「ウルトラマンエース」に関する極私的雑想...


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 先日、例によってインターネットをふらついておりますと、"Salon de M78"と言うページに併設されてるBBS(ここはウルトラシリーズに特化したBBSらしいです)で、ウルトラマンエースの事を発言されてる方がいて、私なりに思う処がありました。本来ならそのBBSでRESすべきなのかも知れませんが、ま、直接のRESって訳でもないし、独り言的な思い付きの話なんで、こっちでボソボソと話をすることにしました。

 その発言は「ウルトラマンエース」での南夕子の扱い(シリーズ中盤での、唐突な月星人としての北斗との離別)、活かしきれなかった男女合体変身の設定、ひいては超人としての「ウルトラマン」のイメージの変質等について述べられていて、そこに、当時の視聴者の素直な想いが込められている様な気がして、とても印象に残りました。そんな訳で、ちょっと触発されて私も「エース」について思う処など書いて見たくなりました…

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 「ウルトラマンエース」(以下A)関連でひとつ思い出す文章があります。確か講談社の「ウルトラマン大全集」か「新ウルトラマン大全集」だったかと思うんですが(ちょっと押入れを引っかき回してみたんですが行方不明。完全記憶モードで書きますんで、事実誤認はご容赦!)、当時の関係者の証言を交えながら、シリーズ制作当時の状況を振り返る取材で、「A」の項は「神話の終焉」みたいなサブタイトルがついてました。で、シリーズの企画を中心となって担当され、メインライターでもあった市川森一氏の述懐を中心に、「A」というシリーズを検証するんですが…

 その中で、実は「A」が、市川氏の夢と挫折の過程なんだっていう部分が、結構衝撃的でした。もっとも、ひとつの事象に対するその見え方は、各人がおかれた立場によって千差万別なんで、この一文から「当時の状況はまさしくそうだ!」なんて決めつけるのはどうかと思いますが、少なくとも私はシンクロ出来たんですよ、この過程に。今になってシリーズを思い返してみても、そんな気がしますし。

 「A」の企画に携わっておられた頃の、市川氏のイメージにはやっぱり根底にギリシャ神話の世界があったそうです。男女合体によって誕生する、性を超越した超人が絶対的な力で活躍する、壮大でポジティブな世界。多分企画当初の「A」の世界は、そんな感じではなかったかと想像します。実際、当時を振り返ってみても、それまで放送していた「帰ってきたウルトラマン」の世界は、「ウルトラマン」や「セブン」で描かれた世界に比べると、もっとずっと身近でリアルではあったけれど、やっぱり狭かったんですよ。で、次に登場した「A」の初期の数話のスケールの大きさっていうのは、当時観ていても結構嬉しかったですからね。決して視聴者のニーズと全然一致してなかったのか?って言うと、必ずしもそうではないと思うんですが。

 でも、当時の状況が、「A」が当初目指していた、神話世界の存在たる「絶対神ウルトラマン」を、徐々に受け入れなくなっていた、或は制作側がそう判断したっていうのが、「A」というシリーズにとっては最大の不幸だったんではないかと思います。「スポ根モノ」の洗礼を受けた当時に於て、苦もなく敵を粉砕する無敵の超人は、最早視聴者の支持を受けづらい、と制作側が判断するのは、やむを得ない状況だったかも知れません。「帰ってきたウルトラマン」がスタートした頃に企画された「ウルトラセブン」のリメイク企画(未制作)でも「前作のセブンは強すぎた」「セブンにもかなわない敵はいる」って、何やら反省めいた文章が顔を出したりしていた様ですし…

 でも、それまでに人智を越えた絶対的な存在としてのイメージを作り上げてきた「ウルトラマン」が、いきなり努力を強いられる卑近な存在に変貌して行くのは、子供心にもつらいものがありました。「帰ってきたウルトラマン」でも、なすすべもなく怪獣にいたぶられてしまうウルトラマンの描写が多くて、結構つらかったんですが、その「イメージの変質」がもっとも劇的な動きを見せたのが、やっぱり「A」というシリーズに於てでしょう。しかも神話的な壮大な世界を目指していただけに、その変化は視聴者の子供達にも、その事をはっきりと印象づける結果になります。

 シリーズとしては、第5話のアリブンタの回で、早くもその予兆が現われ始め、その後第7話、第8話のドラゴリーとメトロン星人Jr.の回でエースが敗退、第13話、第14話ではウルトラ兄弟の敗北と、急坂を転がり落ちる様にイメージの改変が進行して行きます。第13話でウルトラ兄弟が十字架に掛けられるに及んで、市川氏の描いた世界とは、およそ対極の世界へ「A」というシリーズは行き着いてしまったのでしょうか、しかも自ら第14話のシナリオを執筆するという形で…この13話(脚本は田口成光氏)、14話というのが、市川氏のシリーズへの決別(あの十字架のアイディアは、市川氏の発案という話を読んだ記憶もあります)ではないか、というのも、納得できる気がします。事実、メインライターでありながら、14話以降、市川氏は「A」のシナリオを書かなくなり、終盤再登板した2作(第48話のベロクロン二世の回と最終話)もTBSの橋本プロデューサーに説得されて、嫌々書いたそうですし…

 結局、自分の想い描いたイメージと、周囲の状況の中で書いて行かなければならないエピソードとのギャップに、筆を置いてしまったのでしょうか?

 「A」では最終回で超獣ジャンボキングを倒したエースが、地球人にメッセージを語りかけるという、ウルトラシリーズでもかなり異色な最終回になっていますが、このエースの語る「たとえ何千回裏切られようと友情を信じて欲しい」と言うメッセージは、自身が夢を描き、現実化し、結果本意とは違う方向に進まざるを得なかった「A」とウルトラシリーズに対する、市川氏の本音が吐露されてる様な気がして、なんだか非常に痛々しく聴こえる気がします。結果として、シリーズ企画当初、市川氏が投入した要素は、シリーズ終盤までにそのほとんどが消え去り、唯一、次シリーズ以降に継承される「ウルトラ兄弟」の設定が、逆に「卑近化されたウルトラマン」の象徴となって行くのは、何とも皮肉な結果です。

 ちょっとネガティブな論調になってしまいましたが、「A」には、表のドラマとは別に、もう一つの大きなドラマが内包されている気がして、この機会にもう一度振り返って見たくなりました。

1997.06.23