40.単刀赴会

 

劉備の益州占領は、今後半世紀に及ぶ中華の政治情勢を決定付けた。

中華は、魏、呉、蜀の三大勢力によって三分された。この三者は、鼎の足のように互いに国境を接する微妙な位置関係にあったから、政局はまさしく三国鼎立の様相を呈したのである。

最大勢力は、やはり河北と中原を有する曹魏であろう。しかし、孫呉と劉備が同盟すれば、曹魏を打倒することは必ずしも不可能ではなかった。事実、孫呉は単独でも優勢に戦いを進めている。

建安十九年(二一四)五月、孫呉の主力は廬江郡の皖城を攻略し、守将の朱光を初め、数万の民を捕獲したのである。

劉備の成功と孫権の優勢は、曹魏内部の保守派分子たちを勇気付けた。曹操は、彼らの暗躍を食い止めるため、呉と蜀に痛棒を与えなければならぬ。

七月、曹操は再び十万の大軍を引き連れて合肥に出征した。しかし、息あがる孫呉は、これを濡須要塞で迎え撃ち、付け入る隙を与えなかった。

「まあ、良い」曹操は、さして落胆の色を見せなかった。「先月、荀攸が死んだことによって、都の警備は手薄になった。ここで俺が出征すれば、油断して動き出すネズミが出るだろうからな」

曹操の遠征は、いわば内患を炙り出すための政略だったのである。

案の定、許昌で外戚が動いた。廷臣の謀略は、董承以来、実に十四年ぶりである。皇后の兄・伏徳を中心としたグループは、曹操の帝位簒奪を未然に食い止めるため、精力的に動き出したのである。

十一月、密偵の暗躍によって計画の全貌を掴んだ曹操は、全軍を許昌に転進させるとともに、尚書令の華歆に命じて反対派の粛清を行なわせた。その魔手は、皇后の身辺にまで及んだのである。

伏皇后は、天子の御前に逃げ込んで、その膝元に蹲った。

「陛下の御威光で、助けてはいただけないでしょうか」

献帝は、うめいた。「朕の命とて、いつまでもつか分からぬのだ」

その直後、宮中に乱入した官吏によって皇后は連れ去られ、刑場に引き出されて棒で殴り殺された。

この事変で処刑された伏一族は、二百人の多きに上がったという。

曹操は、都に入ると天子に拝謁を願い出た。

「魏公よ・・・」天子は、蒼白な頬の下で紫色の唇を震わせた。「よくぞ、逆臣を成敗してくれた」

「朝臣として、当然のことです」曹操は、平然と答える。

「恩賞として、旄頭(天子専用旗印)と鍾虚(朝廷の鐘を下げる台)の使用を、許可する」

「ありがたき、お計らい」

曹操は、冷ややかに微笑むと、堂々と背中を向けて退出した。

皇帝は、玉座にへたり込んで、冷や汗を拭うこともできずにいた。

年が明けた建安二十年(二一五)正月、曹操は、自分の次女を皇后として宮廷に送り込んだ。天子の行動を掣肘するとともに、自らが外戚となることで権威強化を図ったのだ。

しかし、新皇后の曹節は、心の優しい女性だった。彼女は、劉協の境遇に深く同情し、心から夫を慰めて励ましたのである。二度にわたって皇后を曹操に殺された天子は、こうして家庭の安息だけは最後まで奪われずに済んだのである。

さて、内患を事なく制圧した曹操は、今度は西の外憂に当たる決意を固めた。漢中の張魯を倒し、もって巴蜀の劉備と対決しようと考えたのだ。

 

そのころ孫権も、新たな政治行動に出ていた。

「北の爺が去った隙に、西の爺をあやすとするか。貸した荊州南部を返してもらおう」

彼は、側近の諸葛瑾を成都に派遣したのである。この人物は、諸葛亮の実兄でもある有能な士大夫であった。

四川平野に入った諸葛瑾は、民心が安定し治安が良好に保たれている様子に感心した。聞けば、軍師将軍・諸葛亮の施政宜しきを得ているためだという。

「我が弟ながら、偉い奴だなあ」誠実で優しい人柄の諸葛瑾は、自分のことのように喜んだ。

しかし、交渉は不調に終わった。政庁で出迎えた劉備は、孫権の荊州返還要求に難色を示したのである。

「我が軍は、涼州を攻める準備中だ。涼州を攻め取るまで待ってくれるよう、仲謀どのに伝えてくれぬか」益州の主は、物憂げに言う。

傍らに控える諸葛亮も、厳粛な表情で頷いた。

荊州は、天下三分の計に必須の要地である。口先だけで明け渡す法はない。

諸葛瑾は、仕方なく手ぶらで引き上げた。

「悪賢い夷めが」報告を受けた孫権は、激怒した。「引き延ばそうというのだな。それなら俺にも考えがある」

彼は、湖南四郡のうち、長沙、桂陽、零陵の三郡に吏僚を送り込んだ。しかし、これらは関羽によって全て追い払われた。

「おのれ髯め」孫権は、ますます怒った。「こうなったら、実力行使だ。荊州を守るのは、関羽の三万だけだ。あの曹操軍を連破した我が軍なら、あんな髯などどうってことはない」

豫章に集結した東呉軍四万は、二手に分かれて進撃した。

魯粛率いる一万は、長沙から北進し、益陽に陣地を築いて関羽を食い止める。そしてその隙に、呂蒙率いる三万が、湖南の三郡を奪取するという作戦である。

この作戦は、見事に成功した。関羽が魯粛軍に釘付けとなったため、孤立した桂陽と長沙の太守は次々に東呉に降伏したのである。ただ零陵郡の郝普だけが、固く城を守って屈しなかった。

急を知った劉備は、大急ぎで軍勢を動員した。法正、張飛、趙雲を含めた五万の精鋭を率いて、自ら長江を下ったのである。後方支援は、諸葛亮が受け持つ。

「碧眼児め、思い知らせてくれるわ」劉備は、船上で唇を噛む。

「しかし」法正は、主君の横顔を見た。「激しく戦って互いに損耗を出すのは避けねばなりません。我々の敵は、あくまでも漢室の簒奪を企む曹操だということをお忘れなく」

「ああ、分かっているさ」劉備は、頼もしい参謀に笑顔を返した。

劉備軍が公安に到達したとき、ちょうど零陵が陥落した。郝普は、呂蒙が放った偽手紙に騙され、劉備に見捨てられたと思って城を明け渡してしまったのである。

呂蒙子明は、孫権軍期待のホープである。彼はもともと汝南郡の出身であったが、中原の戦乱を避けるため、姉の夫であるケ当を頼って江南に渡った。居候の身分に飽き足らぬ呂蒙は、十五のときにケ当とともに孫策軍に加わり、めざましい活躍を見せたため、ケ当の病死後は、その部曲を承継することを許されたのである。だが、武辺者の呂蒙は、学問にまったく興味がなかったため、士大夫たちに軽んじられていた。それを心配した孫権が読書を勧めたところ、たちまち目覚しい知略を身につけたのである。後に彼と会見した魯粛が、呂蒙の変貌に大いに驚き、「もう君は、呉下の阿蒙(蒙ちゃん)じゃないね」というと、「士というものは、三日会わなければ、刮目して(目をよく見開いて)対するべきですよ」と答えたという。こうして魯粛と呂蒙は肝胆相照らす仲となり、政略について熱心に語り合った。そして呂蒙は、劉備を信頼する魯粛を強く諌め、少なくとも荊州は東呉が治めるべきだと主張したのである。今回の荊州奪取作戦も、もともとの立案者は呂蒙であった。

湖南三郡を策源地とした呂蒙は、軍を北上させて魯粛軍に合流し、公安の劉備と対峙した。劉備は、関羽を先鋒に立ててこれと睨み合う。

この情勢を見て、孫権も自ら出陣し、陸口に本営を進めた。

益陽の対陣は、長く続いた。互角の戦力を持つ両軍は、直接対決によって共に大きな損耗を出せば曹操に漁夫の利を占められる事を恐れていたので、自然、根競べの持久戦となる。

魯粛は、複雑な心境だった。荊州南部は領有したいが、曹操を打倒するためには劉備との同盟が必須だと信じていたので、なんとか妥協が成立しないかと心ぐんでいた。そこで関羽に書状を送って会見を申し入れたのである。

二日後、魯粛と関羽は、共に軍馬を後方に止めおき、互いに一振りの刀を携えただけの姿で、陣頭で会見した。

全軍が見守る中、呉蜀の二大英傑は正面から睨み合う。三月の陽光は、二人の心境に無頓着なまでに暖かい。

「雲長どの」魯粛は切り出した。「貸したものを返してもらいたい。私の願いは、ただそれだけなのだ」

関羽は、涼やかに言い返した。

「土地という物は、徳のある者が所有すると決まっている。そもそも、荊州は誰のものであるか。漢のものではないのか。東呉が返還を要求するのは理屈に合わない」

「それは、詭弁というものだ」魯粛は、首を左右に振った。「荊州は、貴殿が軍事力を用いて占有しているのが実情ではないか」

「我々は、漢の左将軍の命によって、この土地を正当に治めている」

「その左将軍が、実効のある命令を出せるようになったのは、いったい誰のお陰であるか」魯粛は声を張り上げた。「私が初めて出会ったとき、劉備どのは曹操によって打ち破られ、わずかな敗残兵とともに交州に落ち延びる途中であった。それを救ったのは誰であるか。我が東呉である。この天下に拠り所のない劉備どのに土地を貸し与え、その飛躍を助けてあげたのは誰か。我が東呉である。詭弁を操る貴君は、忘恩の徒として後世のそしりを受けることだろう」

関羽は、一言もなく押し黙った。さすがの猛将にも、魯粛を言い負かすほどの才覚はない。後ろを向いて陣営に戻っていった。

こうして、いわゆる単刀赴会は、東呉の勝利に終わったのである。

「ははは、雲長も言い負かされたか」劉備は笑った。

「でも、魯粛の行動には、まだ希望があります」馬良が進言した。「ここは、外交手腕で解決するべきでしょう」

そのとき、孟達が陣幕に駆け込んできた。

「たいへんです。曹操が、十万の軍勢を率いて漢中に攻め入りました」

「こうしてはいられない」劉備は、冷静に言った。「急いで、陸口の孫権に使者を出そう。和平を結ぶのだ」

劉備は妥協した。湘水の流れを境に、東側(江夏、長沙、桂陽)を孫権、西側(南郡、零陵、武陵)を劉備の領土と定め、荊州南部を東西に分割することを提案したのである。

孫権は、諸葛瑾を派遣して交渉を煮詰め、この協定は直ちに成立した。

面目が立って喜んだ孫権は、直ちに軍を引き上げ、捕虜になっていた郝普を劉備に返還したのである。彼の視線は、北へと向けられる。

「北の爺が漢中にいるうちに、合肥を奪ってくれようぞ」

劉備も、その主力を引き連れて巴蜀に帰ることにした。曹操を迎え撃つためである。

その前日、公安で華やかな送別の宴が開かれた。臭い仲三兄弟が一堂に会するのは、実に三年ぶりのことである。

関羽は、長子の関平を兄弟たちに引き会わせた。ようやく十三歳の関平は、父に似て大柄の筋骨逞しい少年であった。

「うちの劉禅は八歳、益徳のところの張苞は十四歳か。ということは」劉備は、指折り数えながら呟いた。

「子供たちが義兄弟になるとしたら、順番が俺たちとは逆になるね」張飛は、嬉しそうだ。「うちの苞が長兄だ」

「いやいや」劉備は笑った。「甘いな、益徳。俺んとこの養子、封はもう二十歳だぜ」

「養子まで勘定に入れるなよ」舌を出す張飛。

「楽しみですな」関羽は、美髯を撫でながら杯を干す。「子供たちがみんな成人したなら、洛陽で義兄弟の血盟をさせましょうよ」

「ああ、本当に楽しみだ」張飛は、大はしゃぎである。

「そのためにも、頼むぜ、雲長」劉備は、信頼する義弟の背中を叩いた。「荊州の守りはお前にかかっているんだ」

「天下三分の計の第二段階ですな」関羽は座りなおす。「兄者が益州から長安を衝き、一人の上将が荊州から洛陽を衝く。そうすれば天下は定まる・・・」

「その上将がお前だ」劉備は、眼を熱く注ぐ。「一緒に、天下を獲ろうぜ」

二人は、その手を固く握り合わせた。

しかしこれが、劉備と関羽の永遠の別れとなったのである。

 

劉備にとって幸いなことに、曹操の漢中侵攻は遅延していた。武都と陰平に割拠する氐族が、曹操軍の進路を妨害したからである。氐族は、古くから馬超と同盟関係にあったから、巴蜀の馬超を救うために動いたのだろうか。

そのため曹操は、武都の平定に四ヶ月を費やしたのだが、その甲斐あって氐族を打ち破り、さらに涼州の韓遂と宋建を討ち取ることに成功した。もはや、後顧の憂いはない。

七月、曹操軍十万は、蜀の桟道を押し渡って陽平関に達した。

漢中の張魯は、徹底抗戦の意欲に乏しかった。早々に降伏しようかと考えたのだが、群臣が反対した。同じ降伏するにせよ、気骨を見せてからの方が、後の扱いが良くなるだろうというのだ。そこで、張魯の弟・張衛を主将とする一万の兵を派遣して、陽平関で迎え撃ったのである。

意外なことに、曹操軍は大損害を出して撃退された。

曹操軍は、険しい蜀の桟道を行軍するだけで疲労困憊していたのである。この地帯は、山が険しいため道を付けることができない。そこで、断崖絶壁に穴を穿ち、そこに立て並べた杭の上に板を渡し、その上を通るのである。これが、蜀の桟道である。そのような道を一ヶ月近く進むのだから、事故や疲労による損害は馬鹿にならない。補給物資の輸送や配給も遅滞気味となる。

「こんな酷い道とは知らなんだ・・・」さすがの曹操も、行軍中に詩作にふける余裕もなかった。ただただ呆れるのみである。

行軍疲労で戦意を無くした兵たちが、険阻な陽平関を攻め倦んだのは、むしろ当然であろう。やがて補給が枯渇したため、全軍退却となった。歓声をあげて喜ぶ張魯軍。

しかし、やはり曹操は只者ではなかった。

「奴らめ、我々を撃退したと思って油断していることだろう。ここで奇襲をかければ成功は間違いない」

魏公は、密かに、間道伝いに奇襲部隊を派遣したのである。油断して宴会を開いていた張魯軍は大敗し、陽平関を捨てて南鄭に逃走した。

知らせを聞いた張魯は、財産を固く封印したまま一族郎党を引き連れて巴中へ逃亡し、こうして漢中は平定されたのである。

南鄭城に入り、張魯の財産を没収した曹操は、大宴会を開催して将士の労苦を労った。彼自身も久しぶりに痛飲し、勝利の美酒を味わった。

宴がひけた後、主簿の司馬懿が主君の居室に現れた。

「どうした、仲達」曹操は、頭に湿布を巻いた姿で出迎えた。最近、持病の偏頭痛が激しいのだ。

「お休みのところ、申し訳ございません。今後のことについて、進言に参りました」

「良い、申してみよ」

「張魯は片付きました。今こそ巴蜀の地に侵攻し、劉備の息の根を止めるべきかと」

「・・・」曹操は、若き新鋭士大夫の目を覗き込んだ。

「劉備は英傑ですが、計略を思いつくのが遅い。彼に時間を与えてはなりません。なぜなら彼には、政治の天才・諸葛亮、無敵の将軍・関羽や張飛がついています。時間が経てば、彼らは手がつけられないほどに強力になるでしょう。現在の巴蜀は、劉備の謀略で占領されたばかりで民心も十分には懐いていません。侵攻の機会は、今しか無いのです」

「仲達」曹操は、額を押さえながら言った。「君は、まだ若いな。『隴を得て蜀を望むな』という光武帝の言葉を知らないのか」

「・・・・」

「今回の戦果は、これで十分だ。余計な欲をかけば失敗するだろう」

魏公は、赤壁の失敗を繰り返したくないのだな。司馬懿は、主君の心事を喝破しながらも、素直に退出した。彼は、このとき素直に引き下がったことを、後々まで後悔することになる。なぜなら、彼は、この地をめぐって諸葛亮と数度に渡る死闘を繰り広げる運命に陥るからである。

 その翌日、謀臣の劉曄も、司馬懿と同じ助言をしたのだが、曹操は聞き入れなかった。

 だが、魏公の慎重な決断は、必ずしも誤りではなかった。

八月、東呉の八万の大軍が、合肥に襲い掛かったのである。

張遼が守る合肥には、七千の兵しかいない。しかし、勇猛果敢な彼は、李典と楽進の二将とともに先制攻撃を仕掛け、油断していた孫権軍に大打撃を与えてから篭城したのである。

緒戦でいきなり意気をそがれた東呉軍は、戦意の上がらぬまま合肥を攻囲したのだが、結局、何の戦果も挙げられずに兵糧が尽きて退却に入った。

「今だ、追い討て」

張遼の決断は凄まじい。わずか五千で、孫権の本陣に斬り込んだのである。決死の奇襲は成功した。孫権の本陣は壊乱し、碧眼児は、自ら刀を振るってたった一騎で落ち延びる体たらくとなったのである。

こうして、東呉の大攻勢は惨憺たる敗北に終わり、張遼の名は、長らく東呉における恐怖の代名詞となる。

しかし、東呉軍は、どうして十倍の兵力を持ちながら、惨敗したのだろうか。その理由は、兵制にあると思われる。すなわち、地方豪族の寄せ集めに過ぎない東呉軍は、大軍を集結させたとしても、その指揮命令系統はバラバラで、数の威力を発揮できないのだ。だからこそ、総大将の本陣に、易々と敵襲を許してしまうのである。つまり、東呉軍の強さというのは、赤壁の戦いのように、特定の有能な豪族による拠点防御に際して発揮されるものであった。

この攻勢失敗で最も衝撃を受けたのは、陸口を守っていた魯粛であったろう。彼の戦略は、劉備と同盟して西方の安全を確保する事によって、東呉の全軍をもって曹操を攻撃するというものであった。今回の大攻勢は、その戦略の成功を意味するものである。だが、その結果が惨敗では仕方がない。

 「俺の目の黒いうちは、天下統一など無理なのだろうか」そっと溜息をつく都督であった。