4.河東の長生

 

劉備たちの商売は、その後も順調に進んだ。

彼らは、二年のうちに四度、涿と中山を往復し、盗賊には三度襲われたが、そのいずれも難なく撃退した。というのも、襲ってくる盗賊の実態は、飢えた民衆に過ぎなかったので、彼らを扇動した無頼漢を一騎打ちで倒してしまえば、残された連中は戦わずして逃げ出すのが常だったからだ。つまり、一騎打ちにさえ勝てれば、敵がどんなに大勢でも容易に撃退できるのである。そして、劉備や張飛の鍛えぬかれた武は、そんじょそこらの無頼漢の追随を許さない強さを誇っていた。

こうして、「凄腕の用心棒集団」の風評は、いつしか河北一円に広がっていた。

そんなある夜、張飛がおもむろに劉備に話し掛けてきた。

「なあ、兄貴よ」

「あ、兄貴」劉備は絶句した。「こそばゆいな、どうゆう風の吹き回し?」

「折り入って、頼みがある」荒くれ筆頭の張飛さまが、小娘のような眼で見つめる。

「お、おう」劉備は、唾を飲み込んだ。「な、なんでも言ってみろや」

「俺の親友が困っているんだ。助けてやってはくれまいか」

「お前みたいな粗暴な奴に、親友なんているのか」劉備は笑った。

「なんとでも言いやがれ、今日は許す」張飛は、唾を吐いた。「親友というより、血盟の義兄だ。仇討ちをするために、涿にやってきたんだが、相手は多勢に無勢。なんとか助けてあげたいんだ」

「流れ者か」

「ああ、河東郡解県の者だ。名を長生という。あちらじゃあ、有名な侠客だ」

「司州者か、ふうん、」劉備は唸った。「お前、若いくせに顔が広いんだな」

「ガキのころから諸国を流れ歩いて、豪傑たちに顔を売ってきたからな」張飛は、鼻をこする。「今では、俺様が最高の豪傑なんだけどな」

「冗談は置いといて」劉備は伸びをした。「話は面白そうだな。乗ったぜ」

「さすがは兄貴、話が早い」張飛は、満面の笑顔を見せた。「さっそく来てくれ。長生に引き合わせるからさ」

こうして二人は、駒を並べて田園を走った。

長生の隠れ家は、郊外の廃屋にあった。しかし、二人の荒くれが馬を下りたとき、既に話題の人は、目的を達成するために出かけていた。

「長生め」張飛は怒った。「待っていてくれるって言ったじゃないか」

「今から追っかけて間に合うか」劉備は、留守居をしていた少年に聞いた。

「んだ」粗末な身なりの少年は、赤い鼻をこすりながら頷いた。

長生は、十名の仲間とともに、日の出前に攻め入るつもりで出かけたらしい。まだ宵の口だ。

「じゃあ、行くべ」劉備は、張飛の肩を叩いた。「まだ夜明けまで十分ある」

再び馬上の人となった二人は、少年に教えられた方向に疾走した。時折顔を見せる三日月が、漆黒の闇に沈む草原を優しく照らす。

数刻の後、二人は目的の屋敷にたどり着いた。

「ここは」劉備は絶句した。「曾勝どのの屋形じゃないか」

曾勝は、涿の無頼漢の間で有名な侠客であった。并州から流れてきた塩の密売人である。

「その曾勝が兄貴の敵なんだ・・おっ」張飛は慌てて馬から降りた。「始まってるぜ」

確かに、闇を縫って剣戟や雄たけびが聞こえる。二人は、生垣の隙間を縫って勝手口へと回った。そして、勝手口は今や激しい闘争の場と化していた。

四つの影が、中央に立つ巨きな影に撃ちかかる。しかし、次の瞬間には、四つの影はほとんど同時に跳ね飛ばされて、大地に横たわっていた。

「兄貴」張飛は叫んだ。「加勢に来たぜ」

「おお」巨きな影は、張りのある声を返した。「燕人、よく間に合ったな」

張飛は、昔の仲間からは燕人と呼ばれているらしい。涿の地が、春秋戦国時代、燕国の領土だったことから付いた名前なのだろう。

そのとき二つの影が、喚きながら勝手口から飛び出して、こちらに向かってきた。その後ろから、少し遅れてもう一つの影が現れたが、これは別方向へと駈けていく。

「曾勝」巨きな張りのある声は、最後に現れた影へと飛んだ。「逃げるか」

「兄貴、早く追え」張飛は脱兎のごとく飛び出すと、こちらに向かってきた影の一つを、得物の棒で殴り倒した。

「うん、早く行け」劉備も、張飛に続いて飛び出すと、もう一つの影を斬り倒した。

「かたじけない」巨漢は微笑むと、思いがけない速さで最後の影を追った。

劉備と張飛も、慌ててそれに続く。

生垣を回った彼らの前に現れたのは、馬小屋から飛び出した騎馬武者だった。

「関羽」騎馬武者は、巨漢に向けて怒鳴った。「よくぞこの俺の裏をかきおったな。次はお前の命を貰う」

ものすごい勢いで、こちらに向けて突進してくる。

「曾勝、残念だが次は無いぞ」

巨漢は、騎馬武者に向かって横殴りの一閃を浴びせた。前足を斬られた馬はたまらず横転し、騎馬武者は派手な音を立てて大地に落とされた。それでも、彼は必死に立ち上がろうとする。

「父の仇、今こそ思い知れ」駆け寄った巨漢の長刀が唸りを上げた。

曾勝と呼ばれた男の首は、血煙を上げて宙に舞った。

 劉備たちは気づかなかったのだが、正面口でも戦いがあった。長生の部下十名が正面から殴り込みをかけ、驚いた曾勝が勝手口から逃げ出すところを長生が待ち伏せる作戦だったからである。長生の部下は、手負いもいたが全員無事で、その報告によれば、曾勝配下の生き残りは、みな尻に帆かけて逃げ出したとのこと。

「すまぬ、燕人」巨漢の長生は、張飛の肩を叩いた。「明け方に襲撃するとお前に伝えたのは、敵を油断させるための罠だったのだ。こういう噂は、顔役の曾勝にはすぐ伝わるから、奴は俺の流した偽情報に惑わされて、予想外に早い襲撃を受けてくたばったというわけだ」

「さすがは兄貴だ」張飛は、鼻をこすった。「単細胞の俺とは訳が違う」

「燕人、この方は」長生は、劉備を振り向いた。

「ああ、劉備どの。俺の今の兄貴分だ」

「申し遅れました」長生は、劉備に会釈した。「私は、司州河東郡解の生まれ、関羽、字は雲長と発します。裏の世界では、長生とも呼ばれております。貴君の助太刀のお陰で、長年の宿念を果たすことができました。このとおり、深く感謝いたします」

「いや、これしきのこと。いつも、貴君の義弟どのには世話になっていますから」

劉備は、昇り行く陽光の中で関羽の人品を観察した。

年のころ二十くらいか。棗のような面立ちで、肌は浅黒く見える。上背は、九尺あろうか。劉備よりも少し長身で、まだ若いのに口ひげを生やしていた。

その語るところによれば、曾勝は、塩の密売人であった関羽の父を殺し、その利権を奪って涿で開業した者らしい。関羽は、艱難辛苦の末に闇の世界で頭角をあらわし、ついに父の仇の所在を突き止め、今ここに目出度く宿願を果たしたのであった。

三人が、勝手口の前で互いに自己紹介をしている間、関羽の部下たちは屋敷の中で略奪にふけっていた。やがて轟く黄色い悲鳴。どうやら女を襲っているらしい。

「どれ、我々も行きますか」関羽は、口ひげを撫でながら微笑んだ。

おもむろに屋内に足を向けた三人の前に、半裸の女が飛び出してきた。女は、先頭を歩いていた劉備の胸にぶちあたる。良く見ると、美麗な絹に身を包んだ端麗な美女である。

「君は誰だ」劉備が問うと、女は素早く後ろに跳び退り、怯えた目を向けてきた。

「無礼者っ、あたしは冀州の名門、毋丘毅の娘。無頼漢の慰み者にはならないわ」

「でもさ」張飛が顎を突き出した。「今まで、曾勝の慰み者だったんだろ」

娘は肩を震わせ、激しく泣き出した。

「泣いても無駄だ」関羽が厳しく言った。「これがお前の運命だ。大人しく、我々に身を任せるが良い」

「いや」劉備が、低く呟いた。「家に送り届けてやろうよ」

「なんですと」関羽が振り向いた。

「せっかくの上玉なのに?」張飛も顎を引いた。

「曾勝と同じ真似はしたくないだろう?」劉備は、悪びれずにそう言うと、上衣を脱いで娘の肩にかけた。

結局、その場は劉備の言うなりに纏まった。関羽と張飛も、関羽の部下たちも、劉備に逆らう言葉を切り出せなかったからだ。劉さんには、その場の空気を支配する不思議な魅力が備わっているらしい。

喜んだ娘の案内で一行が向かったのは、毋丘家の所領がある右北平であった。貴族制が進みつつあるこの時代、名門豪族の私有地は、全国各地に置かれており、毋丘家の右北平は、そのうちのひとつに過ぎない。当然ながら当主は不在であったが、留守の家人たちは突然の訪問に大いに驚き、また娘の帰還を大いに喜んだのである。

屋敷に引き止められた三人は、娘に酌をしてもらって大いに酔って騒いだ。尚香という名のその娘は、劉備のことが好きになったのか、しきりに秋波を送ってくる。しかし劉備は、無頼漢としての立場を崩さず、しかも士大夫の礼儀作法で家人に接し、たちまち彼らの信頼を獲得したのである。

張飛は退屈そうに杯を干していたが、関羽は興味深げに劉備の様子を見守っていた。

帰り道、馬上の関羽は、意を決して語りかけた。

「あなたは、不思議な人だ」

「ん」劉備は、鼻をほじりながら答える。

「有力な士大夫に恩を売ることで、将来、何か大きな事をしようと考えているのでしょう」

「ただ酒が飲みたかっだけだよ」

「・・・・」関羽は、明けゆく東の空に目をやった。「俺には、もはや涿ですることが無くなったと思ったが、そうでもないらしい」

「司州には、待っている人とかいないのか?」劉備は、鼻毛を処理しながら尋ねた。

「俺は、天涯孤独の身の上だ。部下たちもそうです」関羽は、深く吐息をついた。「我々を、あなたの仲間にしてはもらえませんか」

「ああ、いいよ」劉備は、飛びっきりの笑顔を見せた。「頼りにするぜ」

「だったら、俺たち兄弟になろうよ」張飛が、両手を振り上げて叫んだ。

「劉備どのが長兄だな」関羽は、髯をなでながら楽しげに頷く。

「年の順かい。まあ、いいだろう」劉備は、欠伸で応えた。

道の片隅に、粗末な土地神さまの祠がかしいでいた。

三人は、馬を降りるとその前に並んで座り、叩頭して申し述べた。

「我ら三人、生まれた日は違えども、死すときは共に伏すことを誓う」

今や高く上った太陽が、劉備、関羽、張飛の顔を正面から真っ赤に照らしていた。

 そしてこれが、時代を動かす三人の豪傑たちの、運命の出会いなのであった。