49.永安宮

 

魏帝曹丕は、洛陽で降将の黄権と対面して、彼の人格と学識の高さに大いに感銘を受けた。

「徐庶といい孟達といい貴君といい、劉備に仕えていた者どもは、みんな凄い男ばかりだなあ」

「劉帝さまの仁徳が、みなを感化するのです」黄権は、寂しげな表情で答えた。

「蜀には、貴君のような者はどれだけいるのだ」

「随分、私を評価してくれているようですが、丞相の諸葛亮を初め、みな神のごとき智謀と優れた見識の持ち主です。私など、取るに足りません」

曹丕は、ますます黄権が気に入った。彼は、何とかして降将の心を自分に向けさせたいと思い、劉備が彼の家族を処刑したという噂を伝えた。

「劉備は酷い奴だなあ」曹丕は言った。「さあ、喪に服しなさい」

「いいえ」黄権は、首を横に振った。

「どうしてだ」

「誤報に決まっているからです」

やがて確報が伝わったが、黄権の言ったとおりだった。

蜀の法律には、裏切り者の家族は死刑になると明記されているので、ある者が処刑を勧めたところ、劉備は、「朕が黄権を裏切ったのだ。彼が朕を裏切ったわけではない」と答えて、前にも増して黄権の家族を労わったという。

「どうして誤報だと判ったのだ」曹丕は降将に尋ねた。

「私と劉帝さまは、心と心で契り合った仲だからです」と答えた黄権は、はらはらと落涙したのである。

曹丕は、そんな彼を優しく見つめるばかりであった。

 

そのころ呉の孫権は、魏の大軍に睨まれて尻がむず痒くなっていた。

「劉備のやつ、まだ白帝城にいるってか」

「魏と歩調を合わせて挟み撃ちにするつもりでは・・・・」張昭は心配そうだ。

「そいつはたまらぬ」呉王は、頬杖をついた。「人質を送る気がない以上、魏との開戦は必至だ。こうなったら、劉備と和睦するしかない」

十二月、孫権は、太中大夫の鄭泉を白帝城に派遣した。彼一流の、変幻自在の外交戦略である。

劉備は、笑顔で使者を迎えた。

「碧眼児は、曹丕と戦うのか」

「御意」鄭泉は、深く跪いた。「過ぎる十月、我が呉王は、魏との絶縁を天下に示すため、新たな元号を創始いたしました。本年度は、呉の『黄武元年』と相成ります」

「ふふふ、孫権はいずれ皇帝を名乗るだろう」劉備は、仮ごしらえの玉座の上で伸びをした。

使者は面食らったが、構わず続けた。ついては、休戦して友好関係を樹立したいと。

「分かった」劉備は、大きく頷いた。「いずれ、こちらからも答礼使を派遣する。呉王に、よろしく伝えておくれ」

鄭泉は、話がすらすら進むので驚いたが、要件が済んで大喜びで武昌に帰っていった。

もはや蜀には、呉との和平以外に生き延びる術がなかった。冷静な劉備は、敗戦直後にそのことを悟ったのである。

皇帝は、答礼使として太中大夫の宋瑋を呉に派遣する手はずをした後で、簡雍の病室を見舞った。古くからの同志は、年初から病に臥せっていたのだが、夷陵での敗北を知ってから心痛の余り重態に陥っていたのである。

「ああ、陛下」簡雍は、病床から起き上がろうとした。

「そのままで良い。それに、陛下は止めよ。ここは成都宮ではない。劉さんと呼べ」

「劉さん・・・外の様子は・・・」

「変わりない。平穏だ」

しかし、これは嘘だった。ここ数ヶ月で、許靖、馬超、麋竺、孫乾が病没した。また、十二月に入ってから、漢嘉太守の黄元が謀反を起こしていた。

「劉さん、どうして成都に帰らないんだい」

「もう、宮廷の中で格式ばった生活をするのが嫌になったのだ。ここで、行きたい所に行き、座りたいところに座り、食べたいものを食べるのだ。そうそう、ここの地名も変えたぞ。魚復県などという辛気臭い名前は止めて、永安と名づけた。いいだろう」

「永安か、いい名前だな・・・でも、成都はいいのかい。ほったらかしで」

「孔明に任せておけばいい。南郊北郊(皇帝の祭礼場所)の造営も進んでいるよ」

「そうだ、劉さん、下痢は治ったかい」

「ああ、心配するな」

これも嘘だった。治るどころか、余病を生じて体調は頗る悪かった。

「劉さん、相変わらず嘘が下手だぜ」簡雍は、嬉しそうに笑った。「楽しかったな。俺たち、精一杯やって来たよな」

「ああ」

「幽州から始まって、いろんなところで暴れてきたな」

「ああ」

「来世でも、みんなで一発かまそうな」

「ああ」劉備は、目頭を押さえた。

その翌日から簡雍は昏睡状態に陥り、やがて眠るように息を引き取った。享年六十二。

皇帝は、遺骸に取り縋って慟哭した。

「幽州以来の仲間は、みんな逝ってしまった・・・」

悲嘆に暮れる劉備は、やがて食事もほとんど摂らなくなって、病臥の床から起き上がれなくなったのである。

 

蜀の章武三年(二二三)正月、魏呉は全面戦争に突入した。

魏軍は、洞口方面に曹休、張遼、臧覇を、濡須方面には曹仁、曹泰を、江陵方面には曹真、夏侯尚、張郃、徐晃を差し向けてきた。総勢二十万を、三路に分けて突入させたのである。

呉軍は、洞口に呂範、全j、徐盛を、濡須に朱桓を、江陵に諸葛瑾、潘璋、楊粲を配して徹底抗戦した。その総勢は十万である。

一進一退の激闘だったが、戦局は総じて呉軍に有利であった。孫権が英断して、早期に劉備と休戦したのが良かったのだろう。

「だから劉備の親爺は憎めないのだ」孫権はご満悦であった。

その劉備は、二月に入って成都から諸葛亮を呼び寄せた。

劉備の病状は、日に日に悪化していたので、彼は白帝城を出て永安の県城に移り、ここを永安宮と名づけて居住していた。

「このような粗末な所に・・・」諸葛亮は、宮に入って驚いた。大きさといい広さといい、そこらへんの土豪の屋敷と変わらないではないか。

皇帝は、広間の奥の寝台に横たわっていた。二年ぶりに対面する諸葛亮は、痩せて顔色の悪い主君に傅いて拝礼した。劉備は、懐かしげに丞相を見やる。

「白帝城は山の上にあるから、側近たちの居住が不便でな。平野の、こちらに移ったのよ」

「何とお労わしい。陛下・・・どうして成都にお帰りにならないのですか。太子さまや奥方さま、皆様お待ち兼ねですぞ」

「大言壮語を吐いて出陣して、この不始末だ。恥ずかしくて帰れまい」

「孝直(法正)さえ生きておれば、このような大事にはならなかったでしょうに」諸葛亮は、きつく唇を噛んだ。

「これも、天命ということだ。繰言は言うまい」劉備は、静かに目を閉じた。「みんな死んでしまったな。孟起(馬超)などは、四十七の若さで死んだ。まだ子供は小さいだろう」

「孟起どのは、従兄弟の馬岱に部曲を継がせたいと遺言しましたので、そのように計らいました」

「どれも、小粒になったな」劉備は、潤む目を開いた。「五虎将軍の生き残りは、今や趙雲ただ一人・・・」

「しかし、亡き季常(馬良)どのの弟、馬謖は、相当な切れ者です。私の片腕にしようと考えているのですが」

「ああ、幼常か。あいつは言葉が実質に優先する、つまり大言壮語の癖があるから、気をつけて使わねばならぬぞ」

「そうですか・・・」諸葛亮は、納得しかねる様子だ。

「李厳と魏延も、扱いが難しい。あいつらは自尊心が高いから、それなりの処遇をしないとすぐに不満をもつだろう。使いやすい部将は、高翔に呉班に向寵といったとこかな。年寄りの中では、趙雲と陳到は何を任せても卒なくこなすだろう。ああ、昔から朕にくっついてきた劉琰は、役に立たなければ捨ててもよいぞ」

思いのほか辛口の批評に、諸葛亮は眼を見張った。

「冷たい男だと思うか」劉備は、低く笑った。「仁徳者などといっても、所詮はこんなものよ。夷陵の敗戦だって、死んだのは荊州部曲の者ばかり。朕は、彼らを荊州に捨ててきたのだ。かえって、これで益州の統治が楽になっただろう、孔明」

諸葛亮は、叩頭したまま顔を上げない。

「朕は、もともとこういう男なのだ。心のどこかが、いつも空いている。その隙間に、いろいろな物を詰めながら生きてきた。詰め物の一つが、仁徳の時もあった。関羽や張飛のときもあった。曹操のときだってあった。それが無くなれば、代わりの詰め物を入れるだけ。それが、劉備玄徳の生き様だ」咳き込みながら、尚も語る。「朕には徳なんてないよ。心の一部が欠落した冷血漢なのだ。亡き龐統にいみじくも指摘され、激怒したこともあったっけ。そんな男が、漢室の復興など、所詮は無理だったのだ。乱世の英雄なんて、重荷だったのだ。朕に付いて来て損をしたな、孔明」

諸葛亮は、肩を震わせていた。怒っているのかと思いきや、泣いているのだった。

「どうした、孔明・・・」皇帝は、病床から身を乗り出した。

「嬉しいのです」諸葛亮は、涙で潤む顔を上げた。

「そ、そうか」劉備は、狐につままれたような顔だ。

「臣下に、これほどの情誼を示してくれる主君に仕える事ができて、私は幸せです。臣下を道具ではなく友として遇してくれる。陛下は、間違いなく真の仁徳者です。十二歳のとき、徐州で初めてお目にかかって感じたとおりでした」

「ああ」劉備は微笑んだ。「正義は、邪悪を駆逐する」

「気付いておられたのですか」大きく眼を見張る。

「君の、欠けた歯を見ているうちに思い出したんだ。いつ気付いたかは忘れたが」

「頭を撫でられたとき、このような方にお仕えしたいと心から思いました。兄が東呉に渡っても、私は荊州に留まったのはそのためです」

「後悔しただろう」

「いいえ」諸葛亮は叩頭した。「いいえ」

それから二人は、様々なことを語り合った。人生のこと、天下のこと。

しかし、この主従に残された時間はわずかだった。

 

三月、呉軍は、魏の大軍を大破してこれを中原に追い払った。三国鼎立の政局は微動だにせず、曹丕の天下統一計画は失敗に終ったのである。

同月、四川平野では、黄元の反乱が鎮圧された。将軍の陳忽が奮闘し、賊将を捕らえて成都で斬ったのだ。

だが、永安宮では、皇帝の病がますます重くなっていた。

劉備は、成都に残る太子劉禅に遺言を書いた。

「人間五十になれば若死にとはいわず、もう六十余りなのだから、恨むことも悲しむこともない。ただ、お前たち兄弟のことが心配だ。丞相によれば、お前の知力は非常に大きく進歩は期待以上という。それが本当なら、朕には何も心配することはない。努力せよ、努力せよ。悪事は、小悪でもしてはならぬ。善事は、小善でも必ず行なえ。ただ、賢と徳のみが人を心服させるのだ。お前の父は徳が薄いから、見習ってはいけない。『漢書』と『礼記』を読み、暇なときは諸子と『六韜』『商君書』を歴覧し、知恵を増すようにしなさい。聞けば丞相は『申子』『韓非子』『管子』『六韜』を一通ずつ書写し終わったが、まだ送らないうちに無くしてしまったそうだ。自分でもう一度求めて学びなさい」

劉備の、父親としての優しさが滲み出る文章である。

父がいよいよ危ないと知って、成都から幼い劉永と劉理が連れてこられた。劉備は、二人の幼子を諸葛亮に引き合わせると、「お前たちは、諸葛丞相を父と思って仕えなさい。今後は、丞相と一致協力して事に当たるのだぞ」と言い聞かせて拝礼させた。

苦しい息の下の眠れぬ夜、劉備玄徳は己の人生に思いを馳せた。

「曹操は、何を考えながら死んだのだろうか・・・」

今にして思えば、あまりにも偉大な好敵手だった。その曹操にして、天下統一の悲願を達成できずに、帝位に就かぬまま冥府に旅立った。

「俺は、あいつの足元にも及ばなかった。それなのに、漢帝国の末裔を自称し、帝位にまで昇った。こんな俺を、後世の人は何と言うだろうか。身のほど知らずの愚か者だと思いはしないだろうか・・・。俺は、そんなの嫌だ。せめて、死後の名声で曹操に差をつけられたくない。俺の戦いの人生が、個人的な栄華や子孫の殷賑のためだったとは思われたくない。俺は、愚かな人間だったけど、国家のためを思い、民衆のためを思って頑張ったのだ」

翌朝、劉備は、諸葛亮、李厳、趙雲をはじめ、永安に集う群臣を寝所に呼び寄せた。そして、諸葛亮を親しく側に近づけてこう言った。

「君の才能は、曹丕に十倍する。その手腕あれば、蜀を安んずるのみならず、必ず中原の回復に成功するだろう。朕亡き後、嗣子劉禅に君主の資格あれば、これを補佐してもらいたい。しかし、到底その資格がなければ、遠慮は無用、君が代わってその地位に就いてほしい」

満座はどよめいた。前代未聞の重大発言である。臣下に簒奪を勧める皇帝が、いまだかつてあっただろうか。

だが、侠客の心を失わない劉備は、事業というものは、子孫ではなく信頼する仲間に継がせるものだと常々考えていた。それに、自分の事業が、私利私欲のためではなく、天下万民のための侠の心に根ざすものだと、後世に強く訴えたかったのである。

諸葛亮は、落涙し叩頭して答えた。

「臣はまことに微力ですが、股肱の力を尽くし、忠節を全うし、死に至るまで変わらないでしょう」

その震える背中を眺めながら、劉備は心から思った。

「なんと善良な男だろう。善良さが災いして、俺のような者に付いてくる羽目になったのだな。だが、こんな男に付いて来てもらった俺は、何という果報者だろう。それは、俺の人生が、無駄でも無益でもなかったという証明なのだ」

彼の心は、幸せで満たされた。

「雲長、益徳、憲和。もうすぐそちらに行くぞ。また、一発でかいのを、ぶちかまそうな。孟徳、最後の決着は冥府で付けようぞ。碧眼児が来るまでには、雌雄を決しような」

霞み行く意識の中で、大きな影が雲のように湧き起こった。何だろうと、意識を凝らすと、それは楼桑村のあの桑の木だった。緑の葉を風にそよがせながら、いつもと変わらぬ姿で聳え立っている。その根元では、大勢の子供たちが泥まみれになって遊んでいた。きっとこの光景は、時代が経っても変わることはあるまい。そう思うと、何だかとても嬉しい。

諸葛亮、趙雲、李厳らは、主君の穏やかな死に顔に接してむせび泣いた。

章武三年(二二三)四月二十四日、劉備玄徳の享年は六十三。

大喪は、諸葛亮が主宰した。遺言により、官僚の服喪期間はわずか三日と定められた。

五月、劉備の棺が成都に移送されてきたが、墳墓の造営が未了だったので宮廷内に安置し、八月、ようやく郊外の恵陵に葬った。このとき、既に荊州から移送済みであった甘夫人の遺骸を合葬した。ここには、後に呉夫人も合葬されることになる。

この恵陵は、後にその敷地内に諸葛亮を称える武侯廟が建てられたことから、現在では武侯祠などと呼ばれているが、れっきとした劉備の墓である。皇帝の墳墓にしては小規模で簡素なのは、劉備と諸葛亮が、厚葬を尊ぶ儒家思想から自由であったからだろう。

劉備のおくり名は、『昭烈』皇帝となった。二文字のおくり名は珍しいが、諸葛亮が経典を調べて厳選した結果である。

 波乱万丈の風雪に鍛えられた劉備の魂は、今も成都郊外で眠りつづけている。