第二十五話 悪夢のミュンヘン協定

 

優れた文化と政治によって世界の賞賛を浴びた、マサリクのチェコスロヴァキア共和国は、わずか20年で消滅します。ナチスドイツによって無血占領され、「ベーメン・メーレン(ボヘミア・モラビア)保護区」にされてしまうのです。

まずは、ナチスドイツについて見てみましょう。

第一次大戦に敗れたドイツ帝国は、オーストリアと同様、帝政が崩壊して共和国になりました(1918年)。しかし、政治と経済は一向に安定せず、また法外な賠償金の支払いを義務付けられ、しかも領土の多くを諸外国に割譲させられていたので、ドイツ国民の怒りと不満は募るばかりでした。

そんな中、彗星のように現れたのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党です。巧みな宣伝活動で広範な国民の支持を得た彼らは、ついにドイツの政権を掌握(1933年)。次々に革命的で過激な政策を打ち出して、ドイツの外交上の地位を高め、賠償金の支払いを無期延期させ、さらにドイツ経済を再生させたのです。

ヒトラーの次なる目標は、第一次大戦の失地回復です。しかし、度重なる成功の連続に、彼の野心は肥大化する一方でした。彼が回復しようとした失地の範囲は、いつしか、かつてのドイツ帝国領に留まらず、「ドイツ人が居住する全ての土地」に広がっていたのです。これには、オーストリア全土とチェコの大部分が含まれます。

1938年2月に、外交的詐術を用いてオーストリアを併合したナチスドイツは、その次なる食指をチェコへと向けてきました。ヒトラーは、ズテーテン地方の割譲を、チェコ政府に要求したのです。

ズテーテン地方というのは、チェコとドイツの国境に広がる広範な地域です。オタマジャクシの頭の外縁部です。ここには、オタカル2世の誘致政策以来、多くのドイツ系住民が住んでいたのです。

マサリク亡き後、チェコスロヴァキアを統治していたのは、マサリクの忠実な同志であったベネシュでした。ベネシュ大統領は、ヒトラーの野蛮な要求を断固として拒否。ドイツとチェコの国境に大軍が集結を始め、戦争の危機が迫りました。

チェコスロヴァキアは、以前からナチスの勢力伸張を警戒し、既にフランスやソ連と軍事同盟を結んでいました。これら同盟軍の力を借りれば、ナチスドイツと言えど、決して勝てない敵ではなかったのです。

しかし、同盟国は、チェコを裏切ったのです。英仏政府は、ドイツとの戦争に乗り気ではありませんでした。彼らは、チェコを生贄の羊にして、戦争を回避しようと考えたのです。

こうして開かれたのが、いわゆるミュンヘン会談です。

英仏独伊の4巨頭が集った会議室に、チェコ政府の政治家は入ることが許されませんでした。チェコの外相と駐独大使は、ホテルの一室で、会議の結果を、身も細る思いで待っていたのです。

夜中の2時、英仏首脳が泊まるホテルに呼び出された彼らは、心臓も停まるような結論を聞かされました。19381010日までに、ズテーテン地方をドイツに引き渡せ・・・。

チェコの外相ヤン・マサリク(TG・マサリクの息子)は、涙の潤む目で言いました。

「ヤン・フスとTG・マサリクの民族は、決して暴力には屈しませんぞ!」

フランス首相ダラディエは、大きなアクビでこれに応えたそうです。

こうして、チェコはズテーテン地方を失いました。チェコスロヴァキアが誇る重工業は、ほとんどこの地方に集中していましたから、この国は、近代工業国家としての基盤を一瞬にして喪失したことになります。

しかし、これは序の口でした。

この数ヵ月後、チェコスロヴァキアは世界地図から消滅します。