50.その後

 

その後の政局について概略を記そう。

劉備の死は、内外に衝撃を与えた。

魏も呉も、蜀の運命は終ったと考えた。

魏は、蜀との国境防備を緩め、群臣たちは諸葛亮に降伏を勧める手紙を書いた。しかし諸葛亮は頑なにこれを拒み、『正議論』を起草して魏との徹底抗戦を表明したのである。

呉は、蜀の国力を見くびり、同盟を破棄しようと考えた。手始めに、蜀の南方に割拠する少数民族(南蛮)を操り、大規模な反乱を起こさせたのである。だが、呉との友好関係を重視する諸葛亮はこれを黙殺し、三年間は呉との外交交渉に精力を傾けた。そして孫権の説得に成功し、呉との同盟が締結された後で、自ら主力を率いて南蛮を討伐したのである。この遠征で、蜀漢はミャンマー東北部までを領土に組み込むことに成功。人材と兵は鍛えられ、軍需物資は豊富になった。

こうして、蜀と呉が連携して魏と戦う態勢が整う。

だが、三国鼎立が続くうち、魏と呉蜀との国力差は決定的になっていた。経済が安定すると、激減していた人口も増加に転じるから、豊かな中原を制覇する魏は、時間が経つにつれて加速度的に強大になっていったのである。それにつられて、漢朝復興を望む声は次第に枯れて行き、もはや、漢王朝は歴史の遺物に成り果てていた。

それでも、諸葛亮は戦いを止めなかった。座して滅ぶを待つよりは、打って出るべし。この非常な決意を示すものが『出師の表』である。出陣の起草文にしては悲壮なこの表は、諸葛亮の優れた状況判断力を如実に示している。

蜀の建興六年(二二八)の最初の北伐は、戦略的奇襲となった。蜀の国力を嘗めきっていた魏は、関中方面に殆ど兵を置いていなかったのである。趙雲の部隊を囮にして曹真の主力を引き寄せた諸葛亮は、残りの全軍で安定、南安、天水の三郡を無血平定し、西から長安を衝く構えを見せた。

驚いた魏は、皇帝曹叡(曹丕の子)自らが出陣する姿勢を見せて、先鋒に張郃を任命した。対する蜀軍先鋒は、諸葛亮の秘蔵っ子、馬謖であった。しかし、馬謖はこの局面で重大な作戦ミスを犯し、蜀軍の大敗を招くのである。なんとか軍を纏めて漢中に撤退した諸葛亮は、軍令違反で秘蔵っ子を死刑にした。これが『泣いて馬謖を斬る』の故事である。

このとき趙雲は、齢六十を越す老将であったが、自ら殿軍を引き受けて奮闘し、全軍を無事に撤退させた。そしてこれが、彼の最後の花道となった。この翌年、趙雲子龍は静かに逝去したのである。

諸葛亮は、その後も数度にわたって北伐を敢行したが、これはもはや攻撃的防御とでも言うべきものだった。どの戦線においても、呉蜀連合軍は魏より劣勢であるから、究極の勝利は望むべくもない。それでも呉蜀は、先に魏に攻め込まれないようにするため、積極的な攻撃姿勢を崩すわけにはいかなかったのだ。

蜀漢は、高度な全体主義国家に変貌した。全ての権力は丞相諸葛亮に集められ、全ての資源は漢再興のための北伐に傾けられた。当然、不満も出てくる。諸葛亮は、自分が重要な仕事を独占し、他人に譲ることをしなかった。また、荊州出身者を多く登用する傾向があったため、益州豪族の李厳や豫州出身の劉琰との仲は険悪となった。諸葛亮は、断固たる姿勢で彼らを排除し、ついに五度目の北伐の陣頭に立つ。

五丈原で司馬懿軍三十万に対峙した蜀軍十万は、鍛えぬかれた精鋭であった。しかし司馬懿は陣地を堅く守り、戦おうとしない。数ヶ月の対陣ののち、諸葛亮は過労で倒れた。蜀の建興十二年(二三四)、不世出の英傑は、戦場でその生涯を閉じたのである。だが司馬懿は、撤退する蜀軍を追撃しなかった。『死せる孔明、生ける仲達を走らす』の故事である。

その後、政局は小康状態となる。

呉の孫権は、既に黄龍元年(二二九)に皇帝位に就いていたが、国内の人口が不足気味となって積極攻勢が取れなくなっていた。

蜀も、諸葛亮の連戦で疲弊し、急激に窮乏化していた。

ところが、最大勢力の魏では、司馬一族による専横が激しくなっていた。それを憤った皇帝曹髦が、司馬昭(司馬懿の子)を誅殺しようとして返り討ちに合う事件が起きた。

魏の景元四年(二六三)蜀は、司馬昭が牛耳る魏によって併合された。この時の蜀は、総人口九十三万に対して、帯甲兵士十三万、官吏は四万人もいたという。早期に降伏した皇帝劉禅の判断は、民衆の苦労を考えれば賢明だったと言えようか。劉禅は、洛陽で幸せな生活を送り、その終わりを全うする。

やがて魏は司馬炎に帝位を譲り、晋の秦始元年(二六五)、晋王朝が誕生した。

そして晋の大康元年(二八〇)、呉は孫皓の代になって、この晋に滅ぼされた。

三国志の時代は、こうして終わりを告げたのである。

 

 

 

 

昭烈三国志   完結