腰くだけ発想法 アエラ一行コピー

腰くだけ発想法 アエラ一行コピー

アエラ No27 7/10号.
通刊第545号(臨時増刊)
東京:朝日新聞社, 1998年7月.


 「何の意図があって、笑わそうとしているのかイライラさせようとしているのかよくわからない文句を毎週毎週飽きもせずにデカデカと広告に掲載するのか」というのが大方の人のアエラの中吊り広告にある一行コピーに対する感想ではないだろうか。今回紹介する本は、アエラの広告の一行コピー(1992年8/18号-1998年6/22号)を集め、それとともに一行コピー製作者のこぼれ話や、作家やコピーライターなどによるエッセイを収録したものである。

 この一行コピーの初代作者という小島章夫(当時アエラ副編集長)という人が、始まったきっかけについて文章を書いている。


アエラというのは、ちょっとオシャレで知的な感じの、日本では例がないタイプの雑誌----のつもりなのに、いまの中吊り広告からはそういう品の良さが漂ってこない。何とかしたいね。(p.38)
と当時の編集長と表紙アートディレクターと担当のコピーライターの三人の間で話があり、表紙アートディレクターのアイデアで、中吊り広告の下部に編集部で考えたおしゃれなキャッチコピーを入れることになったのだそうだ。編集長の決断の結果、副編集長たる小島氏にお鉢がまわってきたという次第。しかし、「編集部で考えたおしゃれなキャッチコピー」なんて言えば聞こえはいいが、要するにずぶの素人、それも朝日新聞社なんてお堅いところにずっぽりつかっていた素人に任せるんだから、最初の狙いからはずれたところにいってしまうのは必然のこと。現在あの中吊りのキャッチコピーを見て「おしゃれ」なんぞと思う人間は100人に1人もいまい。編集部でも諦めたのか、方針を変更した。

 もともとは、アエラらしいセンスがうかがえる、気が利いたものを、という趣旨。それを、いつのまにか勝手に宗旨変更、アエラは「かたい雑誌」と思われがちだから、一行コピーで柔らかさを出す。あんなバカなことを書いている、と笑っていただければ、それで結構。電車の中で、アエラを買いそうもない人にコピーだけでも読んでもらって、そのことで少しでも多くの人にアエラという雑誌があるということを知っていただく、そういうキャッチツールである、と定義づけておりました。(p.43)
 確かに、認知度を上げるのにはあのキャッチコピーは役に立っただろう。ちょっと、人をイライラさせる、不愉快にさせるというのは広告のテクニックとしてかなり有効なものであるのは間違いはない。しかし、「アエラを買いそうもない人」にアピールして認知度を上げても、もともと買ってた人が愛想をつかして買うのを辞めたりしたら元も子もないと思うのだが。「アエラを買いそうもない人」があのコピーを見て「じゃあ買ってみようか」と思うことも少ないだろうし。

 まあ、編集長の命令で、慣れない広告用のコピーを無理矢理作らされている副編集長の姿を思い浮かべれば多少の同情の余地もあるというものだ。米国留学でMBAを取得し、バリバリ仕事をしようと商社に就職したはいいが、地方まわりの営業で取引先との接待宴会で鼻に爪楊枝を差し込んで八木節を踊っているかのような宮仕えの悲哀を感じないこともない。こころある人なら、アエラの編集長をつかまえて「おい、いいかげんに勘弁してやれ。部下イジメにもほどがあるぞ」と懇々と説教したくもなるだろう。

 ところが、である。どうも、一行コピーを作っていらっしゃる「すまじき宮仕え」のご本人達は、この悲哀を感じていないらしいのだ。現在の一行コピーの担当者である一色清氏(現アエラ副編集長)はこう語っている。


下手な(本人はそうは思っていないが)コピーでも、続けていれば、うまくもなっていくだろうし、見る人もその腰くだけ感にある種の心地よさを感じてくれるようになるのではないか。そんなふうに思って続けてきた。(p.37)
うーむ、アム◯ェイもビックリのポジティブシンキング。ずっと続けていれば、相手に不快なことでも心地よいことになる、なんてほぼ痴漢の論理と同じなんじゃないかと思うのだが。

 挙げ句の果てには、一行コピーの神髄とはオリジナリティーにあり、という強気の発言となる。再び初代作者の小島氏のことば。


あのコピーはどうやってつくるのか、と聞かれることも、たまにはありました。とくだんの秘訣はありません。ただ一つ気を付けていたことといえば「オリジナリティー」でしょうか。(中略)プロ、セミプロの世界とは距離を置き、素人に徹する。自然体の無手勝流。特定のスタイルをつくらない。そのことで、自分もつくれる、と多くの人に思っていただく。そんなようなスタンスでやっておりました。(p.43)
自分もつくれる、と多くの人が思うようなものを作っておいて「オリジナリティー」に気を付けていたというのもないもんだ。確かに、他に誰も作らないものを作っているという意味では「オリジナリティー」なのだろうが、正確に言えば「誰も作れなかった」というよりも、「たとえ作ったとしても恥ずかしくて人前に出すことなどしようとしなかった」というところではないかと思うが。

 朝日新聞社が出しているニュース雑誌なのだから、広告についてもジャーナリスティックな信念と貫いているかというとさにあらず。現在のコピー担当者一色清氏の言葉。


具体的な企業名が出るものも、トラブルを生むことがある。特にその企業が広告主であったりすれば、なおさらだ。別に社会正義実現といった肩肘はったものではないだけに、無用な波風は避けたい。(p.33-34)
神戸の淳君殺害事件の時のアエラの一行コピーは「もっとシンチョウにしてほしかった」というものだった。これは中吊り広告には使われたが、いつも中吊りと同じようにコピーが掲載されている朝日新聞のアエラの広告では削られていた。やはり朝日新聞への新潮社の広告料を気にした結果なのだろう(くわしくは弊産業ロックページ、「AERA惹句大全集」のAERA7月14日号の広告の項参照の事)。朝日の論調としてはフォーカスでの写真掲載と実名報道にかなり批判的ではあったが、やっぱり「広告料」という金の力には勝てないと見える。まあ、「社会の公器」「社会の木鐸」と再販制度に手厚く守られているとはいえ、売り物買い物であるには違いないのだから仕方ないといえば仕方ないのだろうけれども。

 実際のところ、「毎週、あの一行コピーを見るのだけが楽しみ」などというファンなんて日本全国でどれくらい存在しているのだろうか。私の周りにはそんな素直な一行コピーファンは一人も存在していないのだが、この本に寄稿している人だけは(原稿料の為という表面的な理由かもしれないが)少なくとも応援しているようだ。「アエラほどバカになれない」という文を寄せているのは山藤章二氏。


 林家三平師匠も天国からころげ落ちそうになる"本格的ダジャレ"である。  当然のように各メディア、知識人たちからヒンシュクの声が上がり、やがて治まった。 ヒンシュクとか民宿というのは、いっときは賑わうがじきに静かになる。三平師匠のギャグに「なんだ下らねェ」とケチをつけるのと同じで、野暮な振る舞いと気づいたからだろう。

 私はハナっから賛成派である。(p.6-7)


下手な冗談に対し、「これを下手というのは野暮」と前もって筋をふるなんというのは、かなり卑怯なやり方ではないのか。ヒンシュクはいっとき賑わうがじきに静かになるなんて思うのは国民をバカにしている、というのは、政界の贈収賄事件や証券会社の不祥事なんかで、朝日を代表とする日本のマスコミがいつも声高に主張することの筈だが。大体、三平師匠をあのアエラコピーごときの引き合いに出すこと自体、失礼極まりないことだと思う。山藤さんといえば週刊朝日の巻末の連載だった「ブラックアングル」なんかのイラストのファンだったのに、ちょっと興冷めだなあ。

 ご記憶のある方もあるとは思うが、一時週刊文春でアエラの一行コピーが攻撃されていた時がある。その時は、かなり担当者もヘコんでいたらしい。


週刊文春の「許せない特集」にアエラコピーが取り上げられ、あんな恥ずかしい「赤面コピー」をよく載せると書かれた。それを読んだのか、社内からも「やめてはどうか」という声が聞かれた。  気弱になっていたわたしが勇気づけられたのは、「週刊誌にあんなこと書かれたけれど、わたしはファンです」という匿名の人からのファクス。(p.37 )
奇特なこともする人もいればいるものである。せっかく朝日内にも「やめてはどうか」という良心的な人もいるのに、余計なファクスを送ったばっかりにまたやる気満々になってしまったようだ。一枚の匿名応援ファクスさえあれば、他にどんな非難があろうとも継続を決断してしまうのだから、我々にはおそらくあのコピーを止めさせる方法はないということになる。というわけで、まだまだアエラ一行コピーは続く。我々の電車内での「何の意図があって、笑わそうとしているのかイライラさせようとしているのかよくわからない文句を毎週毎週飽きもせずにデカデカと広告に掲載するのか」という内心の疑問もまだまだ続くことになりそうだ。
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