政治の宿命としての「悪霊」 


 大西 満流 




 去る二月六日、久しぶりに仕事が早く終わったので(それでも午後九時)、実に三ヶ月ぶりほどでロフトプラスワンに行ってみた。当日の演題は、同店オーナー平野悠こだわりのテーマ「全共闘世代VS若者世代」。それにしても、いつまでも飽きないものだね。もっとも、バリバリの全共闘だった平野にしてみれば、まさに自身のアイデンティティがそこにかかっているということか。
 さて、一日店長席には、かの戦旗派(荒岱介一派)による襲撃事件のきっかけとなった97年七月八日と同じ面々、塩見孝也と鈴木邦男。この手のテーマの時には常連である(もっとも、今時ここくらいしか出る幕もないと思うが)。
 内容については、紹介の必要もないと思うので(つまりはそれだけ仕様もないものだったということだ)割愛するが、このパンフレットの趣旨に沿った、筆者なりの批判を論じてみたい。
 前々から事あるごとに筆者が声高に論じてきたことが、今だに論じる必要なしとなっていないことは誠に残念、と同時に、今後もさらにはっきり指摘していかねばなるまいとの思いを今更のごとく強くしている。まさに荒一派によるゲバルトの精神的背景になっていることである。塩見や鈴木の脳天気ぶりを見ていると、かくたる思いを強めざるを得ない。
 塩見も鈴木も、自己の内の過去を反省する回路を完全に閉ざしてしまっているかのようである。おそらくこのパンフレットを御覧の諸賢には釈迦に説法というべきだろうが、左右を問わず、変革を志す政治運動には、「佛魔一如」「大義親をも殺す」といったようなニヒリズムが内包されている、時としてデーモニッシュ(悪魔的)な作用を及ぼすことは、一水会も見沢知廉の内ゲバ殺人に見られるように、無縁ではなかったはずだ。連合赤軍による「総括」はいうに及ばず。ドフトエフスキイが『悪霊』で描いた世界は、今だに克服できない課題として、変革運動にしがらみ着いている。塩見も鈴木も、この課題にあまりに無頓着に過ぎるのではないか。指導者を気取る者のかくのごとき姿勢が、数度に渡るセクトによる不毛な内ゲバ、東アジア反日武装戦線「狼」のような、一般市民をも巻き込んだテロを招来し、犠牲者の山を築いてきた事実を何度声高に叫んでも叫びすぎることはないであろう。変革運動に限らず、政治というものは、権力を運用することによって秩序をつかさどるものなれば、必然的に暴力や謀略と無縁であり得ない。
 こういう政治本来の性質に無知な者が、たとえばHIV訴訟の時の小林よしのりのごとき醜態を晒すことになるのだろう。同時に、純真だが知見乏しき若者たちをも不幸に巻き込みかねないのだ。いかなる立場であれ、政治を志向し、社会に発言する者は、政治というものが本来的に持っている暴力性や悪魔性にもっと敏感であることを心すべきと考える筆者が、塩見や鈴木といった連中の、あまりにもあっけらかんとした無邪気さ、将来に対する無定見な発言等にいらつかざるをえないのは、彼らの自己の過去に対する盲目ぶりがいかなる不幸を招いたか、ほんの片鱗だけでも触れたことがあるからである。筆者が一水会を通じて新右翼(これもはっきりしない言葉だ)の運動に関わったのは、たかだか五年弱だが、その間にも、さすがに見沢の内ゲバ殺人ほどの事件はなかったが、誰が誰をどついた、蹴った、やった、やられたという話はときどきあったし、あいつは気に入らないからやってしまおうという穏やかでない話も何度か聞いたことがある(かくいう筆者自身が標的にされたこともあった。もっともそういう話が洩れ伝わってくる間は大丈夫と思っていたが。このような機密性の無さが右翼をある意味で破局から救っており、同時に駄目な所でもある)。鈴木は、そのような一水会の現状を、「現場は若い者の自由にさせている」などと、さも物分かりよさそうな顔をして、実は無責任に放置していたのだ。さすがにこのような新右翼のしたり顔体質に堪え切れなくなり、会員が次々と脱会していき、現在、一水会といえば、事実上鈴木と木村三浩の二人だけである。新右翼などというのは、所詮営業用の名刺の肩書きにすぎない。
 それにしても気になったのが、プラスワンにも現れた鈴木の取り巻き連中である。又ぞろ「父親が自衛隊員」だの「毎朝神棚に手を合わせている」だのと自慢げにいう薄ら馬鹿どもが出現、そいつらに囲まれてホクホク顔の鈴木も、いよいよ思考停止状態、死期が近いというべきか(社会的にはもう死んだも同然ですけれどね)。こういう極楽トンボな連中こそ、一度、一水会に入会させていやな思いをさせるにしくはないようだ。そもそも彼らは政治運動に無知である。英語で無知、無邪気を意味する「イノセント」には、無罪という意味もある。知らざる者に罪はない。しかし、こと政治運動になると、知らざることは、場合によっては死を招き、多くの人を不幸に陥れるとの鉄則を銘記すべきである。

 「自由の楽土は専制の流血を以て洗はずんば清浄なる能わず。」
 「観世音首を回らせば則ち夜叉王。」
 「『殺すを嗜む』ものに非ずんば悪を求むるの自由を斬って正義の自由なる発現を擁護扶植する能わず。(中略)革命は速にギロチンを準備せざるべからず。」(いずれも北一輝『支那革命外史』より)

追伸 平野悠さんへ
 今後ロフトプラスワンで全共闘ネタをやるなら、「私はコレで全共闘をやめました〜華やかなりし時代の光と影」というテーマはいかがでしょうか。自己の過去を自画自賛し、若い衆に説教を垂れるオヤジ文化では、一部の人の善意だけで歴史を語れると思い込んでいる「自由主義史観」の単細胞どもと何ら変わりありませんぜ。もっとも過去に傷ついた人々が、今更塩見や鈴木と語り合いたがるか、甚だ疑問ですが。

(敬称略)(大西満流、会社員)


 編注 この原稿は、98年3月に頂いたものです。




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