「見えない大学本舗電脳分校」電子掲示板から 《投稿4》RE:755.768 



第二・第三の坂本弁護士を(長文)





[ NO.0787 ] [ 98/03/08 12:13:34 ]  [ 投稿者:佐藤悟志(青狼会) ]
[ URL_ADDR: ]
[ REMOTE_HOST ( IP_ADDR ) : 202.247.160.40 ( 202.247.160.40 ) ]



RE:755.768 第二・第三の坂本弁護士を(長文)


 755番と768番の書き込みで触れられている「ロフトプラスワン襲撃事件」の直接の当事者として、この場をお借りして投稿者の「大滝」氏に反論させて戴きます。

 まず最初に、大滝氏に警告します。公共空間であるインターネット上の掲示板で、ウソやデマゴギーを垂れ流すのは止めなさい。
 「ブント」による「7/16襲撃」が「対応によってはぶん殴る」(755)などという代物でなかったことは、被害者である私も目撃者である玄田生氏も自らの身をもって体験しています。彼らが最初から集団暴行を加えるつもりで軍手を着用し、現場ビルの地下駐車場にまで部隊を配置した上で待ち伏せていたことは、プラスワンの店員や来店客、現場ビルの管理人によっても目撃されています。大滝氏が言う「相手の行動パターンを調査し、計画を立て、不意を討って襲撃する、きわめて陰湿な闘い」(768)以外の何物でもありません。

 「ブント」による「7/16襲撃」が、「オオヤケの討論とかの場で「貴様の言うことは絶対に許せん」と宣言して殴り掛か」ったものである(768)という大滝氏の説明も全くのウソです。
 7月16日に起こった最初の襲撃は、会場であるプラスワンにやってきた佐藤を、入り口付近で待ち伏せていた「ブント」のメンバーが地下に引きずり込んで集団で暴行したというものです。プラスワンの入り口も地下のスペースも、もちろん「オオヤケの討論とかの場」ではありません。それに待ち伏せ態勢を不審に思ったプラスワン店員の誰何に対して、「ブント」の襲撃メンバーは「人を待っている」と答えています。「佐藤の言うことが許せないから殴りに来た」と「宣言」などせず、むしろゴマカして逃れようとしたわけです。

 7月16日の第二の襲撃はプラスワンのステージ上での集団暴行として発生しましたが、「ブント」の襲撃者たちは、それまで三時間半行われた企画の間、私に対する批判など一切せず、マイクが客席に回っても発言せず、どこの誰かも明らかにしないまま突然襲いかかり、そして「宣言」など一切せずに素早く逃亡していきました。引き留めようとした店員や来店客まで殴りつけながらです。
 第二の襲撃の経過は偶然二台のビデオカメラに捉えられ、『ロフトプラスワン襲撃を許さない共同声明』のホームページ(http://www.t3.rim.or.jp/~punsuka)にアップされていますから、この事実は誰でも確認できます。「ブント」が公式に襲撃を認めたのは、こうした証拠や証言が次々に公開され、もはや言い逃れが出来なくなった97年の10月以降です。それまで「ブント」は何の「宣言」も行っていません。  『ロフトプラスワン襲撃を許さない共同声明』が広範に呼びかけられなければ、なかったことにして済ますつもりだったのは明らかです。

 大滝氏がそうした基本的な事実を調査をしないまま、勝手な推測を無責任に垂れ流しているのか、それとも「ブント」の意向を受けてそうしたデマゴギーを流布しているのかは分かりませんが、いずれにせよ誤りであることが明らかな文章を公共空間であるネット上の掲示板に貼り付けるのは慎むべきでしょう。もちろん止めないからと言って集団で襲ったりはしませんが、誰が調べても誤りの明らかなウソ情報を広めるのは、大滝氏自身の名誉にとって大変危険であることを、理解して欲しいと思います。



 それからこの問題が「他人のプライバシーを捏造する宅八郎と、小林よしのりの間の争いと同じである」という大滝氏の主張(768)も、全く誤った悪質なデマゴギーです。
 まず第一に、佐藤による「ブント」への批判が、「捏造」であるなどとは、いまだかつて誰にも証明されたことがありません。むしろ「ブント」の連中は、佐藤の批判が当たっていて反論出来ないからこそ暴力で黙らせようとしたわけです。大滝氏が佐藤の批判を「捏造」であると思うなら、たとえば「7/8佐藤ビラ」は『共同声明』HPで公開されているわけですから、どこがどう事実と違うのか、それこそ論拠を挙げて説明していただきたいと思います。もしも佐藤の政治主張が容認できないと言う理由でそれを「捏造」呼ばわりしているのだとしたら、説明は不可能でしょうけど。

 第二に、仮に百歩譲って佐藤のブント批判が「捏造」だとしても、今回の「ブント」の襲撃は、小林よしのり氏の言う「暴力の覚悟」とは全くの別物です。
 大滝氏の紹介が正確なのであれば、小林氏が言う「自分で宅のところに行って「ぶん殴るぞ」という暴力の覚悟」というのは、もちろん自分が実行当事者であることを明らかにし、法的な責任もとるつもりで殴るという覚悟でしょう。また、暴力を自分で振るえる範囲に限定し、自分が反撃されて殺される可能性も残しつつそれでも殴るという覚悟でしょう。しかし「ブント」の襲撃は、通行人に見られないように地下室に引きずり込んでの暴力であり、あるいは軍手を着用して指紋を残さないように、素早く逃走して誰がやったか証拠を残さないようにしての暴力であり、あるいは佐藤の反撃を封じ込めて痛めつけるために、「ブント格闘技大会」の優秀選手を集めての大人数での暴力です。さらに「ブント」の「首領様」である荒岱介の立場で言えば、自分の手を汚さず、怪我をする危険性も回避した上で、自分を批判した佐藤を痛い目に遭わせて黙らせようという、そういう種類の暴力です。
 例えて言うならば「ブント」の襲撃は、宅八郎氏の文章に腹を立てた小林氏が、自分の知り合いの暴力団に頼んで、自分に責任が降りかからず傷もつかないようなやり方で宅氏を痛めつけてもらった、というようなものです。小林氏がそんなことを主張したり擁護したりしているとは、少なくとも大滝氏の紹介からは読みとれません。否むしろ、そうした暴力に晒されて殺されかかりながらもそうした暴力と対決したというのが、小林よしのり氏のオウムとの闘いだったのではないでしょうか。

 ちなみに785番の柏木凛さんの記述によれば、小林氏は最近「オウムでも、薬害エイズでも殆どの大人は無視した。この恨みは絶対忘れない」と書いていたそうですね。「小林氏の左翼叩きに込められたルサンチマン」は、対オウム戦争のときに、左翼や自分の周囲の人間たちが、小林氏や江川氏らを守るどころか見殺しにし、場合によってはオウムを後押しして彼らの寿命を縮めるような役割を果たしたことに起因するものだと思います。その気持ちを、殆ど同じ目に遭った自分は身体全体で理解することが出来ます。否、自分の方がまだ恵まれていたかもしれません。だから自分は、小林氏が藤岡信勝なんかと組んでどんなにバカな企てに加担していても、批判する気持ちにはなれません。小林氏が叫んでいるのは、彼が言ってみればPTSD(心的外傷後ストレス障害)であり、「ベトナム帰還兵症候群」だからです。

 書き添えておかなければなりませんが、「宅八郎が切通理作の奥さんのプライバシーまで捏造して書いた」「だから宅の言うことは全部ナンセンスだ」というのは小林氏の主張、それもかなり自分に都合良くねじ曲げられた誇張であって、宅氏の側は当然、自分の批判は正当なものであると主張しています。この点を含めた人格および能力の問題に限って言えば、「教科書が教えない小林よしのり」の小林批判はおそらく当たっているのでしょう。しかし「政治的にどちらが正しい振る舞いをしたか」という問題に関しては、小林氏や切通理作氏の方が優位であると私は考えます。

 いずれにせよ、こうして食い違いが言論で解決できる範囲を超えている場合には、「法的な手段」に訴えるというのがやはり正しいやり方でしょう。「自分で宅のところへ行ってぶん殴る」という「解決」は、自分ひとりで敵のところへ行ったり他人を殴ったりできないような身体の障害を持つ者には不可能なことですし、暴力から社会制度的に遠ざけられている女性にとっても不利な土俵です。そして、そうした現実を知りながら暴力による解決を推奨するのは、肉体的弱者に沈黙を要求するのと同義の行為です。ましてや「オオヤケの討論とかの場で「貴様の言うことは絶対に許せん」と宣言して殴り掛かる」のは「許される暴力である」などという大滝氏の主張(768)がまかり通るとしたら、例えば頭に障害があって殴られただけで死んでしまうような者は、口を利くことも出来なくなるでしょう。

 「首に手を掛け、押し倒し、馬乗りになり、ズロースを引き脱がして姦淫するというのみでは姦淫一般行為について当てはまることで必ずしも強姦行為とはなし得ない」「男性が女性の肩に手をかけて引き寄せ、押し倒し、衣服を引きはがすような行動に出て、覆いかぶさるような姿勢となる等のある程度の有形力の行使は、合意による性交の場合でも伴う」(有斐閣選書「性の法律学」22頁)

 上記は強姦事件の刑事裁判で、加害者が無罪になった裁判の判決理由です。この本の著者である角田由紀子弁護士は、こうした判例が今も効力を発揮する現実に「性交には暴力が伴うのか」と憤りを発しています。「オオヤケの場での討論には暴力が伴うものだ」という大滝氏の主張は、こうした裁判官の価値観や法曹界の現実と同レベルのものです。大滝氏は「左翼としての「暴力的」な体質を有している」から「体質を捉え返すべきじゃないのか」と「ブント」に呼びかけています。しかし大滝氏が捉え返すべきなのは、まず第一に大滝氏自身の暴力的な体質であり、感性なのではないでしょうか。

 もちろん、討論の場での暴力は現実にはままあります。暴力を100%排除しようと思ったら、手足を切り落とした者だけで討論する以外ないでしょう。人間である以上、自分が暴力の加害者になることが全くないなどとは、私も含めた誰もが言い切れません。しかし、「討論に暴力が伴う現実を認識する」ということと「それを容認する、正当化する」ということは別の行為です。たとえ自分が人殺しになる可能性が充分にあったとしても、それでも人殺しを非難するのが、人間としてあるべき態度でしょう。自らの暴力性を捉え返しつつ、同時に暴力を非難していく自己切開の闘いに、大滝氏も参加して欲しいと思います。



 また大滝氏は「ブントがやったことは許される、と言っているわけではありません」と言いますが、一方で「ブント」に対して「これはわれわれに対する誹謗中傷であり、今回の行動はそれに対する自力救済で当然の権利の行使だ」と「堂々と論じればいい」などと呼びかけています(768)。しかしこの「当然の権利行使」論は、「ブント」がその機関紙上で犯行を認めた97年10月に、すでに主張している論理です。つまり大滝氏の主張は、「ブント」に対する批判にも歯止めにもなっていない、むしろ彼らを擁護し、正当化し、応援さえするものです。そしてこうした主張は、政治的お題目で他人を脅かして金品や利権を巻き上げる暴力団や過激派の世界では当たり前かもしれませんが、通常の市民社会では到底受け入れられない、つまり非常識な論理です。

 一般論としても、立場の違う人間からの批判は往々にして、当人にとっては誹謗中傷に聞こえるものです。しかしだからといって「誹謗中傷に対する暴力は当然の権利だ」などという言い分がまかり通るのであれば、結局暴力に長けた者、凶暴で他人の命など何とも思わない者が勝利する「北斗の拳」のような世界が現出するだけです。「ブント」はもちろんそうした世界の片棒を担いでいるわけですが、大滝氏もそうした世界が素晴らしいと、「ブント」を抜けた今でも思っているのでしょうか。

 例えば大滝氏は、宅八郎氏が「雑誌上で「殺せ、やっちゃえ」と書き続けた」と批判しますが(768)、天皇制や自民党や日本帝国主義に対して「殺せ、やっちゃえ」と扇動し続け、実際に武装蜂起を準備し、放火やロケット攻撃を行い、「オレたちは今だって武装蜂起を捨てたわけじゃない」(97/7/8ロフトプラスワンでの荒岱介の発言)と公言しているのは、「ブント」も同じです。もしも大滝氏が推奨する「当然の権利行使」論に従うならば、「本部にダンプで突っ込んだりナイフで襲い掛かったり」した「天皇主義右翼」の行為もまた「誹謗中傷に対する当然の権利」になってしまうんじゃありませんか?。彼らは天皇に対する批判は全部、誹謗中傷だと思っていますよ。それとも「あんな偏差値の低いヤツラの言うことは全部誹謗中傷だが、オレたちの言うことは全部正しい」とでも言うつもりですか?。右翼の暴力は悪い暴力で、左翼の暴力は良い暴力なんですか?。

 何が誹謗中傷で何がそうでないかは、まず討論によって決められるべきでしょう。そして肩書きや年齢や性種に関わらず、直接の対話や討論を実現してきたのが、今回の襲撃の襲撃の舞台となった「ロフトプラスワン」です。千円払えば誰でも入れて、一日店長に直接意見や質問、批判をぶつけることが出来る、今日の日本でおそらく最も先進的な討論空間と言えるでしょう。「7/16襲撃」の前段に「7/8荒岱介・鈴木邦男・塩見孝也」会談という企画が行われて、そこでの佐藤の批判活動が今回の襲撃の原因となったわけですが、こんなメンツの鼎談が実際に行われ(笑い)、なおかつそこで私のような無名(泣き)の活動家がツッコミを入れられるのも、この「ロフトプラスワン」だからこそ実現したことです。しかし、この空間の価値を一切理解しないまま内輪で盛り上がるためだけに集団でやってきて、それに水を差されたからと言って今度はプラスワンのルールを踏みにじり、侮辱し、破壊し尽くしたのが、荒岱介と「ブント」一味だったのです。

 断っておきますが、佐藤自身はプラスワンのルールを守り、その範囲内で「ブント」に対する批判活動を展開しました。私のやった事と言えば自作のビラを配布したことと、客席からの質問の時間に荒岱介を批判したというですが、それらはむしろ直接対話空間であるプラスワンでは推奨されていることです。最初の1時間半の、三人による退屈な早稲田同窓会思い出話ですら、静かに聞いてあげたではないですか。
 もちろん批判活動は「ブント」の側にも保障されていることです。翌週7月16日の佐藤の北朝鮮企画にやってきて反論や批判のビラを撒いたり、発言をしたりすることは自由であり、プラスワン的にも期待されていたし、佐藤にとっても望むところでした。双方の主張や討論の過程を全て公開し、最終的には聴衆の判断に任せるというプラスワン的な、あるいは市民社会における常識的な枠組みでは、「ブント」は不満なのですか?。最後は必ず自分たちが勝つような舞台設定でなければ、参加できないと言うのですか?。

 7月16日、「ブント」の待ち伏せ部隊はわざわざプラスワンの前までやって来ていながら、店に入ろうとしませんでした。彼らは討論に参加するのではなく、佐藤を入店前に襲って企画それ自体をつぶそうとしたのです。その後佐藤が負傷をおして開催した北朝鮮企画に潜入していた「ブント」のメンバーも、何ら言論活動を行いませんでした。彼がやったのは、正体がばれないように佐藤の言動を監視し続け、「ブント」批判が飛び出したところで外の仲間に連絡して襲撃させるという監視行為のみでした。そもそも7月8日の 討論の時間にも、彼らはまともに議論しようとしませんでした。「共産主義者同盟でもないくせに「ブント」を名乗るな」という佐藤の批判に対しては「ボクたちが好きで決めたんだからいいじゃないか」と幼児的に開き直り、「オレたちは頑張っているんだから文句を言うな」などと自らの思い込みだけで乗り切ろうとする。そして「フーコー」だ「ヒロマツ」だと、自らのオタク知を得意げに開陳して悦に入る荒岱介が、「何を威張っているのかさっぱりわからん」と、それこそ数限りなく「大物」を見てきて目の肥えたロフトの一般客に見抜かれて嘲笑されると、何もかも佐藤が悪いとばかりに人数と腕力に訴え出る。どちらが対話と討論を指向し、どちらが暴力を指向しているかはもはや明らかでしょう。

 ちなみに大滝さんは「10人とか数十人を動員しただけで、そして「許せない」暴言を吐いた人間を素手でぶん殴りに行っただけで討論の場自体が存続の危機を感じてしまうほどにそういう「場」は衰退しています」(755)などと、まるで襲撃されて衰退する討論空間の側に責任があるかのように書いていますが、そのような体育会的ノリ、弱者や少数者に対する配慮を欠いた無神経な筋肉自慢こそが、「討論の場」を衰退させてきた原因なのではありませんか。「素手でぶん殴られた」ぐらいで沈黙するような人間には発言の資格はないのですか?。集団で押し掛けて邪魔をしただけでつぶれるような店は、「衰退した」無価値な店なのですか?。あなたは討論空間を守る側に立つのですか、それとも討論の場の存続をおびやかす側に立つのですか?。

 ちなみに自分は、「ブント」に対する批判を封殺させないためにも、沈黙しないことを自分に課しています。成り行きによっては殺されていたかもしれないプラスワンに出入りするときには今でも緊張が伴いますが、だからといって顔を出さなければ暴力に屈して討論空間を明け渡したことになってしまいます。たとえ「ブント」の批判を続けた結果、坂本弁護士一家の後を追うことになっても、それはそれで価値のあることだと、女房にも「ちゅう太郎」にも言い含めてあります。否むしろ、第二、第三の坂本弁護士を目指すことこそが、坂本氏や江川紹子氏、そして小林よしのり氏の闘いに対して応える道だと思っています。管制塔戦士風に言えば、「誰かがやらねばならなかったから私がやった」って奴です。それに、北朝鮮で虐殺されつつある罪無き人々の数に比べれば、ファシスト活動家(しかも元アカ)の一人や二人、大した犠牲ではありません。




 投稿目次に戻る