絶対自由の道をゆけ 


 福田 典子 





  宗教団体新左翼と佐藤君の関係 

 一面識もない佐藤悟志君への注目はロフトプラスワン事件抗議声明の賛同人のひとりとして私が申し出た時からだった。
 「襲撃を許さないロフトプラスワン常連客有志」による今回の事実経過と佐藤君本人の言動に対し私は叱る事も励ます事もない。
 しかし、[襲撃をうけた」関係者諸君の心情ははかり知る事はできる。
 まず私は、佐藤君に以下の言葉を引用し語りたいと思う。
 フロイトは彼の科学的世界観においてこう語っている。
「特定のイデオロギーに囚われずいかなる既成の価値観に対しても確固たる自己を保て。そしてその事がいかなる価値観からも個としての自我をもつ事だ。」(フロイト著作抜粋)
 またドフトエフスキーは、こうも語っている。
「マルクス主義が唯一の世界観やイデオロギーたらんとする時、それは諸宗教に代わる新たなる集団的幻想となり我々を束縛する。」
 ナロード(民衆・私・あなた)の声を文学という形で描き続け、二ーチェにさへ絶賛の言葉を吐かせたドフトエフスキーは、またこうも語っている。
「僕の作品は呪いの作品だ。そして社会主義は人間蔑視の上に成り立っている群れる獣である。」
 前衛党という名の一党独裁ファシズム政権・ロシアの現実から共産主義の偽善と残酷さを描き続け、反体制分子という罪名をもって処刑銃口の前に毅然と起ち流刑という波乱の生涯をおくったドフトエフスキー文学の中には人間の自由の魂が凝縮されている。
 ブントは「反抗」と訳される。
 しかし、今回佐藤君とロフトプラスワンを襲撃したブントは、まさに幼稚で独善的なブント(反抗)を証明した。
 前衛党は民衆を指導し自らの闘いの駒にし使い捨てるのが本質である。
 また佐藤悟志君のような党への批判・脱党者の存在を抹殺する権威集団なのだ。
 佐藤君のブントに対する罪条文は、ノンセクトを貫き続けた私の確信を追認するものでしかなかった。
 だが、襲撃を受けた佐藤君の言動が過去の己れの党派性の投影を引きずりながら語られていない事を私は信じたい。
 人はともすれば、自己の深層心理の中で無視できない存在として相手を憎みながら、実は相手に固執している事がある。
 佐藤君にはアトム主義者として確固たる絶対的個人の意志と行動を今後も続けて欲しいものだ。


  組織的襲撃の本質 

 ロフトプラスワン襲撃を許さない常連客共同声明は、佐藤君個人のみならず彼を「寛容に!」むかえ言論の自由を実践した人々に対しても「みせしめ的」に行なわれた政治党派による襲撃でもあった。
 党はいかなる外観で装飾しても本質的には組織的暴力によって排他的に他者の言論・生き方・死に方の自由を奪う集団である。
 政治党派は、ひとつのイデオロギーをもちながらいったん軍組織をもってしまうと、組織内的にも、組織外的にも軍すなわち暴力が組織の指導権を把握する。
 なぜならそれらの集団の構成員は主体的思考者ではなく、実力という言葉に屈伏する者達であるからだ。
 彼らの硬直した[死者の行進」は、己れ自身がその主体性を捨て去らねば成立しない。  行進から外れようとする者は「総括」という名の内部制裁と仲間殺しによってその存在を抹殺されてしまう。
 言わば、政治党派や圧倒的な組織は、己の内面に巣くう絶望感に比例して、他者への暴力を実行し、かろうじて組織の存在意義を見いだすしかない哀れな存在といえる。
 個人の存在が無限性と有限性を併せ持ち、短い生命でしかない事を十分に理解しようとさへしない彼らはその二つの特性を統合し、真に自由であろうと努力する事なき者の集合体だ。
 そうした個人としての美意識と主体が欠如した組織によってロフトプラスワンが襲撃された事は偶発ではあったが、同時に必然性を内包していたはずだ。
 ロフトプラスワンは、枠組みなく個人と組織のメンバーをゲストとしてむかえている。  そうした「言論の自由」を実行する為にはそれなりの覚悟なしにはできないのだ。
 己れの人格(または組織)と他者の人格(または組織)を同等に尊重する思想的な進化も自由さもこの国には存在しない。
 それは、この国の人々のみが例外ではなく全ての民族・国家・地域の人々が「友愛」などいう甘い幻想に呪縛されているからなのだ。
 人は生れながら平等ではなく非均一的存在と体験を有している。
 このような全く異質な人間達が自由や友愛や平等・己れの主義主張を語るのであるからロフトプラスワンには常に組織的・個人的暴力介入(襲撃)の導火線は張り巡らされていたはずである。
 とりわけて今回襲撃した政治党派を含め現在の新左翼政治党派(実は古典左翼!)は、その導火線を姑息にも利用する事に長け、フレームアップを捏造してでも己れにとって都合のよい排他的暴力で組織固めと組織の誇張を行なっている。
 しかも念のいったことに彼らは自由・平等・解放・共生等という虚言を枕詞に、自己の目的と手段を獲得する為には誰でも利用し、襲撃するのだ。
 しかし、ロフトプラスワン常連客も佐藤君も逆にプラス面での大きな獲得をしている。  今回の襲撃事件は、ブントをはじめとする新(実は古典!)左翼党派が、その本質・原理に未だ忠実であったが為に犯した思想的後退の証明ともなった。
 政治党派や組織というものが権威の制度の為にうごめく輩であり、自分達が何をめざしているのか、何をしているのか全く理解できない「貧困の偽哲学者達」である事を、哀れにも今回の事件で彼ら自身が証明した事になったのである。


  共同声明の意義と罪悪 

 襲撃を許さないロフトプラスワン常連客共同声明という形式は、広く多くの人々に事実を公開した。
 この行為は党派との対峙というレベルではなく、様々な主義・主張を持った人間の集合体である社会の存在を現実のものとして受けとめるべき最低限度の社会認識論を世論に拡大したといえる。
 無論、襲撃組織のデマゴギーを暴露し、真実を正確に伝える事の努力は、防衛と攻撃の両者を兼ね備えたものであり、組織との対峙関係をも含んでいる。
 だが、私はこの共同声明が「加害者と被害者の関係」を構築する事によって襲撃者の宣伝に無意識的に加担してしまった結果になってしまっていると考えている。
 ロフトプラスワン常連客が声明のひと区切りを早期に集結させた事は賢明な判断であった。
 このことによって襲撃者・ブントは最悪の結果を受け取る事になる。
 彼らは共同声明の決着によって、彼らの数少ない課題と存在意義を失い、党の権威を失墜させたのだ。
 政治党派や組織は餌食となる対象者を探しそして捏造し、常に己れの宣伝に利用する集団である。
 こうした集団にこれ以上、ロフトプラスワン事件が利用されてよいはずがない。
 デッチあげとペテンは政治党派の常套手段であり得意わざなのだから、無力なブントの組織名をわざわざ宣伝してやる必要性など、もうないではないか。
 襲撃者が加害者で、被襲撃者の佐藤君とロフトプラスワン常連客が被害者などという構造を継続していては相手の思うツボである。
 ロフトプラスワン常連客による声明文が、ブントの宣伝に加担しているとまで言い切るのは少々気が引けるが、思想も力量もない相手を持ち上げる事もないと私は思う。
 最後に、佐藤君に言っておきたい事がある。
 ブント清算事業団管財人なんて徒労はやめたほうがいい。
 これでは佐藤君が未だにブントとの根源的訣別が終わっていないという印象を与えてしまいかねない。
 私は佐藤君ではないので、その怒りと怨念は全て理解できるとは言わないが、私にも憎悪の感情は理解できる。
 しかし、左翼も右翼も線引なんかないのだから、佐藤君は絶対自由の道を進めばいいではないか。
 佐藤君の責任感は十分に理解できる。
 だが、人は毎日変わっていく。
 己れの自由意志を堅持するからこそ、人は変わるのだ。
 私は佐藤君を叱る気持ちも励ます思いもないと冒頭に記した。
 君は君であり私は私である。
 佐藤君とロフトプラスワン常連客が、今後いかなる道を歩むかは君達の問題である。
 古ぼけた教典に固執する事なく、何がこの国の古典左翼の幻想を掻き立てているのかという問題の総括を議論し突き出す事が問われていると私は思う。
 襲撃を許さないロフトプラスワン常連客声明文が、ひとつの波紋をもたらしたのは確かだ。
 だが、本当の波紋とは一組織との関係で波だつのではなく、波紋が波紋をよびその渦中に多くの人が参加して古典組織の古びた「聖書」を焼き捨てる事につながる怒濤と私は考えている。
 私はロフトプラスワン襲撃事件を見つめながら己れ自身が抱えている課題に、あなた方への熱い共感の思いを寄せながら取り組んでゆき続けたいと考えている。
 自由な意志は私達の魂の淵底に燃えたぎっているんだから・・・。

(全国水平運動研究会代表/福田典子)





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