45.悲劇

 

樊城は必死に抵抗し、関羽の大軍は攻め倦んだ。

「曹仁め、案外良くやる・・・」美髯の名将は、小高い丘の上から、二重三重に張り巡らせた自軍の塹壕陣地を眺めながら嘆息した。もはや樊城は外部との連絡を完全に失い、食糧も底をついているはずである。

「なぜ、降伏しない・・・殺されたいのか」

そんな苛立ちの中、馬良から悲報が届いた。九月下旬、密告者によって魏諷の反逆が発覚。首謀者をはじめ、宋忠親子、王粲の一族、張泉(張繍の子)らが一網打尽に処刑されたのである。また、魏諷の親友であった鍾繇も、その忠誠を疑われて失脚したという。

「曹操め、案外良くやる」関羽は、その書状を強く握りつぶした。「それに引き換え、我が軍の人材は愚か者ばかりだ」

実は、関羽軍の食糧は枯渇寸前であった。兵站担当の麋芳と士仁が、業務を怠っているからである。だからと言って、彼らを責めるのは酷であろう。なぜなら兵站業務は、軍事の中で最も困難な仕事であるから、例えば荀ケや諸葛亮のような人物でなければ十全にこなすことができないからである。関羽は、于禁軍の捕虜を無造作に江陵に送り込んだ上、守備に回っていた部隊の多くを北方に持っていった。そのため麋芳らは、当初の兵站計画に大幅な変更を加えることを余儀なくされ、補給業務に支障が生じていたのである。

しかし、兵站業務に詳しくない関羽は、そのような事情を斟酌しなかった。かねてより不仲の麋芳たちが、わざと業務を疎かにしていると思い込んだのである。彼は、厳しい叱責の手紙を江陵と公安に送り、戦いが終わったら厳罰に処す旨を申し伝えたのである。

「髯のやつ」麋芳たちは激怒し、恐怖した。「人の苦労も知らないで、何て奴だ」

関羽は、そんな彼らの恨みの声を聞く耳を持っていなかった。当面の急務である食糧危機を解決するために、湘関にある東呉の倉庫を襲撃し多量の穀物を奪ったのである。もちろん、事後的に、断りと謝罪の手紙を陸遜に送った。書生の陸遜なら許してくれるだろうと、軽く考えたのである。

「やったぞ」孫権と呂蒙は、大いに喜んだ。同盟関係をご破算にするには、大義名分が必要だが、それを関羽が与えてくれたのだ。

十月下旬、密かに陸口に帰った呂蒙は、到死軍と解鎖軍(異民族対策に編成したコマンド部隊)を先発させた。商人に変装した彼らに、最初の狼煙台を占領させる計画なのである。狼煙台は、狼煙が連鎖して初めて意味をなす仕組みであるから、最初の狼煙台さえ沈黙させれば、役に立たなくなるのである。そして、油断していた荊州軍は、この電撃的奇襲に対処できなかった。

漆黒の闇の中、三万の兵士を載せた東呉水軍が長江を遡上していく。

江陵城と公安城に夜が明けた。城壁に立った見張りの兵士は、驚きのあまり腰を抜かしてへたり込んだ。両城とも、一夜のうちに圧倒的な東呉の大軍に包囲されていたからだ。

江陵を守る麋芳と公安を守る士仁は、一も二もなく降伏した。防戦態勢が皆無の状況で抵抗しても無意味だからである。捕虜の于禁は解放され、軟禁状態だった劉璋は登用された。荊州従事の潘濬は、捕虜となった後、東呉の家臣となったが、公務で外出していた馬良と王甫は、急を知って、大慌てで巴蜀に逃れた。

勢いに乗る呂蒙軍は、陸遜に命じて夷陵を占拠させたため、長江以南の荊州は、今や完全に彼らの掌中に収まったのである。そして呂蒙は、占領地域における一切の略奪暴行を厳禁し、治安の安定に尽力したため、民衆の動揺もたちまち収まった。

あまりにも静かな軍事的成功である。それゆえに、関羽軍は、そのような事態が後方で発生していようとは夢にも思わずにいた。

十一月、北方から、魏の大軍が姿を現した。徐晃の第十二軍を先鋒とする、樊城解放軍である。東呉方面から兵を加えて十万にも及ぶ魏軍は、しかしすぐには関羽を攻撃しなかった。呉蜀の共倒れを狙う曹操は、孫権が魏に寝返ったとの情報を関羽の陣営に流布させたのである。関羽軍を南に差し向けて、呂蒙と争わせようと考えたのだ。

「そんな馬鹿な」蜀の前将軍は笑った。「これは、曹操の偽情報だ」

魏軍は、樊城を包囲する関羽軍を、さらに大きく包囲する構えを見せた。いわゆる、二重包囲戦である。関羽は、これに備えて軍の外周に防衛陣地を多数構築していたので、戦いはこれらの陣地の奪い合いとなった。

「南からの連絡が、完全に途絶えました」周倉は、深刻な面持ちで主君に報告した。「麋芳どのや馬良どのから、全く何も言ってきません。これは、おそらく・・・」

「あと一息で樊城は落ちるのだ」

「・・・兵士たちは、みな、動揺しております」

「あと一息で、中原に進出し、曹操の息の根を止められるのだ」

「・・・食糧は、ほとんど残っていませんぞ」

「もう言うな、黙れ」関羽は叫んだ。

彼にはもう、どうしたら良いのか分からなかったのである。

十二月、関羽軍の抵抗は崩れた。徐晃将軍は、大鉞を担いだ特殊部隊を編成し、自ら陣頭に立って決死の突撃を敢行。関羽軍の防塞を押し破り、ついに樊城との連絡路の打通に成功したのである。

「やったぞ、ついに援軍が来た」曹仁と満寵は、抱き合って喜んだ。樊城は、食料が尽きて陥落寸前だったのである。

このころになると、荊州南部の失陥は、ほとんどの兵士の知るところとなっていた。関羽軍からは逃亡兵が続出し、残ったものの士気も奮わない。

「俺は、信じないぞ」関羽は、尚も言い張った。「士仁はともかく、麋芳は古くからの仲間だ。簡単に犬野郎に降伏するはずがないのだ」

「于禁の例をお忘れか」周倉が、目に涙を浮かべながら言った。

「・・・とにかく、補給が足りぬのは如何ともしがたい。ここは出直すとしようか」

関羽は、忠実な部下の目を見て話すことが出来なかった。彼も、本当は南方の悲劇を信じていたのである。

軍勢を纏めた関羽軍は、やむなく樊城の包囲を解き、全軍で江陵への道筋を辿った。そして、呉蜀の共倒れを狙う曹操軍は、これを追わなかった。

南への行程は、真実を知る過程でもあった。荊州南部が無血占領され、しかも治安も良好に保たれていることを知った関羽軍の将兵は、家族の元に帰るために陣営を抜け出し、続々と東呉軍に投降していった。いつしか軍兵は激減し、残すはわずか二千名足らず。江陵の西北の小城・麦城に駐屯したまま身動き取れなくなった。

呂蒙軍二万は、江陵から出陣して麦城の南に占位したが、そのまま動こうとしない。こちらの自滅を待っているのだろう。

最も近くにいる蜀軍は、上庸の劉封と孟達であった。しかし、彼らの兵力はわずか一万であるから、魏呉の大軍を防ぎながら援軍を出すことは不可能であった。

「呂蒙に、してやられたわ」関羽は、弱々しい笑顔を息子に向けた。「まさか、この俺が罠に嵌められるなど、想像すらできなかったわ」

「禽獣のような奴らです・・・」関平は、唇を噛んで俯く。

「油断があった。俺は、兄者や益徳と別れて、十年近くの歳月を荊州の鎮将として過ごし、ただ一度の不覚も取らなかった。無意識のうちに、魏と呉の両方を相手に出来ると錯覚していたのだ。だからこそ、孫権との外交を疎かにし、麋芳や士仁に辛くあたり、劉封や孟達と連絡を取り合わず、単独で魏に攻め込んだのだ。そのツケが、とうとう回ってきた」

「そんなに、ご自分をお責めになりまするな」周倉は、目に涙を一杯に浮かべている。

「もはや、兄者に合わせる顔がない。俺は、華々しく戦って死ぬ。お前たちは、逃げるが良い」両腕で頭を抱えて蹲る。

「なにを馬鹿な」「勝負は時の運ですぞ」「まだ望みはあります」

関平、周倉、趙累は、口々に叫んだ。

「上庸に脱出しましょう」廖化が言った。「前将軍には、大王に敗北を報告する義務があります」

「そうだな」関羽は、重い頭をあげた。「成都の兄者に、一言お詫びを申し述べてから死のう・・・」

夜のしじまを縫って、西門から数十騎が走り出た。

臨沮の山間に辿り着いたとき、太鼓の音と共に敵の伏兵が姿を現した。呂蒙は、この事態を予測して、朱然と潘璋率いる二千騎を伏せておいたのである。

関羽は、覚悟を固めた。

降り注ぐ矢の雨の中、敵陣に斬り込んだ青龍刀の美髯将軍は、呉の歩卒を次々に打ち倒し、吹きすさぶ血風の中を荒れ狂った。

「我こそは、漢の前将軍、雲長関羽なるぞ」

潘璋は、このときの敵将の凄まじい働き振りを、生涯忘れることができなかった。関羽雲長。もう六十を越す老齢とは、とても思えない。彼を守る衛士たちは崩れて逃げ惑い、呉将と関羽を隔てる空間には、もはや誰一人として残っていなかった。

「見事なり、関羽」潘璋は、頬を振るわせた。「貴殿の勇猛は、青史に語り継がれることだろう・・・」

乗馬を捨てた関羽は、全身に矢を突き立てた恐るべき姿で歩み寄った。

「俺は、怨霊となるだろう。そして、漢朝に仇をなした全ての逆賊に祟ってやる」

「なんと」潘璋の背筋に、寒気が走った。

「兄者っ」猛将は、唇から血を流して西の空に絶叫する。「先に行って、天界に玉座を用意して待っておりますぞっ」

そして、自らの首の後ろに刀を当て、前のめりに倒れた。

大歓声が周囲を覆う。

しかし、潘璋の体の震えは、一向に止む気配を見せなかった。

月光は、立ち込める血の臭いを洗い流していく。

関羽雲長、享年六十。

 

孫権は、江陵に入城して、関羽、関平、周倉、趙累の首級を実験した。

「麦城の廖化は、関羽の死を聞くと、数千名の守兵とともに投降しました。これで、当陽以南の荊州は、我が東呉のものです」呂蒙が、衰弱した体をおして報告した。

しかし荊州の主は、複雑な表情で関羽の恐ろしい死に顔を見つめ続ける。

「殺さずに、捕らえることは出来なかったのか」孫権は、ぽつりと言った。

「相手は、あの関羽ですぞ」

「・・・そうだな」孫権は大きく頷いた。「曹操も認める一世の義士だ」

「殿は、劉備の復讐を恐れているのですか」

「・・・もちろんだ」

「首級を曹操に送りましょう。この戦は、彼のためにやったのですから」

「ふふん、そんなことで、劉備の怒りを逸らせるとは思えぬが・・・」孫権の脳裏には、大耳の巨漢が半狂乱になっている姿が浮かんだ。「可哀想に」

「は」呂蒙は、青白い顔を上げた。

「俺は、どうしてもあの大耳が憎めないのだ。どうしてかなあ」

ちょうどそのとき、曹操の使者がやって来た。孫権の軍功を賞し、驃騎将軍・荊州牧・南昌侯に任命するとの趣意である。

江陵政庁で接見した孫権は、拝領した印綬を指で弄びながら使者に尋ねた。

「爺様は、元気か」

「は」

「魏王だよ」

「ええ、ご壮健でいられます。樊城の戦場跡を視察なされ、徐晃、曹仁両将軍を左右に従え、盛大な戦勝式典を執り行なわれました」

「なんだ、まだ、くたばらんのか」

「は」

「いや、冗談だ。この書状を魏王に見せてくれ」

摩陂に駐屯していた曹操は、孫権の手紙を一読して大笑した。曹操に、帝位簒奪を勧める内容だったからである。

「小僧めが、俺を燃え盛る暖炉の上に座らせようとしておるわ」

実は、家臣の中にも、曹操の帝位就任を求める声が多かったのである。関羽を破り、政権最大の危機を乗り切った今、この課題は非現実的と言えなかった。しかし、

「俺は、周の文王になるよ」魏王は言った。「それが、俺の生き方だ」

周の文王は、殷を圧迫し天下の三分の二を平定したものの、なおも王位に就こうとしなかった。その(ひそみ) に倣うというのである。

曹操は、もともと天下を統一してから帝位に就くつもりであった。そして、天下統一が不可能となった現在、初志をまげるのは彼の美意識に反する行為だった。天性の芸術家でもある彼は、死期を悟った今、その美を守り抜く事にしたのである。

建安二十五年(二二〇)正月、曹操は、復興なった洛陽に帰った。そこに、孫権から関羽の首級が送り届けられた。

「雲長・・・」

曹操は、変わり果てた猛者の姿に、目頭を熱くした。魏国を最大の窮地に陥れた大敵の死を悲しむとは、彼自身にも理解できぬ心の動きである。これが、年をとったということなのか。彼は、旧友の首級を丁重に葬らせたのである。

そのころ荊州では、原因不明の疫病が流行していた。その最中に、呂蒙と、その副将の孫皎が相次いで病死したのである。

遺言に基づいて、呂蒙の部曲は全て陸遜に継承された。

 人々は、この悲劇を偶然とは思わなかった。関羽の悪霊の仕業と考えて、恐れおののいたのである。関帝廟は、こうした怨霊鎮魂を目的にして建てられた。関帝様は、後に商人の神様になり、横浜の中華街にも祀られているのだから面白い。我が国の天神様(菅原道真)が、もともと怨霊鎮魂のために祀られたのに、今では学問の神様になったのと似ている。