産業ロック推薦図書



麹町の少年殺し(臀肉を抉り取らる)

東京朝日新聞
第五千六百三十八號 - 第五千六百三十九號
(明35.3.29 - 明35.3.30)

 明治の猟奇事件「臀肉切り取り事件」を紹介の続き。「日ポン地」という雑誌を紹介したのがきっかけで、「臀肉切り取り事件」に深入りしているのだが、前回は萬朝報の記事を紹介した。今回は東京朝日新聞の当時の記事を載せる。東京朝日では、ここに載せた記事以降にも、時折フォロー記事があるが、とりあえず、事件後2日分の記事のみを載せることとした。
 萬朝報の記事紹介の時と同じく、まず、句読点などを足し、新仮名遣いに直した記事を掲げ、原文を次に載せることとする。また、3月29日の記事には、現場付近の地図が掲げられていたが、割愛した。

 東京朝日の記事と萬朝報の記事とで大きく異なる点は、事件の発見者である。萬朝報では、中村金次郎という人力車の車夫が死体を発見した、と麹町署に訴え出たとされているが、東京朝日では、被害者の中島惣助の父である中島新吉が、死体発見より前に、「せがれが連れ去られた」と麹町署に訴え出たことになっている。東京朝日の報に従えば、訴えを受けた警察は中島新吉の隣家の人力車業を営む藤井為三郎(萬朝報にある中村金次郎の雇い主)とともに付近を捜索し、死体を発見したのだという。どちらが、精確な記事なのかは、今となっては分かりはしないが、被害者の家族についての取材や、付近の住人への取材の豊富さからみて、どうも東京朝日の記事のほうが信憑性が高いような気がする。これは、あくまで印象にすぎないが。

 ここには載せなかったが、事件から半月ほどたった明治35年4月16日の東京朝日新聞に面白い記事があった。見出しが「麹町少年殺事件の講談」。なんでも、世間でこの事件に対する関心がとても高いのを見込んで、「麹町美少年殺し」と題する講談が四谷舟町の都亭という寄席でかかるのだという。殺された少年が、とりあえず「美少年」にされているのが可笑しい。伊東陵潮という人が演出するらしいが、東京朝日によれば上演させるかどうか、その筋にて目下詮議中というから、もしかすると上演前に警察から中止命令が出たのかもしれない。


新仮名遣い

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第五千六百三十八号(明35.3.29)


●麹町の少年殺し(肉を抉り取らる)

 昨日午前零時四十五分、麹町区下二番町五十九番地中島新吉(四十二)なる者、ほとんどど狂気の体にて麹町署へ駆け込み来り、
「私のせがれが何者にか連去られました」
と、訴え出で、あたふたと署門を出でて走り去りしにぞ同署員は大に驚き、直ちにこの旨を当直員たる宮内警部に報告したれば、同警部は松本刑事を引連れ現場へ赴き中島方の隣家なる宿車営業藤井為三郎(五十)と共に捜索に従事したるところ、ついに同町二十九番地差配人遠藤磐方の勝手口と浴室との間なるおよそ三尺四方の掃溜(はきだめ)の傍らにあたり一種異様の臭気の発すると共に一頭の犬非常に吠え狂ひいる体のただ事ならざる様なれば、警部刑事は不審に思ひ犬に従ひてその場所へ入り込みしに、驚くべし一人の少年無惨なる死状を呈して斃れ居たるを発見したり。

 よって同警部は本署へ急報して署長にも上申するところありしかば、村島署長は非番当直の別なく警部巡査を指揮して犯人捜索の手配をなしたちどころに非常線を張りたるが、一方現場においては判検事立会の上 被害少年の死体を検視したるに容易ならざる珍奇の傷所を発見したり。右は少年の左部咽喉に深さ七分幅五分許りの突き傷一ヶ所、眉間に皮下負傷一ヶ所ありたるほか、奇異の傷所ともいうべきは、すなわち左右の臀部を各々一ヶ所えぐり取りたる傷ある事にして、そのえぐり取りたる臀肉は何処へ持去りしものか遂に発見すること能はず。

 もっとも致命傷とも認むべき傷はあらざるが眉間の皮下負傷は兇行者が少年を大地に押しつけたる際、眉間を強く砂利に擦り付けしより生ぜしものと覚しく、死状によれば鼻孔よりも出血なし居るを以て、少年の発声を防がんため鼻孔を圧し窒息せしめたるならんという。また図にも示せるが如く最初は里俗亀澤横町、すなわち同町三十五番地高利貸し安藤庄次郎方の窓下にて兇行を開始し、それより十五六へだたりたる前記遠藤方の小路へ引きずり込み、ここにて鋭利なる刃物を用い、無惨にも少年の咽喉を刺し、なお兇行の意思ををくらまさんため臀部の肉を抉り取りたるものに相違なからんとの判定なり。かくて兇行の場所とも思しきところには血痕すこしも見えず。ただ発見されたる場所に些少の血痕を認め得たるばかりなれば、あるいは案外の他場所にて殺害を遂げ死体をここまで持ち込みしものか、すこぶる不審なる殺害事件なり。しかし殺害当時は三番町なる二七不動の縁日にあたり、夜店の賑いありし事なれば時間早くては到底かかる大罪の成し遂げ得らるるとも思はれず。されば兇行の時間は同夜九時三十分過ぎ人足ようやく断えし後ならんとの推測なり。

 さてこの無惨なる死を遂げし少年は前記新吾の長男にして惣助(11)という者なるが、この新吾は後妻きく(31)同人母くめ(60)惣助妹しづ(6つ)の五人ぐらしにて、新吾は目下京橋区西紺屋町の秀英舎へ日給五十銭にて勤め、家内は巻煙草内職をなし居たる様なるが、目下おきくは身重にて殊に本月は臨月なりしかば新吾の心中はとかく気がかりの事のみ多く、一昨夜の如きも虫が知らすか、何となく家内の事が気にかかりて夜業も手につかざりし為め、同夜九時頃職をやめ帰途に就きたりしが、前記麹町六丁目と七丁目との通りを北へ曲り亀澤横町へと進みしに前記安藤方のガスの光にふと見えしは鼠色の外套を着(ちゃく)したる背高き男、うつぶしになりて外套の袖の下なる一人の子供に向い、いとねんごろにいたわり居る様子にて
「シツカリせよシツカリせよ」
と、繰返しいうの声の聞えたれば、新吾も子を持てる身のよそ事とも見捨てやらず気づかわしげに打ち見やりてその場を通り過ぎ、我が家へ帰りつきて長男惣助の安否をまず第一にたずねしに、妻おきくは先刻湯屋へやりたるが薬用に供するため砂糖を一銭五厘だけ買わせにやりしが、その時は既に八時四十分頃なりしとの事に新吾は大に心痛なし、もはや九時をも過ぎ居るに、遊び居るとも思われねば兎にも角にも一度捜しに行くべしとて、常に砂糖を買いつけにする麹町六丁目の遠州屋こと田中作造方へおもむき問い合わせしに、先刻一銭五厘の砂糖をばたしかに買い求めに来りしとの事なるにぞ同人いよいよ心配なし亀澤横町のところまでとってかえし、心当りの場所はと心中にて考え居たる折から、前記安藤方の小溝のかたわらに惣助が山桐台の書生下駄片足飛び散り居るに、同人はハッと思いて心も打乱れ、そこここと血まなこになりてさがしもとめ居たる程に、それより六七間も離れたる同町二十三番地河合方と同四十二番地魚商魚長方との間に又片足を発見したりしかば、同人は狂気の如くなりてさては麹町署へ飛込みたる次第なりしという。また死体発見の場所たる遠藤方にては、かかる大事件の生じ居たる事をも家人は少しも心づかず、毫も物騒がしき事を耳にせざりしとぞ。

 かくして昨日午前五時までに立会官は実父及び其妻きくを召喚して仮予審を開き、死体は実父に引き渡し、更に厳重なる探偵に従事したりと聞く。また被害少年惣助は新吾が先妻某の子にて、今の母きくは継母なれど、おきくはよく同人を愛すること実子の如く、同人もまたおきくに仕へて孝養あつきのみか性質温良の聞え高く、四谷区信濃町小学校へ通学し居りて、さる二十四日の春期試験にも及第して尋常科二年生を修行し優等賞をも得たる程なりしが、同人かかる事を自慢にもせず休日の如きは継母を助けて手内職をなし、些少の金にても得る事あらば乱費する事なく、かえって家計の助けにそれをさえ出す位なりしを以て善良なる少年の鑑と近所の評判も高かりしまま、決して他人より恨みを受くる事なく、その実父新吾も同様の善人にて人と物を争うが如き事は更になしと聞く。

 ちなみに記す、被害少年惣助は砂糖を買いたる釣銭五厘を片手に固く握りて倒れ居たりとぞ。

第五千六百三十九号(明35.3.30)

●麹町の少年殺しの続聞

    一昨々夜九時三十分頃、麹町区下二番町五十九番地中島新吾長男惣助が、里俗亀澤横町において奇異の殺害をこうむりたる事は、ただちに昨日の紙上に詳記したるが、今その続聞を得たれば下にこれを掲出すべし。さて昨日以後における麹町警察署は署長以下必死になりて探偵に従事し、巡査刑事は当直非番のわかちなく八方に狂奔して手がかりを得んと相励み居れるが、警視庁にありても武東警部主任となり部下の刑事三名を率いて麹町署に出張し内外相応じて事務につとめ居れども、いかにせん今回の兇行者が兇行の意思行為については種々雑多なる疑点生じ居りて、その真相を認むること難きのみならず、まず兇行の場所といい死体遺棄の場所といい、いずれの場所にも手がかりとなるべき物をとどめ得ざれば、当局者の困難は大方ならず。しかれども探偵上の方針については警視庁の偵吏十数名が兇行者の意思行為を察しておのおの見込みをつけたる概要を記せば、

第一物取に非らざる事
 これは惣助が殺害されたる当時、衣類および所持品に対し、些細の紛失品をも認め得ざればなり

第二の父母に疑なき事
 これは惣助の性質温良なる上に、父母に仕えてもまた篤行多く、後妻きくとの間柄も九年間の長き実母子の人情の如く、近隣の噂も既記の通りにして少しも世間の継母継子の間柄を認むることなければなり

第三父母に対する恨み及び自己に対する他人の恨にあらざる事
 これは父母ともに評判のよき人々にて家庭も極めて平和に、他より寸毫の恨みを受くる覚えなく、惣助自身に至りては夜間七時過ぎの如きは、自ら外出せる事稀にして他人と争論するが如き行為はなく、むしろ世間よりは柔弱といわるる位のおとなしきものなりしなればなり

第四過失殺戮をうけたるものに非る事
 これはある一種の無頼学生等が一少年に関係ありて、その間何かの衝突起り居るに際し、惣助の容貌等が右少年に類似せるところより見誤られて殺害せられしものにあらずやとの事にして、その理由はもしかかる事に因するものならば、かくも死体を運び歩くいわれなく、また臀肉をもそぎ取るの必要なく、もしまたそぎ取るとするも持ち去るの必要なければなり

第五色情狂
 これは諸種の疑問中にありて、もっとも勢力を占め居る一事件なるが、この目的については当局者もしきりに探偵の範圍を広めつつあり。今、この件に関して警視庁第三部山根部長の談に徴するに、裁判医学上の事実として欧州諸国には往々男女に対する恋情の極み、意中の男女が我が意に従はざる結果、その男女が指頭、または頬肉等をそぎ取りて、あたかもその者を我が手裏に収め得たるが如き感想を抱くものあり。これは、すなわち一種の色情狂者なるが、今回の兇行者も他に聞き出したる事柄に徴して考うる時は、あるいはかかる狂者にてはあらざるやとの事なり。今この兇行前に於ける有力の出来事を集むるに、同夜八時頃同町五十九番地藤井為三郎の妻おきよが麹町六丁目へ買物に行きし時、亀澤横町にて年の頃二十前後の男、突然同女に対し、
「私は麹町十丁目の鶴岡の者なるが、お前さんのところの娘を嫁にくれませんか」
と、相談を仕掛けたれば、同女は気味のわるき男よ、と大いに怖れ、
「とても鶴岡さんの様な大家には手前共の娘はあげられません」
と、ことわりたるに、男は、
「そんなら いたしかたがありません」
と、立ち去りしよしなるが、右男の談話中の鶴岡は有名なる豪家にて雇人も沢山居れど、同夜は決して一人も外出せし事あらざりしといえり。又同時刻に同町三十番地里俗薬師横町とて亀澤横町と接近せる場処へ元陸軍大佐大生定光氏方の下女吉澤おしづ(二十)が用事ありて通りかかれるに、突然年の頃二十五六の袴をうがちたる書生体の男立ち現われ、背後よりおしづに抱きつきあらぬ行為に及ばんとせしかば同人は大いに驚きのがれて大生邸内にかけ込み、なお念の為に悪漢の所在をうかがひしに、右の男は最早目的を達すること能はずと見て取りしか、そのまま急ぎ足にて亀澤横町の方へ立去れりと。さればその時間とこれらの事件とに相照らして臀部切取りの行為を合わせ考うれば、あながち兇行者が行為をくらまさん為めに肉を切り取りて持ち行きしものとも思はれず。一種の色情狂者がうろつき居りて前記おしづを追いかけし後、何とかして欲情をものさんものと、ついに来かかれる惣助を引っ捕らえ、不倫の行為をなして窒息せしめ、死体を運び行きて無惨極まれる事をも為し遂げしにはあらざるか。

 それにしても、なお疑わしきは死後一時間くらいは体温去りたる後といえども出血のあるべき筈なるに、かくもその形跡を認め得ざりし一事なり。もっとも死体発見当時、医師の検視によれば肛門その他にも粘液の付着したる兆候なかりしため、男色的行為に出でたるものにはあらずと断定したるも、漸次捜索の末、かえってその疑問は生じ来たり。当局者協議の後、昨日午前六時をもって死体は帝国大学医学部に送致となり解剖に附せらるるに至りしが、この解剖は万一肛門内部に粘液の残留せるや如何を検すると、咽喉部の傷につき絞殺せしものなるや如何を検するの二條件に因れるものなりと。

 ちなみに記す。この事件起これるより以後、同町付近の女子等は警戒して外出せざる許りか、被害場所に接近せる安藤方をはじめ、遠藤そのほかの諸家にても非常に戸締等は厳重になし、中には物淋しきおもいに堪へずして酒宴を張り不浄払いをなしたる向もありという。また死体発見の時、しきりに吼えてその場所を暗に示したる白犬は、常に死者惣助が訓養していつくしみ居たる犬なり、と同人の実父新吾は警察官に物語れりという。


旧仮名遣い

第五千六百三十八號(明35.3.29)


●麹町の少年殺し(臀肉を抉り取らる)

昨日午前零時四十五分麹町區下二番町五十九番地中島新吉(四十二)なる者殆ど狂氣の体にて麹町署へ駆込來り私の倅が何者にか連去られましたと訴へ出であたふたと署門を出でて走り去りしにぞ同署員は大に驚き直ちに此旨を當直員たる宮内警部に報告したれば同警部は松本刑事を引連れ現塲へ赴き中島方の隣家なる宿車營業藤井爲三郎(五十)と共に捜索に從事したるところ終に同町廿九番地差配人遠藤磐方の勝手口と浴室との間なる凡そ三尺四方の掃溜の傍らに當り一種異様の臭氣の發すると共に一頭の犬非常に吠え狂ひ居る体のただ事ならざる様なれば警部刑事は不審に思ひ犬に從ひてその塲所へ入り込みしに驚くべし一人の少年無慘なる死状を呈して斃れ居たるを發見したり依て同警部は本署へ急報して署長にも上申するところありしかば村島署長は非番當直の別なく警部巡査を指揮して犯人捜索の手配をなしたちどころに非常線を張りたるが一方現塲に於ては判檢事立會の上被害少年の死体を檢視したるに容易ならざる珍奇の傷所を發見したり右は少年の左部咽喉に深さ七分巾五分許りの突き傷一ヶ所眉間に皮下負傷一ヶ所ありたる外奇異の傷所ともいふべきは乃ち左右の臀部を各々一ヶ所抉り取りたる傷ある事にして其抉り取りたる臀肉は何處へ持去りしものか遂に發見すること能はず尤も致命傷とも認むべき傷はあらざるが眉間の皮下負傷は兇行者が少年を大地に押付けたる際眉間を強く砂利に擦り付けしより生ぜしものと覺しく死状によれば鼻孔よりも出血なし居るを以て少年の發聲を防がん爲め鼻孔を壓し窒息せしめたるならんといふ又た圖にも示せるが如く最初は里俗亀澤横町乃ち同町三十五番地高利貸し安藤庄次郎方の窓下にて兇行を開始し夫れより十五六隔りたる前記遠藤方の小路へ引摺り込みここにて鋭利なる刃物を用ひ無慘にも少年の咽喉を刺し猶兇行の意思ををくらまさん爲め臀部の肉を抉り取りたるものに相違なからんとの判定なりかくて兇行の塲所とも思しき處には血痕すこしも見えずただ發見されたる塲所に些少の血痕を認め得たる許りなれば或いは案外の他塲所にて殺害を遂げ死体を此處まで持込みしものか頗る不審なる殺害事件なり而し殺害當時は三番町なる二七不動の縁日に當り夜店の賑ひありし事なれば時間早くては到底かかる大罪の成し遂げ得らるるとも思はれずされば兇行の時間は同夜九時三十分過人足漸く斷えし後ならんとの推測なりさてこの無惨なる死を遂げし少年は前記新吾の長男にして惣助(11)といふ者なるが此新吾は後妻きく(31)同人母くめ(60)惣助妹しづ(6つ)の五人ぐらしにて新吾は目下京橋區西紺屋町の秀英舎へ日給五十銭にて勤め家内は巻煙草内職をなし居たる様なるが目下おきくは身重にて殊に本月は臨月なりしかば新吾の心中は兎角氣係りの事のみ多く一昨夜の如きも蟲が知らすか何となく家内の事が氣にかかりて夜業も手につかざりし爲め同夜九時頃職をやめ歸途に就きたりしが前記麹町六丁目と七丁目との通りを北へ曲り龜澤横町へと進みしに前記安藤方の瓦斯の光にふと見えしは鼠色の外套を着したる脊高き男俯伏しになりて外套の袖の下なる一人の子供に向ひいと懇篤にいたはり居る様子にてシツカリせよシツカリせよと繰返しいふの聲の聞えたれば新吾も子を持てる身のよそ事とも見捨てやらず氣遣はしげに打見やりて其場を通り過ぎ我家へ歸りつきて長男惣助の安否を先づ第一にたづねしに妻おきくは先刻湯屋へやりたるが藥用に供する爲め砂糖を一銭五厘丈け買はせにやりしが其時は既に八時四十分頃なりしとの事に新吾は大に心痛なし最早九時をも過ぎ居るに遊び居るとも思はれねば兎にも角にも一度捜しに行くべしとて常に砂糖を買ひつけにする麹町六丁目の遠州屋事田中作造方へ赴き問合せしに先刻一銭五厘の砂糖をばたしかに買求めに來りしとの事なるにぞ同人いよいよ心配なし龜澤横町の處まで取てかへし心當りの塲所はと心中にて考へ居たる折柄前記安藤方の小溝のかたはらに惣助が山桐臺の書生下駄片足飛び散り居るに同人はハツと思ひて心も打亂れ其處此處と血眼になりてさがしもとめ居たる程に夫より六七間も離れたる同町廿三番地河合方と同四十二番地魚商魚長方との間に又片足を發見したりしかば同人は狂氣の如くなりてさては麹町署へ飛込みたる次第なりしといふ又死体發見の塲所たる遠藤方にては斯る大事件の生じ居たる事をも家人は少しも心附かず毫も物騒がしき事を耳にせざりしとぞ斯くして昨日午前五時迄に立會官は實父及び其妻きくを召喚して假豫審を開き死体は實父に引渡し更に嚴重なる探偵に從事したりと聞く又被害少年惣助は新吾が先妻某の子にて今の母きくは繼母なれどおきくはよく同人を愛すること實子の如く同人もまたおきくに仕へて孝養あつきのみか性質温良の聞え高く四谷區信濃町小學校へ通學し居りて去廿四日の春期試験にも及第して尋常科二年生を修行し優等賞をも得たる程なりしが同人斯る事を自慢にもせず休日の如きは繼母を助けて手内職をなし些少の金にても得る事あらば亂費する事なく却て家計の助けに夫れをさへ出す位なりしを以て善良なる少年の鑑と近所の評判も高かりしまま決して他人より恨みを受くる事なく其實父新吾も同様の善人にて人と物を争ふが如き事は更になしと聞く因に記す被害少年惣助は砂糖を買ひたる釣銭五厘を片手に固く握りて斃れ居たりとぞ

第五千六百三十九號(明35.3.30)

●麹町の少年殺しの續聞

   一昨々夜九時三十分頃麹町區下二番町五十九番地中島新吾長男惣助が里俗龜澤横町に於て奇異の殺害を蒙りたる事は直に昨日の紙上に詳記したるが今其續聞を得たれば下に之を掲出すべしさて昨日以後に於ける麹町警察署は署長以下必死になりて探偵に從事し巡査刑事は當直非番のわかちなく八方に狂奔して手係りを得んと相勵み居れるが警視廳にありても武東警部主任となり部下の刑事三名を率ゐて麹町署に出張し内外相應じて事務に力め居れども如何にせん今回の兇行者が兇行の意思行爲に就ては種々雑多なる疑點生じ居りて其眞相を認むること難きのみならず先づ兇行の塲處といひ死体遺棄の塲處といひ何れの塲處にも手掛りとなるべき物をとどめ得ざれば當局者の困難は大方ならず然れども探偵上の方針に就ては警視廳の偵吏十數名が兇行者の意思行爲を察して各々見込みを附けたる概要を記せば、第一物取に非らざる事これは惣助が殺害されたる當時衣類及び所持品に對し瑣細の紛失品をも認め得ざればなり第二の父母に疑なき事これは惣助の性質温良なる上に父母に仕へてもまた篤行多く後妻きくとの間柄も九年間の長き實母子の人情の如く近隣の噂も既記の通りにして少しも世間の繼母繼子の間柄を認むることなければなり第三父母に對する恨み及び自己に對する他人の恨にあらざる事これは父母ともに評判のよき人々にて家庭も極めて平和に他より寸毫の恨みを受くる覺なく惣助自身に至りては夜間七時過ぎの如きは自ら外出せる事稀にして他人と争論するが如き行爲はなく寧ろ世間よりは柔弱といはるる位のおとなしきものなりしなればなり第四過失殺戮をうけたるものに非る事これはある一種の無頼學生等が一少年に關係ありて其間何かの衝突起り居るに際し惣助の容貌等が右少年に類似せる處より見あやまられて殺害せられしものにあらずやとの事にして其理由は若しかかる事に因するものならば斯くも死体を運び歩く謂れなく又臀肉をも殺ぎ取るの必要なく若し又殺ぎ取るとするも持去るの必要なければなり第五色情狂これは諸種の疑問中にありて尤も勢力を占め居る一事件なるが此目的に就ては當局者も頻りに探偵の範圍を擴めつつあり今此件に關して警視廳第三部山根部長の談に徴するに裁判醫學上の事實として歐洲諸國には往々男女に對する戀情の極み意中の男女が我意に從はざる結果其男女が指頭又は頬肉等を殺ぎ取りて恰も其者を我手裏に収め得たるが如き感想を抱くものありこれは及ち一種の色情狂者なるが今回の兇行者も他に聞出したる事柄に徴して考ふる時は或は斯る狂者にては非らざるやとの事なり今此兇行前に於ける有力の出來事を集むるに同夜八時頃同町五十九番地藤井爲三郎の妻おきよが麹町六丁目へ買物に行きし時龜澤横町にて年の頃二十前後の男突然同女に對し私は麹町十丁目の鶴岡の者なるがお前さんのところの娘を嫁にくれませんかと相談を仕掛けたれば同女は氣味のわるき男よと大に怖れとても鶴岡さんの様な大家には手前共の娘はあげられませんと辭退たるに男はそんなら致方がありませんと立去りし由なるが右男の談話中の鶴岡は有名なる豪家にて雇人も澤山居れど同夜は決して一人も外出せし事あらざりしといへり又同時刻に同町三十番地里俗藥師横町とて龜澤横町と接近せる塲處へ元陸軍大佐大生定光氏方の下女吉澤おしづ(二十)が用事ありて通りかかれるに突然年の頃廿五六の袴をうがちたる書生体の男立現はれ背後よりおしづに抱きつきあらぬ行爲に及ばんとせしかば同人は大に驚き迯れて大生邸内にかけ込み猶念の爲に悪漢の所在をうかがひしに右の男は最早目的を達すること能はずと見て取りしか其のまま急足にて龜澤横町の方へ立去れりとされば其時間と此等の事件とに相照らして臀部切取りの行爲を合せ考ふれば強ち兇行者が行爲をくらまさん爲めに肉を切り取りて持行きしものとも思はれず一種の色情狂者がうろつき居りて前記おしづを追かけし後何とかして慾情をものさんものと遂に來かかれる惣助を引捕へ不倫の行爲をなして窒息せしめ死体を運び行きて無慘極れる事をも爲し遂げしには非るか夫れにしても猶疑はしきは死後一時間位は体温去りたる後といへども出血のあるべき筈なるにかくも其形跡を認め得ざりし一事なり尤も死体發見當時醫師の檢視によれば肛門其他にも粘液の附着したる兆候なかりし爲め男色的行爲に出でたるものにはあらずと斷定したるも漸次捜索の末却て其疑問は生じ來たり當局者協議の後昨日午前六時を以て死体は帝國大學醫學部に送致となり解剖に附せらるるに至りしが此解剖は萬一肛門内部に粘液の残留せるや如何を檢すると咽喉部の傷に就き絞殺せしものなるや如何を檢するの二條件に因れるものなりと因に記す此事件起れるより以後同町附近の女子等は警戒して外出せざる許りか被害塲所に接近せる安藤方を始め遠藤其外の諸家にても非常に戸締等は嚴重になし中には物淋しきおもひに堪へずして酒宴を張り不浄拂ひをなしたる向もありといふ又死体發見の時頻りに吼えて其塲所を暗に示したる白犬は常に死者惣助が訓養していつくしみ居たる犬なりと同人の實父新吾は警察官に物語れりといふ


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