第九話 フス派の賢王イジー

 

 さて、フス派の軍事力に手を焼いた神聖ローマ皇帝ジギスムントは、チェコ国内でのフス派を認めるとの声明を発しました。その代わり、自分をチェコ王として迎え入れるよう、フス派に要求したのです。

穏健フス派は、この提案を承認しました。10余年に及ぶ戦争で、チェコ国内は荒廃していました。また、チェコは商業立国ですから、全ヨーロッパを敵に回して戦い続けたことによって、経済的困窮が深まるばかりだったのです。彼らが皇帝と交わした条約が、いわゆる「バーゼル協約」です。

しかし、急進フス派は、これに反対でした。彼らの目的は、あくまで「全ヨーロッパの改宗」ですから、そのような妥協に応じることは出来ませんでした。

ここに、穏健派と急進派が、全面的に武力衝突する悲劇が出来しました。リパニの戦いです(1434年)。両軍とも、馬車防壁(車砦)や銃砲を繰り出して戦いました。形勢は、当初は急進派に有利だったのですが、穏健派はわざと負けた振りをして敵の突出を誘い、そして伏兵で止めを刺したのです。急進派のリーダーであったプロコフは戦死し、「孤児」軍も初めての敗北を味わって四散したのでした。

ここに、長きに渡ったフス派戦争は幕を閉じました。

神聖ローマ皇帝ジギスムントは、ようやくチェコ国王としてプラハに入城できたのです。しかし不運なことに、彼は、すぐに病没してしまいます(1436年)。ルクセンブルク朝の断絶です。

チェコの貴族たちは、新たな国王を、自分たちの中から選挙で選ぶことにしました。こうして選ばれたのが、フス派貴族の家柄であった、ポジブラティ家のイジー(1420〜71)です。弱冠14歳で初陣を飾り、リパニの戦いで大活躍した彼は、政治の上でもたいへんに賢明な王でした。チェコ史上で、特に評価の高い王です。

傑出した統率力を持つイジー王は、ターボルを包囲して開城させ、「急進フス派」を解散させました。また、「急進カトリック派」の棟梁だった大貴族ロジュンベルク家を、恫喝と交渉で屈服させました。チェコ国内は、こうして「穏健フス派」で纏まったのです。

しかし、国際的には、チェコはやはり「異端」扱いでした。ローマ法王が、一方的に「バーゼル協約」を破棄したため、ドイツ諸侯やハンガリーが大挙して攻めて来る局面もあったのです(第二次フス派戦争、1467年)。法王の本当の目的は、「異端」討伐というより、領土的野心の充足だったのでしょう。チェコは「異端の国」だったので、侵略の口実を設け易かったというわけです。

イジーの好敵手だったのは、ハンガリーのマチャーシュ王です。イジーと同様に、貴族の中から推薦されて王位についたこの賢王は、様々な権謀を巡らせてイジーを苦しめるのです。

そんな中、イジー王は、東から迫るオスマントルコの影に注目し、これに対抗するための欧州連合を創案しました。その内容は、今日の「国際連合」に極めて近いものでした。彼は、カトリック対フス派というキリスト教内の内輪もめを、「国際連合」の創設で乗り切ろうと考えたのです。これは、極めて先進的で近代的な考え方でした。

しかし、この画期的なアイデアは、実現することがありませんでした。その最も大きな理由は、やはりイジー王とその国民が「異端」だったからでしょう。また、ほとんどのヨーロッパ諸侯は、目先のことしか関心の無い視野の狭い者が多く、イジーの考えの素晴らしさに気づかなかったのでしょう。実に、残念なことです。

 

ところで、穏健フス派とカトリックは、どこが違うのか?我々日本人から見ると、大した違いはありません。目立つ違いは、ミサの方法です。穏健フス派は、全ての人が、パンとブドウ酒の両方を用いてミサを行うのですが(二重聖餐)、カトリックは、聖職者はパンとブドウ酒の両方を用いるけれど、庶民はパンのみしか用いることができない、といった差別をしていました。また、穏健フス派は、あくまでも聖書の中に「信仰の根拠」を求めるのですが、カトリックは、ローマ法王や高位聖職者の行う典礼の中にこれを求めるのです。

つまり、フス派の思想というのは、いわゆるプロテスタントの先駆だったのです。

ただ、こうした違いは、神学的には大きな意味があるのでしょうが、例えばイスラム教徒が大挙して襲来するような状況下では、それほど大きな障壁になるとは思えません。それなのに、ヨーロッパは一枚岩にはなれなかったのです。

 

こうしたヨーロッパの仲間割れの隙をついて、オスマントルコはビザンツ帝国を滅ぼし(1453年)、東欧に雪崩れ込んで来ました。

その間、イジー王は、国内に攻め寄せてくるカトリック派の侵略者たちを相手に優勢に戦いを進めていましたが、ハンガリー遠征を目前にして病に倒れます。イジー王は、1471年に没する時、遺言でポーランドからカトリックの王を迎えるように言いました。もはや、度重なる国際紛争からチェコを救うには、カトリックの王を擁立する以外に無いと考えたのでしょう。

こうして、ポーランド人ヴワディスワフ王によるヤゲヴォ朝が創始されました。