あとがき

 

この小説は、執筆ペースの自己ベストである。2000年3月10日に書き始めて、7月11日には書き終えていた。約700ページを4ヶ月で仕上げたということは、1日当たり6ページ!・・・真面目に仕事をしていないということがバレバレだ。

それはさておき、このペースで書き上げることが出来た最大の理由は、『三国志』という素材の面白さに尽きる。日本の作家先生が、争って三国志を書きたがる理由が良く分かった。むちゃくちゃに書きやすいのである。

これまでの私の歴史長編は、南北朝の九州だとかヒトラーだとか、難しい内容が多すぎた。どうしても途中で筆が止まりがちとなり、なかなか脱稿できなかったのである。いやあ、三国志は、本当に楽ちんだ。頭を使わずに書けるから。

しかし、ひねくれ者の私が、なんでそんなにメジャーなテーマを書いたのか。それは、偉大なる『三国志演義』と、真正面から対決したかったからである。

今更説明するのも面倒だが、三国志には二つの系統があるのである。一つは、晋の歴史家・陳寿が書いた『正史』である。もう一つは、明の作家・羅貫中が書いた(あるいは集大成した)『演義』である。

もちろん、歴史としての信憑性は、『正史』がベストである。なにしろ、陳寿は諸葛孔明に会ったことがある同時代人なのだ。それに加えて、『正史』を読めば読むほどこの歴史家の真面目さと誠実さが伝わってくる。陳寿は、歴史学的に正確なことしか書かないのである。記述内容に自信がないときは、はっきりとそう書く(例えば、東夷伝の冒頭に、嘘かもしれないと断り書きをしている。著者に自信がないんだから、邪馬台国の場所なんか、わかりっこないわい)。しかし、それゆえに面白みが無い。南北朝時代に裴松之が注解を付けてくれたので、ようやく読み物として観賞に耐えるものとなった。

さて、中国の歴史はどんどん進み、漢民族は異民族に攻め立てられて僻地を逃げ惑う運命に何度も見舞われた。そのたびに、良く似た境遇の中で奮闘した劉備と諸葛亮の名が、為政者たちの脳裏に懐かしく浮かんだ。また、民衆たちは、平民の侠客出身の劉備に深い憧れと同情を寄せつづけた。

こうして、いつしか劉備と諸葛亮を主人公とする『三国志平話』と、その発展改良型の『三国志演義』が成立する運びとなったのである。これらの小説の基本パターンは、善玉劉備が、悪玉曹操に苛められているところを、正義の味方の諸葛孔明(無敵のスーパー軍師!)が助けてあげるという筋である。その割には、劉備も諸葛亮も負け犬になって勧善懲悪とはいかないのだが、その辺も、リアリティがあって、人気の秘密だったかもしれない。

さて、日本で出版されている三国志ものは、そのほとんどが『演義』に基づいている。吉川英治、横山光輝、三好徹などなど。

その一方、『正史』を重視する作品には、陳舜臣の『秘本三国志』、北方謙三『三国志』、王欣太の『蒼天航路』があるが、少数派となっている。

私が頭痛を感じるのは、専門の学者や先生の中に、『正史』と『演義』の区別ができない人が多々見られる点である。小説の内容を、堂々と「プレジデント」や「PHP文庫」に書いちゃってもいいのでしょうか?あくまでも歴史と小説のケジメは付けるべきではないでしょうか?だいたい、日本の政治家や官僚や経営者は、司馬遼太郎を読んだくらいで自分を教養人だと思っているらしいが、馬鹿もたいがいにしたまえと言いたい。小説と歴史は、全然違うのだ。歴史小説を百万冊読んだって、歴史書1冊分の価値しかないのが、どうして分からぬか。欧米や中国のエリートは、みんな歴史書やブローデールやマルクス・アウレリアス・アントニヌスを読んでいるんだぞ。日本の政治や経済がうまくいかないのも、むべなるかなである。要するに、歴史と小説のケジメを付けなさいと、私は言いたい。

で、私のこの小説は、『正史』をそのまま小説にしたのである。私のこの作品を読めば、小説を楽しみつつ『正史』を理解できるというお得な代物なのである。

もっとも、『正史』を小説化したという点では、実は『演義』も一緒である。しかし、『演義』は、明代特有の慣行や政治環境によって大きな制約を受けているし、あくまでも大衆小説であるため、大衆が興味を持たない箇所は意図的に削除されている。その事による、歴史小説としての問題点は、箇条書きにすると以下のとおり。

@     三国時代特有の、政治環境や法制、国家組織について無視している。

A     登場アイテムが、元または明代のものとなっている。例えば、方天画戟や青龍堰月刀という武器は、三国時代には存在していないはず。

B     民衆の信仰に応えるため、関羽と諸葛亮が実際以上に美化され、過大評価されている。

C     劉備が、単なるお人良しとして書かれている。

D     曹操が、人殺し好きの悪漢として書かれている。

E     孫権の歴史的役割が軽視されている。

私の小説は、以上の問題点を克服することを主眼において、リベラルな現代人の視点から『正史』を再構成した結果生まれたものなのだ。『演義』に対する挑戦とは、そういう意味だ。

『正史』に忠実という点でこの作品に匹敵しうるのは、私の知る限り陳舜臣先生の『秘本三国志』しかない。ただ、陳先生の歴史観は、どうも私の趣味ではない。先生の考え方は間違っていると、私は思う。なぜなら、陳先生は、「歴史上の偉人は、時代の先を読んで完璧な計画を立てられる人物だ」と考えておられるふしがある。曹操が勝ち残った理由は、予知能力(?)が優れていたからという書き方である。しかし、あのような大混乱時代に、数十年先の見通しを立てて計画どおりに行動できる人間など、いるわけがない。みんな、ギリギリの状況で試行錯誤をして、さまざまな試練の中で最善と思える選択をし、運が良ければ生き残るというのが、乱世の英雄の実態だと私は思う。

だから、私の小説には天才は登場しない。曹操も諸葛亮も、どこか欠落を抱えた人間として書いている。ただ、彼らの偉大さは、己の欠点を良く認識してそれを克服しようと努力した点である。人間の真の偉大さは、こうしたところに現れるというのが、私の信念なのである。

ただ、私のこの作品の主人公は劉備である。どうしてかというと、私が劉備を好きだからである。『演義』の中の劉備は、諸葛亮の智謀を際立てるため、人柄が良いだけの馬鹿殿扱いされている。『蒼天航路』では、主人公である曹操と関羽の偉さを強調するため、やはり必要以上に馬鹿殿扱いされている。しかし、あの過酷な乱世を馬鹿殿が生き延びられるわけないだろうが。

劉備は、歴史上類例を見ないほどの名君だったはずである。しかし、馬鹿殿に見えないこともない。なぜかというと、結果的に山国で野垂れ死にしたから、馬鹿に見えるのだ。我々は、歴史を結果から辿るという悪い癖がある。知ってはいても、無意識にそれをやってしまうのだ。しかし私は、戦国乱世は運に左右される過酷な世界だと考えている。結果から帰納するのではなく、その行動や意思決定を事実に基づいて演繹していけば、名君の劉備がどうして山奥で野垂れ死にしたかを表現できると考えたのだ。それが、この小説を執筆した最大の理由なのである。

私は、劉備は、自らの意思で侠客の道を選び、侠客の魂を持つ政治家で在り続けた人物と考える。そう考えれば、彼の一見不合理な行動の全てに説明が付くのである。例えば、@長坂で民衆と行動を共にして甘んじて敗れたこと。A無謀と知りつつ関羽の仇討ちに出陣したこと。B臨終に際して、帝位簒奪を諸葛亮にほのめかしたこと、いずれも政治家の行動としては不合理なのだが、侠客としては真っ当なのだ。

後漢末の中国は、既存の価値観が全て崩壊し、様々な試行錯誤が起きた時代である。例えば、仏教や道教が盛んになったり、新たな文学の潮流が起こったことからもそれが分かる。逆に、既存の古いパラダイムに拘束された勢力(袁紹、劉表など)は、どんなに強大であっても終わりをまっとう出来ない、そんな激しい時代だった。

そんな中で劉備が試みたのは、おそらく中国に古来から伝わる「侠」の精神による統治であった。私見では、呂布も同じ事を考えていただろうと思う。ただ、呂布はあまりにも不器用で、外交も人心掌握にも失敗したために悲惨な最期を遂げた。劉備は、おそらく彼を反面教師にしたのだろう。実に巧みに豪族の間を遊泳する。しかし、「侠」の精神だけでは、国家権力を確立して民衆を統治することは不可能なのだ。

そんな劉備に、大きなヒントを与えたのが諸葛亮である。彼は、法家思想に「侠」を加えた統治策を案出する。孔明は本来、軍師ではなく政治顧問だったのだ。

こうして出来た蜀漢は、弱小にも係わらず実に良く健闘する。劉備の「侠」は、いわゆる仁徳となり、諸葛亮の「法」は公正無私の鑑となる。彼らが、後世の人々に慕われ尊敬されたのは、彼らの統治が、ある種の政治の理想を体現していたからに違いない。

現在の日本で、劉備のような「侠」が見られるだろうか、諸葛亮のような「法」が通用するだろうか。

 我々はもっと、歴史から学ばなければならないのだろう。