43.漢中王に昇る

 

荊州では、関羽の軍が動き出していた。劉備が漢中で苦戦していると聞いた彼は、五月に入って積極的な陽動作戦を仕掛け、魏軍を分散させようと図ったのである。

「兄者が苦しんでいるのに、この俺が安穏としてはいられない。危険を冒してでも兄者を助けることが、この俺の務めよ」

彼の標的は、北方の襄陽であった。しかし、東呉への備えとして二万の兵が必要だったため、彼直卒の遠征軍は、わずかに一万である。しかし、意外なことに魏軍の抵抗は弱かった。曹仁軍は、南陽の反乱の鎮圧に三ヶ月を要したため、兵員不足に陥った上に疲労困憊していたのである。

「これなら、行けるぞ」関羽は、陽動作戦を本格的な侵攻に切り替えた。

彼はまた、宜都太守の孟達に命じて上庸郡に攻略軍を派遣した。上庸は、荊州西北部の山岳地帯である。ここを占領すれば、漢中―襄陽間を、漢水の水路沿いに連結できるようになるから、関羽が首尾よく襄陽を奪った後、漢中と襄陽の共同作戦が円滑になるのである。

漢中の劉備は、この知らせを受けると渋面を作った。

「どうしたのです」法正が尋ねた。

「俺はどうも、孟達の人柄が信用できないのだ。あいつ一人に上庸を任せて大丈夫だろうか」

「ならば、こちらからご子息を派遣したらいかがですか」

「なるほど、それで行こう」

こうして、劉封が五千の兵を率いて漢水を下った。

上庸を守っていた魏将・申耽は、劉封と孟達の挟み撃ちにあって戦意を喪失し、直ちに降伏したのである。劉備は、申耽を征北将軍に任用し、副軍将軍・劉封の配下に入れた。

こうして、荊州北部にも小さな白星が上がったのである。

しかし、漢中の劉備は、余勢を駆って長安や襄陽を攻撃する事は出来なかった。足掛け三年の漢中戦で無理な動員をしたために、国内が疲弊していたからである。ここ数年は征戦を休め、内政を充実させるべきと考えていた。もちろん、成都の諸葛亮が、そのように献策したのである。

そんな劉備と諸葛亮は、関羽の北進作戦を陽動なのだと思い込んでいた。

彼らには、仕事が山積していた。劉備は、平定したばかりの漢中の治安保持に勤しみ、諸葛亮は、復員してくる兵士たちへの手当ての用意や、成都―漢中間の駅舎の設置業務に追われていたのである。

六月、関羽軍一万五千は、襄陽郊外で曹仁軍三万と激突した。

「二倍の敵か」関羽は、不敵にほくそ笑んだ。「良き敵なり」

彼は、先鋒の廖化に命じ、わざと敗走させて、敵を伏兵の罠に追い込んだのである。四方から襲い掛かる関平、周倉、王甫勢の前に、魏軍は大敗を喫した。翟元と夏侯存は戦死し、襄陽に逃げようとした曹仁は、行く手が関羽本隊に塞がれているのを見て、やむなく漢水北岸の樊城に逃げ込んだのである。

孤立した漢水南岸の襄陽城は、準備不足の状態で関羽の猛攻を受けたため、守将の呂常はたちまち降伏した。

「幸先良いぞ」

得意満面の関羽は、兵士たちの万歳の歓声を心地よげに聞きながら襄陽に入り、民心の安定に努めるとともに論考行賞を行なった。

 

そのころ劉備は、成都への凱旋行軍を終えて自宅で寛いでいた。呉夫人と、二歳になる次男の笑顔に囲まれて、家庭人としての安らぎを満喫していたのである。

十五歳になった長男の劉禅は、許靖をはじめとする側近たちに傅かれ、勉強漬けになっていた。劉備はしばしば彼に会いに行くのだが、無口で無愛想なので取り付く島がない。

「幼い時に、母親(甘夫人)に死なれたのが堪えたのだろうか・・・」

何となく心配になる父親。長男は、頭が良くて武芸も達者なのだが、諸事に白けているといった印象を受ける。劉備も、もう六十だ。そろそろ後継者のことも考えたいのだが、こんな息子で大丈夫なのだろうか。

「覇気が無いことでは、この乱世は生き延びられぬぞ・・・」

そんな折り、荊州から早馬がやって来た。関羽が、見事に襄陽を落としたという。

「目出度いことには違いないが」劉備は、思案げに諸葛亮を見た。「東呉の状況は大丈夫なのだろうか。いきなり後ろから攻めてはこないだろうか」

「馬良の報告によれば、雲長どのは、江陵と公安にそれぞれ一万の軍勢を入れて守備させているそうです。仮に孫権が裏切っても、そのときに援軍を発すれば十分間に合うでしょう」

「そうだな、雲長が油断するはずがない」劉備は、胸中の悪い予感を宥めた。

「それよりも、例の件はご勘案くださいましたでしょうか」

「・・・・・」

「群臣は、みな、殿の決断を心待ちにしているのですぞ」

「確かに、漢朝復興の機運を高める絶好の方策であることは間違いない」

「それでは・・・」

「準備を進めてくれ・・・」

建安二十四年(二一九)七月、沔陽に築いた壇上に立った劉備は、文武百官が作成し連署した上奏文を前に、威儀を整えて王冠を戴いた。

漢中王に即位したのである。

彼は、かつて拝領した左将軍と宜城亭公の印綬を、駅馬便を使って許昌に送り届けた。また、天子宛ての上奏文を書き送った。それによると、

「臣は、臣下の列に備わるだけの才覚しかないのに、三軍の総督として奮闘中ですが、未だに王室を助け参らせることができず、四海を不幸のまま放置してしまい、憂いの余り床に就いても頭痛がする有様です。先に、董卓が混乱の端緒を開き、それ以降は、凶悪な者どもが暴れまわり天下を虐げました。さいわいに、陛下の威徳により、暴虐の徒の大多数は滅亡しましたが、ただ曹操だけが獄門にさらされる事無く国権を侵害しております。臣は昔、車騎将軍董承と曹操を討とうと謀りましたが、機密が保てず董承は殺害されてしまいました。臣は拠り所を失い、四海をさまよい、忠義の志を果たすことができませんでした。かくて、曹操の暴虐を許し、皇后様が害される結果を招いてしまいました。同盟をふるって陛下のお力になりたいと念願しているのですが、柔弱で非力なため、年月が過ぎても成果をあげられずにいるのです。常に命運が尽きて国恩に背くことになるのを恐れ、朝から夜まで憂い悩んでおります。そして今、臣の家来たちは申しております。『あつく九族(親族)を叙し、もろもろの賢しき人を輔翼の臣となす』と古書にいう、と。例えば古の高祖さまは、帝位に就かれると、子弟を尊んで王とし、大いに九カ国を開かれました結果、呂氏一族の簒奪を阻止して本家を安定できたのです。いま曹操は、まことに多くの仲間を集めて、仇なす心を隠してはいるものの、その簒奪の意図は既に明らかです。すでに皇室は弱く、皇族は一人も官位に就いておりませんので、古式を考え合わせ、外に出れば適宜の処置を許されるという制度にそって、家来たちは臣を大司馬漢中王に推挙いたしました。臣は再三辞去したのですが、家来たちはどうしても聞き入れてくれません。そこで臣は、一歩退いて考えますに、逆賊はさらし首にされることなく、宗廟は傾き、社稷はまさに消滅しかかっておりますので、臣が憂いを抱き責任を感じ、身を捧げて引き受けなければならない任務となっております。もしも事態の変化に対応し、現在に適した方策を採ることで、聖朝を安寧に導けるのなら、水火も辞さぬ覚悟なのです。そこで、衆議に従い、印璽を拝受して、国威を高揚することにいたしました。仰いでこの爵号を思い見れば位は高く寵愛は厚く、伏して恩徳に報いることを考えますれば憂いは深く責任は重大で、まるで深谷に臨むような心地であります。力を尽くし誠意を捧げ、六軍を振るい立たせ、正義の士を糾合し、誓って逆賊を撲滅して、聖恩の万分の一に報いる所存です。つつしんで、上奏し奉ります」

漢中王は、高祖・劉邦が大業を創始した由緒ある王位である。頂羽と共に秦帝国を滅ぼした高祖は、楚の懐王によって四川と漢中を封建され、この地で漢中王位に就いた。そして高祖は、この地から関中と中原に進出し、覇王・頂羽と天下を争い、最後の勝利を掴んで漢帝国を建国したのである。

幼いころから高祖に憧れていた劉備は、期せずして就いた漢中王位に感無量であった。高祖の足跡をこれから辿り、そして覇王・曹操を倒して漢帝国を復興させるのだ。今の自分になら、必ず出来る。関羽や張飛、趙雲らは、漢嬰や夏侯嬰にも比肩すべき猛将だし、参謀の法正は、張良も顔負けの知将であるし、諸葛亮は、蕭何を超える軍政の天才だ。そして自分は、高祖の生まれ変わりに違いない。

「待ってろよ、孟徳・・・」漢中王は、闘志溢れる横顔を北方に向ける。「どちらが本当の英雄なのか、たっぷりと思い知らせてくれるぞ」

劉備は成都に帰還すると、城内に政庁を開いて大掛かりな叙勲を行なった。劉禅を王太子とし、許靖を太傅(最高顧問)、法正を尚書令(筆頭補佐官)に、劉巴を尚書に任命した。また、関羽を前将軍、張飛を右将軍、馬超を左将軍、黄忠を後将軍とした。これに趙雲(翊軍将軍)を加えて、俗に五虎将軍と呼ぶ。

満座が注視したのは、漢中都督である。この要職には、恐らく張飛か馬超が任命されるものと思われた。しかし、劉備の決定は意外だった。漢中王は魏延を指名したのである。

魏延は、自尊心が高く上昇志向が強い人物だった。それを見抜いた劉備は、敢えて望外の要職を委ねることによって、その実力を存分に開花させてやろうと考えたのであった。

鎮遠将軍と漢中都督に任命された魏延は、群臣の前で主君に抱負を聞かれた。彼は、感動と興奮で胸を一杯にしながら、こう答えた。

「もしも曹操が天下の兵をこぞって押し寄せたなら、大王のためにこれを防ぎます。副将の率いる十万の軍勢が来るならば、大王のためにこれを丸ごと呑み込んで見せます」

「良くぞ言った、文長」劉備は大いに喜び、満座も感心した。

こうして魏延は、劉備のために命懸けで働く決意を固めたのである。

ところが、一連の叙勲を不満に思った人物もいた。

襄陽に座す関羽である。

「この俺が、どうして老いぼれ(黄忠)と同列なのだ。そりゃあ、夏侯淵を斬ったのは偉いかもしれん。だが、俺と兄者との深い関係には、とうてい及ばないはずだぞ」

劉備は、関羽の怒りを推察していたので、前部司馬の費詩を派遣してこう言わせた。

「王業をなす者は、一人の人間を使うわけではありません。昔、蕭何と曹参は、高祖と若いころからの親友でしたが、新参の陳平や韓信に席次の上で抜かれました。しかし蕭何たちは、そのために恨みを抱いたでしょうか。いま、王は一時の功績で漢升を高位につけましたが、心中の評価が貴君と同列のわけがありません。そもそも、王と貴君は一心同体であって、喜びも悲しみも、災いも幸いも、共にする関係ではありませんか。もともと、官爵の高低に一々煩わされるような間柄ではありますまい」

「そうか、そうだな」関羽は、眼を潤ませた。「君の言うとおりだ。俺が間違っていたよ」

費詩は、さらに劉備からの預かり物を前将軍に渡した。それは、将軍の独断専行権を認める『節と鉞』であった。実を言えば、関羽は年頭から独断専行していたのだが、劉備はこれを追認したというわけである。

「公挙よ、兄者に伝えてくれ。俺はきっと、兄者の期待に応えて見せると」

関羽は感動の余り、赤ら顔をさらに真っ赤にした。

 

「漢中王だと、王位だと・・・」

鄴の曹操は、劉備が王位に就いたと聞くと、大いに動揺し大いに怒った。

「卑しい筵売りの分際で、良くもまあ・・・」

しかし、漢室の連枝を自認する劉備の王位は、実は異姓の曹操のそれよりも歴史的正当性に恵まれているのである。これで、漢朝復興の機運は天下に漲ることだろう。反逆者の続出が、目に浮かぶようだ。

「この俺を最期まで苦しめるのは、やはり玄徳だったか・・・」

彼は、文武百官を集めて劉備征伐を検討した。しかし、満座はこぞって反対した。

「劉備は、旭日昇天の勢いに乗っています。このような敵とまともに戦うのは、得策にあらず・・・」百官は、口を揃えて言う。

「この俺が、玄徳に勝てないと言うのか・・・」

満座は、押し黙って目を伏せた。

そのとき、早馬が駆け込んできた。使者は、口から泡を飛ばしながら叫ぶ。

「関羽軍が進撃を始めました。迎え撃った征南将軍(曹仁)は敗れ、樊城に逃げ込みました。関羽は、塹壕を築いて城を包囲しかけています。早く救援をっ」

「雲長め・・・」曹操は、唇を噛んだ。「第七軍に、出陣命令を出せ」

左将軍・于禁率いる第七軍は、魏国の最後の予備兵力であった。

なにしろ、主力軍団は漢中戦で受けた損耗を回復できていないし、合肥や居巣に張りつけた軍団も、東呉の動きが不鮮明な現状では動かせない。また、涼州や幽州の軍団も、異民族対策に必要不可欠だ。魏国は、四方を敵に囲まれて危機に陥っていたのである。

窮した曹操は、兵戸に新規編入した異民族を中核とする新軍団を創設中であった。しかし、その動員が完了するのは、早くてもこの年末である。それまでは、于禁一人に頑張ってもらわねばならぬ。

 七月下旬、于禁軍三万は、必勝の決意を胸に鄴を出陣したのである。