案内廣告に釣られて
讀賣新聞社會部編
東京:大阪屋號書店, 1930.10

 現在でも、SPA! 等の週刊誌で通信販売グッズを実際に購入して商品を検証する企画などをよくみるが、似たような企画は昔からあったようで、この本は当時の讀賣新聞に連載した記事を一冊にまとめたものらしい。序文にはこうある。


 人は常に釣られまいと思念しながらも、つい不知不識の間に釣られてゐるのである。廣告がたん單に人を釣るからといふ理由で廣告其物を非難するのは恰も男が女に戀するからとて女が悪いと言ふのと同じで、理窟の立たぬ事である。(中略)ただ我れ人共に警戒すべきは新聞には初めから詐欺の目的を以てせられた廣告が決して尠くないといふ事である。
 本書は題して「廣告に釣られて」といふのであるが、其實は釣られた風をしながら却て廣告主を釣つたのである。人は一度釣られて見なければ、其の釣られた味が分らぬものと思はれる。要するに、世の中は釣つたり釣られたりである。甘く釣り當てたものは天下の富豪にさへなれるのである。(中略)
 若し夫れ、此の一書が、廣告につい浮か浮かと釣られそうな世間の人々を、未だ釣られざるに先だつて之を防ぐことが出来れば、それは誠に望外の成功である。

   昭和五年九月

讀賣新聞社 主筆   山 崎 光 次 郎


案内広告とは、新聞の下欄などにある小さな囲み広告のことである。要するに、新聞の案内広告に新聞記者が名を隠して応募し、釣られたふりをしてみよう、というもの。しかし、宮武外骨が明治期に執拗に誇大広告を攻撃したような爽快さはここにはあまりなくて、なんだか個人や小規模ないかがわしい商売人の広告にちょっと乗ってやったという程度のものが多い。

 早速、最初の案内記事探訪を紹介してみよう。この記事のタイトルは、「七圓で解決する『萬事』とは?」という。右図のような新聞の案内広告中に「萬事解決」とあるが、ここで「解決」される「萬事」とは一体何か?と、疑問を持った記者が実際に乗り込む、というのがこの記事の趣旨である。しかし、広告に「特遊」とか「御同伴歓迎」とか「御入浴御随意」とあるのだからどう見ても、「風俗関係」であることは明かなのである。「『萬事』とは?」と、ことさらに疑問を持つほうが無理があると思うのだが。記者は、


これが與へられた職業とは云へ、夏の晝日中「萬事解決」の四字に百パーセントの興味を持たせられて「萬事解決して来給へ」とは比奴聊か無理で御座んせうだ。(p.2)
などと、グチをこぼしながら乗り込んでいく。そして、お目当ての待合に上がり込み、家の姐さんに尋ねる。

『で、----時に七圓でどういふ事になるんだね』
『萬事お委かせを願って一時間のお遊びですの---で、その上は又』
『おつと、其の七圓ので好いいんだが、一時間とは刻んだね』
『いいえ、それが藝者が来てからの一時間ですから---直ぐお引けとなれば、大ていの殿方でも、まァねほほほほ』氣味の宜しくない笑ひ方である。(中略)
『若いのにしませうか、それとも年増がお好き?』 『そんな贅沢が云へるかね。それもお委かせと行かう』(中略)
待つこと二十分。来たな---と我知らず身を固くすると襖がスウツと開いて『ありーい』と紋切型の閾越しに三指をついたのは---驚いた、肚の内で『へーえ』と云つたのも無理ではなからう。年の頃なら十八九、たとへ張り返しものにもせよ、藤色の錦紗絽がうつりかへに事缺かさず、白の琥珀絽の夏帯に緋の帯上げが喰ひ込んで居る風情は、とてもさても---安くとも六十銭は拂つたであろう所の島田も重たげな髪の濃さ、色は白いか黒いか解らないお白粉が塗られた丸ぼちやなトテシャンと鳴りそうな藝妓である。

 名は特に其の藝妓の名誉の爲めに變へるが『君乃家の君代と申しますの、どうぞよろしく』と云つたその言ひ方が又、へへへ、と記者は頤でも撫でないと書けない程の艶やかさ。---と、先刻の姐さんが、顔を出して『ちょいとお耳を』と来た。『おひけにしませう』とある。(中略)

 絽の八ツ橋の緋の長襦袢に、博多の伊達巻がキューと音を立てた。姐さんは足袋まで脱いで用意は整つたのである。枕元へ膝を突いて敷島に火を點けて記者に渡しながら 『不思議なごえんね』と云つた。
『七圓ぢやないのかい?』
『あらァー』
此處まで来れば、萬事解決の段取は解つた筈である。おお神様この可憐なる三行廣告、特遊七圓の生贄の上に御惠を垂れ給へアーメン。(p.7-12)


これで、終わり。なんじゃ、この記事は。序文で「此の一書が、廣告につい浮か浮かと釣られそうな世間の人々を、未だ釣られざるに先だつて之を防ぐことが出来れば、それは誠に望外の成功である。」と言ってた癖に、これでは単なるナイタイの風俗記事の「本紙記者昇天」ではないか。

「先づ通信料三圓」という記事もなんだかひどい。右図のような案内広告に対する取材である。「持合」とは女性が家財などを持って男性と所帯を持つ時に使う言葉らしい。××は結婚媒介所の名称だということだ。記者は言う。


 求婚廣告で引付けて置いて『結婚しますから今夜泊まつてらつしゃい』と翌朝試験料として金十五圓を申受ける『郊外春の宿』とか云ふのがあつたそうだ。探奇的な氣持ちで、此の廣告の結婚媒介所『××』の門をくぐつた。(p.39)
結婚媒介所の化けの皮をはいでやるぞ、というのが取材の趣旨である。結婚媒介所に出向き、その持合の女性と見合いをすることになる。結婚媒介所とは名ばかり、本当は売春宿なんだろう、という記者の思惑とは反して、本当に見合い目的の女性が来る。

 年の三十三四も僞りはなささう、髪は眞ん中から分けて、項に束ねただけ。明石に博多の夏帯をきちんと締めてはゐるが、薄色に褪せた半襟が淋しい。丸顔の十人並だが、見るからに憔悴して浮ついた所は微塵も見せぬ、氣の毒な程眞面目である。(p.47)
その女性は、結婚し札幌で暮らして子供が二人出来たが、夫が放蕩で身を持ち崩し離婚し子供を夫の実家に帰し、上京して生け花を教え細々暮らしていたが、別れた夫が死んだので子供を引き取ろうかどうか悩んでいる。できれば再婚して子供を引き取りたい、と身の上を話す。

 その眞劍さ!記者と云ふ探奇的職業の犠牲になつてゐると思へば氣の毒にもなる。(中略)
媒介所の仲人口もあつたのであらうが記者が求縁の相手として何も話さないのに此の焦り方!三十女の哀れさである。(p.49-50)
見合いの後、媒介所の亭主が『如何です?』と聞かれ記者は『どつちも駄目だ。眞面目過ぎてね・・・あんなのより何とか安直なのはないか知ら』言い出し、亭主も『それならさうと最初から仰つて下されば好いのに・・・』ということになり、売春のほうの話しとなる。しかし、「持合の女性」については看板に偽りはなかったのだから、基本的にこの取材の趣旨は成立していないように思うのだが。自ら「此の焦り方!三十女の哀れさである。」と言って同情しておきながら、この女性に適当に嘘をついて見合いのマネだけする。これでは、取材倫理も何もあったものではない。

 未亡人の『援助』をという記事では、画家志望の若者の養子縁組み、もしくは未亡人の相手募集の広告の取材をする。画家として一本立ちするまで面倒見てくれ、というのだ。出てきたその広告主は、とても人を騙すようなことはできないような正直な面構え。「じつは私はある未亡人の使いのもので・・」と記者は身分を偽り、さんざん根ほり葉ほり尋問する。そして、


 『では本当のことを云ふがね、その未亡人は直ぐそこの鎌倉河岸の停留所の所へ待たしてあるんだ、どうだね會つて見ては・・・』(p.66)
と連れ出すのだが、これはこの広告主の写真を取るために表へ引っ張りだしたのである。物陰から写真班が撮影する。撮影が終わりさえすればもうこの広告主に用はない。「あのカフェーに、その未亡人が待っているから」と、彼を一人カフェーに押し込み、後は知らぬ顔でスタコラ逃げ出す。ひどい取材もあったもんだ。大体、趣旨がいささかハレンチであるかもしれぬが、別にこの広告には虚偽は含まれていない。単に、広告主をからかっただけのものである。

 金一萬圓也の婿殿で扱っている案内広告も全然詐欺広告ではない。「早稲田の商科を出た33歳の弟を、婿にしてやってください。持参金一萬圓承ります。」という広告が取材の対象。この広告が怪しいとすると、「早大商科出」とい学歴の部分だろう。大学をでてもいないのに、嘘をついて婿入り先を探す、というなら「案内広告に釣られて」の趣旨にあっている。ところが、この記者が社に帰って早大校友会名簿を見ると、確かにこの婿殿の名前と勤務先があるというのだ。確かにその当時の一万円の価値は大きいから、そんな大金を払って婿をとるヤツがいるか?という疑問はあるのだが、それとて別に虚偽広告にあたるわけではない。それで、この記事の最後の言葉は「誰か一萬圓出してこのお婿さんを貰ふ特志家は居ませんか。」(p.160)というなんともしまりのないものとなっている。

 現れた淑やかな美人の案内広告は右図のようなもの。


 新聞へ廣告まで出して見ず知らずの人間に金を出させて、喫茶店かバアを開きたいと云ふ女---それは想像しただけでも、阿婆擦れで圖々しくつてとしか思へまい。どんな女か見てやりたいのは、強ち『廣告に釣られて』飛び廻つてゐる記者ばかりではあるまい。(p.161)
開店の後援を望む、というから今でいえば援助交際だ。で、実際にこの女性に会ってみたところ、どんな風体かというと、

 意外!(中略)二十一、二の女性、色の白い、どちらかといへば丸顔にオールバックの髪もよく似合ったナカナカの美人、背は高い方でないが女とすれば普通(p.163)
なのだという。しかも、彼女が言うには、開店の後援をしていただく前に、相当の期間ご交際を願いたいのだ、とのこと。交際の上、気心が判ってから金を出して貰って開業したいのだそうだ。記者はこの記事の最後にこのように書く。

 記者の目に誤りがなければ、彼女はあまりにもバアや喫茶店のヒロインたるべく不似合である事左様に世馴れて居ないのに、何がこんな小娘をして三行廣告案内に後援者を求めしめたのであらうか。(p.168)
「何がこんな小娘をして三行廣告案内に後援者を求めしめたのであらうか。」って、それを調べるのが君たち新聞記者の仕事だろうが。しかしこんな美人と交際できるなら金をだしてもよい、という鼻の下の長いパトロンはいっぱいいるだろう。「此の一書が、廣告につい浮か浮かと釣られそうな世間の人々を、未だ釣られざるに先だつて之を防ぐことが出来れば、それは誠に望外の成功である。」と語った序文の精神は、一体どこにいってしまったのか。こんなおいしいことがあるなら一つ俺も釣られてみようか、と読者は判断するのではないか?

 最後に、この本の中で最も問題が多いと思われる記事について触れておこう。記事の題名は、「淋しい」の一點張りという。図のような婦人との交際を求める案内広告に対し、讀賣新聞の女性記者が身分を隠して応募するというのが、この取材の趣旨である。いろいろ段取りがあって、喫茶店でこの広告主と婦人記者がおちあうこととなる。


 貧弱な男でしたが、思つた程、圖々しい男ではありません。顔を赤らめて氣の弱そうな、記者が直ぐに呑んで掛かれるやうな男でした。(中略)
『初めまして』と記者も云つてさて彼の様子を見ますと、彼は見合ひでもするやうに俯向き勝ちになつて上目をつかつて居ます。
『あの廣告は面白いと思ひましたわ』と記者は何となく氣の毒になつたので、彼の氣を楽にする爲めにさう云つてやりました。
『ええ』と彼はお辞儀をして
『僕は孤獨だものですから・・・』と虫の鳴くやうな聲で云ひました。記者は張り合ひが抜けてしまひました。(中略)

 彼には相談もせずに
『ビールとウヰスキーとオルドーブルを頂戴』と云ひました。彼は顔を上げて驚いたやうに記者の顔を見ましたが、直ぐに下を向いてしまひました。一向先方から話しをしかけません。
『どちらへお勤めですの?』と記者から聞きました。 『そ、それはお付合ひ願つてから申上げたいと思ひますが・・・』と苦しさうに聲は低いのです。
『あら、お付合ひして居るぢやありませんの、ほほほほ』記者が蓮葉に笑つて見せますと、彼はドギマギして居ます。

『お國は?』と云へば
『肥後テす』と云ふのでオヤと記者は思つて
『學校は?』と聞きますと
『釜さん商きょうテす』
と云ふ濁音のない言葉で、彼が朝鮮生まれであることが判つたやうな氣がしました。それから記者が何を聞いても要領を得ません。何の爲めに、こんな廣告を出したかと云ふ事を幾度も幾度も聞きましたが、ただ孤獨で寂しいから『婦人と交際したい』と云ふだけで、モヂモヂして一向落ち着かないのです。恐々ウイスキー入りのビールを飲んだので苦しさうな顔をして一時も早く歸り度い素振りです。
『あたしはほんとを云へばステツキガールなのよ、ほほほほ』と記者が云ひますと
『えッ』と彼は眼をみはりました。(中略)
傳票へ三圓六十銭を書き込んで彼の前へ出しました。彼はポケツトから蟇口を出しましたが、口を開けてもお金は足りないらしいのです。決して『財有』ではありません。記者の顔と傳票とを恨めしさうに見比べて居ます。記者はこれ以上せめる氣にはなれませんでした。記者が五圓紙幣を出したので彼はホツト安心したやうに
『どうも・・・』と頭を下げました。

『お宅は何所ですか』と彼はカツフエーを出ると初めて聞きました。
『直ぐ此の横町よ』
『お送りしませう』
『どうぞ---』
 彼は記者について来ました。記者は本社の前まで来ると、
『あたしの家は此處よ、左様なら---』と、さつさと編輯室へ駆け上がつて終ひました。彼は本社の讀賣新聞と云ふ眞鍮の表札と社のマークとを呆れたやうに見上げて居りました。(p.223-228)


「濁音のない言葉で、彼が朝鮮生まれであることが判つたやうな氣がしました。」相手に知られずに、相手の素性を察知すること、これは優れて権力に関わる問題であろう (1)。ここで、この権力の配置にあたって重要なのは、秘かに知られた素性に関する情報そのものだけではなく、素性を隠そうとしたという、まさにその行動自体が知られてしまう、という点である。素性を察知して優位に立とうとする者は、先ず相手に対する先入観として差別意識を持っていることを都合よく忘れてしまう。次に、相手の自分の素性を隠そうとした行為を取り上げ、その行為は自分の素性に対して自ら嫌悪感を持っているからだ、と断定し相手に押しつける。最後に、お前はお前自身が嫌悪する素性のものだ、と結論づける。こうすれば、優位なものは、自らの手を全く汚さずに相手をおとしめ、一段下の位に置くことができるだろう。なにしろ、本人自身がその素性を嫌っているのだから他人だって嫌って当然だろう、という訳だ。最初に、都合よく忘れてしまった、自分の素性を隠すにいたった真の理由は意識に上ることはない。

 上記の記事でのこの都合のよい記憶喪失は、素性を察知した女性記者が「それから記者が何を聞いても要領を得ません。何の爲めに、こんな廣告を出したかと云ふ事を幾度も幾度も聞」くところに如実にあらわれている。彼女は当時の日本における朝鮮人の状態について知っている筈だ。今しがた彼女自身が行ったように、日本人達は彼の「濁音のない言葉」によって何度も彼の素性を秘かに探り出し、彼を特別なものとして扱い、見えない壁をつくって、その中へ押し込んことだろう。それを、かの婦人記者が知らぬ筈はない。だとすれば、何故このような広告を出したか、という彼女の問いは愚問である。彼は『僕は孤獨だものですから・・・』と答えている。彼女の問いに、この答え以上の答えがあるだろうか?残酷なことに、彼女はその答えに取り合わず、同じ問いを繰り返す。彼の「孤獨」こそ、彼女の都合よい記憶消失の焦点だからだ。意地でも、それを思い出すことを阻止せねばならなかったからだ。


NOTES

(1)
素性を隠す行為に関する権力関係ついては、デイヴィッド・M・ハルプリン『聖フーコー:ゲイの聖人伝に向けて』村山敏勝訳(太田出版、1997),p.54-56 のゲイのカムアウトにおける「クローゼットの認識論」を参考にした。

追記(1997年8月19日)

産業掲示板のほうに以下のような書き込みを貰った。


案内廣告に釣られて 投稿者:季節非労働者 投稿日:8月17日(日)14時56分31秒

しかし読売もめちゃめちゃな本作ったもんですな。 ところで、ここで記者を「釣って」いる広告自体は読売に載ったもの なのか? 自分のところの新聞に載った広告だったら、あんまり偽りを 暴くのもなにだろう。 むしろ「いやあ我社の案内広告にほいほい釣ら れればほれこの通り、髪はカラスの濡羽色、ぷっくりの丸顔に縮緬の 緋帯がきりりと持ち上がったトテシャンなナニがお相手をしてくれま っせ、ひっひっひ。お楽しみあれ」というふうに、案内広告の広告を うっているのではないか。


実際にこの本で紹介されている案内広告は、詐欺まがいのものが多い。わざとマヌケなものばかり私が選んだので、「案内広告って結構いいじゃないか」という印象を与えたかもしれない。だが実際はそうではない。

 当時の讀賣新聞をひっくり返して見てら、「七圓で解決する『萬事』とは?」の広告を発見することができた。掲載月日は昭和5年7月2日の第八面。下図の一番左端がそれ。


本では伏せ字になっていた店名と場所が分かる。「電話 大塚1152 池袋花柳地界 日暮し」だったのだ。しかし、このように並んだ「特遊もの」のなかから、讀賣の記者が「日暮し」を選んだのは分かるような気がする。やはり、少し小さめの活字の「万事解決」が効いている。右から二つ目の、場所が同じ池袋で、料金も同じ七円の「松しま」の広告では、「七圓で皆様に御満足の出来る様に致ます。」と、説明口調でいささか重い。それよりも、一言「万事解決」。シンプルかつスマートである。

 讀賣新聞に掲載されていたのを見つけることができたのは、今のところこの「万事解決」のみである。季節非労働者さんの推察のように、讀賣掲載の広告は褒めて、他紙の広告は貶していたのかどうかまでは確認できなかった。



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