軍兼蜀郡太守、黄忠は討虜将軍、陳到と魏延は共に牙門将軍、麋竺は安漢将軍、麋芳は南郡太守、簡雍は昭徳将軍、孫乾は秉忠将軍、馬良は左将軍掾、劉封は副軍中郎将、劉琰は固陵太守に、伊籍は左将軍従事中郎、孟達は宜都太守、霍峻は裨将軍兼梓潼太守に昇進した。

また、新付の家臣の論功行賞は、次のとおり。

呉壱を討逆将軍、李厳を犍為郡太守、費観を巴郡太守、黄権を偏将軍、董和を掌軍中郎将、費詩を督軍従事にそれぞれ任命した。それ以外の文官と武官は、その能力が未知数なので、さまざまな官職に任用して能力を競わせることにした。

もちろん、劉備にも嫌いな人物はいた。

「許靖と劉巴だけは、召抱えたくない」益州の主は、頑固に言い張った。「許靖のやつは、先日、成都城を脱走しようとして城壁を乗り越えたところを劉璋に捕まった粗忽者だ。劉巴のやつは、もともと荊州にいたくせに、俺に仕えるのが嫌で、南蛮経由で益州に逃げ込んだ頑固者だ」

「確かに、彼らの実質は大した人物ではありません」諸葛亮は、平静な口調で言った。「しかし、士大夫としての名声は天下に轟いていますから、召抱えなかったら、我が君の狭量を疑われ、その後の人材登用に支障が起きる可能性があります」

劉備は、思わず謀臣の顔を見直した。ここ一番で頼りになるのは、やっぱり孔明だ。

こうして劉備は、自分の好悪を抑えて許靖と劉巴を招聘し、厚遇したのである。こうした措置によって、益州の豪族や士大夫階級は見る見るうちに劉備政権に馴染んでいった。

さて、諸葛亮は、書庫で過去の史料を精査し、劉璋政権の失政の原因を見つけ出した。

「ふむ、法令の施行が甘い上に、運用に不備がある。一から作り直すとしよう」

こうして彼は、『蜀科』と呼ばれる法律の制定に着手した。その内容は厳密を極め、詳細多岐にわたる精緻なものであった。

このころの中国では、漢帝国の儒教思想が浸透していたため、厳密な法令を嫌う傾向があった。つまり、仁徳によって国を治めれば、法の適用など不要だというのである。しかし、法家思想を信じる諸葛亮は、そのような考えに反対だった。法家の力で天下を狙う曹操に対抗するには、こちらもそれに負けない法術を駆使するべきだと考えたのである。

草稿を一読した法正は、思わず呟いた。

「これは、厳しすぎる」

「そうですか」諸葛亮は、首をかしげた。

「軍師どのは、高祖の前例をご存知ないのか。高祖は咸陽(秦の首都)を落としたときに、法三章で民心を掴みました。我々も、そうするべきではありませんか」

「その議論は、一を知って十を知らないものです。高祖のときは、秦の法令があまりにも厳しく民衆が疲れきっていたため、法を緩くするのが有効だったのです。しかし現在の益州は、それとは逆に、過去の法が緩すぎたために社会が乱れているのですから、むしろ法を厳格にするべきなのです」

雄弁に語る諸葛亮は、法正の深潭を見抜いていた。

法正は近頃、権勢を悪用して、過去に自分を蔑んだ者たちを私的に殺害していたから、法が厳格になってリンチが行なえなくなるのを恐れているのだろう。

法正のリンチは、大きな社会問題となっていた。しかし、諸葛亮には、どうにもならなかった。苦情を言う士人たちを、彼はこう言って宥めるほかなかった。

「我々が、北の曹操、東の孫権、内の孫夫人から逃れて成功できたのは、全て孝直どののお陰である。その功績を考えるなら、少しくらいの我儘は許さなければならぬ」

本音を言うなら、諸葛亮は法正のような人物が嫌いだった。しかし、法正には諸葛亮が持たない謀略の才能がある。また、法正は益州士大夫の代表格であったから、彼を優遇することは、今後の人材登用のために必要不可欠なのだ。ここは、天下のために我慢しなければならぬ。

多忙な日々を送る諸葛亮の元に、荊州の関羽から手紙が来た。荊州情勢に関しての定時報告である。それによると、東呉は相変わらず曹魏と江北の奪い合いに夢中なので、荊州の安全は磐石である。ただ、その報告書の末尾で益州の情勢について尋ねていて、馬超の人物について特に知りたがっていた。

「ははは、あの雲長も、馬超の威名が気になると見える」

諸葛亮は、こう返事してやった。

「孟起は、文武を兼ね、雄烈人に過ぎ、一世の雄である。これを昔にしては黥布、彭越(高祖配下の名将)に比すべく、これを今にしては、益徳と並び馳せて先を争うべきものである。しかしとうてい、髯どのの絶倫逸群には及ばない」

 返事をもらった関羽は大いに喜び、その手紙を、賓客たちに見せびらかして回ったという。これは、昔からの仲間たちと別れ、一人で荊州を守護する関羽の、孤独感が垣間見られる挿話である。