42.漢中侵攻
建安二十一年(二一六)十月、魏王は再び孫権討伐に向かった。それにしても、曹操は既に六十三歳である。その壮心、恐るべしである。彼は、この年一杯、北方異民族の懐柔に勤め、これらを中原に誘致することに成功していたので、南征に伴う兵力は十五万の多きに上った。
「俺は、長江まで馬に水を飲ませに来たのだ」と、豪語する。
居巣を本陣に定めた曹操は、年が明けてから夏侯惇と張遼を先鋒にして、猛攻を仕掛けた。
濡須を策源地とする孫権軍八万は、甘寧の遊撃隊を繰り出して敵の心胆を寒からしめたが、何しろ多勢に無勢。じりじりと押し込められた。陳武や董襲といった勇将も、次々に戦死してしまう。
「何と恐ろしい」孫権は色を失った。「日が経つに連れて敵は強くなる。これから俺はどうなるのだ」
孫権の強みは、ポリシーが無いことである。漢王朝の簒奪にも復興にも興味が無い。要するに、東呉の地を保全できれば良いのである。そこで彼は、和睦の使者を派遣した。曹操に降伏すると言うのである。
「降伏だと」曹操は鼻白んだ。「あの碧眼児がか」
「そのとおりにございます」使者の徐詳は、しきりに平伏した。「討虜将軍は、毎年、貢物を送ると申しております」
曹操は半信半疑だったが、このまま一気に攻めきる自信もなかったので、この降伏を受け入れる事にした。居巣には夏侯惇を残して、直ちに鄴に引き上げたのである。
「さて、いよいよ決着をつけるかな」魏王は、物憂げに呟いた。
四月、曹操は、次男の曹丕を王太子に指名したのである。ここに、水面下で続けられた後継者争いは終止符を打たれることになった。一時期は有力な後継者候補と言われた四男の曹植は、このごろは仕事もしないで酒びたりの毎日だった。一説によると、政争を恐れて韜晦していたのだという。あるいは、そうかもしれない。
しかし、この立太子は疫病によって祝福された。河南と江南を中心に、原因不明の悪疫が発生し、大勢の死者を出したのである。曹魏では侍中の王粲や徐質が倒れたが、孫呉ではあの横江将軍・魯粛が死去した。
陸口で危篤に陥った魯粛は、その部曲一万を呂蒙に譲るよう遺言すると、四十六年の波乱の人生を閉じたのである。孫権は彼のために哭礼を行い、その葬儀には自ら出席した。
知らせを受けた蜀では、諸葛亮が喪に服した。
「そうか、あの子敬どのが・・・」
考えてみれば、劉備と諸葛亮の今日あるは、魯粛のお陰といっても過言ではなかった。逆にいえば、魯粛の死は蜀の運命に暗いものを投げかけた。後を継いだ呂蒙は、なにしろ反劉備派であるから、荊州情勢は予断を許さない。
「なあに、雲長なら何とかしてくれるだろう」
成都の諸葛亮は、荊州都督の賢慮に期待するしかなかった。
そんなある日、法正は、政庁で漢中侵攻を献策した。
「曹操が、漢中を平定して張魯を降しながら、その勢いに乗じて巴蜀に侵入せず、夏侯淵や張郃を残して北に帰ったのは、その実力が不足したというより、差し迫った内患があるからに違いありません。また、夏侯淵と張郃の才略を推し量るに、国家の将帥の器ではありません。全軍でこれに当たれば、必ず打ち勝つことができるでしょう。これに勝った後、農業を広げて穀物を蓄積して隙を窺うのです。うまく行けば仇敵を覆して漢室を復興できますし、普通でも関中や涼州を侵食して領土を拡張でき、最悪でも要害を固く守って持久の計を採れるでしょう。これはまさに、天が与えてくれた好機。逃すべきではありません」
劉備を始め、満座はこぞってその説を支持した。
こうして、漢中侵攻作戦が開始されたのである。
まず、先遣隊として張飛と馬超が、漢中西方の要地である武都に向かった。この地の異民族を懐柔し、もって漢中方面の敵を誘き寄せる陽動作戦である。陽動であるから、兵力は少なく、それぞれ五千しか帯同していなかった。
しかし鄴の曹操は、この陽動作戦を見破った。彼は、陳倉に駐屯していた曹洪軍の二万を、まっしぐらに武都に送り込んだのである。
「さすがは孟徳、引っかからんわ」苦笑した劉備は、成都に集結させた五万の精鋭を率いて征旅に出た。従うのは、法正、趙雲、黄忠、卓膺、劉封、魏延、黄権、呉壱といった面々である。諸葛亮は、例によって後方支援と補給事務のために成都に残った。
諸葛亮は、劉備の在世中、いつも成都に残って補給を担当していた。彼の後の活躍を知る読者諸氏は、これを不審に思うかもしれない。しかし、古今東西の軍事の中で、最も重要かつ困難なのは補給兵站である。それゆえに歴史上の賢明な軍事家は、最も優秀な部下を兵站担当官にするのが普通なのである。そういう意味では、やはり劉備は卓越した軍事家であり、また、諸葛亮の際立った能力を実に良く見ていたのだと言えよう。
「孔明は極めて優秀だが、性格が真面目で優しすぎる。そんな男は、戦場にはそぐわない。やはり軍事参謀は、性格が意地悪な孝直(法正)が適任だろう・・・」
続々と進発する遠征軍を、政庁の楼台から呉夫人が手を振って見送った。彼女の胸の上では、生まれたばかりの劉永が寝息を立てている。
「勝つぞ、お前のためにも」劉備は、次第に遠くなる成都城を、熱いまなざしで見つめていた。
建安二十三年(二一八)正月、白水関に達した劉備軍は、進路を北西に採って馬鳴閣街道に入った。そのまま北進し、武都と漢中の中間地点で陳倉道に入り、そこから東に進路を変えた。陽平関から漢中平野に侵入する作戦なのである。その途中で、徐晃の遊撃隊と交戦して多少の損害は受けたが、四月に入って元気に陽平関に到達した。ここには、夏侯淵と張郃が三万の兵で立て篭もっている。劉備軍は、塹壕陣地を築いてこれと対峙した。
しかしそのころ、武都では劉備軍が大敗を喫していた。張飛と馬超は、敵を挑発しようとして不用意に軍団を分散させたところを、密集隊形の曹洪軍に痛破されたのである。この一戦で、馬超軍に属していた部将の呉蘭と雷銅が戦死し、張飛と馬超は白水関まで退却を余儀なくされたのである。それにしても、馬超は曹操軍と相性が悪いのだろうか。いつもひどい負け方ばかりである。
こうして側方支援を失った劉備軍主力は、東西から曹操軍に圧迫される形勢となって苦戦した。堅城・陽平関は、数度にわたる突撃にもびくともしない。
さて、漢中の危機を知った曹操は、自ら十五万の大軍を引き連れて救援に向かった。七月に鄴を出陣、九月に長安に入る。しかし、すぐに桟道には入らなかった。周囲の状況が不穏だからである。
「荊州の関羽は、豫州と荊北に、『漢朝復興の日は近い』との、流言飛語を流しています。また、四月に代郡で起きた烏丸族の反乱は、ますます激しさを増しています」司馬懿が、不安げに説明する。
「うむ、正月には医者の謀反が収まったばかり。ようやく孫権が大人しくなったと思ったら、今度は四方が騒がしくなったわい」曹操は、頬杖ついて溜息をついた。
医者の反乱というのは、許昌で漢朝忠臣たちが企てたクーデターである。建安二十三年(二一八)正月、大医令の吉本が、少府の耿紀、司直の韋晃らと手を組み、許昌を占領して関羽を呼び込もうと謀ったのである。これは、丞相長史の王必が奮戦して何とか鎮圧した。耿紀らは、大地に頭を打ちつけながら、残念だと連呼しつつ処刑されたという。
ただ、負傷した王必は、矢傷が悪化してほどなくして死んだため、彼の同郷の友人であった曹操は怒った。彼は許昌に駆けつけて百官を召集して言った。「消火に参加したものは左に、しなかったものは右に並べ」。百官の多くは、恩賞が貰えるものと思って左に並んだ。しかし、曹操は冷酷に言った。「消火に参加したものこそ、本当の賊だ。全員斬り捨てよ」
魏王となった彼の発作的な怒りは、もう誰にも止められない。
さて、長安で呻吟する曹操は、息子の曹彰に一軍を授けて烏丸討伐に向かわせた。
すると、襄陽の曹仁から早馬が来た。
南陽郡の宛で反乱が起きて、城が制圧されてしまったというのだ。
「なんだと、どういうことだ」曹操は、さすがに慌てた。宛は、許昌の膝元だ。
「宛の部将・侯音が、役務に苦しむ民衆と心を合わせて、太守を捕縛して謀反したのです。彼は、関羽の名を唱えています」汗まみれの急使は、息をあえがせながら報告した。
これらの工作を仕掛けたのは、荊州の馬良であった。彼は、関羽の威名を利用して中原に調略の嵐を巻き起こしていたのである。
「ううむ、関羽めの差し金か・・・。子孝(曹仁)に、至急鎮圧するように伝えよ」曹操は、拳を強く握り締めた。これでは、漢中救援どころではない。
やがて、秦嶺山地には雪が落ち始めた。
陽平関の劉備は、舞い落ちる雪を仰ぎ見てから、法正に熱い目を向けた。
「季常(馬良)の謀略で、曹操の主力は足止めとなっている。だが、それも時間の問題だ」
「・・・・」謀士は、しばし目を瞑って沈思していたが、やがて大きく見開いた。「私に、一世一代の策があります」
法正の提案した策は、主攻軸の転換という高等戦術であった。すなわち、西から陽平を攻めるのではなく、陽平の東に回りこんで漢中主要部を管制する構えを見せてから、陽平の敵を誘い出して撃破するというのである。
「この険しい山地では、攻撃側が不利です。常に防御に回る態勢を造るのが、必勝の方策と言えましょう」
劉備は大きく頷いた。
「・・・ただ、この作戦を成功させるためには、後方支援の予備兵力が、あと五万は必要です」
「孔明に使者を出そう。孔明なら、必ずやってくれるさ」
成都の諸葛亮は、劉備の書状を一読して唸った。益州の全兵力を、根こそぎ動員しろというのだ。これは、軍需物資の負担増により国内経済を圧迫し、また、働き手を奪われた人々の不満を煽るかもしれない。
しかし、やるしかないのだ。
彼は、成都に各郡の太守を招集した。それぞれに、五千の臨時徴兵を申し付けるためである。彼は、怨嗟の声を覚悟した。
しかし、蜀郡従事の楊洪は、進み出てこう言った。
「漢中と四川は、唇と歯の関係にあります。今の情勢は、男はみな兵士となり、女はみな輸送に当たらねばなりません。漢室復興のためには、その程度の徴発に、何を躊躇うことがありましょうや」
楊洪は、生粋の巴蜀人である。その彼にしてこの決意は、劉備と諸葛亮の同化政策の成功を雄弁に語るものである。
そして、満座は楊洪の意見を支持した。
諸葛亮は、嬉しさの余り落涙しそうになった。
こうして、五万の予備兵力が陽平に送られた。ここに、劉備軍は十万の大軍に膨張し、陽平の敵を圧倒したのである。
「奴ら、総攻撃でもしかけるつもりか」魏の征西将軍・夏侯淵は、関の望楼の上から、雲霞のごとき大軍を望んだ。「この要塞は、決して落ちぬぞ」
しかし、劉備軍は意外な動きを見せ始めた。関の南方に大きく回りこみ、沔水を越えて米倉山脈伝いに漢中平野に向かったのである。驚いた魏軍は、敵の糧道を絶とうとして出撃したが、圧倒的な敵兵力によって押し戻された。
建安二十四年(二一九)正月、劉備軍十万は、漢中平野南部を扼する要衝、定軍山に陣を張ったのである。
「このままでは、漢中が獲られる」夏侯淵は、歯軋りした。
陽平関は、言わば漢中の入り口である。魏軍は、入り口を堅く守りながら母屋を乗っ取られるという惨めな状況に置かれたのである。
「劉備軍は、糧道を陳倉道から米倉道に敷きなおしました」軍政に長じた張郃が報告する。「糧道を敷きなおすとは、実に驚くべき兵站技術です。さすがは諸葛孔明」
「何が言いたいのだ、儁亥」
「・・・つまり、ここ陽平関に篭っていても、彼らを制約することは出来ないのです」
「ならば出陣だ」夏侯淵は立ち上がった。「定軍山を攻めるぞ」
こうして、魏軍二万は陽平関を捨てて東進した。もちろん、軍勢の数に差が有りすぎるので、劉備軍に挑戦することはできない。彼らは、定軍山の北正面に占位して蜀軍の北進を阻もうとしたのである。
「うまく釣り出せたな、孝直」劉備は、山上から麓の敵陣を眺め渡した。
「後は、煮るも焼くもこちらの為すがまま」法正が微笑む。「さて、東の陣には張郃、西の陣には夏侯淵がいます。どちらから料理しましょうか」
「俺は、どちらも知っている」劉備は小手をかざした。「張郃は、まだ若いが、末恐ろしい名将だ。まずは張郃を仕留めよう」
「でも、敵の総大将は夏侯淵ですぞ」法正は、意外そうだ。
「奴は短気でそそっかしいから、張郃が危機に陥れば、一人ででも飛び出してくる」
「ならば、そこを狙いますか」法正は、満面の笑みを浮かべた。
その夜、劉備軍三万は、張郃が五千で守る東の陣に夜襲を敢行した。名将・張郃は、自ら陣頭に立って必死に奮戦したが、何しろ多勢に無勢である。陣営には火がかけられ、壊滅寸前に陥った。
「いかん」夜空を彩る炎を見て、夏侯淵は絶叫した。「儁亥を見捨てるわけにはいかんぞ」
彼は、長年育ててきた精鋭騎馬軍五千を率いて東の陣に向かった。しかし、これは劉備の思う壺だった。途中の隘路には、伏兵が待っていたのである。
これを率いるのは、老将・黄忠である。
「今ぞ、襲え」
小高い丘に伏せていた黄忠軍三千は、逆落としに駆け下った。
「おのれ、しゃらくさい」眦を決した夏侯淵は、直ちに戦闘隊形を組んでこれを迎え撃った。
さすがに、淵の騎馬軍は強い。長年、西域を疾駆してきたのは伊達ではない。狭い山道の中でも巧みに機動し、黄忠の歩兵軍はしばしば蹴散らされ押し戻された。
「おのれええ」
黄忠は自ら太鼓を叩いて音頭を取ると、全軍にときの声を挙げさせた。夜のしじまを破って大音声が木霊する。味方の勇気は百倍した。漆黒の闇の中、激しい白兵戦は最高潮となる。
血戦の闘志が渦巻く中、老将は自ら愛馬に跨り丘を駆け下った。
「我こそは、南陽の黄忠、字は漢升なるぞ」
齢六十を数えながら、その膂力は少しも衰えぬ。縦横無尽に戟を振るい、敵の騎将を打ち倒していく。
「爺めがあ」夏侯淵は、側近の制止を振り切って自ら黄忠に挑んだ。
「孝行息子めえ」黄忠は、歯の欠けた口を大きく開いて叫ぶ。「わしに、首を授けてくれるのかあ」
両将は、一瞬のうちにすれ違った。その次の瞬間、血煙を上げて落馬したのは、魏の征西将軍であった。夏侯淵妙才、享年五十二。
「勝利ぞ、勝利」黄忠は、年に似合わぬ大音声で叫び、兵士たちもそれに唱和した。
山上で戦局を見ていた劉備は、黄忠の大戦果を知ると、全軍に総攻撃を発令した。津波のように襲い掛かる劉備軍。総大将を討ち取られた魏軍は、大混乱に陥り、総崩れとなった。
張郃は、わずかな側近に守られて命からがら逃げ延びたが、魏の益州牧・趙顒を初め、残された部将はほとんど戦死した。夏侯淵の末子、夏侯栄は、齢十三でありながら、敵中に単身突撃して父に殉じた。
劉備軍、圧倒的大勝利である。
「爺さん、よくやったなあ。万武不当の英雄とは、漢升のことだよ」
劉備は、敵の総大将の首級を持ってきた黄忠に、最大限の賛辞を与えた。
「なあに、まだまだこれからですわい」黄忠は、胸を張った。「次は、魏王の首ですかな」
その翌日、遠征軍は定軍山から漢中平野に進出し、要所を全て制圧した。打ち減らされてわずか一万弱になった魏軍は、張郃と郭淮、徐晃が纏めていたが、陽平関に孤立する形勢となった。
知らせを受けた長安の曹操は、あまりの事に呆然とした。
「妙才が・・・死んだ」
従兄弟の夏侯淵は、曹操が初めて挙兵したころからの宿将であった。
「だから、言ったのに。大将たるもの、猪突猛進は慎めと、あれほど口を酸っぱくして言ったのに・・・」
夏侯淵は、個人的武勇は優れていたが、将才に欠けるところがあったので、昔はあまり重用されていなかった。ようやく関西十部将戦のころから頭角を現し、精鋭騎馬部隊を用いた電撃機動戦で名を馳せたので、「妙才どのは、三日で五百里、六日で一千里」と賛嘆された。短気でせっかちな彼には、少数精鋭の機動戦が向いていたのだろう。そのような人物を、山岳地帯の拠点防御に任じた曹操の人事に問題がある。
そんな中でも、朗報が入った。正月下旬、曹仁はついに宛を陥れ、侯音を斬って南陽の反乱を鎮圧したのである。
「よろしい」曹操は大きく頷いた。「全軍、漢中に進撃する。玄徳と雌雄を決するぞ」
三月、十五万の大軍は、斜谷から蜀の桟道を越えて陽平関に入った。
「来たか、孟徳」
劉備は、陽平関前面に陣する全軍を後退させ、漢中への進路をふさぐように、険阻な山岳地帯に立て篭もった。
補給事情は、漢中主要部を制圧した劉軍に有利である。曹軍は、長安から桟道越しに補給物資を輸送しなければならないから、長期の対陣には耐えられない。補給切れに焦って猪突したところを、待ち受けて打ち破ろうという作戦なのである。
陽平関から進撃してきた曹操は、峻険な山々に堅固な陣営を張る劉備軍の威容に眼を見張った。
「あの玄徳に、このような芸当が出来るとはな」
「敵には、法正という軍師が付いているようです」司馬懿が報告した。
「そうだろうな」曹操は頷いた。「玄徳に、これほどの野戦陣地を築く才能は無い。誰かに教えられたのだろうと思っていたわい」
曹操は、しきりに挑発して劉備軍を誘き出そうと謀った。しかし、劉備軍は亀の子のように閉じこもって出てこようとしない。不用意に攻めかかった部隊は、大打撃を蒙って撃退された。
「孟徳よ」劉備は、山上から敵の本陣に向かって豪語した。「例え百万の軍勢があったとしても、今の俺は倒せんぞ」
変われば変わる物である。昔は、曹操の将帥旗を見ただけで逃げ出した男が、今や必勝の信念に身を焦がしている。
劉備玄徳は、もう逃げなかった。
ある小競り合いで、劉備の旗本が強襲されて崩れたときがある。しかし劉備は、敵の弓矢が頬をかすめる戦場で一歩も退こうとしなかった。
「来るなら来い」と、啖呵を切る。
法正が、慌てて駆け寄って後陣に連れ戻すまで、直立不動を守りつづけたという。
またあるとき、劉封に命じて曹操に挑戦させたことがある。猛々しい豪傑に成長した劉封は、陣頭を駆け回って曹操軍を撹乱した。そんな青年を見て、曹操は思わず笑いを漏らした。
「玄徳め、養子を出すとはしゃらくさい。俺の家の『黄髯』がいれば、息子同士で一騎打ちさせるのになあ」
黄髯こと曹彰は、代郡の烏丸を平定し、鄴へ凱旋行軍の途中であった。
かつて天下の英雄を論じた曹操と劉備。今や、同じ土壌の上で争闘する機縁に恵まれた二人は、そのことになぜか不思議な感慨を覚えているのだった。
だが、激しい陣地戦が続くうちに、曹操軍の兵糧は枯渇気味となった。
この情勢に目をつけた元気者の黄忠は、敵の背後に回りこんで兵糧を焼き払う計画を立てた。彼は、この計画を趙雲のみに告げると、わずか一千の兵を連れて出陣していった。
「爺さん、帰りが遅いよ」
心配になった趙雲は、自ら二千の兵を連れて後を追ったのだが、その途中で敵の大軍に遭遇してしまった。自ら殿を引き受けて味方を陣地に逃がしたが、一万の敵はしつこく追尾して来る。これに乗じて陣地を乗り取ろうというのだろう。
陣地に帰った趙雲に、副官の張翼は篭城を勧めた。しかし、猛将は笑顔を向けた。
「まあ、俺に任せろ」
彼は、陣地の全ての出入り口を開け放ち、兵を全て塹壕の中に伏せさせた。そして自らは、わすかな供回りを連れて陣営の門前に立った。
進撃してきた曹操軍は、静寂の陣と、余裕ありげな趙雲の姿に戸惑った。伏兵があるに違いない。恐れて退却の気配を見せた敵に向かって、趙雲の采配は振り下ろされた。隠れていた強弩兵は一斉に矢を放ち、騎馬隊は一斉に斬りこんだので、曹操軍は四分五裂の惨状を呈して敗走したのである。
後にその戦場を視察した劉備は、思わず感嘆の声を漏らした。
「子龍は、全身が肝っ玉だなあ」
そして、趙雲のために、日暮れまで大宴会を催して功績に報いたのである。
ちなみに問題の黄忠は、作戦は失敗したものの、最寄りの味方陣地に逃げ込んで無事だった。まことに、人騒がせな爺様である。
三ヶ月の激闘の後、魏軍の劣勢は明白となった。おまけに、荊州では関羽軍が北上して襄陽に攻め込んだという。
「鶏肋、鶏肋だ」曹操は呟いた。
「撤退ですか」そばに控えていた主簿の楊修は、白い歯を見せた。
「どうして分かった」
「鶏の肋骨は、汁のだしには使えるが、さりとて食えるものではない・・・つまり、捨てても惜しくないという意味ですね」
「そのとおりだ」曹操は頷いたが、内心では不愉快だった。
漢中は、捨てても惜しくない土地ではない。地理的重要性はもとより、ここは漢王朝の発祥の地であるから、ここの失陥は漢朝復興の機運を最高潮に盛り上げることだろう。今の劉備が、それを政治的武器にして挑んでくることは明白なのだ。
そして曹操は、楊修の眼の中に嫌な物を感じ取った。あなたの負け惜しみは、百も承知ですよ、という感じ。彼は、殺意を覚えた。後に楊修は、些細な事で処刑される。
五月、疲労困憊の曹操軍は、全面撤退に入った。陽平関も放棄して、長安まで引き上げるのだ。もっとも曹操は、ただでは転ばない。退却がてら、武都郡の氐族五万戸を長安に強制移住させたのである。もちろん、彼らの劉備との同盟を妨げるためである。
ともあれ、漢中平野に蜀軍の凱歌が上がった。
「勝ったぞ、俺はついに孟徳に勝ったのだ」
感無量の思いに浸る劉備は、実に貴重な勝利をもぎ取ったのである。