産業ロック推薦図書



故野口寧齋は毒殺されしなり
(「少年を殺して臀肉を抉る」続き)

萬朝報
第四千二百二號, 第四千二百五十三號
(明38.5.13, 明38.7.3)


 「臀肉事件」の続き。今回は万朝報の記事を紹介する。まずは、漢詩人野口寧齋(ねいさい)の死亡記事から。有名な事件だから、ご存知の方も多いと思うが、野口寧齋殺人事件の疑惑から、臀肉事件容疑者として寧齋の妹婿野口男三郎が逮捕されることとなる。(まず、句読点などを足し、新仮名遣いに直した記事を掲げ、原文は最後に載せることにする)


万朝報 第4202号(明38.5.13)2面

●野口寧齋逝く
詩人野口寧齋、昨日未明脳溢血にて死去せり。享年三十九。彼は松陽先生の遺子にして、詩才性格両ながら俗流を抜く。多年蓐中(じょくちゅう)にあって病苦と闘へるも、かつて吟咏を絶たず常に千言立ちどころに成るの慨あり。又母に孝に妹に悌なるを以て深く同人に敬愛せられき。葬儀は明十四日午後一時神式を以て青山斎場に行うと云う。(以下略)




 この時点では、そもそも殺人事件とは疑われておらず、脳溢血による自然死扱いになっている。それから2ヶ月がたって、野口男三郎とその妻曾惠子が警察に連行されると、一大報道合戦と相なった。


万朝報 第4253号(明38.7.3)3面

●故野口寧齋は毒殺されしなり
(その嫌疑者は妹夫婦)

一代の詩人として、博学洽識(こうしき)の才人としてまた当世に稀(ま)れなる孝悌兼備(かねそな)われる君子人としてその遠逝(えんせい)を惜まれたる詩人野口寧齋の遺骨はその交友の至誠より溢(あふ)れし熱涙のいまだその墳墓より乾かざるの今日、再び青山の墓地より発掘され、その生前深くも愛し慈(いつく)しみたる妹の罪を定むるの材料とはせられたり。天下不幸なる人極めて多し、然(しか)も寧齋の如くその半生を病蓐(びょうじょく)に送るの不幸を嘗めつくし死後更に枯骨に辱しめを受るの不幸に遭遇せるもの幾人か有る。ああ天は寧齋が斯(か)ばかり人倫に敦(あつ)く友情に富みたる徳行を認むる能はざりしか。吾人は深く深く寧齋の為めに泣かざるを得ざるなり

▲寧齋の死状  に就てはその死後何(いず)こともなく一種の怪説を伝えられしは事実なり。彼が死後十有一日即ち五月二十四日の夜、寧齋が親と兄との愛を偏(ひと)えに傾け居たる妹の曾惠子(三十一)の夫(もっとも表面は離縁したるなれど)野口男三郎(三十六)なる者が麹町区麹町四の八 小西薬舗事(こと)都築富五郎(二十三)をば豊多摩郡代々幡村字代々木の山林中に於(おい)て毒殺しながら、自ら縊(くび)れて死したる如く見せかけたる事実ありき。この時も初めは男三郎の毒殺なる事一向に不明なりしも、警官の探偵の結果と一旦青山墓地に埋葬されし富五郎の死体が再び発掘されて解剖されし末、言わぬ屍(かばね)がその毒殺なる事を明かに示せし為、その下手人の男三郎なる事分明し、彼は同月二十八日の六時頃飯田町停車場にて捕縛されたり(事は同月三十日の紙上に委し)。而(しこう)してこの男三郎を取調べの結果種々なる秘密、それよりそれと暴露し来り、寧齋はこの悪漢の手によりて毒殺せられし者ならずやとの疑問、その筋の人々の脳中に湧き来り警視庁の宮内警部主任となり、金子巡査は百方内偵の末その謀殺に出でし事をつき止め、ついに去二十九日の朝東京地方裁判所の判検事ならびに警視庁警部等青山墓地に出張同所四号墓地に埋葬しある寧齋の墳墓を発掘しその死体を帝国医科大学に送り、解剖の結果胃中に毒薬の存する事を確め得たり。而(しか)もこの毒は寧齋

▲自(みず)から仰ぎしものか  他から与えしものか、これ初めに研究すべき問題なるべし。されど寧齋は気力の人なり。病の為めにその半生を苦められながら、なお手、書巻を放たず詩を作り文を草し能(よ)く友と交わり疾(やまい)篤(あつ)くしていよいよ気力の旺(さかん)なりしは何人も知る所なり。この人、如何(いか)で自殺するの所以(いわれ)あらんや。まして遠逝(えんせい)せる五月十三日の前夜は午後十時頃まで母堂と妹曾惠子とがその枕邊に在りて睦(むつま)しく語り合い十一時過る頃寧齋は次の間に退(さが)りし妹に向い襖(ふすま)越しに寝よと命じ自分も眠りに就きたり。然(しか)るにその翌朝五時半頃曾惠子は「兄上は死したり」と絶叫せし為め母なる人は台所にありしが、それと聞き打倒るるばかりに驚かれし程にて、前夜少しも憂悶の色なかりしより考え、また多年病蓐(びょうじょく)に在り、然(さ)る毒薬を得る途(みち)なきに思ひ併(あわ)せても自殺に非(あら)ずして他殺なるは分明なり。しかもその折駈付けし近傍麹町区六番町の医師木澤敏及び同家の親戚なる京橋区釆女町の医師浦島松雄の両人は、これを脳溢血と即断し木澤はその診断書を作りし為め、越えて十五日何事もなく盛んなる葬儀を営むに至りしが、男三郎が他に対する悪事の露顕せしため端なくも寧齋毒殺の嫌疑を生ずるに至りたり。若し男三郎が

▲寧齋を毒殺せし者とすれば  これについては先づ野口家の内情を語らざるべからず。寧齋の徳高かりしにつけ、かかる事を語らざるべからざるは誠に遺憾の限りなれど、語れば語る程寧齋の人格は高くなる事ゆえ、忍んでその事実を記すべし、寧齋は故野口松陽の長子にして一弟一妹あり。弟は早く他家を継ぎ妹は曾惠子なり。松陽といえる人は当時有名なる詩人なりしが、夭逝したるより寧齋の母堂は爾来幾十年節操を守りて三子を養育し、すこぶる賢母の譽れあり。寧齋は年少能く父の名を成し、一弟また文界に名あり。曾惠子もまた淑徳の婦人として友人間に称せられ、野口の家門は寧齋が長(なが)の病気にもかかわらず春風吹き断えず和気藹々(わきあいあい)として世人の羨む処(ところ)なりしが、母に孝に兄に悌なりし曾惠子は一年(ひととし)恋の魔神に魅(みい)られけん、男三郎と道ならぬ契(ちぎり)を結ぶに至りたり。しからばその

▲男三郎とは何者ぞ  彼は大坂市西区新町通三丁目四番屋敷度量衡商竹林龍橘の弟にして、十六歳の時出京し理学博士石川千代松方の食客となり、それより或る人の周旋により寧齋の許に寄食するに至りしが、彼は曾惠子の才色双美なるに懸想し終(つい)に曾惠子を堕落せしめしかば、寧齋は一時は深くこれを憤りしも妹を愛するの余り、自分は不治の難症にかかり一家を処理すること能はざるより、男三郎を容れて順養子となし妹と公然結婚せしめたるは今より五年以前の事にして、両人の間には一女(二つ)をさえ設たり。されど寧齋は程なく男三郎の放蕩無頼の者なる事を発見したり。男三郎は常に外国語学校の卒業生なりと号し、その証書をさえ有し居たれどそれらはすべて偽造にして、その他にも謹厳なる寧齋としては如何(いか)にしても許すべからざる事共続出したるより、終(つい)に昨年十一月頃より離縁話となり、その戸籍をこそその儘になし置きたれ、旧臘(旧暦12月の異称)頃男三郎は野口家を退かざるを得ずなりたり。爾来男三郎の足は野口家の門内に入る事なかりしも、なお近傍同町四番地なる魚屋和田儀平方に下宿し居り、曾惠子もまた母と兄との目褄(めつま)を忍び同町の酒屋加藤安二郎方へ赴き、しばしば密会したる事ありという。思うに両人の間には子供さえ有り、情緒の絶てども絶ち難きもの有てここに至りしなるべけれど、両人の悪縁の尋常ならずまつわるべき理由は野口家が家宅捜索を受し時発見されし曾惠子が

▲秘密になし置きたる函中の文殻(ふみがら)  より露顕せしにて、その文の中には外にも犯罪の証拠となすべき物ありしやに伝はれど、無論これは分明ならず。ここに注目すべきは男三郎が都築を毒殺せしは金に目をつけし為めよりも、むしろ毒薬を手に入れんとし、その結果都築を殺すに至りしものの如く、それらの証迹(しょうせき)その筋の手に入り、終(つい)に男三郎が寧齋を毒殺するの意志ありしとの判断に到着し、その結果曾惠子の手がその毒を兄の口に送りしとの判断に至りしものの如し。この判断が若し事実なりとするも、曾惠子が毒薬と知らずして兄に薦めしか否かはここに明言すべき限りに非ず。ただし屍体解剖の翌々日、即ち一日を以て野口家は家宅捜索を受け曾惠子も即日拘引せられ検事は同人をも謀殺犯人として起訴したりといえば、自(おのず)からその間の消息を窺(うかが)うに足らん、兎に角男三郎に殺意ありしとすれば

▲その殺意は何故に生じたるか  その一因は無論男三郎が曾惠子との縁をば寧齋の為に絶たれ、幾たび人を以て復縁を求むるも寧齋の為めに拒まれしを恨みしものなるべけれども、他の一因は寧齋の蓄財に目をつけしには非(あら)ざるか。寧齋は自己が不治の疾ひに罹(かか)りしを自覚するや、彼はその特有の克己力を出して節倹これ力(つと)め、平生親友に送る書簡の如き、古新聞紙引札の類を継合せて之に認(したた)むる程になせしかば、貯蓄は次第に多くなり行き、東京電車鉄道の株券九十五株を初め、有価物件二万円に及び蔵書また二万巻に上り、先年その大部を割き之を妹と母とに分配したり。されどこの財産とて寧齋だに死せばいづれも妹の手に帰すべく、男三郎にして野口家に復帰せば女房の物はわが物と思ふ心の有りしも計るべからず。兎に角二代の才人を出して孝悌の家として知れたる野口家の門に、かかる不祥の事の起りしは、返す返すも遺憾の極み、母堂の胸中や如何(いか)ならん


 寧齋の死亡記事でも、妹夫婦逮捕の記事でも、寧齋の病名はこの時点では明らかにされていないのだが、実際は癩病(ハンセン氏病)患者だったのである。癩病の発病メカニズムも明らかにない治療法も確立した今ですら、感染者は偏見の目と戦わなければならない状況だが、明治の頃であれば、言うに言われぬ「業病」扱いを受けていたのは間違いない。報道機関も、高名な詩人相手に病名を明記するのを避けているのであろう。だがこの後、臀肉事件の容疑者として男三郎が逮捕されると、新聞記事もそれに触れざるを得なくなっていく。上掲の記事の出た5月13日の時点では、まだ男三郎は臀肉事件については逮捕されていないのだが、記者たちの間では知れ渡っていたらしく、「●故野口寧齋は毒殺されしなり」の記事のすぐ横に、このような記事が出ている。


●少年臀肉切取の犯人
さる三十五年三月二十七日の夜、麹町区二番町二十九差配人遠藤盤方湯殿の軒下に於て、同町五十九中島新吾長男中島總助(十一)といふ少年が臀肉を切取られ悲惨の最期を遂げたる事ありき。当時我社は日々その事件について天下の注目を惹くべき記事を掲げしが、今回の事現はるるに至りこの無惨なる下手人を以て或者に擬せんとする向きもあるなり。吾人は今にわかにこれを明言するの自由を有せざれば、ここには只その犯人の現れ来らんとするを告白し置くのみ


 いかにも思わせぶりで読者の気を引く明治らしさがよく出ている文章だ。寧齋殺人事件のすぐ隣にこの記事があって、すぐその犯人が誰か推測できてしまうであろうところも如何にも明治的。このページも記事に倣って、一旦ここで終わることとしよう。

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旧仮名遣い

萬朝報 第4202号(明38.5.13)2面

●野口寧齋逝く
詩人野口寧齋、昨日未明腦溢血にて死去せり享年三十九、彼ハ松陽先生の遺子にして詩才性格兩ながら俗流を抜く、多年蓐中に在て病苦と闘へるも曾て吟咏を絶たず常に千言立ろに成るの慨あり又母に孝に妹に悌なるを以て深く同人に敬愛せられき、葬儀ハ明十四日午後一時神式を以て青山齋塲に行ふと云ふ、(以下略)

萬朝報 第4253号(明38.7.3)3面

●故野口寧齋は毒殺されしなり
(其嫌疑者は妹夫婦)
一代の詩人として、博學洽識の才人としてまた當世に稀れなる孝悌兼備はれる君子人として其遠逝を惜まれたる詩人野口寧齋の遺骨ハ其交友の至誠より溢れし熱涙のいまだ其墳墓より乾かざるの今日再び青山の墓地より發掘されその生前深くも愛し慈しみたる妹の罪を定むるの材料とハせられたり、天下不幸なる人極めて多し然も寧齋の如く其半生を病蓐に送るの不幸を嘗め盡し死後更に枯骨に辱しめを受るの不幸に遭遇せるもの幾人歟有る、あゝ天ハ寧齋が斯ばかり人倫に敦く友情に富みたる徳行を認むる能はざりし歟吾人ハ深く深く寧齋の爲めに泣かざるを得ざるなり
▲寧齋の死状  に就てハ其死後何こともなく一種の怪説を傳へられしハ事實なり、彼が死後十有一日即ち五月廿四日の夜寧齋が親と兄との愛を偏へに傾け居たる妹の曾惠子(三十一)の夫(尤も表面ハ離縁したるなれど)野口男三郎(三十六)なる者が麹町區麹町四の八 小西藥舗事都築富五郎(二十三)をバ豊多摩郡代々幡村字代々木の山林中に於て毒殺しながら自ら縊れて死したる如く見せかけたる事實ありき、此の時も初めハ男三郎の毒殺なる事一向に不明なりしも警官の探偵の結果と一旦青山墓地に埋葬されし富五郎の死体が再び發掘されて解剖されし末言はぬ屍が其毒殺なる事を明かに示せし爲其下手人の男三郎なる事分明し彼ハ同月廿八日の六時頃飯田町停車塲にて捕縛されたり(事ハ同月三十日の紙上に委し)而して此男三郎を取調べの結果種々なる秘密それよりそれと暴露し來り寧齋ハ此惡漢の手によりて毒殺せられし者ならずやとの疑問其筋の人々の腦中に湧き來り警視廰の宮内警部主任となり金子巡査ハ百方内偵の末其謀殺に出でし事をつき止め終に去廿九日の朝東京地方裁判所の判檢事并に警視廰警部等青山墓地に出張同所四號墓地に埋葬しある寧齋の墳墓を發掘し其死体を帝國醫科大學に送り解剖の結果胃中に毒藥の存する事を確め得たり而も此毒ハ寧齋
▲自から仰ぎし者歟  他から與へし者歟、是れ初に研究すべき問題なるべし然れど寧齋ハ気力の人なり病の爲めに其半生を苦められながら尚手書卷を放たず詩を作り文を草し能く友と交り疾篤くしていよいよ氣力の旺なりしハ何人も知る所なり、此人如何で自殺するの所以あらんや况して遠逝せる五月十三日の前夜ハ午後十時頃迄母堂と妹曾惠子とが其枕邊に在りて睦しく語り合ひ十一時過る頃寧齋ハ次の間に退りし妹に向ひ襖越に寢よと命じ自分も眠に就きたり然るに其翌朝五時半頃曾惠子ハ兄上ハ死したりと絶叫せし爲め母なる人ハ臺所に在りしがそれと聞き打倒るゝ計に驚かれし程にて前夜少しも憂悶の色なかりしより考へ又多年病蓐に在り然る毒藥を得る途なきに思ひ併せても自殺に非ずして他殺なるハ分明なり然も其折駈付けし近傍麹町區六番町の醫師木澤敏及び同家の親戚なる京橋區釆女町の醫師浦島松雄の兩人ハ之を腦溢血と即斷し木澤ハ其診斷書を作りし爲め越ゑて十五日何事もなく盛んなる葬儀を營むに至りしが男三郎が他に對する惡事の露顯せしため端なくも寧齋毒殺の嫌疑を生ずるに至りたり、若し男三郎が
▲寧齋を毒殺せし者とすれバ  これについてハ先づ野口家の内情を語らざるべからず寧齋の徳高かりしにつけ斯る事を語らざるべからざるハ誠に遺憾の限りなれど語れバ語る程寧齋の人格ハ高くなる事故忍んで其事實を記すべし、寧齋ハ故野口松陽の長子にして一弟一妹あり弟ハ早く他家を繼ぎ妹ハ曾惠子なり松陽といへる人ハ當時有名なる詩人なりしが夭逝したるより寧齋の母堂ハ爾來幾十年節操を守りて三子を養育し頗る賢母の譽れあり寧齋ハ年少能く父の名を成し一弟亦文界に名あり曾惠子も亦淑徳の婦人として友人間に稱せられ野口の家門ハ寧齋が長の病氣にも拘らず春風吹き斷えず和氣藹々として世人の羨む處なりしが母に孝に兄に悌なりし曾惠子ハ一年戀の魔神に魅られけん男三郎と道ならぬ契を結ぶに至りたり、然らバ其
▲男三郎とハ何者ぞ  彼ハ大坂市西區新町通三丁目四番屋敷度量衡商竹林龍橘の弟にして十六歳の時出京し理學博士石川千代松方の食客となり夫れより或る人の周旋により寧齋の許に寄食するに至りしが彼ハ曾惠子の才色双美なるに懸想し終に曾惠子を堕落せしめしかバ寧齋ハ一時ハ深く之を憤りしも妹を愛するの餘り自分ハ不治の難症に罹かり一家を處理すること能はざるより男三郎を容れて順養子となし妹と公然結婚せしめたるハ今より五年以前の事にして兩人の間にハ一女(二つ)をさへ設たり然ど寧齋ハ程なく男三郎の放蕩無頼の者なる事を發見したり男三郎ハ常に外國語學校の卒業生なりと號し其證書をさへ有し居たれどそれらハ都て僞造にして其他にも謹嚴なる寧齋としてハ如何にしても許すべからざる事共續出したるより終に昨年十一月頃より離縁話となり其戸籍をこそ其儘になし置きたれ舊臘頃男三郎ハ野口家を退かざるを得ずなりたり爾來男三郎の足ハ野口家の門内に入る事なかりしも尚近傍同町四番地なる魚屋和田儀平方に下宿し居り曾惠子も亦母と兄との目褄を忍び同町の酒屋加藤安二郎方へ赴き屡バ密會したる事ありといふ、思ふに兩人の間にハ子供さへ有り情緒の絶てども絶ち難もの有て茲に至りしなるべけれど兩人の惡縁の尋常ならず纏るべき理由ハ野口家が家宅捜索を受し時發見されし曾惠子が
▲秘密になし置きたる函中の文殻  より露顯せしにて其文の中にハ外にも犯罪の證據となすべき物ありしやに傳はれど無論是ハ分明ならず、茲に注目すべきハ男三郎が都築を毒殺せしハ金に目をつけし爲めよりも寧ろ毒藥を手に入れんとし其結果都築を殺すに至りしものゝ如くそれらの證迹其筋の手に入り終に男三郎が寧齋を毒殺するの意志ありしとの判斷に到着しその結果曾惠子の手が其毒を兄の口に送りしとの判斷に至りしものゝ如し此の判斷が若し事實なりとするも曾惠子が毒藥と知らずして兄に薦めしか否歟ハ茲に明言すべき限りに非ず但屍体解剖の翌々日即ち一日を以て野口家ハ家宅捜索を受け曾惠子も即日拘引せられ檢事ハ同人をも謀殺犯人として起訴したりといへバ自から其間の消息を窺ふに足らん、兎に角男三郎に殺意ありしとすれバ
▲其殺意ハ何故に生じたる歟  其一因ハ無論男三郎が曾惠子との縁をバ寧齋の爲に絶れ幾たび人を以て復縁を求むるも寧齋の爲めに拒まれしを恨みしものなるべけれども他の一因ハ寧齋の蓄財に目をつけしにハ非る歟、寧齋ハ自己が不治の疾ひに罹りしを自覺するや彼ハ其特有の克己力を出して節儉これ力め平生親友に送る書簡の如き古新聞紙引札の類を繼合せて之に認むる程になせしかバ貯蓄ハ次第に多くなり行き東京電車鐵道の株券九十五株を初め有價物件二万圓に及び藏書亦二万卷に上り先年其大部を割き之を妹と母とに分配したり然ど此財産とて寧齋だに死せバいづれも妹の手に歸すべく男三郎にして野口家に復歸せバ女房の物ハわが物と思ふ心の有りしも計るべからず兎に角二代の才人を出して孝悌の家として知れたる野口家の門にかゝる不祥の事の起りしハ返す返すも遺憾の極み母堂の胸中や如何ならん

●少年臀肉切取の犯人
去三十五年三月二十七日の夜麹町區二番町二十九差配人遠藤盤方湯殿の軒下に於て同町五十九中島新吾長男中島總助(十一)といふ少年が臀肉を切取られ悲慘の最期を遂げたる事ありき當時我社ハ日々其事件について天下の注目を惹くべき記事を掲げしが今回の事現はるゝに至り此無慘なる下手人を以て或者に擬せんとする向もあるなり吾人ハ今驟かに之を明言するの自由を有せざれバ茲にハ只其犯人の現はれ來らんとするを告白し置くのみ


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