48.最後の戦い

 

討呉に向かう蜀軍は、皇帝劉備を総大将とし、副官に鎮北将軍の黄権を据え、呉班、馮習、張南、杜路、劉寧、陳式、傅肜らの率いる総勢四万である。皇帝の帷幕には、参謀として馬良と簡雍が控える。

兵力といい人材といい、何となく貧弱な印象を拭えないが、無理もない。反乱や魏の攻撃に備えて、国内に多くの兵力を残す必要があるからだ。

成都には太子の劉禅が全土の抑えとして鎮座し、許靖がそれを輔佐する。補給兵站は、例によって首都の諸葛亮が受け持つ。趙雲、李厳、呉壱は、遊軍として四川平野に待機する。そして漢中方面の守りは、馬超と魏延が行なう。

これらの配備を見れば、蜀漢が戦力的に苦しい状態に置かれていたことが良く分かるのだ。

ただでさえ戦力不足なのに、出陣前に張飛を失うという大波乱である。しかし、討呉軍の士気は高かった。それもそのはず、東下する部隊の大半は、荊州出身者で編成されていたからである。彼らは、父祖の墳墓の地を奪還する熱意に燃えたのである。

遅まきながら、蜀漢の兵制について説明しよう。具体的な史料が伝わらないので細部は推測するしかないのだが、基本的には呉と同じ『世兵制』であった。すなわち、部曲を持った多数の豪族の連合体によって、軍が成り立っていたのである。そして、益州領内にいる劉備軍の精鋭は、もともと荊州を根城とする部曲であるから、彼らの本願地を奪い返さなければ、益州部曲を経済的に圧迫することになって軍の維持が難しくなる。劉備が、荊州人士を中核に据えて東征軍を編成したのは、彼らの士気を高めるのと同時に、彼らを益州から引き離して余計な摩擦を避けるという政策的意味もあったのだ。

侠客に戻ると言いながらも、政治家としての姿勢も失わないこの施策は、実に劉備らしい。

七月、劉備軍四万は、白帝城に入った。

孫権は、この事態を重く見た。慌てて和睦と停戦を求める手紙を出したのだが、これは敢え無く黙殺された。

「俺だからいかんのかな。子瑜の言うことなら聞くだろうか」

公安に駐屯していた諸葛瑾は、主君の指示を受けて劉備に手紙を書いた。

「近頃聞きますれば、軍勢を動かして白帝城までお出ましとか。我が東呉が、荊州を襲い関羽どのを殺害した恨みと損害を鑑みてのことと拝察します。しかし、それは小事に心煩わせて大局を見誤った行為ではないでしょうか。考えてみてください。関羽どのとの関係は、先帝(献帝)よりも大切でしょうか。荊州の大きさは、天下に引き比べてどうでしょうか。同じく仇討ちなさるにしても、呉と魏のどちらを優先すべきでしょうか。どうか良くお考えになってください」

劉備は、この手紙も黙殺した。諸葛瑾の言うことは正論かもしれないが、そんな事は最初から承知の上だ。

孫権軍の最前線は、李異、劉阿両将軍に率いられて秭帰に置かれていた。劉備軍先鋒の呉班と馮習は、急襲してこれを一気に撃破したのである。

慎重な劉備は、秭帰に本陣を置くと四囲の情勢を探らせた。もしも曹丕が、呉を積極的に支援する構えを見せるなら、これ以上の深入りは禁物だからだ。

案の定、呉は魏との連携を強めようと謀った。

「あの大耳爺さん、本当にやる気かよ」孫権は、ついに覚悟を決めた。

八月、首都を武昌(武漢)に遷すとともに、洛陽に使者を送り、捕虜となっていた于禁を送還し、手紙の中で「臣孫権」と記して、正式に魏に降伏を申し出たのである。

魏では、新たな政治情勢の到来に議論百出であった。単純に天下統一を目指すなら、蜀と同盟して呉を攻めるのが早道である。しかし、呉は魏に臣従を誓っているから、これを討つのは大義名分が立たない。かと言って、蜀を攻めるのも呉を喜ばすだけになる。

「しばし、様子を見よう。両者が長く戦って、疲弊してくれればありがたい」魏帝曹丕は、現実的な決断を下したのである。「だが、ここで孫権を手なずけるのも悪くはない。呉王ならびに大将軍に任命してやろう」

使者の邢貞を武昌で迎えた孫権は、大いに喜んだ。そして、長男の孫登を人質として差し出す約束までしたのである。こうしたなりふり構わぬ外交姿勢こそ、政治家孫権の最大の武器だ。

だが、魏は兵を出そうとせず、傍観の姿勢を崩そうとはしない。

「やはり、曹丕は動かぬか」

微笑んだ劉備は、簡雍を呼んで白帝城の守備を命じた。

「陛下、どうしてです」簡雍は不服そうだ。

「お前、体調が悪いのだろう。隠したって分かるぞ」

「・・・でも」

「まあ聞け、白帝城はこの遠征の基点だ。ここをしっかり守って兵站を整えることができる人材は、お前しかいないのだ。やってくれるな」

「・・・分かりました」簡雍は、深く一礼して退出した。

劉備は、旧友が出て行った跡を寂しげに見ていた。

「憲和よ、用心棒時代からの仲間は、今やお前一人になってしまった。お前だけは、俺よりも先に死なせたくないのだ・・・」

そのとき、馬良が参上した。

「陛下、朗報です。武陵の蛮族たちが、我が軍に味方することを約束してくれました。首長の沙摩珂自らが、三千の精鋭で出陣するそうです」

「やったな、季常」劉備は、久しぶりに白い歯を見せた。

漢の章武二年(二二二)正月、劉備軍四万は、いよいよ秭帰を出撃して夷陵に迫った。黄権に水軍を任せ、皇帝自らが陸軍を率いる水陸両面作戦である。黄権は、皇帝自らが先鋒となる戦闘序列を危ぶんで、何とか変更させようと進言したが受け入れられなかった。

「これは、雲長の仇討ちなのだ。朕が陣頭に立たずにどうするか」胸を張る劉備の本音を言うならば、彼は将軍たちの能力が信用できなかったのである。

黄権は、胸にしこりを残したまま、任務に邁進するしかなかった。

長江上流から攻め降る劉備軍は強く、迎え撃つ呉軍は次々に打ち破られた。

「これは参ったな」孫権は、渋顔でうめいた。「全軍で劉備に当たらねばならぬぞ」

彼は、武昌に五万の兵力を集結させた。総大将は、陸遜である。

三月、劉備軍は夷陵前面で孫桓軍を大破した。孫桓は辛うじて夷陵城に逃げ込んだが、完全な包囲下に置かれてしまったのである。

陸遜の五万は、ようやく夷陵に到達したが、蜀軍の整然とした布陣に手が出せずに、その前面の丘陵地帯に堅固な陣地を築いて立て篭もった。

「さすがは劉玄徳だ」陸遜は、士気高き敵陣を眺め渡して嘆息した。

「大都督」部将の韓当が進み出た。「何を暢気に呟いておられるか。早く安東(孫桓)どのを救出しないと」

「孫安東将軍は、人を良く用いるゆえ、篭城に耐えることだろう」

「なんですと」韓当は目を剥いた。「見殺しにするのか」

「そうではない」陸遜は、短く言って議論を打ち切った。

陸遜は、実戦経験が乏しい書生だと思われていたので、諸将に信頼されていなかった。帷幕に集う徐盛、朱然、潘璋、宋謙、鮮于丹らは、一様に不安げな面持ちを見交わした。

彼らと対峙する劉備も、別な意味で不安になった。

「陸遜・・・会ったことないし、聞いたこともないな。どういう奴だろう」

劉備は、敵の人格を見破って、その隙を突いて勝利する名手だった。逆にいえば、相手の性格が分からなければ手が打てないのである。馬良の報告では、陸遜の経歴だけは判るものの、それ以上の情報が足りない。先月、敵中から廖化が帰順してきたが、その廖化も詳しい情報は持っていなかった。

「試してみようか」

劉備は、自ら精鋭八千を率いて伏兵になると、呉班に二千名を率いて先行させ、敵を挑発させた。敵が釣られて出てきたら、横腹から伏兵が襲い掛かって挟み撃ちにする作戦である。

呉の諸将は、口々に攻撃するべきだと主張した。

「緒戦で敵を叩いてその士気を挫くのは、兵法の初歩ですぞ」

「劉備も、同じ事を考えているだろう」陸遜はそう言うと、どっかと帷幕の奥に腰を据えた。「これはきっと罠だよ」

諸将は歯軋りして悔しがったが、大都督に逆らうわけにはいかず、呉班軍から浴びせられる罵声に耳を塞ぐのであった。

半日たっても呉軍が陣地から出てこないので、呉班は諦めて撤退した。その後で、谷間に伏せていた劉備軍も姿を現し、共に帰陣したのである。

「やはり罠だったか」陸遜は、余裕の笑みを見せた。

呉の諸将は、少しだけ大都督を見直したのである。

「陸遜め、なかなかやるな」劉備は、頬杖を突いた。「しかし東呉は、人材に恵まれている。周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜と、有能な人材が途切れることなく続いているのは、羨ましいかぎりだわい・・・」

こうして戦いは持久戦となった。なにしろ劉備軍は、呉軍よりも数が少ないので、堅固な陣地に立て篭もる陸遜を攻撃する術がない。

「根競べなら負けないぞ。俺を誰だと思っている。この世のあらゆる苦労を嘗め尽くした男だぞ」劉備は、自嘲気味に呟いた。

蜀軍も、防戦態勢を固めた。劉備は、長江南岸の山岳地帯に、秭帰から夷陵までの七百里(六百キロ)にわたって四十以上の陣地を築き、これらを有機的に連携させたのだ。また、北岸には黄権率いる水軍を配し、万全の構えを見せたのである。

「ふふふ」陸遜は笑った。「攻めに来た軍隊が、穴倉に篭ったか。よしよし、勝機が見えてきたぞ・・・」

いつしか春が過ぎ、夏に入っても戦場は膠着状態だった。

洛陽の曹丕は、両軍の状況を聴取すると低く笑った。

「劉備は、兵法を知らぬ。七百里にわたって点々と陣営を張るとは、分散された兵力でいざというときどう対処するというのか。今に大敗の知らせが入ることだろう」

だが、劉備の立場としては仕方がなかったのである。劣った戦力で糧道を守りつつ、強敵と対峙するには、この方法しかなかったのである。

閏六月下旬、山の木々は萌え、雨季も去ったために空気は乾き始めた。

「そろそろだな」陸遜は、望楼から敵陣を見やった。「総攻撃の準備だ」

しかし、部将たちは反対した。

「劉備を攻撃するならば、侵攻当初に行なうべきでした。現在では七ヶ月近くも対峙が続き、要害の地には堅固な陣地が設けられていますから、攻めても効果はありますまい」

「いいや」陸遜は笑った。「劉備は智謀に長け経験も豊富だから、攻め込んだ当初は注意深く計略を巡らせており、こちらからは仕掛けようがなかった。しかし、現在では長く対峙が続いて敵兵の士気は弛緩し、大いに疲労していることだろう。彼らを手取りにするのは今しかない」

そして、劉備軍の最前線の陣地に強襲を仕掛けた。しかし、案に反して抵抗は厳しく、呉軍は大損害を出して撃退されたのである。

「偉そうに言いやがって」韓当は怒った。「無駄に兵を殺しただけじゃねえか」

「そうではない」陸遜は、まだまだ余裕だ。「これで攻め方が判ったのだ」

対する劉備は、新たな戦局に心を躍らせた。

「ふふふ、陸遜め。ついに痺れを切らせて動き出したな。我慢比べで、この俺に勝とうというのが甘いのだ」

そして、各陣地から兵を抽出して手元に集めた。呉軍の反抗近しと予想して、最前線の陣地に密かに伏兵を設けようとしたのである。

しかし、陸遜はこれを待っていたのである。彼の狙いは、劉備の注意を最前線にひきつけることである。大都督の視線は、むしろ敵の後方、いや、敵の陣地全体に向けられていた。

到死軍と解鎖軍を先頭に立てた奇襲部隊は、それぞれが一束の茅を背負って夜のしじまを抜けてきた。彼らは、哨兵を暗殺すると、蜀軍の陣地のある山々に潜み、それぞれの風上に占位した。そして、夜が明けた。山鳥の囀りと同時に、七百里に及ぶ四十もの陣は、一斉に炎を巻き上げたのである。

「しまった」劉備は絶叫した。「その手があったか」

蜀の陣地群は、互いに有機的な連携が出来ており、どの陣がいつ攻められても、即座に救援を送れるようになっていた。しかし、全陣地が同時に火攻を受ける事態は予想外だ。

殺戮の嵐が巻き起こった。

劉備は親衛隊を引き連れて、炎熱と混乱の中を西へと逃げた。

馮習、張南、沙摩珂は戦死し、杜路と劉寧は逃げきれずに降伏した。

劉備は、辛うじて馬鞍山で踏みとどまった。馬良、呉班、陳式、傅肜、廖化らが駆けつけて皇帝を守る。しかし、その総兵力は一万にも満たない。

陸遜の追撃は激しかった。四万の兵を馬鞍山に差し向け、猛攻を加えて来たのである。腰の砕けた蜀軍は、これを防ぐことができずに、たちまち総崩れとなる。

矢傷を負った馬良は、この山で危篤に陥り息を引き取った。劉備は、彼の遺骸を連れて行こうとしたのだが、敵の追撃が急なので諦めて土中に埋めた。

傅肜は、殿軍を引き受けて奮戦し、部下もろとも玉砕した。彼は敵から降伏を呼びかけられたのだが、「呉の犬め、漢の将軍に降伏するものがいるか」と、啖呵をきって散ったのである。

劉備軍は、もはや敗残兵の集団となっていた。気力を振り絞りながら進む皇帝は、付近の村長に命じ、隘路に軍楽器や旗指物を積んで火を掛けさせ、もって呉の追撃を遅らせたのである。

北岸に陣取る黄権は、南岸の炎を見やると、直ちに水軍を発して救援しようとした。しかし、彼らが南岸に達したときにはもう手遅れになっていた。黄権軍一万は、呉の水軍と戦いながら北岸に逃れたが、もはや補給路を断たれて交戦は不可能である。

「陛下」黄権は、目に涙を一杯に浮かべて西の空を見た。「不忠をお許しください」

彼は、部下たちの命を救うため、敵に降伏したのである。ただし、呉に降るのには抵抗を感じたので、代わりに魏に投降したのであった。

こうして、蜀の遠征軍は全滅した。秭帰から夷陵にかけての山道は、死体で真っ黒に埋まり、長江は死体の流れになった。

巫で趙雲軍に迎えられた劉備は、数少ない生き残りとともに白帝城に入った。

「子龍よ・・・」劉備は、昔馴染みの将軍に語りかけた。「朕ともあろうものが、陸遜などという書生との我慢比べに負けてしまった。年を取って気が短くなったのだろうか」

「勝敗は時の運です」趙雲には、そう言って慰めることしかできなかった。

趙雲は、白帝城の篭城準備を進めた。陸遜の侵攻は、必至と思われたからである。

しかし、呉軍は秭帰まで追撃して引き返した。

呉の諸将は白帝城の攻略を進言したのだが、陸遜が首を横に振ったのである。

「大王(孫権)は、人質を魏に送ることを渋っている。曹丕は、恐らくそれを口実にして江南に攻め寄せるはずだ。我々は、急いで国に帰ってこれを撃退しなければならぬ」

今や陸遜に全幅の信頼を置く諸将は、黙って指示に従ったのである。

夷陵城の孫桓は、半年振りに救出されて大いに喜んだ。

「いやあ、伯言(陸遜)どのが助けに来ないものだから、一時は随分恨んだものだ。でも、今から思えば笑い話だな」

「私は、安東どのの粘りを信じていましたから」陸遜が笑う。

「ははは、粘りで君に勝てる奴はいないよ」

そのとき、帷幕に急使が駆け込んだ。魏の曹丕が、三方面から大軍を起こして呉に進軍中というのだ。

魏帝曹丕は、陸遜が勢いに乗じて蜀に攻め込むものと思い、その隙に乗じて、防備が手薄な呉に侵攻しようと考えたのである。

呉の諸将は、大都督の先見の明に大いに感服した。もしも蜀に進撃していたら、急場に間に合わなくなるところだった。

そして、魏の侵攻作戦は、呉軍の堅い守りを見て延期された。曹丕は、人質を差し出せば許す、と孫権を恫喝したが、呉王はのらりくらりと答えをはぐらかす。

こうして、魏呉の仲は険悪となった。

 まさに戦国乱世は、先が読めない社会である。