RPGリプレイ小説 『ナイトメア・バスターズ』

夢心理研究会日誌 ファイルNo.5


スワン・ソング


原案:武田 明宏

脚色:東江戸川大学夢心理研究会

文章:恵紋 春人


プロローグ

 ひとつの生命があった。
 少女。
 運命は悪夢という形を取って襲い来たり、少女の魂は夢魔によって貪り喰われた。
 さらになお、意識だけは残った。悪夢の中、少女は自分が狂暴な獣となり、破壊と殺戮を繰り返す様を見せつけられた。
 終わりのない責め苦からの解放の時は、遂に来た。
 頭文字をつなげると『き、し  騎士』となる青年。
 青年の力は夢魔の体を砕き、少女の意識を囚われから解き放った。
 無をさまよう。
 夢と現実、生と死を結ぶ、それは巨大な無=無限の空間。
 やがて少女の意識も、その巨大な無と一体化しようとする。
 そのとき、全てが見えた。
 地上の争いを空の高みから見るように。
 宇宙の誕生を時の果てから見るように。
 歴史の輪廻を輪の外側から見るように。
 すべての生命、すべての可能性、すべての分岐が、一目で見て取れた。世界は一個の点であり、確率と因果との合糸(あわせいと)で編み上げられた刻という名のレースの網目を手繰り、果てなき果てへと向かって時の車輪を転がし続けている。
 少女の意識を受け入れるべき隙間は、そこにはない。
 しかし、想いだけなら。
 意識の持つ想いを受け入れることのできる細い分岐が、存在した。
 ひと筋。
 迷わずそれを選ぶ。
 それは世界の内側に作用し、そこで暮らす亜梨沙の心に、運命に、そしてまた彼女を取り巻く幾人かの心に、運命に、やさしいバイアスをかける。
 《偶然》、ある物に目が止まる。
 《偶然》、ある物を見過ごす。
 《偶然》、運命はからまる……

第一章 依頼

 首都圏ばかりではなく、日本全土を震撼させたあの恐るべき『ラグナレク』事件から、やがて二週間が過ぎようとしていた。
 首謀者と思われる平井太郎教授は、行方不明のままだった。また、配下の学生たちのうち五人の変死体が、都内各所で発見されたことは、TVや新聞のニュースでもセンセーショナルに報道されていた。
 ただ、彼らの死因については、日本のマスコミのやる事とは思えないほど徹底して報道されず、無論石見たち四人の活動についても、一般の人々は何ひとつ知らされていなかった。
 実はこの件に関しては、日本政府に対するICAの脅しに近い要請があって、完璧な報道管制が敷かれていたのだった。
 平井の住まいからは、その行方を探すための手掛りになりそうなものは全く発見されなかった。ただひとつだけ、今回の事件の首謀者が平井であることを示すと思われる書き置きは見つかった。それはまた、平井太郎と言う人物の恐るべき残忍さ、冷酷さをも示しており、それを読んだ者を戦慄させた。

『いよいよ、「ラグナレク」計画を遂行する時が来た。各大学のバスター組織は、準備段階として武田に命じた「ゴルディアス」作戦によってほぼ壊滅した。後は落ちこぼれのヒガ大のバスターどもが残るのみだが、あれは計画を遂行しながらでも、武田たちだけで充分片がつくだろう。万にひとつ、武田たちが失敗したところで、それは大した問題ではない。要は「逆衛星」を満たすエネルギーさえ手に入ればよいのだ。そのエネルギーが無能な一般大衆どものものであろうと武田たちのものであろうと、それは大きな問題ではない。そして必要なエネルギーが満たされた時、私は夢と現、二つの世界を束ねる王となるのだ』

 もっとも、この文章が示す平井の恐ろしさを多少なりとも正確に把握できたのは、ICAを始めとするバスターたちのみであったろう。実際、警察ではこの文章の内容は全くのたわ言として一笑に付されている。当然の事ながら、そのような反応しかできない日本の警察に平井の行方をつかむ事ができるわけはなく、またICAと言えども、手掛りがこの書き置きのみでは、平井の計画のアウトラインを推測する事すら難しいという有り様だった。また、『ラグナレク』計画が与えた影響は日本国内にとどまらず、世界各地の人々の夢に次々と歪を引き起こしていたため、ICAのエージェントはその後処理に追われていて、平井の行方を探す事に集中できる状態ではなかった事も災いしていた。



 そんな中、ヒガ大夢研の四人もまた、何をすることもできず、ただジリジリとした日々を送っていた。
 何をしようにも、挑むべき相手の行方すらつかめず、仮につかめたとしても、今の彼らだけの力でその敵を倒すことは不可能としか思われなかった。
「とにかく今は、紀田先生を信じよう。先生は、きっと今もどこかで平井と戦っているはずだ。そして、きっと先生と共に戦える時が来る。それを信じて、今は少しでも力を蓄えておくんだ。くやしいが、今の俺たちにできることといったら、それしかない」
 自分自身を励ますような石見の言葉だった。他の三人も、わずかばかりの希望をそれに託して、それぞれ思い思いの時間を過ごしていた。
 紀田助教授の葬儀については、助教授のマンションにあった遺書に、そのやり方を事細かに記されていた。
 この時、石見たちは初めて知らされたのだが、実は紀田助教授は紀田家の実子ではなく、養子だったのである。六才(その年齢すら推定に過ぎないのだが)の頃、孤児院から紀田家に引き取られたのだそうで、しかも孤児院に収容される以前の事となると、生まれも育ちも全く不明なのだった。
 ともかく、その遺書による本人のたっての希望という事もあって、葬儀は『ラグナレク』事件が発生してから、ちょうど二週間後に行なわれる事になっていた。奇しくもその日の夜は、次の満月に当たっていた。
 そして、葬儀を明日に控えたその日、石見たちは紀田家にいた。遺書と共に、葬儀の連絡をするための指示を記した住所録のコピーが用意してあったので、石見たちはそれに従ってICAや大学関係者などへ電話で連絡をしながら、慌ただしくもつらい時間を過ごしていたのである。
「石見さん、あなたたちにお会いしたいとおっしゃるお客様が…」
 紀田助教授の義理の姉に当たる、紀田タキが声をかけてきた時、ちょうど石見は電話を置いたところだった。
「ぼくたちに…? 誰だろう」
 石見は玄関へ出た。そして、その客の顔を見た途端。
「えっ?」
 思わずそう声を上げずにはいられなかった。
 玄関に立っていたその客は、あまりにも意外な人物だったからである。
 それは『ピグマリオ』事件の時にチラッとだけ顔を合わせたことのある、ヒガ大総合図書館の館長、藤本氏だった。
「やあ、久し振りですね。その節は、どうも」
「はあ…」
 あまりの意外さに言葉も出ない様子の石見を見て、藤本氏は笑った。
「なぜ、こんな所に私が来たのか、と言いたそうですな。いや、いいんですよ。紀田君は自分の事をあまり人に語りたがる性格ではなかったから、自分の趣味の事も、きっと君たちには何にも言ってなかったんでしょう」
「趣味?」
 石見が聞き返すと、藤本氏は頷いた。
「それより、まずはお仲間を皆さん集めていただけませんか。実は、紀田君から皆さんへ渡してくれと、ことづかった物があるんですよ」
 石見は緊張した。紀田助教授が自分たちに渡したい物とは、一体…?
「ともかく話を聞かせて下さい」
 急に石見の後ろから声がした。
 石見は振り返った。
 亜梨沙だった。



 紀田家の応接間に、石見、知場、アンディ、そして亜梨沙が揃った。
「今、こちらにおられる夢研の方は、皆さんだけですか?」
 石見が無言で頷くと、藤本氏も、判った、というように二、三度小さく頷き、話を始めた。
「…私と紀田君とは、ブック・ハンティングの世界でのよきライバルでした。時にはいがみ合い、時には協力し合って、共にブック・ハンティングに血道をあげていたものです。そんなわけで、彼が私の所に来た時も、最初はてっきりそっちの話だと思ったのですが…彼はいつになく真剣な表情で、『もし自分に万一の事があったら、自分の葬儀の前日に、あなたたちに渡してくれ』と言って、これを私に預けて行ったのです」
 そう言って藤本氏は、持っていたバッグからそれを取り出した。
 そのひとつは、『ピグマリオの書』だった。今は東京を離れていて行方の判らない舞、それに『ラグナレク』事件で負傷して入院している平岡と共に、石見、亜梨沙が戦った『ピグマリオ』事件の、原因となった代物だ。しかし石見や亜梨沙の活躍でそれは既に無害化しており…つまり平たく言えば、完全な白紙になっているのであった。
 そしてもうひとつ…いや、もう一束。
「手紙…ですか?」
 石見が聞くと藤本は頷いて、一通ずつそれを四人に手渡した。
 それは、石見たちそれぞれに宛てた紀田助教授の手紙だった。
 手紙は、全部で六通あった。石見、知場、アンディ、そして亜梨沙に宛てたものの他に、舞や平岡宛てのものまで手紙は用意されていた。封の部分には、紀田のイニシャル、JとKを図案化したマークが施されていた。
 石見たちは複雑な思いで、各々藤本から手渡された手紙の封を切った。
 しばらく時間をおいて、石見が声に出して読み上げる。

『どうした? 私が死んだからって泣いてたりしてるんじゃないか? 石見などは笑ってるかもしれんな。いや、すまん。ふざけてる場合じゃなかったな。
 君たちがこれを読んでいる時点で、私は生きていない。藤本にそう頼んでおいたからな。そして、今の私にはそれがどんな形かはわからないが、その時は、巨大な悪意が爆発した後の筈だ。また多分、その悪の行方がわからず、君達は悩んでるはずだ。
 君たちはナイトメアバスターだ。依頼さえあれば戦いにいってくれる。そう信じている。
 私、東江戸川大学雑学部助教授、紀田順一が君たちに依頼する。

 私の夢に潜ってくれ。

 たぶん、君達は私がいつも君達に実戦を強いるのみで自ら夢に潜ることを避けていたのに気付いていたろう。ずいぶん勝手な教師に見えたと思う。
 今だから言えるが、私にはあと1回しか夢に潜る力がないのだ。
 昔、恩師の平井太郎教授や仲間達と共に戦っていた頃の事件で、私は眠る能力を奪われてしまったのだ。あと残っているのは、最後の眠り  死しかない。
 今、夢の世界には巨大な悪しき意志が現われ、拡がってきている。どうもその根は日本にあるらしい。既に他の大学のバスター達にも犠牲者が続出している。決戦の時が近づいているのだろう。
 その敵の正体はわからない。頼りの筈の平井先生も音信不通なままだ。もしかして先生もやられてしまったのか。いや、あの人に限ってそんなことはない。
 もし敵が判明したら、私はそいつの夢に飛び込むつもりだ。そいつがこれ以上夢の世界を蹂躙するのを止める。
 ただ、多分、その敵は私の力だけでは倒すことは無理だろう。強力な武器がいる。先のICA世界会議でその製法、使用法を入手してきた。どれも、非常に存在力が強く、現実と夢の世界の間を自由に持ち運べるアイテムだ。それらは、
・数百年を経た、ただし何も書かれていない魔道書。
・聞く者を絶対に眠らせる呪文。
・生死を超える程のエネルギーを持つ弾丸。
・一発必中の魔弓ないし魔銃。
 魔道書と呪文は、いいな。あとの二つは、難しいが、必ず手に入れてくれ。

 これらが揃ったら、私の夢に入ってくれ。私の夢から敵の夢に道をつないでおく。そして4つのアイテムを私の元へ届けてほしい。
 夢の入口は、わからない。たぶん私の死体の枕元で眠るだけでは駄目だと思う。
 敵はたぶん、どこか本拠地で呪法を行ない、その場所ごと裏返しの世界に転移しているはずだ。この世界ではその場所は消滅しているが、その近くにその影を映す鏡か何かが残されているはずだ。そこが入口になると思う。

 書きたい事はたくさんある。厳しくしすぎたのをあやまりたくもある。しかし、必ずあちらで会えると思うから、これで筆を置くことにしよう。
 さよならはいわない。待っている。

   石見信介殿

                  紀田順一  』

 石見が読み終わると、藤本氏は再び口を開いた。
「…私には、いわゆる『バスター』の能力はありません。しかし、紀田君が何と戦い、何に耐えていたかは知っているつもりです。手紙では軽そうに書いてありますが、紀田君がその苦しみと戦う様は、見ているこちらが辛くなるほどでした。しかし私がそう言うと、いつも彼は『約束だからな』…と微笑むのでした。
 その『約束』というのが何の意味なのか、私にも解りません。しかし、紀田君の友として、私からも頼みます。どうか紀田君の願いを、かなえてやって下さい!」
 石見は三人の顔を見回し、言った。
「どうする? みんな」
「聞くのか?」
 知場がぶっきらぼうに聞き返す。
 アンディは無言で肩をすくめる。
 亜梨沙は…
「…亜梨沙ちゃん?」
 手紙の文字をじっと見つめていた亜梨沙は、石見に呼ばれてハッと顔を上げた。
「えっ? あ、ごめんなさい。もちろん、やるわ」
「決まりだな」
 石見は微笑んだ。
 やっと。
 やっと動ける。
 やっと紀田先生とともに戦える。
 喜びと希望の笑顔だった。



 四つのアイテムは、偶然にも既に全て揃っていた。
 夢魔を倒した結果、白紙になってしまった『ピグマリオの書』。今日、藤本氏が届けてくれて、今は石見の手の中にある。
 『タンタロス』事件の時の催眠テープ。研究室のどこかにあるはずだ。
 『ゴルディアス』事件で手に入れたイノチグサの種。これは亜梨沙が持っている。
 そして、武田の持っていた一発必中のフルート。『ラグナレク』の最後の戦いの最中、知場が手に入れた。
 また、今や敵の正体も判っている。平井太郎だ。そして、その本拠は、消えた時計台。
 だが、難問がひとつ残っていた。
「裏返しの世界への入口…敵の本拠地の影を映す鏡とは、一体…」
 入口が見つからなければ、四つのアイテムを紀田助教授に届けることができない。それはすなわち、紀田助教授を助けることも、平井を倒すこともできないということに他ならない。石見たちは焦った。
 黙って西荒川大の構内案内図を眺めていたアンディが、突然、言った。
「コレデハナイデスカ?」
 三人はアンディの背中に駆け寄り、案内図を覗き込む。
 時計台の横に、池がある。
 石見はポンと膝を叩いた。
「水鏡ってわけか…アンディ、今日も冴えてる!」
 知場がはやって立ち上がる。
「よし、それじゃさっそく西荒川大へ…」
「ちょい待ち! その前に、研究室へ戻って、催眠テープを取って来るのが先でしょ」
 妙に冷静な亜梨沙の言葉に、知場は額をぺしっと叩いた。
「いっけね! 忘れるとこだった」



 三人は急いで、ヒガ大の紀田研究室に向かった。
 何度も出入りした研究室の扉を開けると、明かりはひとつも点いていなかった。窓の外は明るいが、それだけにかえって部屋の中の暗さが際立つ。
 石見はあたりを覆っている暗さを追い払おうとでもするかのように、電気のスイッチを片っ端から点けた。
 蛍光燈の明かりに照らし出された研究室の中は、石見たちが岐阜へ向かう前と、何の変わりもなかった。ただひとつ、主がいないことを除いて…
「…感傷にひたってる暇はない。テープを探そう」
 振り切るように石見が言う。
 テープはすぐに見つかった。机の引き出しの一番上の、判りやすい所に置いてあったのだ。紀田助教授があらかじめ、見つかりやすいようにしておいてくれたのだろう。
「よし、今度こそ西荒川大へ…」
 言いかけた知場を、また亜梨沙が遮った。
「夜にはまだ間があるわ。もう少し、先生のこと調べましょ」
 そう言うと、亜梨沙はさっさと研究室の中を調べ回り始めた。
「おい、石見…」
「…しょうがない。亜梨沙ちゃんの気のすむようにやらせよう」
 三人は仕方なく、亜梨沙と一緒になって研究室の中を調べ始めた。
 亜梨沙は、まるで何かに憑かれたように、紀田助教授の机の周辺や引き出しの中、果ては本棚の裏側まで探している。
 アンディはついでに、『タンタロス』事件の時に撮られた寝顔写真のネガを探したが、よほど巧妙に隠されているらしく、出てこない。
 ガラガラガラガラ!
 すさまじい音が研究室中に響き渡った。
 知場が、びっしり詰まった本棚から本を引っ張り出そうとした拍子に、本棚を丸ごとひっくり返してしまったのだ。
「あーあ…お前、どういう力の入れ方したらこんな風にできるんだよ? これじゃあ、これ以上調べようがなくなったぞ。ここを片付けてるだけで日が暮れる」
 石見があきらめたようにつぶやく。
 だが、亜梨沙はなおもこだわった。
「お願い! 今度は先生のマンションに行こ?」
「おいおい亜梨沙、どーしたっての? 何か探してる物にあてでもあるわけ?」
 知場が疑問をぶつけた。
 亜梨沙は迷うように視線をさまよわせ、目をそらした。
「別に…ただ、あたしたちってこれまで先生のこと、知らなさ過ぎたと思うの。家族のことひとつ取ってもそうじゃない? だから…」
 亜梨沙の表情をうかがっていた石見が割り込んだ。
「ま、いいさ。まだ時間はある。マンション、行ってみようや」



 紀田助教授のマンションは、大学から電車で一時間くらいの所にあった。
 マンションといっても、築十五年。本当ならそろそろ塗り替えの時期が来ているのをほったらかしにしてあって、あちこち壁に剥げ落ちや細かいひびが見える。お世辞にも高級などと言える代物ではない。
 紀田家に預けてあった合鍵を使って、四人は部屋に入った。
 あたりには夕闇が迫りはじめている。わずかに入るはずの外の光は、分厚いカーテンに遮られていて、部屋の中はほとんど真っ暗だった。
「………がする………」
 亜梨沙がそっとつぶやいた言葉を、三人は聞き逃した。
 部屋の中に篭った紀田助教授の懐かしい匂いを、亜梨沙は吸い込んだ。岐阜で看病してくれた時、何度か感じた匂いだった。
 玄関あたりの壁を手探りして、明かりのスイッチを見つけてオンにする。
 玄関の明かりが点き、室内が少し明るくなった。
「へーえ、いい年した独身男の住まいにしちゃ、ずいぶん小ぎれいだな。ひょっとして、オンナでもいたりして」
 知場が冗談めかして言う。だが、途端に亜梨沙にすごい目つきで睨まれ、知場はたじろいだ。
「な、何だよ? オレ、何か悪いこと言ったか?」
 亜梨沙は何も言わない。ただ、そのままプイッと顔をそむけ、さっさと部屋の奥に入って行く。その後ろ姿を見送ってから、石見が知場の顔を哀れむような目で見た。
「…バカ」
 知場がムッとした顔になる。
「何だ何だ、石見まで! オレが何したってんだよ!」
「…救いようのないバカ」
 石見はそのままの目つきでそれだけ付け加えると、亜梨沙の後に続いた。
 何か反論しようとする知場を、アンディが抑えた。
「トニカク、中ニ入リマショウ」
 紀田助教授の義姉、タキの話では、紀田助教授は大学を出た頃から、ずっと一人暮らしをしていたのだそうで、このマンションには五年ほど前に、学生時代から暮らしていた前の下宿を引き払って引っ越したのだという。そんな訳で紀田家の方には、紀田助教授の私生活に関する物は、何も残されていなかった。
 つまり、何かが残っているとすれば、この部屋の中ということになる。
 三人が部屋に入った時には既に、亜梨沙は再び探索に熱中していた。家で仕事をする時に使っていたのだろう机の引き出しの中身や、雑学科助教授に相応しいありとあらゆる類の本が並んだ書棚に収まった本などを、亜梨沙は何ひとつ見逃すまいとするかのようにひとつひとつ手に取って確かめ、がっかりしたように首を振って元に戻していく。三人は、もはや亜梨沙に手を貸す事も忘れ、その姿をただ見守っていた。亜梨沙もまた、三人がいる事を忘れているかのようだった。
 だが、窓の外が既に暗くなっている事に気づいた石見が、亜梨沙に声をかけた。
「亜梨沙ちゃん、もう限界だ。時間切れだよ」
 亜梨沙は何か言いたそうに口を開きかけたが、そのままうなだれるように頷いた。それを見て、石見も頷き返す。
「よし、それじゃ行こうか」
 三人は出口の方に向かって歩き出した。亜梨沙もその後ろから出ようとしたが、ふと、電話の脇に置かれたノートに目を止めた。
『これで最後…これで最後よ』
 心の中で自分に言い聞かせながら、亜梨沙はそれを開いた。それは紀田助教授の手書きの住所録だった。紀田助教授の葬儀に関する連絡のためにこの数日使っていたコピーの原本がこれなのだと、亜梨沙は気づいた。紀田助教授はこの中から必要な部分だけコピーして、連絡すべき相手に印まで付けて準備しておいたのだ。
「亜梨沙ちゃん、何してるんだ? もう行くぞ」
 玄関の方から石見の呼ぶ声が聞こえたが、亜梨沙は無視してページをめくっていった。ふと、その手が止まる。
「………?」
 亜梨沙の瞳は、その住所録の空欄に引き寄せられていた。
「おい亜梨沙ちゃん、どうしたんだい? もう行かないと、時間が…」
 急かしに戻ってきた石見に、亜梨沙は黙って住所録を突き出した。
 石見は驚いたように、そのページと亜梨沙の顔とを見比べた。
「これを、見ろって言うのかい?」
 亜梨沙は黙って頷く。石見は当惑しながらも、亜梨沙の無言の言に従った。だが、石見の目もまた、亜梨沙が見たのと同じ空欄に止まる。
「おーい石見、どうしたんだよ? ミイラ取りがミイラになっちゃ、仕方ないだろうが」
 文句を言いながら、知場とアンディが戻ってきた。
「亜梨沙ちゃんが、ちょっと気になる物を見つけたんだ」
「何だ?」
 知場の表情も、途端に真顔になる。
「紀田先生の住所録、例のコピーの原本なんだが…この空欄のところを見てくれ」
「空欄?」
 知場とアンディは、石見の肩越しに、開いた住所録を覗き込んだ。
「ん? これって、鉛筆で書いてあったのを消した跡みたいだな」
 知場の言葉に、石見は頷いた。
「ああ。『駿河』と書いてあったようだ。コピーには、跡までは写ってなかったから、誰も気づかなかったんだな」
「消サレテイル、ト言ウノガ気ニナリマスネ」
 腕組みをしてアンディが言う。
「鎌倉の人らしい。電話番号も何とか読み取れる。かけてみるか」
 誰も言葉を発しなかった。無言の同意だった。石見は即座に受話器を取ると、ボタンを続けて押し、受話器を耳に当てた。三人も、外側から耳を寄せる。
 ややあって、初老の婦人の声が電話に出た。
『はい、駿河でございます』
「あ、私、東江戸川大学の紀田助教授の教え子で石見と申しますが…」
 石見があいさつすると、婦人は途端に懐かしそうな声を上げた。
『紀田さん? まあ、あの時の学生さんの…そう、大学の先生におなりでしたか…。紀田さん、いえ、紀田先生は、お元気ですの?』
 石見は一瞬ためらう様子を見せたが、やがて明るい調子で答えた。
「はい、お元気です。今は海外にご出張なさっておられますが。ところで先程『学生さん』…とおっしゃいましたね。失礼ですが、紀田助教授の学生時代のお知り合いの方ですか?」
『ええ、あの方と平井先生たちには、娘の飛鳥が大変お世話になりました。特に、紀田さんには感謝しているんです。飛鳥が亡くなった今も』
 飛鳥、という名前が聞こえた時の亜梨沙の表情の変化に気づいた者は、誰もいなかった。三人の注意は、その後の言葉に向けられていたからだ。
「その、亡くなられた飛鳥さんとおっしゃる方は、一体…」
 紀田助教授とどういう関係だったのか、と聞こうとして、石見は言葉に困った。それを察したのか、電話の向こうの婦人は、自分からぽつぽつと昔の事を話し始めた。思い出そうとする時間や言葉を選ぶ時間を含めて、婦人の話はかなり長いものになったが、その話をバスターとしての知識を元にした推理を交えて整理すると、概ねこんな感じになるだろう。
 今から十年前、駿河家の娘・飛鳥が、夢魔に憑かれ、平井や紀田を始めとする当時のヒガ大のバスターたちがそれを救った。正気に戻ってからの飛鳥は、時折変なことを口走る以外は、ごく普通の状態に戻った。その後、紀田と飛鳥は平たく言えばいいムードだったらしく、親としては淡い期待を抱いていたらしい。ところが、一ヵ月後、飛鳥が行方不明になり…
「行方不明? 亡くなられたのではないんですか?」
『…もう、あきらめております』
 紀田や平井たちも、飛鳥がいなくなってしばらくは、あちこち手を尽くして懸命に行方を探してくれたらしい。だが、手掛りすらつかめないまま半年が過ぎ、一年が過ぎ、結局、飛鳥は死んだものとあきらめる事にした、と言うのであった。
「そうでしたか…申し訳ありませんでした、いやな事をお聞きしてしまって」
『いえ、いいんですのよ、昔の事ですから』
 婦人は必死に明るい声を保とうとしているようだった。
「それで、もしよろしかったら、その時紀田先生と一緒にいらした方たちのお名前をうかがえませんか? 紀田先生の事で、ちょっとうかがいたい事がありますので」
 婦人は石見を疑う様子もなく、快く三人の名前を教えてくれた。石見は素早くメモを取った。
「…そうですか。どうも、ありがとうございました。…はい、必ず先生にお伝えします。はい、失礼します」
 石見は受話器を置くと、慌ただしく住所録のページをめくり始めた。
「駿河婦人から聞いた当時のバスターの名は、紀田先生と平井と、その他に三人。高木さん、中井さん、粟島さんだそうだ。もし、その人たちに話が聞ければ…」
 はたして、紀田助教授が用意していたコピーの中にはなかったページに、三人の名前は並んでいた。早速電話をかける。
 三つの電話番号のうち二つからは、『現在使われておりません…』という冷たい音声が返ってきただけだった。最後のひとつになってやっと応答があり、母親らしい人が電話に出た。だが、返ってきた答えは、四人に大きな衝撃を与えた。
「! 亡くなられた…? 失礼ですが、死因は一体…」
 石見は尋ねた。が、相手は何やら口ごもっている。昔の事は、あまり言いたくない様子だ。石見はしばらく考えていたが、やがて受話器に向かって言った。
「…そうですか。どうも、つかぬ事をうかがってしまって申し訳ありませんでした。いえ、とんでもありません。それでは、失礼します」
 石見は受話器を置き、暗い表情でつぶやいた。
「発狂死、というわけか…」
「飛鳥さんとかいう人の一件でか?」
「多分な。飛鳥さんという人に憑いていた夢魔は、よほど強力な奴だったんだろう。この分だと、おそらく他の二人も…」
 四人は黙り込んだ。
 とうの昔に陽は沈み切ってしまい、十四夜の月が煌々と夜の街を照らしている。主のいないマンションから見るその風景は、二週間前のパニックが嘘のように平和そのものだった。そして、そこに暮らす人々は、これから戦いに赴こうとしている若者がいる事を知らず、その平和を享受している。それでいながら彼らは、その平和を喜ぶ事を知らないのだ。
 それでも、彼らは戦いに向かう。人々を守るために。
「今度こそ時間切れだな…行こう、亜梨沙ちゃん。もう、いいだろう?」
 石見の言葉に、亜梨沙は少し迷いを見せたが、やがて小さく頷いた。



「本当に…消えてしまった、としか言いようがないな」
 石見は、何もなくなってしまった時計台跡を見回しながら言った。
 西荒川大の時計台跡は、時計台の部分だけがそっくり消えてしまった状態だった。実際そこには、土台だけ除いて何も残っていなかった。崩れたというのではなく、その部分だけが何か巨大な何者かの口にでも飲み込まれたように、すっぽりと消えているのだった。
 知場は目を閉じて、あたりの気配を探った。だが、ため息をついて目を開く。
「ダメだな。何か、妖気とか邪気の類が残ってるかと思ったんだが、気配すらない」
 石見は、やはりそうか、と言うように頷いた。
「となるとやはり、アンディが気づいた例の池か」
「トニカク、行ッテミマショウ」
 時計台の右手に回り込んで、四人は地図で確かめた池があるはずのあたりへと、あたりに気を配りながら進んで行った。
 やがてたどり着いた池には、時計台が、あたかも今なお元の位置にそのまま立っているかのごとく、きれいに映し出されていた。
「アレヲ!」
 アンディが指差した方を見ると、池に映った時計台の窓の中にただ一ヵ所だけ、煌々と灯りが点いている窓がある。
「あそこに………!」
 四人は、それぞれの想いを込めて、押し黙ったままその窓を見つめた。あそこに、倒すべき敵、平井太郎がいる。そしておそらく、紀田助教授も…
 だが、その沈黙を打ち破るように、石見が、いきなり背後の草むらに向かって木刀を構えた。そしてその草むらを睨みすえたまま、石見は動かない。
「…どうした?」
 知場の問いに、石見は視線を動かさずに答えた。
「………何かいる!」
 即座に、亜梨沙が草むらにヨーヨーを叩き込む。
 ガサッ!
 草が揺れる音とともに、何者かが逃げていく気配。
「逃がすかっ!」
 追う石見。
 アンディと亜梨沙が続く。
 知場は一人、池を反対に回った。挟み討ちにしようというのだ。
 ところが、ここで予期せぬ事が起こった。
 ズルッ。
「OUCH!」
「キャッ!」
「ん?」
 石見の後ろで、アンディと亜梨沙がコケたような音がした。
 が、石見が振り返ると二人の姿は、ない。
 滑った跡が、池の中へと続いている。だが、なぜか水面は静かなもの。風のない夜の池には、人間二人が落ちたような様子どころか、葉っぱ一枚落ちた程度の波紋すら生じてはいない。
「ボチャーン…とは、言わなかったよな…」
 石見は首を傾げたが、再び逃げる影を追いかけた。そして遂に、反対に回り込んだ知場との間に相手を挟み、追い詰めた。
 月灯りに見えるその顔に、二人は見覚えがあった。
「小諸…小諸丈夫!」
 読者諸氏は、この男を覚えておられるだろうか? この男、小諸丈夫は、『ピグマリオ』事件の時、事件の原因となった冴河市文に、人形作りの本のことを教えた人物であり、知る人ぞ知るフィギュアオタクなのだった。
 石見の頭が、高速回転する。
 こんな時間に
 こんな所に
 こそこそ
 怪しい。
 『ピグマリオ』事件。
 こいつが冴河に
 本の事を
 吹き込まなければ
 あの事件は
 起こらなかった…!
「小諸! 貴様、こんな時間にこんな所で何をしている? まさか………!」
 石見は詰め寄った。
「ふん、お前たちなんかに、平井先生の邪魔はさせないぞ!」
 小諸は怯えた様子を見せながらも、精一杯の虚勢を張った。
「平井先生だと!? それじゃてめえ、奴の手先か!」
 知場がぐいと睨みつけると、小諸は後ずさりした。だが、それでも小諸は虚勢を張るのをやめようとしなかった。
「あの池は、今夢の世界への入口になっている。あの灯りの点いた窓あたりに飛び込めば、すぐに先生の所に行けるだろう。だが、お前たちの仲間は、ぼくが張っておいた罠に引っ掛かって、全然見当違いの所におっこちたからな。夢の世界で迷子になるがいいんだ」
 もし、小諸が素直に詫びの一言も言っていれば、この後の悲劇は起こらなかったかもしれない。だが、なめられまいとするあまり虚勢を張るのをやめなかった事が、小諸にとっては最大の不幸を招く結果となった。
 知場がポキポキと指の骨を鳴らしながら、言った。
「ほーお、そうかそうか…石見、ちょっと向こう向いててくれ」
 肩をすくめて、石見は背を向けた。
 どかばきぼぐべこぐしゃ。
「もういいぞ」
 知場の声に、石見は振り返った。
 知場の足許には、ボコボコに変形した肉ダンゴが転がっていた。
「おーお、見事に失神しとる…ま、しかし万が一意識を回復されると面倒だし、ここはひとつ、念には念を入れて…」
 とどめに眠りのツボを石見がトンと突いた。
「さて石見よ、コイツ、どう始末する?」
 知場の問いに、石見はしばし考えた。
「このままほっとくってわけにもいかんわな…葵さんにでも連れてってもらうか」
「いい考えだな」
 石見は、大学構内の公衆電話から、警視庁猟奇課に電話をかけた。
『はい、警視庁猟奇課』
 聞き覚えのある、キビキビした女性の声が応対に出た。葵だ。
「葵さんですか? 石見です。平井の部下のザコを一人とっ捕まえましたんで、西荒川大の池にすぐ来て下さい」
『えっ? どういうこと? それにあんたたち、明日は紀田先生のお葬式だっていうのに、一体どこで油売ってんのよ!』
 石見は大きなため息をひとつつき、言った。
「紀田先生を手伝いに行かなきゃならないんですよ」
『えっ? 何それ、どういうことなのよ! ちゃんと説明…』
 ガチャン。
 石見は知場の方を振り返り、何気ない調子で言った。
「…行くぜ、知場」
 知場も、何気ない調子で応じた。
「おう」
 二人は池のほとりに戻り、アンディと亜梨沙が滑った跡が残っているあたりから、揃って池へ飛び込んだ。
 水には波紋ひとつ立たなかった。
 後にはただ静寂と、時計台の影だけが残っていた。

第二章 過去

 一方、一足先に夢世界に紛れ込んだ亜梨沙とアンディは、奇妙な光景を見ていた。
 紀田と平井、その他に二人のバスターたちが、肩を並べ、餓鬼と戦っているのだ。
 餓鬼の一匹が、紀田に向かって牙を剥く。今にも紀田に襲いかからんとしているようだ。
「先生、危ない!」
 亜梨沙はとっさに、餓鬼に向かってヨーヨーを投げた。
 スカッ!
「れ?」
 手応えが、ない。
 ヨーヨーは何の抵抗もなく餓鬼の身体を通り過ぎ、そのまま亜梨沙の手元に戻ってきたのだ。
「ど、どういうこと?」
 戸惑う亜梨沙に、アンディが言った。
「亜梨沙、ヨク見ルネ! アノ先生タチ、何カ変ダヨ」
 促されて亜梨沙は、少し注意深く紀田たちの様子を観察する事にした。と、その瞳が怪訝そうな色を帯びる。
「…紀田先生…だよね、あれ?」
 よく見ると、紀田の外見の印象が、亜梨沙の知っているそれとは少し違っているのに、亜梨沙は気づいたのだ。そしてやがて、その原因にも気づいた。
「あの紀田先生…何だか、あたしたちの知ってる先生より若いみたい」
「ヤッパリ、亜梨沙モソウ思イマスカ」
 アンディは安心したように頷いた。
 二人がそうしているうちに、名前を知らない二人のバスターたちはそれぞれに武器を『製作』し、餓鬼に向かって攻撃を仕掛けた。紀田も、武器を『製作』しようと意識を集中していたようだったが、やがて情けなく叫び声を上げた。
「先生、ダメです! エネルギーが足りません!」
 すると、平井がしょうがないな、と言いたげな顔で言った。
「順一は初めてだからな、仕方あるまい。チャージしてやる」
 そう言って、平井は紀田の肩に手を触れる。すると、紀田の顔にみるみる精気が甦り、その手にはチョークが握られていた。
 紀田はそのチョークを餓鬼に向かって投げる。そして平井も、手に持ったステッキの先からビームを発射して餓鬼を攻撃する。
 やがて、餓鬼は全て倒れた…
 ちょうどその頃、石見と知場が出現した。追いついてきたのだ。
「おい、一体何が起こってるんだ?」
 知場の問いを、亜梨沙はとがめるような口調で抑えた。
「黙ってて! 今、場面が変わるわ」
「場面?」
 事情が解らない石見と知場は、キョトンとして顔を見合わせた。だが、次の場面が見えてくると、二人もまた真顔になった。
 四人の目の前に現われたのは、三匹の夢魔と対峙する紀田たちの姿だった。
「めんばーガ、一人増エテマスネ」
 アンディが言うのをよそに、亜梨沙は夢魔に対して攻撃をかけてみた。何もしないでいるのは、我慢できないのだ。だが、結果は同じだった。ヨーヨーは空しく通り抜けるばかりである。
 じっと見つめていた石見が、口を開いた。
「あれは、今の先生じゃない。これは先生自身の過去…過去の戦いを、俺たちは見ているんだ」
「って事はつまり、ここは先生の夢ん中って事か?」
「いや、それは解らんが…」
 考えていた石見は、何を思ったのか、紀田の方に歩み寄った。そして、夢魔たちの方に向かって身構え、石見たちには全く気づく様子のない紀田の身体に、そっと手を触れた。
 瞬間、石見は白い光に包まれた紀田を感じた。
「暖かい。触れることはできるぞ」
 だが、その途端、夢魔が先手を打って紀田たちに攻撃をかけてきた。
「敵の実体はつかんだ。いったんジャック・アウトして体勢を立て直すぞ!」
 平井の声で、バスターたちは次々と夢から抜けていく。だが、一人だけ指示に従わない者がいた。紀田である。それに気づいた平井は舌打ちをしたが、自分も残った。
 さっきの場面よりは紀田も成長しているらしく、楽にチョークを作って夢魔に投げつけた。だが、それと同時に夢魔の爪が、紀田の脇腹あたりに食い込んだ。鮮血がほとばしる。
 ジュルッ!
 紀田の血が、夢魔の爪に吸われる。もちろん夢の中の事だから、紀田の肉体…実体が傷ついているわけではない。だが、夢の中で傷を負うという事は、精神エネルギーを失う事を意味する。そして夢魔の能力のひとつに、精神エネルギーを奪って自分のものとする力がある事を、石見たちは『ピグマリオ』事件での体験から知っていた。
「アッ」
 思わず亜梨沙は声を上げ、紀田に駆け寄った。そして傷口に手を触れる。
『助けてあげたい』
 亜梨沙が思った途端、亜梨沙は軽い目まいを感じて少しよろけた。
 紀田の傷が直っている。亜梨沙の精神エネルギーを受け取って、回復したのだ。
 紀田は力を取り戻し、再び夢魔に挑んでいく。やがて、夢魔たちは全滅した。
「先生、ありがとうございました」
 どうやら紀田は、精神エネルギーをチャージしてくれたのが平井だと勘違いしたらしい。
「うむ。戻るぞ」
 平井は重々しく頷いた。こちらはこちらで、紀田が礼を言ったのは自分が残った事に対してのものだと勘違いしたようだ。
 二人の姿が消えたところで、知場はニヤリと笑い、言った。
「なあるほど、直接の援護は無理だが、精神エネルギーで援護するのはOKってわけだな」
 続いて霧の中から浮き出すように現われた場面は、向こうに大蜘蛛が見える場面だった。
「でかい…『ラグナレク』事件で相手にしたヤツの十倍…いや、二十倍…到底比較にならん大きさだ」
 石見は驚きに打たれたようにつぶやいた。
 だが、なぜか平井たちはその大蜘蛛と戦おうとはしていなかった。
 平井が、重々しく言う。
「…この患者は、精神ではなく肉体を、既に手の施しようがないほど蝕まれている。もってせいぜい後十日…そんな人を助けるために、我々が傷つくよりは…」
 その時、紀田が決然と反論した。
「その十日の生命に、一体どれほどの価値があるとお思いなんです! ぼくは戦います! たとえ一人でも!」
 言い放って紀田は、何かを『作』ろうとした。だが、さらに成長した紀田にも、作ろうとしたものは少し荷が重すぎたのか、苦しい表情だ。
「よし、今度は俺がやろう」
 知場が紀田にチャージする。途端に実体化したのは、バズーカほどもあろうかというほどの巨大チョーク。紀田は大蜘蛛に向かい、渾身の力を込めてそれを放った!…
 大蜘蛛と紀田たちの姿もやがて消えて行き、次に現われた場面は、またも戦いの場面だった。
「ゾンビか!? しかしヤツらは、夢には入れないはず…」
 知場が驚きの声を上げた。石見は頷く。
「その通りだ。ゾンビは、そもそも夢の中に入る力を持っていない。となればこいつらは、ゾンビの姿を借りた邪精霊といったとこだろう。それにしても…数が多すぎる。これじゃあ…」
 石見は口をつぐんだ。確かに、あまりの敵の多さに、紀田たちは苦戦しているようだった。既に、紀田と平井を除く三人のバスターたちは、全員倒れていた。
 そんな中でも、紀田は善戦していた。さらに成長したらしく、今や紀田は七色のチョークを自在に使いこなしていた。真っ直ぐ飛んだり、カーブしたり、七色のチョークは千変万化の攻撃を見せている。
 遂にゾンビ、いや邪精霊たちを全滅させた、と思ったその時、真の敵が現われた。
「! …あれは…夢魔…?」
 亜梨沙は言葉を失った。たしかにそれは夢魔なのかもしれなかった。実体のよく判らない、ゆらゆらとゆらめくようなその姿は、確かに『ピグマリオ』事件の時に見た夢魔に似ていると言えば言えない事はなかった。
「だが…だが、でかい…でかすぎる…」
 知場も、呆然と立ち尽くしたままつぶやいた。
「…以前、紀田先生に聞いた事がある。夢魔は、吸い集めた人の精神エネルギーを結集して融合し、より強大なパワーを持つ事がある、と…おそらく、あれがそうなんだ」
 石見は、超巨大夢魔を睨みながら、誰に言うともなく言った。
 平井が、ううむ、とうなった。
「いかん! あれは我々の手には負えん。順一、いったん出直すぞ!」
 だが、紀田はまたも平井の言う事を聞かない。
「ここまで攻め込んでいながら引き返したら、奴はまたエネルギーを食って、元の木阿弥になってしまいます。今、ここでとどめを刺さなければ!」
 紀田は、七色のチョークを一度に天に向かって投げると同時に叫ぶ。
「オーロラ・チョーク・アタック!」
 すると、天の彼方から、虹色に光り輝く超巨大十六トンチョークが降ってくる。
 だが、その輪郭がぼやけ、光が拡散しそうになる。いくら成長しているといっても、これまでの戦いでエネルギーを使いすぎていたのだ。
「Shit!」
 アンディが眉をしかめながらも紀田にチャージした。
「義を見て為さざるは…」
 石見も何やらつぶやきながらチャージする。
 再び紀田に精気が甦り、虹色の十六トンチョークは、超巨大夢魔の上に落ちた。
 夢魔の絶叫が聞こえる。だが…
『おのれ、人間の分際でこの私を倒すなどとは…呪われよ! 小賢しき人間よ! 貴様はこれより、死という名の眠りにつく日まで、決して眠ることはできぬ。その日まであがきもがき苦しみ抜いて、遂には狂い死ぬ事になるのだ!』
 夢魔の断末魔の絶叫と共に、紀田に向けて、無数の暗黒の矢が発射され、紀田の身体を貫いた。紀田の身体は稲妻に打たれたようにガクンと揺れ、やがてがっくりと膝をつく。
「ああっ!!」
 亜梨沙は思わず悲鳴を上げ、紀田に駆け寄ろうとした。だが、石見がそれを止めた。
「もう遅い! 亜梨沙ちゃん、これは過去の出来事だ。もう取り返しはつかないんだよ」
 亜梨沙はしばらくの間、石見を睨んでいたが、やがてうなだれた。
「おい、あれを見ろ!」
 その時、知場が何かを指差した。
 夢魔の方から流れてきた黒い影のようなものが、平井に囁きかけたのに知場は気づいたのだ。
『この全宇宙全ての知識が欲しくはないか…』
 影にステッキを向けていた平井の顔に、一瞬、ためらいの色が走った。
 その隙を突いて、影は平井の身体に…あるいは心に…侵入してしまった。
 超巨大夢魔の姿が、光の中に崩れていく。
 その向こうに一瞬、少女の姿が見えた。
 その少女は、どこか亜梨沙に面影が似ていた。
 だが、その姿は夢魔と共に潰れ、消滅した。
 やがて、しばらくは呆然としていた平井だったが、我に返って夢から脱出して行った。紀田も、黒い矢のダメージから少し立ち直ったらしく、倒れた三人のバスターたちを抱えるようにして夢から脱出していく。
 やがて夢空間がすこしずつ狭まり始めた。
 どんどん、どんどん、どんどん…。
 やがて、夢空間の中には四人の居場所がなくなり、そして…

第三章 飛鳥

 亜梨沙は目を覚ました。
 そこは見たこともない寝室のベッドの上だった。
 あたりを見回すと、さっき夢の中で見たのと同じ若い紀田、それに平井教授がいる。二人とも眠っているようだ。まだジャック・イン状態から戻ってないらしい。
 自分の姿を見る。
 見たこともないパジャマを着ている。
 もぞっ。
 何か、左腕、右胸の上、右腿にむずがゆいものを感じた亜梨沙は、まず腕を見た。
「…げ!」
「ハアーイ、亜梨沙」
 そこにいたのは…いや、あったのは、アンディの顔をした人面疽。
 慌てて他の二ヵ所を見る。
 右胸のあたりを少しはだけて、おそるおそる覗き込むと、鎖骨の下あたりに石見の人面疽。そして、パジャマのズボンをまくりあげてみると、右腿には知場の人面疽がある。
「なによなによ、一体なんなのよこれはぁっ!」
 亜梨沙はパニックに陥りかけた。
「それはこっちが聞きたいよ」
 石見がぼやく。
 その時、平井が身動きした。
 慌てて亜梨沙は、はだけた胸をかきあわせ、まくりあげたズボンのすそを降ろして脚を蒲団に突っ込んだ。
 しばらくすると、平井が紀田を助け起こして介抱しはじめた。
『敵であるはずの平井が、紀田先生を介抱している光景というのは、何かヘンな感じだな。でも、さっき夢の中で見た黒い影は、確かに平井の中に入り込んでいったわ。あいつはまだ、力を発揮し始めていないのかな…』
 そこに、見慣れない顔の中年女性が入ってきた。
 女性は、亜梨沙に向かって心配気に話しかけてくる。その声には聞き覚えがあった。
『そうだ。池に入る前、確か電話で…』
「飛鳥ちゃん、大丈夫?」
『!』
 なんと、亜梨沙は十年前の駿河飛鳥になっていたのだ!
 亜梨沙は夢の中で見た光景を思い返した。
 あの時、夢魔と共に巨大チョークの下敷きになって潰れ消滅してしまった、どこか亜梨沙に面影の似た少女の姿…
 あれが飛鳥だったとしたら、あの時、飛鳥の魂は死んでしまったに違いない。そして、どこでどう混線したのか、亜梨沙の心が代わりに飛鳥の肉体に入ってしまった…それも人面疽のオマケつきで…
 複雑な想いで、しかし亜梨沙は答えた。
「お母さん…」
 途端に母親の表情がパッと明るくなった。
「ああ、飛鳥ちゃん! 治ったのね? よかった! ホントによかったわ!」
 亜梨沙の、いや飛鳥の身体を抱きしめる母親。
 だが、亜梨沙は気が気ではなかった。さっき夢の中で、夢魔の呪いを受けた紀田の様子が、心配でしょうがない。
 やがて意識を回復した紀田は、しかし、軽い錯乱状態にあった。
「彼はちょっと疲れているんです。申し訳ないが、隣の部屋でしばらく休ませてやってもらえませんか?」
 平井が紀田を隣の部屋へ連れて行った。しばらくドタバタともみあうような気配がしていたが、やがて少し落ち着いたようだ。
「お母さん、悪いけど疲れてるの。しばらく一人にしてくれる?」
 亜梨沙は、母親を部屋から追い出した。母親が立ち去るのを見計らって、亜梨沙は三人に泣きそうな声で呼びかける。
「石見さん知場さんアンディ、出てきて下さいよおー!」
 人面疽がモゾモゾと亜梨沙の右腕に集まってきた。身体の上を這い回ることはできるらしい。もちろん、身体の表面を人面疽に這い回られるというのは、亜梨沙にとってあまり気持ちのよい感覚ではなかったが。
「どーしよう? あたし、自信ないよ、飛鳥さんの身代わりなんて…」
「自信がないったって、やるしかないだろう。亜梨沙ちゃん、動けるかい?」
 石見に言われて、亜梨沙は立ち上がろうとしてみた。
 まるで身体に力が入らない。
 飛鳥という少女は、よほど長いことベッドの上にいたのだろう。腕も脚も、筋力が落ちるところまで落ちているのだ。
「ダメか…じゃあなおのこと、このまま様子を見るしかないな。…いけね! それより、俺たちが持ってきたモノは?」
 慌てて亜梨沙はあたりを見回した。あまりの出来事にすっかり忘れていたが、紀田先生に頼まれた四つの品は、ちゃんとあるだろうか?
 あった。枕元に、なぜか四つとも袋に入っている。人面疽たちを安心させようと、亜梨沙は四つの品を取り出して見せた。
「よかった…その四つがあれば、何とかなる」
 石見はホッとしたようにつぶやく。
 だが、袋に入っていたのはそれだけではなかったのだった。
 亜梨沙がなおも袋の中をみつめているのに気がついて、怪訝そうに石見は尋ねた。
「どうした、亜梨沙ちゃん? まだ何か入ってるの?」
 亜梨沙は一瞬迷いの色を見せたが、やがて決心したようにそれを取り出した。
「…手紙? 紀田先生からの?」
 亜梨沙は無言で頷き、便箋を開いた。
「あの時は言わなかったんだけど、実は…あたしのだけ、書いてある中身がみんなのとは少し違ってるの」
「違うって、どんな風に?」
 黙って亜梨沙は、手紙の最後のページを見せた。
 そこには、亜梨沙だけに宛てた、追伸が添えられていたのだった。

『PS 亜梨沙、学生でもない君に危険な仕事を押し付けてしまったのはただ一つの心残りだ。普通なら断わる所をつい許してしまったのは、きみの面影がある女性を思い出させたからだ。あの時、飛鳥がいたおかげで、私は不眠に耐えられず死に逃避することを思いとどまる勇気を得た。今度もまた君の笑顔を見て死に飛び込む勇気を持てたのかもしれない。』

「I see…ソレデ亜梨沙、紀田先生ノ昔ノ事、アンナイッショケンメイ調ベタデスネ」
 アンディは納得したようにつぶやいた。
「…気になって仕方がなかったの。飛鳥って女性が、先生にとってどんな女性だったのか…だって、あたし…」
 亜梨沙の言葉を遮るように、石見は言った。
「ともかく、問題はこれからだ。十年後の世界では今頃…というのも変だけど、紀田先生は戦っているはずだし、俺たちはそれを助けに行かなきゃならない。今は一ヵ月後を待つしかないな」

        ☆       ☆       ☆

 飛鳥の肉体を借りた亜梨沙と人面疽たちの、奇妙な共同生活が始まった。
 食事などはいいとしても、衰えきった飛鳥の身体は風呂にも一人で入れる状態ではない。仕方なく母親に身体を拭いてもらう時など、人面疽たちは体中を逃げ回らなくてはならないのだから、それだけでも一苦労である。
 だがそんな毎日を送っていても、亜梨沙の気にかかるのは、やはり紀田のことばかりだった。
 あれ以来、紀田は断続的に錯乱を繰り返し、外に出られる状態ではないと平井が言うので、やむをえずそのまま飛鳥の隣の部屋で休んでいるのだが、やはり全く眠れない状態が続いているらしかった。そんな紀田を救うことはおろか、苦痛を和らげてあげることすらできない自分が、亜梨沙は腹立たしくさえあった。
 紀田の状態が回復した様子もないまま、三日ほど経った晩のこと。
 亜梨沙がそろそろ眠ろうかと思っている頃に、突然、紀田が飛鳥の部屋に入ってきたのだった。
 亜梨沙は思わず身を固くした。
 紀田の表情には、明らかな憔悴の色があった。そしてそれは、三日前よりもはるかにひどくなっていた。
 紀田は亜梨沙の…いや、飛鳥の顔を見ると、絞り出すように言った。
「飛鳥ちゃん…眠れないんだ…この苦しみから逃れるためなら…ぼくは…」
 紀田は、亜梨沙=飛鳥の枕元に置いてあった薬のビンを鷲づかみにすると、それを一気にあおろうとした。
 その薬は、飛鳥がひどく暴れた時に使われていた強力な鎮静剤で、スプーン一杯分飲んだだけで大抵の人間は眠り込んでしまう代物だった。もし、それを一度に全部飲んだりしたら…!
 亜梨沙は必死で紀田にしがみついた。
「やめて、やめてください!」
 紀田は、飛鳥の身体を気遣ったためか、それほど激しく抵抗しなかった。だが、悲しげに飛鳥=亜梨沙を見つめ、言った。
「死なせてくれ…頼む」
 亜梨沙は必死の思いで紀田に訴えた。
「お願い…死なないで下さい…死んだら…私が悲しいです。私の知ってる紀田さんは、そんなに弱い人じゃないはずです」
 それだけ言ったところで胸がつまり、亜梨沙は言葉が出なくなってしまった。
 背中に隠れていた人面疽石見が、亜梨沙の肩口に寄って囁く。
「しっかりして、亜梨沙ちゃん! いいか、俺がこれから言う通りに言うんだ…」
 亜梨沙は必死に涙をこらえ、石見が言う通りの言葉を絞り出した。
「…眠れない辛さがどれほどのものか…私には解りません。でも、あなたはそれに負けるような人じゃないはずです」
 それを聞くと、しかし、紀田はさらに悲しげな表情になった。
「ぼくもそう思っていた…自分は強いと…自惚れていた。夢魔たちを倒し、人々を救えるほどに強いと…だが、ぼくはその力を奪われてしまった。もう戦うことができない。もし万が一、君が再び夢魔に襲われても、ぼくには君を救う力はないんだ」
「じゃあ、じゃあ跡継ぎを育てればいいじゃないですか! あなたの持っている、夢魔に対する知識や戦いの技術を、他の人たちに教えて、夢魔と戦える人をもっともっと増やして…そうすれば、たとえあなた自身が戦えなくても…いいえ、それだって立派な戦いじゃないですか!」
 それは既に、石見の言葉でありながら石見の言葉ではなかったかもしれない。亜梨沙の、そして三人の、共通の想い…あまりにも悲痛な、魂の叫びそのものであったのだろう。
 その想いが通じたのか。
 紀田の表情が少し和らいだ。
「…そうか…そういう戦い方もあるのか…」
 紀田はうつろな目で、しばらく考えていた。
 しかしやがて、その目がほんの少し光を取り戻した。
「判ったよ、飛鳥ちゃん。今日死ぬのはやめよう。それにひょっとすると、今夜は眠れるかもしれないしね」
 そう言って弱々しく微笑むと、紀田は隣の部屋に帰って行った。
 紀田の後ろ姿を見送りながら、ひとまず亜梨沙たちはホッと胸をなで降ろした。
『今日死ぬのは、か…ちょっとひっかかるけど、とりあえず、よしとするか』

        ☆       ☆       ☆

 翌日。
 平井教授が、ある薬を持って現われた。
「これは切断剤と言ってな、私の知り合いが開発した新薬なんだが、意識を一瞬だけ強制的に『切断』してしまう薬なんだ。ともかく試してみたまえ。根本的な解決にはならんかもしれんが、それでも少しは症状を改善することができるかもしれん」
 平井に勧められるままに、紀田は薬を飲んだ。
 瞬間、目を閉じた後の紀田の表情から、憔悴の色がやや薄らいだようだった。
 それ以後、飛鳥=亜梨沙の励ましに、薬の効果も加わってか、紀田の精神は徐々にではあるが回復に向かっていた。また、ずっと寝たきりで衰え切っていた飛鳥の身体も、徐々に回復の兆しを見せ始め、家からは出してもらえないまでも、食事や入浴など、身の回りの事は自分でできる程度になっていた。
 それと同時に、亜梨沙=飛鳥と紀田の仲は、急速に接近して行った。
 紀田は毎日…これは文章上の誇張ではなく、実際に毎日、飛鳥のもとを訪れ、いろんな話をしてくれた。なるほど雑学を専攻しているのは伊達ではないらしく、この時点で紀田の博学ぶりは相当なもので、話の内容は実に多彩だった。おかげで、部屋から出ることができずにいても、亜梨沙は全く退屈を感じずに済んだ。もっとも亜梨沙にしてみれば、紀田が何の話もしてくれなくても、ただそばにいてくれればいい、というのが本音だった。
 ただ、気掛りなのは一ヵ月後のことだった。
 その時、飛鳥=亜梨沙の身に何が起こるのか、今のところ全く判らないのだ。それが亜梨沙には不安でたまらなかった。
 それでも、亜梨沙にとって幸せな日々が幾日か続いた。そして二週間ほどが経ち、亜梨沙も飛鳥としての生活に慣れた頃。
 紀田が、いつものように飛鳥のもとを訪れた。ただし、大きな花束を抱えて…
「ホントは、何かもっと気のきいたプレゼントを持って来ようと思ったんだけど、思いつかなくって…月並みになっちゃったけど」
 本当に申し訳なさそうに言う紀田に向かって、亜梨沙=飛鳥は強く首を横に振った。
「そんなことないです! とってもきれい…ありがとう」
 亜梨沙=飛鳥がそう言って微笑むと、紀田もホッとしたような笑みを浮かべた。
「よかった…気に入ってもらえて」
 紀田の笑顔を見て、亜梨沙=飛鳥は思わずつぶやいた。
「よかった…」
「えっ? 何が?」
「紀田せ…紀田さんが、元気になってくれて」
 紀田は苦笑する。
「それはぼくのセリフだよ。飛鳥ちゃんの方こそ、元気になってくれて良かった」
 飛鳥、と呼ばれることに、亜梨沙は少しだけ抵抗を覚えた。
『ホントは、「亜梨沙」って呼んで欲しいけど…でも、仕方ないよね。『私』は亜梨沙じゃなくて『飛鳥』なんだから』
 そんな亜梨沙の心の動きには気づかず、紀田は続けた。
「…感謝してるんだ、飛鳥ちゃんには。君がいなかったら、多分ぼくは今、こうして生きてはいなかったろう」
「そんな…」
 亜梨沙=飛鳥の不安そうな顔を見て、紀田は慌てて付け加えた。
「もちろん、今は死ぬ気なんてさらさらないよ。光が見えたからね、君のおかげで」
「光?」
「希望の光さ。君の言った通りにしようと思うんだ。大学に残って、もっと勉強して…その上で、才能のある者たちを見つけ出し、彼らにぼくのバスターとしての技術と知識を教え、夢魔と戦える一人前のバスターに育て上げる。これからの残りの一生を、ぼくはそれに費やすつもりだ」
 熱心に語る紀田を、亜梨沙は泣きたいほどの嬉しさを噛みしめながら見つめた。
 ふと、紀田の言葉が途切れる。
 見つめていた亜梨沙=飛鳥の視線と、紀田の視線がぶつかり合う。
 沈黙。
 亜梨沙=飛鳥の心臓の鼓動が、激しさを増す。
 鼓動の音が、紀田に聞こえているのではないかと、亜梨沙は気になった。少なくとも、背中に隠れている人面疽たちには、この胸の高鳴りに気づかれているのではないだろうか。
 紀田の両手が、飛鳥=亜梨沙の肩におずおずと伸びてくる。
 その手が肩に触れた時、思わず亜梨沙=飛鳥はピクリと震えた。一瞬、紀田はためらったようだった。だが、飛鳥=亜梨沙が身を固くしたままで、しかしそれ以上抵抗を示さないのを見定めると、肩に置いた手にゆっくりと力を込め、静かに飛鳥=亜梨沙の身体を引き寄せた。
 既に亜梨沙は、自分の意志では動けなくなっていた。ただ、まぶたを閉じる。
 それでも、紀田の息づかいが接近してくる気配は感じられて、亜梨沙はさらに身を固くした。
 喉がからからに干上がっていた。
 身体の震えがどうしても止まらないのが、ひどく恥かしい気がした。
 二人の息づかいが、途切れる。
 永遠にも似た一瞬間、時は止まった。
 再び流れ出すのを、時は少しためらった。
 二つの小さなため息が洩れて初めて、時はその務めを思い出したようだった。
 沈黙。
「…ごめん」
 先に沈黙を破ったのは、紀田の方だった。
「…どうして、謝るんですか?」
「…あ、いや…」
 三度目の沈黙は、少し長かった。
「紀田さん」
「あ、いや、ごめん」
 そう言うと、紀田はそのまま逃げるように帰って行ってしまった。
 途端に、隠れていた人面疽たちが肩口にわらわらと出て来る。
「一体何が起こったんだ? 急に二人とも黙っちまって」
 知場が不思議そうに尋ねる。どうやら気づかれずに済んだらしい。
『ニブな連中でよかった…』
 亜梨沙はとぼけることにした。
「ううん、なんでもないの」
「先生ノ様子モ、何カ変デシタネ」
「ホントになんでもないんだったら。ほれ、ひっこんだひっこんだ!」
 亜梨沙は人面疽たちを背中に追い返した。知場とアンディはまだ何かブツブツ言っていたが、それでも引き下がった。だが、石見は他の二人…もとい、二人面疽がひっこむのを待って、亜梨沙に囁いた。
「よかったね、亜梨沙ちゃん。幸せかい?」
 亜梨沙は戸惑った。
「えっ? な、なんのこと?」
「いや、別に」
 人面疽石見はにっこり笑うと、それ以上は何も言わずに引っ込んで行った。
『やな性格! 気づいてるんならハッキリ言えよな。だからイヤミ信介なんて呼ばれるんだぞ』
 亜梨沙は心の中で毒づきながらも、赤面する自分を抑えきれなかった。

        ☆       ☆       ☆

 しかし、それから数日、なぜか紀田は飛鳥=亜梨沙のもとに姿を現わさなかった。
 一日たち、二日たち、三日目も、とうとう紀田はやって来なかった。
 亜梨沙の心は、不安に潰れそうになっていた。
 そして、四日目。
 亜梨沙がふと窓から表を見ていると、玄関の前に立っている紀田の姿が目に入った。しかしなぜか、紀田はすぐに入って来ようとする様子がなく、何かためらっているようだった。
 亜梨沙は声をかけた。
「紀田さん!」
 ハッと見上げた紀田は、一瞬戸惑った様子だったが、やがて意を決したように駿河家の玄関をくぐった。
 入ってきた紀田を、部屋のドアのところで出迎えるのももどかしく、亜梨沙はすぐに聞いた。
「紀田さん、ケガとかなさったんじゃ?」
「え? あ、いや、別にそういうわけじゃ…」
 紀田は口ごもる。
「それじゃ、なぜ…?」
 亜梨沙は、わざと不満そうな口調でさらに聞いた。すると、紀田は慌てて言った。
「その…実は、君に嫌われたんじゃないかと思って…」
 亜梨沙は、あっけにとられた。
「どうして? そんなこと、あるわけないじゃないですか」
「ホントに?」
 まだ不安気な様子で、紀田は聞き返す。亜梨沙はきっぱりと答えた。
「ホントです」
「ホントにホント?」
「ホントにホントです」
「ホントにホントにホント?」
「ホントにホントにホントです」
「ホントにホントに…」
 えいくそ、バカらしくなってきたぞ。
 恋人どうしの会話というのは、ま、こんなもんなのかもしれない。

        ☆       ☆       ☆

 その日以来、紀田は再び毎日やって来るようになった。その結果、飛鳥の部屋から花が絶えるということが、なくなった。
 そして再び、三日が過ぎた。
「亜梨沙ちゃん、どう? まだ外には出られそうにないか?」
 石見たちを腕に呼び出して、亜梨沙は話をしていた。
「ううん、ダメっぽい。平らな所なら何とか歩けるけど、ちょっと階段を登り降りしただけで、もうクタクタ」
「そうか…まだ無理か…」
 石見は落胆したように言った。
「ええい、イライラする! 今のうちにとっとと平井の所に乗り込んで、ヤツをぶっ殺しちまえば、問題は一気に解決するんだ! それがこの状態では…」
「何言ウネ、知場! ソンナ事シタラ、たいむ・ぱらどっくすガ起キテ、歴史ガ変ワッテシマウヨ」
「んなもん、オレの知ったことか! 大体、オレは前から気に喰わなかったんだが、お前は何でそういちいち理屈っぽいんだ! もっと単純に、平井みたいな悪党を放っておけんとか、そういう風には考えられんのか!?」
「ダカラ、ソレガたいむ・ぱらどっくす…」
「あーっ、うるさいっ! お前ら、飛鳥さんの家族に聞かれたらどーすんだ!!」
「バカヤロー、てめーの声が一番でかいわ!!」
「んもー、いーかげんにしてよ! ケンカするんならね、少なくともあたしの腕の上じゃないとこでやってちょーだい!」
 このまま、部屋の中で何もせず、一ヵ月後を待つことは、亜梨沙にとっても三人にとっても、あまりに辛すぎた。しかし、亜梨沙=飛鳥の身体がそれに耐えられない以上、今はどうすることもできない。それは解っていても、焦りはつのるばかりだった。
 急に、部屋の扉が開いた。
 石見たちのケンカのせいで、近づいてくる足音に気づかなかったのだ。
 母親の顔が、扉から覗く。
 隠れろ、と言う暇もありはしない。とっさに、背中と背もたれの間に左腕を隠す。
 その不自然な動きにも、《偶然》、気づかれずにすんだ。
「亜梨沙ちゃん、お友達よ」
 母親の後ろから、セーラー服姿の少女が入って来た。
「飛鳥様、お久しゅうございます。お元気でございましたか?」
 それはあまりにも唐突な、《偶然》の見舞い客だった。
 相手は、亜梨沙にとっては初対面だ。しかし、亜梨沙もこれまでの三週間、何の用意もせずにいた訳ではない。ばれないようにするために、飛鳥の家族の写真や学校のアルバム類は、全てチェックしてある。
 彼女は確か、飛鳥が通っていた高校のクラスメートで、上野富士美。
「ああ、富士美様。わざわざこのような所に、ようこそおいで下されました」
 と、富士美は、急にケラケラと笑い出した。
「ああ、やっぱりあんた変わってないね、アッシー。安心した。お嬢様ごっこは疲れるから、やめるよ」
 その後は、お定まりの長話に突入した。
 ボロが出そうなところは病気を理由に忘れたことにしてごまかし…というよりも、実際のところその必要はまるでなかった。しゃべるのは、ほとんど一方的に富士美だったからだ。
 途中、母親が入って来て、
「ちょっと買い物に行って来ますね」
 と言ったために少し途切れた以外は、富士美はまさにマシンガンのごとくしゃべり続けた。
 内容は、学校の友達関係の、実にたわいもないうわさ話。だれそれに彼氏ができたとか、だれそれが失恋したとか…一年振りにしゃべるとなると、富士美の口もすべりまくるようだった。
「そいじゃ、またね。早く直って、学校で会おうね」
 そう言って富士美が部屋を出て行くまで、延々二時間。どうやら、何とかボロを出さずに済んだようだった。
 ホッと小さくため息をついて、亜梨沙は背中に隠していた左手を出してみた。
 腕がジンジンとして、思うように動かない。しびれているのだ。
 いや、それよりも問題は、その腕の上の三人面疽が揃って気絶していることだった。
 右手でゆっくりとマッサージするうちに、腕のしびれはどうにか回復して来たが、人面疽たちの方は目覚める気配がまるでない。
 しかし亜梨沙は、この状況を幸いとばかりに、今までやりたくてもやれなかったある事を、思いっきりやってやろうと思い立った。
 何のことはない。鏡を見たかったのである。
 前に、学校のトイレで、鏡の中に映った友達の顔を見たことがある。
 その時、その友達の顔が、自分が普段見ているのとはまるで違うことに気がついて、亜梨沙はひどくびっくりした。
『友達が知ってるあたしの顔も、あたし自身が知ってるあたしの顔とは、あんな風にまるで違うんだろうか』
 だとしたら、鏡の中の自分の顔だけは、他人に見られたくない。自分が、自分自身のことをどう見ているか、どう想っているか、見透かされそうな気がするからだ。
 特に、男の人には見られたくない。
 人面疽となり果てているとは言え、石見たちもやはり他人であり、男だ。だから、これまではどうしてもできなかったのだ。
 ベッドから降り、鏡台の前にゆっくりと進む。
 やはり、脚はまだ思い通りに動いてくれない。その上、今回は左腕も効かないのでかなり苦労したが、それでも何とかやり遂げた。
 三面鏡を開き、鏡を見る。
 その時、亜梨沙は改めて気づいた。
「そっか…『私』は『亜梨沙』じゃなかったんだ」
 鏡に映ったその顔は、なるほど亜梨沙自身と面影が多少は似ているものの、やはり赤の他人…飛鳥の顔だった。今の自分の肉体が飛鳥のものであることを、亜梨沙は知識としては知っていたが、それを実感してはいなかったのだ。しかし、鏡の中に飛鳥の姿を見た今、それがはっきりとした実感となって亜梨沙の中に湧いた。
 他人が見られたくないと思っているものを見てしまったようで、少し、後ろめたい気がした。
 しかし、同時に興味も湧いた。
 亜梨沙と飛鳥を、とことん比べてみたくなったのだ。
「…飛鳥さん、ごめん」
 飛鳥に一言謝ると、亜梨沙はパジャマを脱いで、ブラジャーとパンティーだけになり、改めて鏡の前に立った。全部脱ぐのは、さすがに遠慮した。
 こうして見ると、飛鳥もかなり美しい娘だった。長い闘病で痩せ細ってはいるものの、回復期にあって内側から活力が満ちあふれているせいか、かえって理想的なプロポーションに見える。
「でも、亜梨沙の体の方がきれいだもんね」
 つぶやいた途端、飛鳥に対して嫉妬している自分に気がつき、ちょっと自己嫌悪を感じる。
 亜梨沙は、再び飛鳥にわびた。
「ごめんね、飛鳥さん。でも、解るでしょ? だって、紀田先生が…ううん、『今』の紀田クンが見つめてるのって、どこまで行っても『あたし』じゃないんだもん」
 そう口にした瞬間。
 亜梨沙は愕然となった。
 今まで、気づいていなかったのだ。
「紀田先生が見つめてるのは、『あたし』じゃ、ない…?」
 急に、強烈な不安に襲われ、亜梨沙は震えた。
『答えて、紀田先生。あなたが愛してくれているのは、『あたし』? それとも…』
 聞きたい。紀田の口から、その答えを。
 だが、それはできない。『今』の紀田に、真実を告げるわけにはいかない。
 代わりに亜梨沙は、鏡の中の『自分』=飛鳥に聞いた。
「飛鳥さん…答えて。あなたは、紀田先生を愛してる?」
 口をつぐみ、鏡の中の飛鳥を見つめる。
 飛鳥は、答えない。ただ、黙って亜梨沙を見つめ返すばかりである。
 にらめっこに耐えきれなくなって、亜梨沙は目を伏せた。
 視線が、ふと、左手に行く。
 人面疽たちが並んで眠っている。目も口も閉じていると、パッと見た目には皮膚の皺のようにしか見えないが、やはり、十代の少女の肌にしては、美しさを大きく損ねる因になっていた。
 何となく、飛鳥に申し訳ない気がする。
「…消えるかな?」
 鏡台からファンデーションを取り出し、上に塗りつける。
 化粧が嫌いな亜梨沙としては、人工の香料の匂いがやたら気になったが、それでも構わず塗りたくった。
 肌色の粉末は、人面疽たちの目や、口や、鼻の線を覆い、遠目には、地肌と区別のつかない色になった。じっと見つめられたり、触られたりしたらすぐにばれるだろうが、今、こうして鏡の中に飛鳥の身体を見る分には、十分なカモフラージュになっている。
 その時。
 ドアが、音もなく開いた。富士美が、《偶然》、しっかり閉めて行かなかったのだ。
 鏡の中に、大きな花束を抱えた紀田の姿が映る。
 亜梨沙は振り向き、急いでベッドに戻ろうとした。
 たった二歩の距離。
 なのに、あせって脚がもつれる。
 体が傾く。
 左手で支えようとしたが、さっきのしびれのせいもあって、力が入らない。
 亜梨沙=飛鳥の体は、一回転して後ろからベッドに倒れ込んだ。
「危ない」
 紀田が叫んで、飛んでくる。
 近い方の左手をのばし、亜梨沙=飛鳥の右手を掴む。
 引っ張られ、二人ともベッドに倒れ込む。
 止めようと、紀田は両手を伸ばす。
 伸ばした右手から花束が飛び、先にベッドの上に散る。
 静止。
 紀田の左手は、亜梨沙=飛鳥の右手を掴み、ベッドの上で突っ張っている。
 紀田の右手は、亜梨沙=飛鳥の体の左横のベッドにつき、体重を支えている。
 一方、飛鳥=亜梨沙はというと、さっきのままの状態。つまり、ブラジャーとパンティーしか身に着けていない。
 紀田の目は、《偶然》か、それとも必然かしれないが、亜梨沙=飛鳥の瞳しか見ていない。飛鳥=亜梨沙は、思わず紀田の目を見つめ返していた。
 だがその時、亜梨沙はハッと気づいた。
 紀田の目の中に映っている自分の姿は、亜梨沙のそれではない。
 鏡の中と同じように、紀田の目の中に映っていたのは、飛鳥の姿なのだ。
 亜梨沙は叫び出したい衝動に駆られた。
『やめて、先生! 『私(飛鳥)』を見ないで。あたしが見て欲しいのは、『あたし(亜梨沙)』なのに…』
 亜梨沙は、またも耐え切れなくなって目をそらした。
 行き場を失った視線は、自然に足下の方へ行く。
 亜梨沙自身、全く意図していなかったことだったのだが、その視線は、紀田のある部分に行ってしまったのだった。そしてそれを見た途端、亜梨沙は紀田が『男』であることを急に実感し、あせって再びそこから視線をそらした。
 亜梨沙=飛鳥の目の動きに気づいて、紀田も慌てた。
「あっ、ご、ごめん! そんなつもりじゃ…」
 慌てて紀田は身体を離し、背を向けた。
 その慌て方が、イメージしていた紀田とあまりにも掛け離れていて、妙にこっけいな感じを覚え、亜梨沙は思わずクスッと笑った。
 笑ったことで逆に、少し心にゆとりができた。
 亜梨沙は、紀田の後ろ姿を見た。紀田の体はコチコチに緊張し、耳まで真っ赤に染まっている。
「ごめん…ちょっと、間が悪かったね。今日は出直すよ。明日、また来る」
 そう言って紀田は、部屋を立ち去ろうとした。
「待って」
 亜梨沙はベッドの上に身を起こして、紀田を呼び止めた。
 紀田は思わず振り返りそうになり、また慌てて背を向ける。
 少し間を置いて、ベッドに腰掛けたまま、亜梨沙は言った。
「…ひとつだけ、聞いていいですか?」
「…何?」
 ちょっと恥ずかしかったが、亜梨沙はその質問を思い切ってぶつけた。
「紀田さん…あたしが欲しいの?」
 紀田の背中が硬直する。
「ど…どうして、そんなことを…」
「答えて!」
 亜梨沙=飛鳥の詰問口調に、紀田はいっそう硬直した。
「…それは…欲しいさ」
 亜梨沙は大きく息を吸い込み、はあ、とため息のように吐き出した。
 予想できた答えだった。それは、そうだろう。あんな風になっておいて、弁解の余地はない。
「そう…それじゃ、もうひとつ。紀田さんが欲しいのは、『私』の体?」
 答えが返って来るまでの時間は、実際にはほんの十数秒のはずだった。しかし、そのわずかな時間が、亜梨沙には永遠のように感じられた。
 紀田は、ゆっくりと答えた。その口調は、いつにもまして真剣だった。
「君の体が…欲しくないと言えば嘘になる。だって、ぼくは君を愛してるから…」
 亜梨沙は心臓が潰れそうだった。
 しかし、次の紀田の言葉を聞いた瞬間、今度は心臓が爆発しそうになった。
「でも、ぼくが愛してるのは決して君の体だけじゃない。君の…心。いや、君の全てなんだ!」
 涙がこぼれそうになった。
 亜梨沙は必死で耐えた。
『泣くな、亜梨沙。うれしいんじゃないか。泣いてどうする!』
「…それだけ、聞きたかったんです」
 亜梨沙は、立ち上がった。
『少なくとも、この人は『あたし』の心を愛してくれている。それで十分』
 ブラジャーのホックを外す。
『この人に、あたしの全てを』
 パンテイーを脱ぐ。
『あげたい』
 紀田の背中に身を寄せ、そっと裸の胸を押し当てる。
「抱いて下さい」
 紀田の背中が、ぐっと緊張した。
 ゆっくりと、振り返る。
 ためらいがちに、紀田は小さな声で言った。
「…いいの?」
 答えの代わりに、亜梨沙は目を閉じた。
 不意に、素肌の背中に紀田の暖かい腕が回された。そのままぐいと引き寄せられ、強く抱きしめられる。
 KISS。
 まだキスは二度目だ。なんとなく紀田もぎこちない。それでも、一度目よりは余裕があって、その分少しだけ思いを込めることができるような気がする。
 急に、足が宙に浮いた。紀田の腕に抱え上げられたのだ。自然と、紀田の首に腕を回して、バランスを取る。
 ちょっと不安になって、目を開く。紀田の顔が、間近に見える。
『そう言えば、こんな近くで紀田先生の顔見るの、初めてだ』
 何となく嬉しいような照れくさいような気がして、再び目を閉じ、紀田の肩に顔を埋めた。
 ベッドにそっと横たえられる。
 衣擦れの音が聞こえて来ると、やはり身体が固くなる。
『往生際が悪いぞ! カクゴ決めたんだろ?』
 自分を叱りつける。
 ベッドが少しきしんだ。
「…はじめて?」
 紀田が問う。亜梨沙は目を開けた。
「どうして? どうしてそんな事、気にするの? そうじゃなかったら、いや?」
「あっ、いや、そうじゃなくて、その」
 紀田が慌てる分だけ、亜梨沙は落ち着けるような気がする。
 ちょっとからかってみたくなった。
「…もしかして、紀田さん…?」
「な、なんで、そんな。いやぼくは別にその」
『ミョーにムキになっちゃって。かーわいい!』
「顔に書いてある」
「へっ?」
 間の抜けた顔。思わず亜梨沙は吹き出した。
「ウソよ、ウソ。そうじゃないかなって、思っただけなの。あたしはいいよ、どっちでも。紀田さん、素敵だもん」
 紀田はちょっとふくれっ面をして、それから真顔になった。
「あのだね、何だか、人に触れると、その人を傷つけちゃうんじゃないかと思ったら、怖くて」
「じゃあ、あたしは?」
「あ、いやそれはその…」
 紀田は口ごもる。
 亜梨沙は大きく息を継ぎ、一息でしゃべった。
「あのですね、女の子のセリフ、信じていただけるかどうかわかりませんけど、あたし、きれいです。紀田さんだけを待っていました」
 そこまで言って、はたと考え込む。
『待てよ…? おい飛鳥さん、ホントにそうだろうね?…ま、いっか。あっ!』
「痛い! 力、入れすぎ!」
 想いを込めて抱きしめようとしたのだろうが、紀田は力を込めすぎてしまったのだ。亜梨沙が悲鳴を上げると、紀田は慌てて腕を離した。
「あっ、ごめん!」
 そう言ったきり、今度は手を出しかねている。
『意外に不器用なんだから。んもう、しょうがないったら』
 亜梨沙は、再び自分から紀田の首に手を回し、耳元で囁いた。
「…いいよ」
「えっ、何? よく聞こえなかった」
『んもう、バカ! こっちだってドキドキしてんだからね』
 少し声を大きくする。
「い・い・よ、って言ったの!」
 紀田は、ゴクリと生つばを飲み込んだ。
「あの…ホントに…いいの?」
「学者先生、口数が多すぎるよ!」
 亜梨沙は紀田の唇をふさいだ。
「………………………………………………」
「………………………………………………」
「………………………………………………」
「………………………………………………」

        ☆       ☆       ☆

「…男の人は、徹夜するとこうなるって聞いたけど、だったら、紀田さんならその何倍ものはずですよね」
 ギクッとしたように、紀田は枕から頭を上げた。
「ど! どこから聞いたの? そんな事」
「友達から。…紀田さん、女の子に幻想を持ち過ぎですってば。知らないでいるだけのために知ろうとしないって、悲しいでしょ。マンガの中の、厚さのない男の子にだけ恋してる友達もいるけれど、あたしは違います。紀田さんの重さとか匂いとか胸の厚さとかを、こうやって感じられる事がうれしいんです」
 紀田の瞳が、優しい光を帯びた。
「飛鳥ちゃん…」
 そう言って、紀田が唇を寄せて来る。
 亜梨沙はもう、『飛鳥』と呼ばれる事に抵抗を感じなかった。ぎこちなさを感じる事もなく、ごく自然に唇が重ねられる。
『…だって、『今』の紀田クンにとっては、あたしが『飛鳥』なんだもんね。でも…でも、あたしは…ごめんね、紀田クン。やっぱり、あたしが愛してるのは…』
 唇が離れる。
「…紀田せんせい。」
「えっ…いや、ぼくはまだ…」
「でも、将来なるんでしょ?…あたし、こう呼びたいの。紀田せんせい。」
 紀田は何も答えず、照れくさそうに苦笑しただけだった。だが、それでも亜梨沙が見つめ続けていると、やがて再び口を開いた。
「実はそのことで、君に…」
 言いかけて、紀田は口ごもった。
「………?」
 首を傾げたまま、それでも亜梨沙が黙ったままでいると、紀田は大きく深呼吸をして、一息に言った。
「一緒に、手伝ってくれないかな? ずっと」
 瞬間、亜梨沙の頭の中は混乱した。
 いや、それは自分に対する嘘だった。紀田の言っている言葉の意味を、亜梨沙は間違いなく即座に理解していた。ただ、気持ちを落ち着かせるゆとりが欲しかっただけなのだ。
 亜梨沙は悩んだ。恐らく、わずか数秒の間に、これまでの人生(高々十八年と少しとはいえ)の中でこれほど悩んだことはない、というくらい、悩み抜いた。
 だが、不安そうに自分を見つめる紀田の顔を見た瞬間、答えは意識とは無関係に、口を突いて出てしまっていた。
「…はい」
 それを聞いた途端、紀田の表情はパッと明るくなった。
「よかったあ! 正直言って、断られたらどうしようって、すごく不安だったんだ」
 まるで子供のように喜ぶ紀田の姿を見ると、亜梨沙はなおさら真実を告げられなくなってしまうのだった。
 と、階下で扉の開く音がした。それに続いてパタパタと足音がする。
「ただいまー」
 母親の声。
 亜梨沙はバネが弾けるように飛び起きた。
「たいへん、お母さんが帰ってきた! 先生、急いでシーツ外して! こっちの新しいのと取り替えて!」
「シーツ?…あれ、本当に?」
「はやく! そんなに見ないで!」
「あ、ああ…」
「そっちの篭にとりあえず入れといて!」

        ☆       ☆       ☆

「明日も、来て下さいね」
 飛鳥が、何食わぬ笑顔で紀田に言う。
「あ、ああ、うん」
 紀田は、ちょっと戸惑いながら頷く。
 というのが、母親が部屋に入って来た瞬間のシチュエーションだった。もちろん、飛鳥はちゃんとパジャマを、紀田は来た時の服を着ている。
「あら、もうお帰りですの? せっかくですから、御一緒にお食事でも召し上がっていかれたらおよろしいのに」
 母親がそう言っているのは、あながち儀礼的な挨拶としてだけではなさそうだった。
「いえ、そんなに甘えるわけには参りませんから。ただでさえ、その節は御迷惑をおかけしましたし…」
 紀田は、錯乱していた頃のことを言っているのだろう。だが、母親は笑顔で首を振った。
「迷惑だなんて、とんでもない。飛鳥を助けていただいたんですもの、迷惑だなんて思ったら、罰があたりますわ」
「はあ、ですが、アルバイトとかもありますから…」
 母親は本当に残念そうな声を上げた。
「あら、そうですの? それじゃあ、無理にお引き止めしてもいけませんわね。でも、遠慮はなさらないでね。いずれお時間のある時に、もっとゆっくりいらっしゃい」
「はあ、ありがとうございます。それじゃ、失礼します。飛鳥さん、また」
「さよなら」
 紀田が辞去すると、母親は飛鳥の顔を見た。
「今日は紀田さんと、何をお話ししたの?」
「別に。いつもみたいに、いろんなこと」
 母親は、ちょっと意外そうな顔になった。だが、妙に楽しげな笑顔を浮かべて、さらに聞く。
「いろんなことって、どんなこと?」
「えっ? そ…それは…」
 亜梨沙は思わず口ごもる。
「いつもだったら、音楽の話だったとか、スポーツの話だったとか、本の話だったとか、聞かなくてもちゃんと話してくれるのに、今日は聞いても教えてくれないの?」
 亜梨沙=飛鳥は思わず赤面した。
「んもう、どうだっていいじゃない! あたし、シャワー浴びるから、お母さんは出ててよ!」
 亜梨沙=飛鳥は、母親を部屋の外に押し出そうとした。
「はいはい、わかりましたよ」
 クスクス笑いながら、母親は部屋を出て行った。
 亜梨沙は、ふう、と大きなため息をついて、再びパジャマを脱いだ。その下にはブラジャーもパンティーも着けていない。素肌に袖を通しただけだったのだ。
 そのまま、部屋の中に作り付けのユニットバスに駆け込むように入る。温度を熱めにセットしてシャワーから湯を出し、左腕にかけると、さすがに、人面疽たちも目を覚ました。
「な、何だ、どうした?」
「敵襲っ!…って、んなわきゃねえな」
「夢モ見ズニ、眠ッテマシタネ」
「ボケねー。石見さんたち、緊張が足りないのよ、緊張が。左腕を隠しててしびれたら、そのまま寝ちゃうんだもん。いい気なもんよね。あたしに何かあったらどうするつもり?」
「どっちにしろこの身体じゃ、大して役にも立たんがな」
 知場がぶすっとした声で言う。
「何か、あったのかい?」
 やや心配気な声で、石見が尋ねる。
「ううん、富士美さんが帰ってから先生が来ただけ」
「彼、何カ言ッテマシタカ?」
「あーっ、いつまで腕にいるのよ!? 肩に行け、肩に! 見たらひどいからね」
「了解」
 ずるずる。ずるずる。ズルズル。
「…亜梨沙、your body、何ダカイツモヨリ熱クナイデスカ?」
「シャワー浴びてんだから当然じゃないか?」
 亜梨沙は答えない。シャワーを浴びながら、鼻歌を歌っている。
「ズイブン楽シソウデスネ」
「月がとっても青いのよ」
 アンディはキョトンとした。
「What? 何デスカ、ソレ。日本ノ古典デスカ?」
「俺も聞いたことがない」
 石見も、ない首を傾げる。
「まーあまあ、みんな。亜梨沙のワケが解らんのは別に今に始まったっ…てててててっ! 解った、オレが悪かった、だから鼻をつまむな、鼻を!」
 知場が悲鳴を上げた。

        ☆       ☆       ☆

 遂に、一ヵ月が過ぎた。
 その日、飛鳥=亜梨沙は、やっと一人で部屋を出ることを許された。
『でも…何が起こるかは解らないけれど、今日でたぶん、あたしはここからいなくなる』
 亜梨沙は、紀田に宛てた手紙を書くことにした。

『紀田さんへ。私はたぶん、今日で消えるでしょう。でも悲しまないで下さい。私には…いいえ、私たちには、やらなくてはならない事があるのです。
 いつかきっと、あなたを慕って集まってくる人たちがいます。その人たちと共に戦って下さい。決して負けないで下さい。そして、決して死なないで下さい。
 十年後、それがどんな形なのか今は言えませんけれど、あなたの身近な所から巨大な悪意が爆発します。
 『逆衛星の法』に注意して下さい。
 あなたと、あなたの仲間の勝利を、信じています。
 さよならは言いません。
                飛鳥  』

 亜梨沙が手紙を書き終えた時、階下で母親の呼ぶ声が聞こえた。
「飛鳥、紀田さんからお電話よ」
 ここ二日ほど、紀田は飛鳥の家を訪れていなかった。学校が忙しくなったのか、あるいはアルバイトか…いずれにせよ、その紀田から電話だと言う。
「はーい、今行きまーす」
 亜梨沙=飛鳥は、トントントンと軽い足取りで階段を駆け降りた。一ヵ月前の不自由さが嘘のような身軽さだ。
「はい、お電話代わりました、飛鳥です」
『飛鳥ちゃん? 紀田です。お母さんに、もう一人で出歩けると聞いたけど、だったら今から海岸まで来てくれないかな? 待ってます』
 一方的にそれだけ言うと、電話は切れた。あまりのそっけなさに亜梨沙はちょっとむくれたが、やがてちょっと考えた。海岸と言えば、聞いた話だとここから歩いても二十分とかからないらしい。大丈夫、今の身体のコンディションなら歩いて行ける。
『でも…でも、どんな顔をして先生に逢えばいいの? あたしは、今日いなくなるかもしれないのに…』
 だが、だからと言って行かないわけにもいかない。もし断われば、紀田の気持ちを傷つけてしまうかもしれない。それは、亜梨沙が最も望まない事だった。
「ちょっと散歩に行ってきます」
 母親にはそれだけ言って、飛鳥=亜梨沙は家を出た。四人で悩んだ末、手紙は素直にポストに入れて行くことにした。
 海岸に出ると、べっとりと粘りつくような潮風が、飛鳥=亜梨沙の髪を苛めた。だが、亜梨沙はそんなことに構っていられるような心境ではなかった。紀田に会ったら、何て言えばいいんだろう…?
 やがて待ち合わせの場所に、紀田の姿が見えた。
 声をかけようとした瞬間。
 チクリ。
 肩にかすかな痛みが走る。
 だが、その途端に飛鳥=亜梨沙は動けなくなってしまった。
 そのまま、砂浜に倒れる。
 起き上がることはおろか、うつ伏せに倒れたまま背後を見ることもできない亜梨沙の耳に、声が聞こえた。
「やあ、お嬢さん。久し振りだね」
『平井教授!』
 口すら動かせず、声も出せない亜梨沙は、心の中で唇を噛む思いだった。
『罠だったんだ…! こいつが既に闇に飲まれていたのを忘れていた…』
 亜梨沙は己れのうかつさを悔んだが、後の祭りだった。そして、その思いは石見、知場、アンディの三人も同じだった。
「…私は人間の夢というものの正体を確かめてみたい。そのためには、夢魔に冒された人間の脳を調べるのが一番だ。お嬢さん、すまないが知識のために犠牲になってもらうよ」
 平井は勝ち誇ったように、なおも続ける。
「…ああ、それから君がさっき出した手紙、読ませてもらったよ」
「!」
「なかなか興味深い内容だったが、少しまずい点がいくつか見受けられるな。まあ、私としてはこのまま破り捨ててもいいんだが、それではあまりに君が可哀相だしねえ。順一には、一部を削って渡しておく事にしてあげるよ。安心したまえ」
 失敗だった。手紙は飛鳥が消えたことを、あたかも飛鳥が自分の意志でしたことのように見せ、平井の犯罪を隠す絶好の道具として使われてしまうだろう。
 飛鳥=亜梨沙の腕に、チクリと痛みが走った。平井が注射器の針を打ち込んだのだ。
 数秒と経たぬうちに亜梨沙の意識は混濁し、深い闇へと落ちて行った。

第四章 探索

 亜梨沙が、そして四人が意識を取り戻した時、そこは再び夢の中だった。
「…平井の野郎、頭蓋骨カチ割って、脳みそぐっちゃんぐっちゃんにしてくれる!」
 知場はよほど頭に来たらしく、猛烈にいきまいている。
 あたりの風景は…いや、風景と言えるようなものはほとんど何もなかった。ただ、荒涼たる砂漠が広がっているだけだ。
「おい、あれは何だ?」
 石見が指差した方角に、この砂漠唯一の風景があった。
 空に浮かんでいる裏返しの月。その月に向かって、まるでピラミッドのような形をした石の建造物がそびえ立っている。その頂部は、今にも月に届きそうな高さだ。
「誰カイマスヨ。ソレモ、カナリ大勢デス」
 よく見るとアンディの言う通り、そのピラミッドの上に動いている人影がある。どうやら石を積み重ねているようだ。みんなボロボロの服を着ていて、足取りも疲れ切ったようにゆっくりとしたものだ。だが、遠すぎて彼らの表情までは見えない。
「ここじゃラチがあかない。行ってみよう」
 四人がさらに少し近づいて見てみると、確かに人々は一様に疲れ切った表情をしていたが、しかしその顔色には、作業を嫌がっているという様子はあまり見受けられない。むしろ何かを目指して、あるいは何かを期待して、積極的にそのピラミッドを作っている様子なのだ。
「…おや、あれは確か…土田さん!」
 人々の中に、石見は知人の顔を見つけ、呼びかけた。
「知り合いか?」
 小声で聞いた知場に、石見も声を殺して答えた。
「ああ。確かあの人は、この間の『ラグナレク』事件で亡くなったはずなんだが」
「亡くなった? って事は、あの人たち皆さん幽霊さん?」
 亜梨沙がゾッとしたように聞く。やりきれないと言いたげな口調で石見は答えた。
「ひょっとすると、あの人たちみんなそうかもな」
 土田というその男は、最初は自分を呼んだ男が誰なのか解らないらしく、うつろな表情で石見を見つめていたが、やがてその瞳に、わずかに反応が見えた。
「やあ、君は石見君じゃないか…君もあのパニックでやられたのかい?」
「いえ、そうじゃないんですが…それより教えて下さい。なぜあなた方はこんな物を作ってるんです? 誰かに命令されたんですか?」
 土田は首を横に振った。
「いや、命令されたわけじゃない。だが、あの人が…」
 あの人、という言葉を聞きとがめて、石見が遮った。
「あの人って、どんな人です?」
「品のいい老紳士といった感じの人だ。学者の様にも見えたな」
 四人は無言で顔を見合わせ、目で頷き合った。平井に間違いない。
 その様子には気づかずに、土田は続けた。
「…ぼくたちがここに来てすぐに、あの人は現われた。そして、ここから抜け出す方法を教えてくれたんだ」
 そこまで言うと、土田の表情は今までにも増して暗くなった。
「…ここは地獄だよ。死んでも、またすぐに同じこの場所に生き返ってしまう。絶対に抜け出す事ができないんだ。話に聞いた通りの地獄そのものさ」
 だが、次の言葉を口にする時、土田の表情は意外なほど明るくなった。
「でもそれも、もうすぐ終わる。あのピラミッドが、月まで届いた時、ぼくたちはここを脱出できるんだ」
『うそだ!』
 叫び出したい気持ちを、四人は必死に抑えた。抑えた分だけ、怒りがふつふつと内側から湧き上がった。
 近くに寄って改めて見回すと、働いている人の中には年端もいかない子供までいる。大人たちに混じって、自分の頭ほどもあろうかというような大きな石を、必死になって運んでいるのだ。そんな少年の一人が、とうとう力尽きたように倒れた。
「…みず…おみずがほしい…」
 即座に知場は水の入った水筒を『製作』して、倒れた少年に与えた。少年はそれを飲むと、いくらか元気を取り戻して立ち上がった。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 子供は知場にピョコンと頭を下げて礼を言うと、また石を運び始めた。知場の顔から表情が完全に消えた。もともと無表情な知場は、怒りが頂点を超えてしまったために、表情ではそれを表わせなくなったのだ。
 石見が知場の肩を叩く。知場が振り返ると、石見の表情もまた、怒りに燃えていた。不動明王の忿怒の形相を思わせる、壮烈な怒りの表情である。
 土田から少し離れて、石見たちは小声で相談した。
「完全にだまされてるわ、この人たち」
「平井の野郎、あんな子供まで…絶対に許せねえ! このままほっとけねえよ。なんとかして、この人たちを助けようぜ」
「しかし、この人たちは平井を信じ切っている。ストレートに本当の事を言ったところで、はたして信用してもらえるかどうか…」
 しばらく四人は考えていたが、突然、亜梨沙が土田の方へ向かって言った。
「実はあたしたち、あなたたちがあったその先生の手伝いをしに来たんです。あたしたちと先生がやれば、あなたたちが辛い思いをしなくても、あなたたちを助けることができます。だから、もう働くのをやめていいんです」
 土田は、怪訝な顔をしたが、やがて問いかけるような眼差しで石見を見た。亜梨沙の考えに気づき、即座に石見も話を合わせる。
「彼女が言ってるのは本当です。ぼくたちが先生を探してくるまで、どうぞ休んでて下さい」
 直接の知り合いである石見のフォローも効を奏したのか、土田は亜梨沙の話を信じ込んだようだった。
「解った。それじゃ、その話を芦原さんにしてくれないか。芦原さんが、今の我々のリーダー格なんだ」
「芦原さん? 誰です?」
「ほら、知ってるだろう。俳優の芦原幸次郎さんだよ」
「ああ、あのアクション俳優の」
 石見が納得したように頷くと、知場が小声で言った。
「そう言えば、『ラグナレク』事件の犠牲者の中に、そんな名前の俳優がいたっけな」
「解りました。それで、その芦原さんは今どこに?」
「あそこだよ。ほら、いろいろと回りに指図してるのが見えるだろう?」
 土田が指差した方を見ると、きりっとした顔の中年の男が、あれこれと指示を出しているのが目に入った。確かに、テレビで何度も見た事のある顔…芦原だ。
「いるんだよな、あーゆーやつ…」
 知場が眉をひそめながら、小声でつぶやいた。石見も口にこそ出さなかったが、無言で頷いた。だが、すぐに何食わぬ顔に戻って、芦原に歩み寄る。芦原も気づいて、四人の方に目を向けた。厳しい表情だ。
「何だ、君たちは? 仕事の割り振りはしてあるはずだろう。さぼってないで、持場に戻って働きたまえ。見ろ、あんな小さな子供まで懸命に働いているんだぞ。いい年した若いもんが、恥ずかしいとは思わないのか?」
 内心ムッとするのを抑えて、石見は切り出した。
「いや、違うんです。ぼくらは、先生の…あなたたちにこれを作るように命じた人の使いの者なんですよ」
 それを聞くと、芦原の表情が少し緩んだ。
「そうか…そう言えば、この前あの方がいらしてから、随分になるような気がするが…もっとも、ここでは時間があるのかないのかさえよく解らないから、気のせいかもしれないがね。ところで、あの方の使いと言ったが、何かね?」
 今度は亜梨沙の出番だった。亜梨沙は土田に言ったのと同じセリフを繰り返した。
 亜梨沙の言葉を聞く間、芦原の表情は厳しかった。
『ダメか?』
 石見たちは危惧した。だが、意外にも芦原はあっけなく納得した。
「そうか。あの方がそう言われたのなら、間違いはないだろう。解った、すぐに作業を中断して、みんなを休ませる事にしよう」
 そう言って、芦原はすたすたと行ってしまった。
 芦原が去ってしまうのを見送ってから、ほっと安堵のため息をつく亜梨沙に向かって、石見が言った。
「お見事、亜梨沙ちゃん。アカデミー賞ものの名演技だったよ。俳優を相手にあれだけやるとは、大したもんだ」
 亜梨沙は石見を睨む。
「茶化さないでよ! こっちは結構冷や汗もんだったんだから」
 石見は笑ったが、すぐに真顔になって言った。
「ひょっとすると、亜梨沙ちゃんの必死な想いが、彼の無意識に働きかけたのかもしれないな。ともかく、これでこの場はとりあえず片付いた。後は肝心の平井の行方だが…」
 四人は再び土田のところに戻った。あたりの人々は芦原の指示で作業をやめていたが、その表情には不安の色がまだ残っているようだ。それに比べると土田の表情は、やや落ち着いていた。知り合いである石見の言葉もあったので、他の人よりはそれを信じられるのだろう。石見は再び土田に話し掛けた。
「ところで土田さん、つかぬことを聞きますが、ぼくたちとその先生の他に、男の人が来ませんでしたか? 三十才くらいの」
 土田は首を横に振った。
「さあ、他には人は来なかったけど…」
「じゃあ、最近あったことで、他に何か気づいたことはないですか?」
 なおも石見は食い下がった。土田はしばらく首を傾げていたが、やがて何かを思い出したような顔になった。
「ああ、そう言えば…いつだったか忘れたけど、流れ星が落ちたよ」
「流れ星?」
「そう…真っ白な流れ星だった。流れ星は、君たちの先生が初めて現われた時と同じ、東の方角に落ちたんだ。そうそう、その頃からだ、先生が姿を見せなくなったのは」
 四人は目を見合わせ、頷き合った。
『間違いない、紀田先生だ! 紀田先生が、平井を食い止めてるんだ!』
 土田に別れを告げるのもそこそこに、四人は流れ星の落ちたという東の方角に向かって歩み始めた。だが少し行った所で、石見は足を止めた。問いたげな視線を向ける三人に向かって、石見は説明した。
「いつ戦いになるか解らないからな」
 石見は精神を集中した。その掌に、光があふれる。
「我が不屈なる鋼の魂よ、刃となりて我が手に来たれ…いでよ、タケミカヅチ!」
 石見の掌の光がおさまった時、その手には石見にとっても他の三人にとってもなじみの武器、日本刀『タケミカヅチ』が握られていた。
「なーるほどね。臨戦体勢ってわけか。それじゃ、あたしも」
 亜梨沙も精神を集中した。掌が光を放つ。やがてその手には、これもおなじみヨーヨーが現われた。
「お待たせ」
 亜梨沙はヨーヨーをしっかり握りしめ、三人に向かって微笑んだ。四人は再び、東に向かって歩き出した。
 一時間? 二時間? 夢の中の事だ。それは解らない。だが歩いていると、不意に風景が一変した。
「おい、これは…!」
 驚いたような声を上げる知場に、石見は無言の頷きで答えた。
 四人の前には、今、三つの扉があった。
 そして石見と知場は、初めて紀田助教授に会った日の前の晩、この構図を夢に見た事があったのだ。これは、紀田助教授が目をつけた学生の夢に送りこんでいた、ナイトメア・バスターとしての適正テストの風景なのである。
 突然、空から声が響いた。懐かしい声だった。
『来てくれたな、お前たち。今お前たちがいるのは、平井の内世界だ。平井は完璧な防備の陰に潜んで、魔王として転生すべく時を待っている。私は既にその居場所を突き止め、今、平井と向き合っている。だが、今の私の力では平井を倒すことはできない。攻撃を防ぐのが精一杯だ。一刻も早く、頼んでおいた四つのアイテムをここに届けてくれ。この場所の感覚的位置は、既に伝えた。ただ、平井もその事に気づいている。おそらく、お前たちがここに来るのを妨害するために、別の思念を送っているだろう。惑わされるな。お前たちのこれまでの戦いの記憶が、深層心理を具現化したヴィジョンとして進むべき道を指し示しているはずだ』
 石見たちは三つの扉を見つめた。三つの扉には、それぞれ何かを象徴しているらしいヴィジョンが浮き出している。
 ひとつは、五芒星から六芒星、…九芒星へと目まぐるしく変化し続けている。
 ひとつは、新月から満月、そして再び新月へと、満ち欠けを繰り返している。
 そしてもうひとつは…
「三平方の定理…?」
 石見は首を傾げた。その扉には、直角三角形の周囲に三つの正方形がくっついている形をした模様が浮き出ていたのだ。
 その時、アンディが指を弾いて叫んだ。
「ぴたごらすデスネ!」
「な、なんだあ? ピタゴラスがどーした?」
 知場がきょとんとした顔をする。
「モウ一度ヨーク考エテ下サイ。
『ぴぐまりお』 ノぴ。
『たんたろす』 ノた。
『ごるでぃあす』ノご。
『らぐなれく』 ノら。
 コレマデノ事件ノ最初ノ文字ヲ並ベルト、ぴ・た・ご・ら…トナリマス。トナレバ、最後ニ来ルノハ当然…」
 知場が遮った。
「よおーし、解ったあっ! つまり正解は…こいつだっ!」
 知場は叫ぶが早いか、思い切り三平方の定理の扉を引き開けた。
 そこは、四人の誰もが見た事のない場所だった。気がつくと、知場が開けたはずの扉は忽然と消え、さらに三方は壁に囲まれている。ただひとつ道が開けている方向は、一本道の廊下が伸びていた。四人の立っているその場所は、長い廊下の突き当たりだった。
「ひょっとして、ここは現実世界から消滅した時計台の中か」
 石見が確かめるようにつぶやくと、知場も頷いた。
「扉が消えちまった以上、引き返す道はない。前進あるのみだ」
 それだけ言うと知場は、いつものように先頭に立って、慎重に長い廊下を進み始めた。三人はその後に続いた。
 果てしなく続くかのような長い長い廊下を反対側の突き当たりまで来ると、右側に扉がひとつあった。

平井研究室



 扉には、そう書かれていた。
 遂に四人は、最後の敵が待つ本拠にたどり着いたのである。
 知場が、扉越しに室内の気配を探った。
「強烈な闘気が伝わってくる…!」
 知場は一歩跳び下がると同時に一升ビンを作って身構えると、叫んだ。
「石見!」
「おう!」
 知場と石見は、同時に扉を蹴り飛ばした。扉は吹っ飛ぶように、あっけなく開いた。
 紀田が、そこにいた。

第五章 白鳥(スワン)昇天

「先生!」
 四人は思わず駆け寄ろうとして、たじろいだ。
 紀田は戦っていた。紀田の身体からは、何ものにも汚されることのない、純白の気がほとばしっていた。そして、部屋の反対側に紀田と向き合って、深く冷たいブルーの波動を発している者がいた。
「平井…!」
 探し求めた最後の敵の姿を認めた知場が、凄じい怒りを込めて平井を睨んだ。
「あれは持ってきたか!」
「はい、ここに…!」
 紀田の叫びに応じて、『ピグマリオの書』をすぐに取り出そうとした石見を、知場が止めた。
「待て、石見! これも罠かもしれん」
 そう言って、知場はとぼけた。
「あれって、なんのことかな?」
「決まってるだろう! 頼んでおいた四つのアイテムだ!」
 平井がニヤリと笑った。
「ほう、お前たち、あれを持って来たのか。どうだ、わしと取り引きをせんか? その四つの品をわしに渡せば、紀田を生き返らせてやろうではないか」
『紀田先生を、生き返らせる事ができる…!?』
 平井の言葉に、亜梨沙の心は激しく揺れた。
 だが…!
 亜梨沙が叫ぶ前に、石見が叫んでいた。
「バカを言え! 紀田先生がそんな取り引きを望むはずはない!」
 断定口調でそう言い切ってから、ちょっと考えるような顔をして、石見は急に自信をなくしたように、紀田に聞いた。
「…望みませんよねぇ?」
 紀田の身体がグラッと揺れた。
「…当たり前のことを聞くな、このばかもん!」
 石見はニヤリと笑った。
「…本物なら、そう答えてくれると思いましたよ」
 知場が付け加える。
「それに第一、平井、貴様の言葉なんぞ信用できん!」
「何故だ? わしは嘘は言わん。騙したりもせん。西荒川大の学生たちも、みんなわしを信じて散って行ったのだ」
 知場がムキになって怒鳴った。
「いいや、貴様は嘘つきだ!」
「何を根拠にそんなことを言うのだ?」
「…えーと…? …えーい、問答無用! とにかく貴様は嘘つきなんだ!」
 知場は論理性に破綻をきたした。だがその時、亜梨沙が叫んだ。
「あたしはあなたに騙された事があるのよ! 駿河飛鳥の名を、忘れたなんて言わせないわ!」
 飛鳥、という名前を聞いた途端、平井の表情に困惑が走った。同時に紀田の顔にも一瞬、戸惑いの色が見えたが、やがてそれは全て解ったという表情に変わった。
「とにかく、それをこっちへ投げて寄越してくれ!」
 紀田の言葉に、しかし四人はためらった。目の前では、紀田と平井、二人の発する精神エネルギーの波動が激しくぶつかり合い、文字通り火花を散らしているのだ。そんな中に、四つのアイテムを放り出していいものかどうか…?
 紀田もそれを察したらしく、言った。
「判った! じゃあ、急いでこっちへ来い!」
 四人は紀田の言葉に従い、紀田の元に駆け寄った。四人を一刻も早く安全圏内に取り込もうと、紀田の白い波動のフィールドが膨れ上がる。だが、平井の攻撃を受け止めながらそれを行なうのは、いかに紀田と言えども至難の技であった。膨れ上がったフィールドは均一ではなく、何ヵ所かにムラが生じていた。そして、それを見逃すほど平井は甘くはなかった。
 紀田のフィールドに生じたムラを巧妙に突いて、平井の青の波動が走った。石見、知場、亜梨沙は辛うじてかわし、安全圏内に跳び込んだ。しかし、かわし損ねたアンディが脚を撃ち抜かれて倒れた。一瞬遅く、倒れたアンディを紀田のフィールドが強固に包み込む。アンディの身を気づかって紀田が叫んだ。
「アンディ!」
 が、倒れながらもアンディは、持っていたテープを放り投げていた。テープは無事に紀田の手に渡った。アンディが叫び返す。
「No Problem、カスリ傷デス! ソレヨリ早ク、平井ヲ倒スネ!」
「わかった! お前たち、早く残りのアイテムを!」
 石見は紀田に『ピグマリオの書』を渡そうとしてその手を止め、もう一度聞いた。
「…ほんっとうに、本物の先生でしょうね?」
 紀田の身体が再び、グラッと揺れた。苦笑している。
「…そういう事をいつまでも言ってると、単位やらんぞ!」
「その一言が聞きたかったんです!」
 亜梨沙が嬉しそうに言って、イノチグサの実を紀田に渡した。
「うん、こりゃ間違いなく本物だ」
 知場も、無表情を崩しはしないものの、軽い調子で頷くと、フルートを無雑作に突き出した。
 四つのアイテムを全て受け取ると、紀田は言った。
「私は今から、これを使って武器を作る。テープの中身の催眠呪文を空白の魔書に転写し、そのエネルギーをイノチグサの実に込めてフルートで撃ち出すんだ。現は夢、夢こそ現…眠りの世界での眠りは、反転して現実世界への目覚めとなる。だが、この武器を『起動』するためには少しだけ時間がかかるんだ。すまんが、お前たちの力でその時間をかせいでくれ!」
 四人は頷き、決死の覚悟で平井の方へ向き直った。
 平井は、そんな四人を嘲笑うかのように言った。
「愚かな…貴様らごとき青二才どもの力などで、たとえ一瞬たりともわしの力を食い止める事ができるものか。死ぬがよい!」
 平井の十本の指先から、十本の青い波動の矢がほとばしった。
 石見はタケミカヅチで、知場は一升ビンで、それぞれ青い波動の矢を打ち払った。だが、数が多すぎて防ぎ切れない。
「こうなったら…!」
 石見と知場は死を覚悟で、青い波動の矢を身を挺して受け止めようとした。
 その時、亜梨沙の身に異変が起こった。
 亜梨沙の身体の中心から、暖かいものが流れ出したのを、亜梨沙は感じた。その流れは亜梨沙の全身に拡がり、身体のすみずみまで満たしていく。
『感じるわ…あたしの中の新しい生命…赤ちゃんが…。そして、あたしに力を貸してくれようとしている…』
 全ての愛と祈りを込めて、亜梨沙は念じた。
 亜梨沙の十本の指先の全てに、ヨーヨーが出現した。
 次の瞬間、十個のヨーヨーは、悪の思念の塊を目がけ、うなりを上げて襲いかかった。それはまさしく、この地上で最も狂暴で、最も優しく、そして最も強い獣の姿であった。
 『母』という名の。
 八つのヨーヨーが、八つの波動の矢を弾き返し、さらに残った二つのヨーヨーが平井の両腕をがっちりと縛り上げた。
 身動きならなくなった平井に、『武器』を完成させた紀田フルートの銃口を向けた。その瞳には、涙が光っていた。
「先生…残念です」
 紀田が言うと、平井は意外なほど落ち着いた様子で紀田を見つめ返した。
「生と死、夢と現を逆転させる『破鏡法』か。わしを現実に送り返そうと言うのじゃな。…順一、お前は本当に愚かな奴じゃ。昔からお前はそうじゃった。それを自分に向けて撃ちさえすれば、お前は再び生命を得る事ができるものを…」
 紀田は答えた。
「愚かです。愚かでもいいです。
 ぼくはもう孤独じゃあないんだ」
 銃声が轟いた。
 紀田の構えたフルートの先端から、一条の真っ白な光の矢が飛び出していく。四人の瞳には、それがまるでスローモーションのように見えた。その美しい輝きを、四人は心の瞳にしっかりと焼きつけた。
 真っ白な光の矢は平井の身体を撃ち抜き、その背後にあった月の形の窓をも撃ち抜いた。そして、後には何も残らなかった。
 平井研究室の風景もいつの間にか消え、やがてそこは、いつも石見たちが紀田の講義を受けた教室の風景だった。
 石見たちは席に座り、教壇には紀田が立っている。紀田はしばらく、みんなの顔を眺めていたが、やがて口を開いた。
「『白鳥は 悲しからずや 空の青 水の青にも 染まずただよう』…教師にとって最高の幸福は、後を託すに足る生徒を得る事だと言う。ならば、お前たちを得た事で、私の短い人生は十分に成功だったと言えるだろう。しかし、まだまだお前たちに教えておかねばならない事は数多い。これより、私の最終講義を始める。
 石見。お前は、自分の能力が偏っていることを気にしているな。特に、精神力が低いのは気に入らないらしい。だが、これだけは覚えておけ。『偏っている者こそ真に強いのだ』。精神力が低い分は、私に匹敵するほどの知識と運で補って余りあるじゃないか。要はお前自身が、自分の長所を活かすことができるかどうかだぞ。
 それから知場。お前は確かに精神力が高い。だが私の見た所、その精神力だけに頼りすぎるきらいがある。精神力は両刃の剣だ。無限の可能性を秘めているが、裏を返せば無限の危険性をも秘めている。忘れるな。『人間の一番の武器は、耳と耳の間にあるものだ』。お前が自分の精神力を活かして使うも無駄に使うも、お前の頭次第だぞ。
 アンディ。お前は野球部のピッチャーだったな。ピッチャーの戦いというのは、確かに孤独なものだろう。ともすれば、一人で試合をやっている気になるかもしれない。だが、それは違う。野球にしろ何にしろ、一人でできるものじゃない。いつかお前にも解るだろう。『人と人との和こそが無限の力の源だ』。一人の力は微々たるものだ。大勢の人たちの協力があるからこそ、人は大きな事を成し遂げることができるものなんだ」
 やがて、教室の風景も薄れていく。石見、知場、アンディ、そして亜梨沙は、例のピラミッドを作っていた人々の元に、紀田と共に立っていた。
 紀田は言った。
「彼らを生き返らせることはできない。しかし私は、安息の園が死の国にもあるのを知っている。私は、そこへ彼らを導いて行く」
 それだけ言うと、紀田は言葉を切った。
 亜梨沙を見る。
 亜梨沙は必死に、何かに耐えているようだった。
 紀田は亜梨沙に歩み寄り、その細い身体を優しく抱きしめると、そっと耳元で囁いた。
「…子供を頼む」
 そして紀田は、亜梨沙を離すと、四人に向かって微笑んだ。
「別に、これっきりもう二度と逢えなくなるわけではない。夢の世界の中で、私はこれからも戦い続けるつもりだ。そして君たちがナイトメア・バスターとして戦い続ける限り、また逢う事もあるだろう。そう、君たちは、これで一人前のナイトメア・バスターになったんだ。いつか…いつか私たちの努力が実り、全ての悪夢(ナイトメア)が夢(ドリーム)に変わる日が来るかもしれない。いや、きっと来る。そう信じよう。その日まで」
 紀田は四人に背を向けた。
 その姿が、一羽の白鳥(スワン)に変わる。
 白鳥は飛び立った。人々を導くために。
 去って行く人々の中に、土田がいた。芦原もいた。知場が水をあげた少年もいた。武田明宏たち、死んだ五人の闇バスターもいた。
 そして、飛鳥の姿もそこにあった。
 やがて、四人の心に、紀田の声が沁みわたるように響いた。
『これで、私の全ての講義を終わる』

エピローグ 〜またはプロローグ〜

 あたしは、東江戸川大学雑学部雑学科の研究室に、独りで立っていた。その部屋の主は、もう、いない。
 窓の外から差し込んでいた夕陽が弱まる。でも、電気をつけるわけにはいかないな、しのび込んでるのがばれちゃうから。
 (ばれたって、かまわないけどね。)
 あたしの胸のまん中あたりには、大きな穴が開いていた。あの人が自殺したと聞いた瞬間に開いた穴。部屋がどんどん暗くなってゆく。あたしはうつむいて、目を閉じた。
 そして、頬には涙が……流れなかった。あたしは、自分の口元が笑っているのを知った。
 (きっと、また会える。)
 胸の穴はふさがりつつあった。かわりにその穴を満たすのは、確信にも似たその想い。はじめは、壊れそうな自分を保つために必死ですがりついた想いだったのに、いつのまにかそれは大きくふくらんで、あたしの体中を満たしていた。そして、あたしはその源がどこにあるかも知っていた。下腹部のあたりから、その想いをのせて暖かく流れでる光の波動。
 (あたしを元気づけてくれるの…?優しい子ね、お前は。さすが紀田先生の子供だわ。もっとも、十年前はけっこう頼りなかったんだよね、あの人も。)
 いくつかの想い出が浮かび上がってくる。たった半年と一ヶ月分の想い出が。
 (しっかりがんばらなきゃ。今度紀田先生に会ったら、ほめてもらうんだもんね。)
 高校は、たぶん自主退学するだろう。もっとも大学には進学するつもり。東江戸川大学雑学部雑学科。紀田先生の授業はもう受けられないけど、雑学を通して、またあの人のことを知ることができるはず。そしてもっと先生が大好きになるよ、きっと。もちろん、ナイトメア・バスターも続ける。
 (当面の問題は、この子を家族にどう認めさせるか、だなあ。)
 結構難問だ。お兄ちゃんなんか怒り狂うだろうなあ。『うちの妹に何てことを…』
 (ん?)
 ここではたと気付いてしまった。あたし、亜梨沙は、紀田先生に何にもしてもらってない!
 (あーあ、こんなことなら、平和なうちにあたしからせまって、キスのひとつもしとくんだったぁ。)
 無理な注文だとはわかってるんだけどね。だってあたし、自分が紀田先生を本気で好きなんだって気付いたのは、先生の亡骸を見たその瞬間だったんだもん。そして、紀田順一くんを通して紀田先生を愛した  。
 (まあとりあえず、おばあちゃんから説得してみよっか。)
 おばあちゃんはきっとわかってくれる。それからお兄ちゃんとお父さん。それから世間の、その他の人々。バスターのみんなもきっと手伝ってくれるだろう。紀田先生の子が、幸福に育ってゆくように。

 外は、もう闇に閉ざされはじめていた。星と、小さな街燈の光がまたたきはじめている。
 (うん、元気も出たし、やることも決まった。それじゃ、行こっか。)
 あたしは静かに扉を閉め、まだ紀田先生の匂いの残る部屋を後にした。

あとがき

  石見 信介

 本来ならば、今ぼくがこうして書いているこの文章は存在しないはずだった。
 亜梨沙ちゃんが、本当なら誰にも読ませるつもりなしに書いていた文章を、ちょっとした手違いから、たまたま恵紋が読んでしまってえらく気に入り、
「『スワン・ソング』のエピローグは、これしかない! この文章の後には、誰のどんな言葉も不要だ!」
 と主張していたからだ。もちろん、ぼくたち全員、珍しく恵紋がまともな事を言っているので、それでよいと思っていた。
 ところが、ちょっと事情が変わった。この文章は、そもそも記録としての性質をも持っている。従って、記録として完全なものとするためには、亜梨沙ちゃんの事だけでなく、事件のその後の事、またぼくを含めた夢心理研究会のメンバー全員のその後の事についても触れておかなければならないのではないかと、恵紋が友人の編集者に忠告を受けたのだ。そこで、急遽ぼくに再びお鉢が回ってきたわけである。
 そんなわけで、まずは事件のその後の経過について簡単に述べさせてもらう。
 最後の戦いの後、気づいた時には、ぼくたち四人は西荒川大学の池の底に倒れていた。池は、涸れ果てていた。同時に、消滅していた時計台も復活していたが、正面の大時計と、そのちょうど裏側にあった平井研究室は、完全に破壊されていた。
 最後の戦いに向かう前に電話で呼んでおいた、警視庁猟奇課の高見沢警部補は、池の側に倒れている小諸丈夫を発見していたが、それと前後して、時計台の前にいた平井太郎を発見し、逮捕した。しかし、発見された時には既に平井は痴呆と化しており、うわ言を繰り返すばかりの状態で、そのまま警察病院の囚人棟に収容されたそうである。おそらく、二度と社会に出てくる事はないだろう。ちなみに小諸の方は、いったん捕まえられはしたものの、大した罪を犯したわけでもないというので、すぐに釈放されたそうだ。これを機に心を入れ替えてくれればいいのだが、果たしてどうなることやら。
 警察病院と言えば、平井配下の闇バスター中ただ一人の生き残りである河村も、警察病院に収容されている。彼の証言によれば、彼らがそれぞれ持っていた恐怖症は、彼らが平井に忠誠を誓った時に平井から与えられたもので、同時にその見返りとして、楽器の形をしたあの恐るべき武器と、それを取り扱う特殊能力とを授けられたのだと言う。尋問に当たった高見沢警部補の話では、捕らえられた今でも彼が気にしているのは、ぼくたちの作戦で赤ペンキまみれになってしまった銀杏の木々の事ばかりなのだそうだ。その銀杏並木はと言うと、ペンキを洗い流したり弱った枝を切り落としたりという植木屋さんたちの甚大な努力の結果、やっと息を吹き返しつつあるそうだが、これに関しては少々罪の意識が残っている。
 実のところ、彼ら闇バスターたちも、平井に出会いさえしなければ、悪の道に走ったりする事もなかったのかもしれない。緑を愛し、鳥や獣や虫を愛し、音楽を愛し、芸術を愛し、………を愛し、人を愛するごく平凡(かどうかは知らないが)な学生として暮らしていたのかもしれない。
 そもそも当の平井自身にしても、あの時夢魔に心を乗っ取られさえしなければ…いや、この辺でやめておこう。これ以上言っても仕方のない事だ。それに、短く書くと言っておきながら、長くなりすぎている。
 話題を変えて、次にメンバーそれぞれのその後について述べる事にしよう。
 まず書くとしたら、『ピグマリオ』事件以来ごぶさたの、平岡さんと神谷さんの事だろう。平岡 正樹さんは、もともと紀田先生に憧れてヒガ大に入ったのだそうだが、今度の事件でその気持ちがますます高まったらしく、
「俺は必ず紀田先生を越える雑学者になってみせる!」
 と息まいて、ますます論文に熱が入っている様子。
 神谷 舞さんは、『ピグマリオ』のあとがきでも述べた通り、大学を休学して旅に出ていたのだが、その旅からは戻ってきた。ところが、旅の途中で知り合った『同業者』と意気投合したそうで、今後はそっちの人たちとチームを組むそうだ。大学は中退するという。ま、それも人生。人それぞれの道、というものなのだろう。
 アンディは、相変わらず神出鬼没だ。忙しいのか暇なのか、見当もつかない。ただ、以前に比べると一人でいることが少なくなったようだ。こういうと何だが、人柄も心なしか丸くなったような気がする。
 知場がコンピューターに詳しい事は、以前どこかで恵紋が文章に書いていたと思うが、もともと彼はゲーム狂で、特にいわゆるシューティング・ゲームを好んでやっていた。最近もゲーム三昧であるには変わりないのだが、ゲームの種類がシューティング一辺倒ではなく、シミュレーション・ゲームをやり始めたのが変わった点と言える。彼なりに考えるところがあったのだろう。
 前の文章とダブるが、亜梨沙ちゃんは健気にも、お腹の子を一人で守っていく決心をしたらしい。ひそかに育児書を買い込んで勉強しているそうだ。まだ御両親やお兄さんには話してないらしいが、本当の事を説明して納得してもらえるかどうか…難しいところだ。
 そしてぼくは…いや、その話は次のお楽しみとしておこう。今言える事はひとつ。ぼくたちの戦いは、終わったわけではないということだ。
 もう一度、改めて申し上げておこう。
 皆さん。悪夢にうなされてはいませんか?
 そんな時は、すぐぼくたちに報らせてください。
 東江戸川大学雑学部雑学科、第一雑学教室の、『夢心理研究会』まで。
 
 
 

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