産業ロック推薦図書



故野口寧齋氏の墳墓發掘
東京朝日新聞
第六千八百一號, 第六千八百三號, 第六千八百四號
(明38.7.3, 明38.7.5, 明38.7.6)


警視廳と新聞紙 野口家事件に付て
讀賣新聞
第一萬八十六號, 第一萬八十八號
(明38.7.4, 明38.7.6)

前回に引き続き臀肉切り事件。野口男三郎の野口寧齋殺人疑惑についての萬朝報の記事は既に紹介したが、今回は東京朝日新聞と読売新聞の記事を紹介する。まずは、新仮名遣いに直したものを掲載し、旧仮名遣いの本文は後ろにまとめて載せるものとする。


東京朝日新聞 第6801号 (明治38年7月3日)六面

●故野口寧齋氏の墳墓発掘

 麹町区下六番町に住みし野口一太郎といえば、漢詩人として天下に名を売りたる故寧齋氏たる事を知らざる者あらん。近頃同氏の死状に就て種々の取沙汰あり。この高潔なる一代の詞家を、毒手に害したるやの怪聞頻々として口より耳にとささやかるるは、そも真か偽か。これに就て、一昨日東京地方裁判所清水検事、石川判事、警視庁宮内警部等は立会の上、故寧齋氏が永久に眠れる青山の墻墓(おくつき)をば発掘せりと聞く。嗚呼々々、一代を文芸の術につとめ、慈愛を令妹の一身に濯(すす)ぎて、他念なかりし高潔なる詩人、英魂去って墓標未だ新なるに、たちまち屍を天日の下に曝(さら)さる。そも、この罪を負わせしは誰ぞ。近隣の人伝えていう、令妹およびその婿野口男三郎両人は今や其家にあらず。さきごろ一警吏この人々を拉し去るを見たりと。事の真相は妖雲に蔽(おほ)わる。いつの日か遂に照魔の光明(ひかり)を仰がん

同日の万朝報と比べると、いかにも記事の量が少ない。となると、このニュースについては万朝報が早くから何らかの情報をつかんでいて、他社よりも突っ込んだ取材を事前にしていたためかもしれない。しかし、万朝報の取材に触発されたのか、翌々日から続報が入ってくる。


東京朝日新聞 第6803号 (明治38年7月5日)六面

●寧齋氏毒殺事件続聞

 かつては一世の詩才と仰がれて、三番町なる野口氏が邸前をよぎる者、皆頭(かしら)を回(めぐ)らして、これぞ詩人寧齋氏が雅房よ、と欽仰の情を寄せたるに、今は妖雲その附近に立こめて厳めしき警吏は間なく時なく門前を巡行し、往く者、来る者、皆一種の鬼気に襲わるるの感なくんばあらず。さて、この怪しむべき大事件に嫌疑の綱を結び付けられたる武林男三郎が一身に就て、なお詳記する処(ところ)あらしめよ。

 同人は野口家の養子となれる以来、しきりに野口家の財産を曽恵の名義に改めたしと望み、密かに寧齋氏の母恵以子に取入りて成就せしめんと企てしが、恵以子は敏(さと)き女性とて、男三郎の甘言に惑わされず、常にその要求をしりぞけたれば、男三郎も失望なし居たる折柄、寧齋氏は男三郎の不甲斐なき人物たるを看破し、遂に離縁問題を提出して見事にこれを断行したる次第なり。ゆえに野口の財産が曽恵の名に書換えられしとの報道は全く誤聞なる事明瞭せり。かくて男三郎が野口家を出でし後は、遠く隔離して曽恵を捨(すつ)るに忍びず、よって三番町近くにその身を潜めんとなしたる時、幸いにも同町四番地の魚屋和田義平方に貸二階の貼札あるを見たれば、大に喜びて借受け月々九円を払い居たり。男三郎この家に移りて後は、何一つ道具もなき部屋にぽつねんと座り込み、読書に耽(ふけ)る外は手紙を認(したた)むるより何事もなさざりしが、やがて都合ありと称して飄然(ひょうぜん)この家を立去りたり。同家にては、もとより野口家を離縁されし男とは知らず、ただ温良なる書生さんとのみ思い居たりといえり。殊に男三郎の性行獰悪(ねいあく)なりしに拘らず、平生の行為女らしく愛嬌に富める風貌もて嫣然(えんぜん)人に接したれば、婦人などの評判は取分(とりわ)けよく、和田方にてもこのごろの噂を聞き及び、あの人がと驚嘆する許(ばか)りなりという。

まだこの日の記事はそれほど突っ込んでいなくて、男三郎の身の上もそれほど詳細には書かれていないが、翌日6日になってようやく3日の万朝報並みの記事になる。


東京朝日新聞 第6804号 (明治38年7月6日)六面

●寧齋氏毒殺事件続聞

 詩人、才媛、好男子、癩病、毒殺、人肉斬、此等の人物風説をもて編み成れたるこの大事件の、いかに暗澹たる小説的事実に富めるや。記者は筆をすすめて事件の形相を報ずるごとに、男三郎が悪人としての奸手段は、悪人として故に作り出されたる小説中の人物にも優れるを知る。読者よ吾人が伝聞せる記事に就て、これを窺知(きゅうち)せよ。

信州駈落に就て

 男三郎曽恵とが信州に赴きしは、昨年七月中の事にして、両人が足を止めたるは同国埴科郡坂城村村長宮澤園右衛門方なり。男三郎が園右衛門と相知れるは、かねて男三郎が徴兵検査を地方にて受けん目的にて、信州地方へ旅行せし時、汽車中にて不思議にも詞(ことば)を交わしたる男あり、この男、すなわち園右衛門にて、これより両人の間は懇意を結びたるものなるが、男三郎は例の奸才をもて園右衛門を説き、同家へ寄留する事を許されしにぞ、この縁にて信州駈落の事は断行され、駈落せし上は同家へ落付くが事の順序とはなりたるなり。この時男三郎は寧齋氏に駈落先を隠しもせず、これより長野県へ赴く由、通知せしため、寧齋氏は大に驚き、一時は不義の行為を憤りしも打捨て置くわけにもいかねば、親友上村売劔氏をして、両人を迎えかえらしめたる次第なり。上村氏は両人を信州より連れかえるや、神田区万世橋側の旅館朝日屋へ泊め置き、寧齋氏方へ公然詫を入れて結婚の相談を遂げ、同年八月中、四谷伝馬町一丁目の料理店武源楼にて、目出たくその式を挙げしめたるなり。

離婚当時の男三郎

 男三郎より離婚を申出でたるは、全く同人が例の奸手段を振まわさんとせしものにて、こうすれば寧齋氏も必ず行詰まるべしと、高をくくりての遣方なりしは明白なる事実なるが、この策案外に当らずして、離婚沙汰は進行し、本年二月いよいよ離婚と決着するや、男三郎の態度は一変して、復帰運動の奔走に力をこめ、前記の如く八方親戚へ駆けまわりて泣きを入れし結果、遂に離婚は断行せられずしてうやむやの裡(うち)に葬られ、今日まで男三郎は野口家の戸籍面より未だ除かれざる者となり居れり。

男三郎の陰険手段

 離婚を我より申出でし如く、男三郎の陰険は一にこれに止まらず、何につけ彼につけ人の心を計り、顔色を窺(うかが)いて、奸悪なる手段を用いし事は明瞭なり。彼が離婚問題提出前、彼は通訳官となりて従軍する旨を告げ、頻(しき)りに寧齋氏の心中を探れる事あり。当時曽恵は妊娠中の事とて、男三郎が戦地へ行くなどいわば、野口の一家は大に狼狽すべき筈なれば、かくと見越したる彼が、通訳官問題を振まわせるも、実に陰悪なる心情より湧き出でしものに外ならず。この通訳官に関しても、野口の親戚某が大に怪しみ、さらば足下が受取りし辞令書を見せよと迫りしに、彼はハッと驚きし体を装い、自分が横須賀に滞在中秘密書類を容(い)れおきし大鞄を、盗賊のために窃取されたれば、その中に入れおきしかの辞令書も、飛んだ災難にあいし事ゆえ、今は手元に無しと図々しくもその場をごまかし了(おわ)りたりと。その大胆不敵なる偽事を得意とする彼の心性、陋劣とも悪劣ともいうに忍びざる程ならずや。

寧齋氏の訃に接せし時

 寧齋氏が急に死せりとの報、淀橋伊澤方にありたる男三郎の耳に入るや、彼は別に驚きたる様子もなく、平然としてはア、ソーデスカと答えしのみ。後日伊澤氏の妻女が語りて言う、『あの当時男三郎さんをせめて通夜にもと野口家へ申入れましたが、野口家では第一に母堂が承知せず、遂々男三郎さんの親切も遂げられずに仕舞いました、此時男三郎さんは遺憾の体で、是非他処ながら回向をして来るとて、出て行かれました』と。また、男三郎自身が後人に語れるには、『通夜の事を拒絶されたので、殘念で堪りませんから、あの晩は兄の家へ忍込み、人知れぬ所で、一生懸命回向しておりました』と。偽も偽も大偽を吐く事に馴れたる彼は、コンナ事を以て世間を欺きしものと見ゆ。ことに伊澤氏の妻女が言に至りては素より当てにならざる也。

●臀肉切事件と関連する風説

 奇なる事実は更に奇なる事実を産みて、詩人の毒殺という大悲惨事に次ぐに、往年、世評喧(かまび)すしかりし一椿事臀肉切の奇獄再燃し来り、両両相関連するかの如く噂さるるに至りぬ。毒殺の事件、なお予審に在りて真相を判じ難く、したがって本件も素(もと)より坊間の途説に止まれども、しばらく外間に現はれたる事実をのみ記(しる)して他日審理の結果を待つ。

 さきにも記(しる)せし如く、臀肉切事件は、さる三十五年三月二十六日の夜、麹町区下二番町二十九番地の差配人遠藤磐方にて、何者か同町五十九番地中島新吾の長男惣助(十一)の臀肉を椀大に切り取り、かつ咽喉を刺して殺害したるものなり。爾来(じらい)今日までその犯人を発見するに至らず。然るにここに図らずも、かの寧齋氏毒殺の嫌疑者たる野口男三郎に対し世間の風評集中して、怪説紛々人をして五里霧中に彷徨(ほうこう)するの思いあらしむ。白眼冷静なるべき操觚者流も、また走ってその渦中に投ぜんとするもの滔々(とうとう)相踵(つ)ぐ。然(しか)れども吾人は飽(あく)まで冷静なり。唯少しく聞く所を記(しる)さしめよと言うのみ。

 椿事の当時、寧齋氏は下二番町五十九番地吉田某所有の一戸を借りて住居し、男三郎もまた同居せしが、被害者惣助の死し居たる場所とは僅かに小路一ツを隔てたる近距離にして、当時所報の如く加害者は鋭利なる短刀にて肉を斬り取りし形跡ありと言うに、当の嫌疑者たる男三郎は身辺常に一尺許の短刀を離さず、これ我が護身用なりとて、現に角筈の伊澤方にてこれを示したる事あり。かつ惣助の父新吾は曰く、「与が当時加害者と覚しき男を見たるに色白く眉秀で如何にも美貌の若者らしく認めたり」、と。また彼の妻きく(三十)が、その頃同区元園町二丁目齋藤という巻タバコの工場に通い居たるに、フト一人の書生が来て、惣助の事は如何にもお気の毒に思うゆえ、毎月金三円位を私の志として差上げたし、と言いたる事あり。その男の顔が今度の男三郎に似たり、という。これらの片言隻語も今日の場合多様の響きあるに似たり

 この日の記事で注目すべきは、記事の冒頭に「癩病」について触れられている点である。万朝報の記事でも、後で見る読売新聞でも、はっきりと「癩病」と記事には書かれていない。万朝報の寧齋の死亡記事では、「多年蓐中(じょくちゅう)にあって病苦と闘へる」(万朝報 第4202号(明38.5.13)2面)とあるだけだ。読売では、「我一家は血統に汚れあれば、永く世の累(わづら)いとなるは忍び難き事なれば、兄妹相誓って婚姻は止め、一家を天の運命に任せ、清き自然に帰る事を期すべし」(読売新聞 第10086号 (明治38年7月4日)三面 )との寧齋の言葉の引用のみ。もっとも、この朝日の記事でも「癩病」という言葉は使ってはいるが、それが寧齋の病気であることは明示はしていないのだが。また、臀肉切り事件の犯人についても、朝日の記事では「その男の顔が今度の男三郎に似たり、という。」とあり、万朝報の記事よりも事件について突っこんだ内容になっている。

 続いて読売新聞の記事の紹介。万朝報と東京朝日新聞では、7月3日に寧齋の遺体掘り返しについての記事が掲載されているのだが、読売新聞には掲載されていない。何故か?答えは読売の7月4日に掲載されている。

読売新聞 第10086号 (明治38年7月4日)三面

そゞろ言
警視庁と新聞紙
     野口家事件に付て

 新聞紙が予審進行中の事項を記載することを得ざるは、新聞紙条例の明かに規定する所、我輩又他の注意を待たずしてこれを知る。ゆえに我輩は故寧齋野口氏の一家に関する犯罪事件について、当初多少の聞知せる所ありしも、一には一世の詩人として、品性高潔の君子として、一杯の土未だ乾かざる故寧齋氏に対し、軽忽に之を天下に暴露するに忍びざると、一には条例に明文あり、司直の府が犯罪審理の進行に妨(さまた)ぐることあらんを恐るるとに因り、我輩は操觚者の徳義として、之を紙上に公にすることを慎みたりき。

 然るに再昨日、警視庁は左の如き菎蒟(こんにゃく)版刷の注意書を各新聞社に配附し、我社にもまたその一葉を齎(もた)らしたり。

ある犯罪事件に就て野口寧齋翁の墳墓発掘云々の件掲載相成候(あいなりそうろう)時は新聞紙条例第十六条に抵触し予審進行上容易ならざる次第に付掲載不相成候様(あいならざりそうろうよう)致度(いたしたく)此段申進候也(このだんもうししんぜそうろうなり)

猶々右注意申上候は墳墓発掘の四字を明示すること最も発禁に付、御含み相成度申添候也(あいなりたくもうしそえそうろうなり)

明治三十八年七月一日   警視庁   

 条例の明文に加うるに、更にこの特別の注意を以てす。故に我輩は益々事態の重大なるを信じ、益々筆端を慎みて、あえてこの事件に付き一字を記せず、以て昨日に至れり。

 しかるに昨朝の都下の諸新聞は、往々にしてこの事を記せり。故に我輩はすこぶる之を疑い、我同業者の徳義に信用を置くと同時に、警視庁があるいはこれを許せしやを想えり。否ざれば徳義ある我同業者が、みだりにこれを記載するの理なければなり。ここに於て我輩は少しくその消息を繹(たず)ねしに、果然、果然、警視庁は前夜を以てこれを許せりと言う。但し片言は以て訟を聴くべからず、故に更に電話を以てこれを警視庁に質したり、警視庁は曰く、


実はアノ事件は大分漏れたので昨夜黙許することとし、聞きに来ない新聞社には当庁から電話でその旨を通じました。
我社員は、同夜我社の編集局には宿直の者詰め居りしも、深夜まで貴庁より何等の電話にも接せざりし旨を告げしに、彼は今その電話を掛けし者不在なるも、貴社(我社を指す)にも掛けし筈なり、と言えり。 電話の交渉は右の如し。この電話に於て答弁せし人の何人なるやは、我輩これを知らず、加之(しかのみならず)その答弁者は、右交渉中に確かにその人を代えたり。電話の交渉、あるいは精確を欠くに似たるも、我輩は既にこれによりて顛末を詳らかにし、またこの以上の手数を尽くすを要せずと信じ、無用の労を避けたり。

 氏名すら聞かざりし人の言葉尻を捉えんは我輩の屑(いさぎ)よしとせざる所。しかも彼は責任を帯びての答えなり。しかして曰(い)う、事件の漏れたるがゆえに許せり、と。何ぞその言の自家撞着なるや。漏れたればこそ記載禁止の要あれ、漏れたるがゆえに許すとは、あまりに常識なきものに非ずや。

 しかれども記載の許否は、予審審理上の都合如何によるべく、その都合を知り得べき警視庁がこれを許せし事自体は、固より我輩の容喙(ようかい)すべき要なし。唯だ漏れたるがゆえに許すものとせば、条例の明文は遂に徒法たるべく、少くとも現警視庁の下に於ては、我輩は将来総ての予審事件につき、無遠慮の筆を執るも、警視庁は必ずこれを問はざるべきを信ず。

 かつそれ一旦印刷せし注意書を発せし後に於て、電話を以てその禁を解くと言えるは、その事のあまりに軽忽なるのみならず、現に今回の事の如く、各新聞社に対し、甲には之を通知し、乙には之を怠るの過失を免れざるに至る。我輩はこれを過失と言う、マサカに故意の不公平なかるべければなり。

 事甚だ小なりと言えば、即ち小なり。然れども由来諸官庁、殊に警視庁等の新聞社に対する、往々不注意、失体等の弊風を見る少からず。ゆえに特にこれを言う。 一時は万事なり。請う少しく警醒せよ。

●寧齋氏の墳墓発掘

 一代の詩人博識の君子として、人に貴ばれいたる麹町区下六番町六番地故寧齋野口一太郎氏を五月十四日に葬りし青山墓地の土、まだ乾かざるに、再び五十日祭に当るさる三十日発掘さるるの不幸を生ずる事となつた。当時氏の死状について忌しき説さえ伝えらるることは聞き居たれど、窃(ひそ)かにその説の真ならぬことを祈り居るに、偶然今回の事件を生ずるに至るは気の毒な事なり。

▲野口家の兄妹   父松陽氏逝きて後、寧齋氏は未亡人と令妹そえ子、令弟文三郎氏、以上三人と楽しく日を送り、文三郎氏は島家を嗣ぎて大学の業を卒(お)えたるが、その後大坂生れの一書生にて後に令妹そえ子の婿となつた野口男三郎を食客とせし処(ところ)、そえ子と通じて一子を挙げし時、寧齋氏の悲しみはいかなりしか思いやらる。

▲兄妹の誓ひ   三人はかつて打寄り、我一家は血統に汚れあれば、永く世の累(わづら)いとなるは忍び難き事なれば、兄妹相誓って婚姻は止め、一家を天の運命に任せ、清き自然に帰る事を期すべし、とて寧齋氏も泣きて誓い、そえ子も涙を垂れて誓いし。この瞬間の美しさ気高さは譬(たと)ふるに物ない。

▲令妹の拘引   寧齋氏の死因に就て種々探偵の結果、さる三十日東京地方裁判所より清水検事、石井予審判事警視庁の宮内警部金子刑事等青山墓地に出張し、死体を発掘して帝国大学に送り、直(ただち)に解剖に附したりしに、その結果全く毒殺なること判然し、一日の午後六時犯人嫌疑の一人として寧齋氏の実妹そえ子(三十一年)を拘引し、同時に石井予審判事は巡査数名を率いて同家に臨み家宅捜索を行うに至る。

▲令妹と男三郎   そえ子と養子男三郎との関係については、五月三十日の本紙に『自殺は毒殺』と題して記した、男三郎が麹町四丁目の小西薬店の主人都築富五郎を殺害した事件に詳しく記(か)いたからここには省くとして、男三郎は大坂西区新町通り三丁目四十番屋敷度量衡商武林龍橘の弟にして、寧齋氏のもとに寄食しそえ子と通じたので、寧齋氏も一時は深くこれを憤りしも妹を愛するのあまり、自分は不治の難症に罹かり一家を治めることが出来ねば、と養子にいれ一女(二年)を設けしが、男三郎の放蕩無頼を寧齋氏が看破りて、昨年十一月離縁さる。

▲事件の原因   は、無論男三郎がそえ子との縁をば寧齋氏の為に絶れ、両人間の関係はなお親密な痴情も確かの一原因であれども、寧齋氏の家財は東京電車鉄道の株券九十五株を初め、有価物件二万円と蔵書又二万巻余もあれば、寧齋氏を失きものにすればその財産を横領し得らるると言うに、その筋の調べも重きを置かれているらしい。

▲毒殺とすれば   その毒は何れより得たるか、また何ものが手を下したかの疑いを起さなければならないが、この点に就(つい)ては充分に聞込んだ事もあるが、予審中に属する事柄でもあるから暫らく筆を謹みて公判の決定を待つより外はない。

▲秘密箱の発見   野口家には男三郎所有の秘密箱とかいふものがあって、常にそえ子の手に保管せられてありしが、第二回の家宅捜索の際にその秘密箱を発見せしも、堅牢にして蓋を開くにかたく、僅(わず)かに抽斗(ひきだし)の一部を窺(うかが)い、その侭(まま)裁判所へ押収されたが、この秘密箱の裡(うち)、果して如何なる秘密を包みいしや明かならねど、不思議の文殻(ふみがら)訳えど、元より巷説に過ぎないから只だ一ツの風説として記(しる)しておく。

▲犯罪露顕の源   は言うまでもなく、男三郎が五月二十八日飯田町停車塲で捕縛された薬屋毒殺事件より口が開きしものであるが、前項の秘密箱が彼等の二人に関する秘密中の秘密を暗黒(くらやみ)より明白(あかるみ)に持ち出したとも言うが、いずれにしても総ての事が予審に関すれば今回は先づこれにて筆を止めおく
 警視庁により、記事の差し止め要請があって、素直に従ったウチだけが損してしまったのがケシカラン、というわけだ。しかも、記事差し止め解除の理由が「もう漏れてしまったから」というのだから、筆者の怒りもよく分かる。「しかして曰(い)う、事件の漏れたるがゆえに許せり、と。何ぞその言の自家撞着なるや。漏れたればこそ記載禁止の要あれ、漏れたるがゆえに許すとは、あまりに常識なきものに非ずや。」てのも、威勢がよくていいタンカですナ。男三郎に関する記事を「いずれにしても総ての事が予審に関すれば今回は先づこれにて筆を止めおく」とワザワザ書いて終わらせるというのもなんか、明治の人の意地っ張りなところが出ていて微笑ましい。

 さて、ここで少し寧齋事件からはいささか離れてしまうが、万朝報、東京朝日新聞、読売新聞と記事を読んできて、お気づきになった点はないだろうか。この三紙を読みやすさという点で比べてみると、読売が一番読みやすく、万朝報が最も読みにくいのではないかと思われる。よく知られていることではあるが、明治初期の新聞は大まかに「大新聞(おおしんぶん)」「小新聞(こしんぶん)」のジャンルに分かれていた。「大新聞」とは、主に自由民権運動の流れの中で、政党の機関紙から派生してきたもので、外交問題や国政に関することなど、大上段に振りかざした少々難し目の新聞だった。それに対し、「小新聞」は、庶民向けの文芸とか犯罪記事などをメインに据えた新聞で、流れとしては瓦版に連なるものだった。読売新聞は、この「小新聞」の親分格だった。朝日新聞も、大阪で誕生したときには「小新聞」だったが、東京に進出して「読売」を代表とする「小新聞」と差別化する為か少し対象読者を上に持ってきているようだ。それに対する万朝報だが、創刊が明治25年と遅く、いわゆる「大新聞」とは呼ばれないが、対象読者は「小新聞」とは異なっている。この違いが、現在の読者が感じる「読みやすさ・読みにくさ」に影響していると思われる。

 使っている言葉を比べてみても、万朝報は漢語が多く、それだけでも読みにくいのだが、最も特徴が出ているのが三紙の句読点の使い方の違い。引用した「旧仮名遣い」の項で確認していただきたいのだが、万朝報では句読点を全く使っていない。東京朝日新聞では、句点「。」は使っていないが、読点「、」は使っている。それに対し読売新聞では、読点「、」も句点「。」も使用している(ただし、句点を使っているのは論説文の「そぞろ言」のみ。通常の記事では朝日と同じく読点だけを使っている)。特に読売新聞が読みやすさに心を砕いていたことが分かるのが、三面の冒頭にある、この記述。

読売新聞 よみうりしんぶん

読売新聞は文学政治などむずかしいものの外(ほか)は、ごくやさしく書きますが中にもこの一枚は女小供の方のため別してやさしく書てあります

「ごくやさしく書く」ということがウリになるということは、やはり「万朝報」のような記事は当時から一般人からみると読みにくいと思われていたことが分かる。結局、この「読みやすさ」を武器に小新聞は明治から現在を生き抜いてきた。万朝報は、今はもう影も形もないが、読売と朝日は日本を代表する新聞として滅することなく続いている。そして、このことが諸外国では考えられない我が国の新聞の発行部数の多さを招いたとも言える。それが、良いことか悪いことかは別にして。

 さて、読売新聞の警視庁へのクレームに対する返答らしきものと、男三郎に関する続報が6日の読売新聞に掲載されている。こちらを最後に紹介しておこう。


読売新聞 第10088号 (明治38年7月6日)三面

●警視庁の弁解

 左の記事は「新聞記事の注意に関し警視庁当局の談」と題して例の東京通信社より通信し来りしものなり。これ恐らくば、一昨日の本誌「そぞろ言」に対する弁解ならん、と思はるるを以って、ともかくもここに掲ぐ。本誌の「そぞろ言」より端(ゆくり)なくも警視庁をして、その裁判所との内情を暴露せしむるに至りしは、寧(むし)ろ意外なりしが、去るにても警視庁が今後各新聞社に対する伝達の粗漏なきは我輩のなお切望する所なり


本日の新聞紙中、野口寧齋氏毒殺嫌疑事件の記事に関し、警視庁が各新聞に対して掲載せざる様注意しながら、勝手にこれを記載したる新聞あるも不問に附したるより、新聞社の徳義として掲載を遠慮し居りたる新聞のみ報道遅延となり、読者に対して新聞の無能を表白したる訳となりたり、とて警視庁の矛盾を攻撃せるものあるも、新聞社より見れば如何にも無理ならぬ次第なれども、警視庁の立場よりすれば右は総て検事の指示依頼により新聞社に注意したるまでにて、即ち予審事項として掲載すべからざるものなるか否かの判断は、消極の地位にある警視庁にては知る処(ところ)にあらず。一に検事の言う通りに注意する外なきなり。しかるに、後に至り予審判事より事件の顛末を聴きたりとかにて、自由にこれを掲載するものもあるも、不問に措かざるを得ざるが如き畢竟(ひっきょう)検事と予審判事との間の打合せなきより出でたるか。とにかく、警視庁も無駄の手数を取りたることとなり、新聞社も為めに迷惑を被りたるべく、また過日のプクアン事件の如きも同様にて、検事の依頼により厳重に注意し、違反者に対しては刑事の訴追まで為したるに、忽(たちま)ち不起訴とするが如き、警視庁が物好に仕た様に思はれたる次第なれば、今後は予審判事と検事との間にその記載すべからざる範囲を打合せの上に警視庁に依頼するか、または直接に検事又は判事より新聞社に注意することとして貰ひたき考なり云々。
●野口寧齋氏の墳墓発掘事件
   ある筋にて取調べの一部

 野口寧齋氏の墳墓発掘事件に就ては続々記(しる)しましたが、今また、ある筋にて取調べになった事実により、漏れたところと新しき事実とを記(しる)そう

▲男三郎の事ども   野口男三郎は、明治三十二年大坂市桃山英学校に在校中、同級生で石川理学博士の甥の又木幸蔵と竹馬の友で、両人相談の上、同年七月中出京して石川博士の宅へ同宿し、麹町区飯田町三丁目五番地至誠学院の寄宿舎に入り独逸語を学びいたが、その後度々紛失品のあるので吉岡校長は心配し、種々取調べの上、男三郎に疑いをかけ退校を命ぜられ、同区紀尾井町三番地矢島下宿屋へ止宿して所々の学校に入学せしも、不品行の為め退校させられ、三十三年五月中豊多摩郡淀橋町字角筈(つのはず)町の会社員伊澤雄司方へ雇われてもやはり不品行で解雇された

▲初めて言葉を交す   男三郎は、その後毎日遊び歩き、ある日麹町区清水谷公園にて初めてそえ子に逢い、言葉を交(まじ)えたが抑(そもそも)その始めで、それより甘言にてうまく取り込みて情を通じ、そえ子の口添えで寧齋氏の門弟となり、同家に入り込み母堂栄子(五十六年)にも取り入りて三十四年春野口家の食客となったのである

▲堕胎の相談   昨年八月、そえ子は男三郎の種を宿し、隠す事が出来ず男に相談すると堕胎せよと勧められ、そえ子もその意になったが、折角宿った子を暗(やみ)へやるは哀れ、と母や兄に泣き付き、公然結婚するに至り、昨年九月男三郎の入籍手続きをして十一月女子を分娩したのだと

▲離縁後の男三郎   昨年十二月二十三日の夜、男三郎夫婦は些少の事から喧嘩をしたを幸ひに、寧齋氏は今後そえ子に関係なしといふ証書を取って離縁したが、双方の間は旧(もと)の如くで、なお密会をしていた。その手引は麹町区下六番町二十七番地の女髪結一柳八重と言うものであるとの事

▲男三郎の脅迫   男三郎は京橋区釆女町の浦島医学士、または麹町区土手三番町二十八番地の手島秋水に頼み、元々通りそえ子と夫婦にならんと運動し、ある時の如きは、そえ子の一身上に苦心し妙薬を与えた事などの秘密を新聞紙に発表する、と迫りしこともあったが寧齋氏が取り合ぬので男三郎は立腹して居た事もある

▲劇薬を求む   本年四月十五日、麹町区三番町二十番地細谷薬店にて芝区田町三丁目医士山田男三郎の名義で、劇薬ストリキニーネの大瓶一本を買い求めた者あるが、その筋にて取調ると、山田男三郎と言うは、その人相野口男三郎に似たりと

▲寧齋氏死去の前後   五月八日、男三郎は右手に負傷したるを火傷と言い紛らし、五月十一日、知人に頼み横須賀より野口家へ手紙を送るなど小刀細工をして肴屋の和田が二階に潜伏し、五月十三日の夜、寧齋氏死去の当時は東京に居らぬ体に装い居たとか

▲新しき押収品   和田方の二階より小西富五郎所有の鞄と箱硯(すずりばこ)をその筋へ押収され、また野口方よりは大坂砲兵工省高橋技師より野口の母に与えた書状、また伊澤方よりはストリキニーネ二瓶と玩弄物(がんろうぶつ)を押収して検事局に備えあると聞く
 「警視庁の弁解」の記事の冒頭に「例の東京通信社」とあるが、東京通信社は、明治23年に官営の通信社として発足し、後に民営となったが、成り立ちが成り立ちだけに官公庁のニュースリリース機関のような性格を持っていたため、「例の東京通信社」という表現になったものと思われる。しかし、警察と検察の中の悪さって昔からなんですな。昨今の、福岡の判事-検事 vs 警察の構図も根が深いと見えます。

 さて、これから男三郎は、当時の名弁護士を側につけて裁判へと突入していくわけですが、それについては、また改めてということで。
旧仮名遣い

東京朝日新聞 第六千八百一號 (明治三十八年七月三日)六面

●故野口寧齋氏の墳墓發掘

麹町區下六番町に住みし野口一太郎といへば漢詩人として天下に名を賣りたる故寧齋氏たる事を知らざる者あらん近頃同氏の死状に就て種々の取沙汰あり、此高潔なる一代の詞家を毒手に害したるやの怪聞頻々として口より耳にと囁かるゝはそも眞乎僞乎これに就て一昨日東京地方裁判所清水檢事、石川判事、警視廳宮内警部等は立會の上故寧齋氏が永久に眠れる青山の墻墓をば發掘せりと聞く、嗚呼々々一代を文藝の術に勗め慈愛を令妹の一身に濯ぎて他念なかりし高潔なる詩人、英魂去つて墓標未だ新なるに、忽ち屍を天日の下に曝さる、そも此罪を負はせしは誰ぞ、近隣の人傳へていふ令妹及其婿野口男三郎兩人は今や其家にあらず、頃日一警吏此人々を拉し去るを見たりと、事の眞相は妖雲に蔽はる、何の日か遂に照魔の光明を仰がん
東京朝日新聞 第六千八百三號 (明治三十八年七月五日)六面

●寧齋氏毒殺事件續聞

曾ては一世の詩才と仰がれて三番町なる野口氏が邸前を過る者、皆頭を回らしてこれぞ詩人寧齋氏が雅房よと欽仰の情を寄せたるに、今は妖雲其附近に立籠めて嚴めしき警吏は間なく時なく門前を巡行し、往く者、來る者、皆一種の鬼氣に襲はるゝの感なくんばあらず、扨此怪しむ可き大事件に嫌疑の綱を結び付けられたる武林男三郎が一身に就て、猶詳記する處あらしめよ、同人は野口家の養子となれる以來、頻りに野口家の財産を曾惠の名義に改めたしと望み、密かに寧齋氏の母惠以子に取入りて成就せしめんと企てしが惠以子は敏き女性とて、男三郎の甘言に惑はされず、常に其要求を卻けたれば、男三郎も失望なし居たる折柄、寧齋氏は男三郎の腑甲斐なき人物たるを看破し、遂に離縁問題を提出して美事に之を斷行したる次第なり、故に野口の財産が曾惠の名に書換へられしとの報道は全く誤聞なる事明瞭せり、かくて男三郎が野口家を出でし後は、遠く隔離して曾惠を捨るに忍びず、依つて三番町近くに其身を潜めんとなしたる時、幸ひにも同町四番地の魚屋和田義平方に貸二階の貼札あるを見たれば、大に喜びて借受け月々九圓を拂ひ居たり、男三郎此家に移りて後は、何一つ道具もなき部屋にポツ子ンと坐り込み、讀書に耽る外は手紙を認むるより何事もなさゞりしがやがて都合ありと稱して飄然此家を立去りたり、同家にては素より野口家を離縁されし男とは知らず、たゞ温良なる書生さんとのみ思ひ居たりといへり、殊に男三郎の性行獰惡なりしに拘らず、平生の行爲女らしく愛嬌に富める風貌もて嫣然人に接したれば、婦人などの評判は取分けよく、和田方にても此頃の噂を聞き及び、あの人がと驚嘆する許りなりといふ
東京朝日新聞 第六千八百四號 (明治三十八年七月六日)六面

●寧齋氏毒殺事件續聞

詩人、才媛、好男子、癩病、毒殺、人肉斬、此等の人物風説をもて編み成れたる此大事件のいかに暗澹たる小説的事實に富めるや、記者は筆をすゝめて事件の形相を報ずる毎に、男三郎が惡人としての奸手段は、惡人として故に作り出されたる小説中の人物にも優れるを知る、讀者よ吾人が傳聞せる記事に就て之を窺知せよ

信州駈落に就て

男三郎曾惠とが信州に赴きしは昨年七月中の事にして兩人が足を止めたるは同國埴科郡坂城村村長宮澤園右衛門方なり、男三郎が園右衛門と相知れるは、豫て男三郎が徴兵検査を地方にて受けん目的にて、信州地方へ旅行せし時、汽車中にて不思議にも詞を交はしたる男あり、此男即ち園右衛門にてこれより兩人の間は懇意を結びたるものなるが、男三郎は例の奸才をもて園右衛門を説き同家へ寄留する事を許されしにぞ、此縁にて信州駈落の事は斷行され、駈落せし上は同家へ落付くが事の順序とはなりたるなり、此時男三郎は寧齋氏に駈落先を隠しもせず、これより長野縣へ赴く由通知せしため、寧齋氏は大に驚き、一時は不義の行爲を憤りしも打捨て置くわけにもいかねば、親友上村賣劔氏をして、兩人を迎へかへらしめたる次第なり、上村氏は兩人を信州より連れ還るや、神田區萬世橋側の旅館朝日屋へ泊め置き、寧齋氏方へ公然詫を入れて結婚の相談を遂げ、同年八月中、四谷傳馬町一丁目の料理店武源樓にて、目出度其式を擧げしめたるなり

離婚當時の男三郎

男三郎より離婚を申出でたるは、全く同人が例の奸手段を振廻さんとせしものにて、斯うすれば寧齋氏も必ず行詰まるべしと、高を括りての遣方なりしは明白なる事實なるが、此策案外に當らずして、離婚沙汰は進行し、本年二月いよいよ離婚と決着するや、男三郎の態度は一變して、復歸運動の奔走に力をこめ、前記の如く八方親戚へ驅けまわりて泣きを入れし結果、遂に離婚は斷行せられずして有耶無耶の裡に葬られ、今日まで男三郎は野口家の戸籍面より未だ除かれざる者となり居れり

男三郎の陰險手段

離婚を我より申出でし如く、男三郎の陰險は一にこれに止まらず、何につけ彼につけ人の心を計り、顔色を窺ひて、奸惡なる手段を用ひし事は明瞭なり、彼が離婚問題提出前、彼は通譯官となりて從軍する旨を告げ、頻りに寧齋氏の心中を探れる事あり、當時曾惠は妊娠中の事とて、男三郎が戰地へ行くなどいはゞ野口の一家は大に狼狽すべき筈なれば、斯くと見越したる彼が、通譯官問題を振廻せるも、實に陰惡なる心情より湧き出でしものに外ならず、此通譯官に關しても、野口の親戚某が大に怪しみ、さらば足下が受取りし辭令書を見せよと迫りしに、彼はハツと驚きし體を装ひ、自分が横須賀に滞在中祕密書類を容れおきし大鞄を、盗賊のために竊取されたれば、其中に入れおきしかの辭令書も、飛んだ災難にあひし事故、今は手元に無しと圖々しくも其塲をごまかし了りたりと、其大膽不敵なる僞事を得意とする彼の心性、陋劣とも惡劣ともいふに忍びざる程ならずや、

寧齋氏の訃に接せし時

寧齋氏が急に死せりとの報、淀橋伊澤方にありたる男三郎の耳に入るや、彼は別に愕きたる様子もなく、平然としてハア、ソーデスカと答へしのみ、後日伊澤氏の妻女が語りて言ふ、『あの當時男三郎さんをせめて通夜にもと野口家へ申入れましたが、野口家では第一に母堂が承知せず、遂々男三郎さんの親切も遂げられずに仕舞ひました、此時男三郎さんは遺憾の體で、是非他處ながら回向をして來るとて、出て行かれました』と、又男三郎自身が後人に語れるには、『通夜の事を拒絶されたので 、殘念で堪りませんから、あの晩は兄の家へ忍込み、人知れぬ所で、一生懸命回向しておりました』と、僞も僞も大僞を吐く事に馴れたる彼は、コンナ事を以て世間を欺きしものと見ゆ、殊に伊澤氏の妻女が言に至りては素より當にならざる也、

●臀肉切事件と關聯する風説

奇なる事實は更に奇なる事實を産みて詩人の毒殺てふ大悲惨事に次ぐに往年世評喧すしかりし一椿事臀肉切の奇獄再燃し來り兩兩相關聯するかの如く噂さるゝに至りぬ、毒殺の事件尚豫審に在りて眞相を判じ難く隨つて本件も素より坊間の途説に止まれども須臾外間に現はれたる事實をのみ記して他日審理の結果を待つ
曩にも記せし如く臀肉切事件は去三十五年三月廿六日の夜麹町區下二番町二十九番地の差配人遠藤磐方にて何者か同町五十九番地中島新吾の長男惣助(十一)の臀肉を椀大に切り取り且咽喉を刺して殺害したるものなり爾來今日まで其犯人を發見するに至らず然るに茲に圖らずも那の寧齋氏毒殺の嫌疑者たる野口男三郎に對し世間の風評集中して怪説紛々人をして五里霧中に彷徨するの思ひあらしむ、白眼冷静なるべき操觚者流も亦走つて其渦中に投ぜんとするもの滔々相踵ぐ然れども吾人は飽まで冷静なり唯少しく聞く所を記さしめよと云ふのみ
椿事の當時寧齋氏は下二番町五十九番地吉田某所有の一戸を借りて住居し男三郎も亦同居せしが被害者惣助の死し居たる塲所とは僅かに小路一ツを隔てたる近距離にして當時所報の如く加害者は鋭利なる短刀にて肉を斬り取りし形跡ありと云ふに當の嫌疑者たる男三郎は身邊常に一尺許の短刀を離さず是れ我が護身用なりとて現に角筈の伊澤方にて之を示したる事あり且つ惣助の父新吾は曰く与が當時加害者と覺しき男を見たるに色白く眉秀で如何にも美貌の若者らしく認めたりと又彼の妻きく(三十)が其頃同區元園町二丁目齋藤といふ卷莨の工塲に通ひ居たるにフト一人の書生が來て惣助の事は如何にもお氣の毒に思ふゆゑ毎月金三圓位を私の志として差上げたしと云ひたる事あり其男の顔が今度の男三郎に似たりといふ是等の片言隻語も今日の塲合多様の響きあるに似たり
讀賣新聞 第一萬八十六號 (明治三十八年七月四日)三面

そゞろ言
警視廳と新聞紙
     野口家事件に付て

新聞紙が豫審進行中の事項を記載することを得ざるハ、新聞紙條例の明かに規定する所、我輩亦他の注意を待たずして之を知る。故に我輩ハ故寧齋野口氏の一家に關する犯罪事件に付て、當初多少の聞知せる所ありしも、一にハ一世の詩人として、品性高潔の君子として、一杯の土未だ乾かざる故寧齋氏に對し、輕忽に之を天下に暴露するに忍びざると、一にハ條例に明文あり、司直の府が犯罪審理の進行に妨ぐることあらんを恐る〃とに因り、我輩ハ操觚者の徳義として、之を紙上に公にすることを慎みたりき。
然るに再昨日、警視廳ハ左の如き菎蒟版刷の注意書を各新聞社に配附し、我社にも亦其一葉を齎らしたり。
或る犯罪事件に就て野口寧齋翁の墳墓發掘云々の件掲載相成候時ハ新聞紙條例第十六條に抵觸し豫審進行上容易ならざる次第に付掲載不相成候様致度此段申進候也
猶々右注意申上候ハ墳墓發掘の四字を明示すること最も發禁に付御含み相成度申添候也
明治三十八年七月一日   警 視 廳  
條例の明文に加ふるに、更に此特別の注意を以てす。故に我輩ハ益々事態の重大なるを信じ、益々筆端を慎みて、敢て此事件に付き一字を記せず、以て昨日に至れり。
然るに昨朝の都下の諸新聞ハ、往々にして此事を記せり。故に我輩ハ頗る之を疑ひ、我同業者の徳義に信用を置くと同時に、警視廳が或ハ之を許せしやを想へり。否ざれバ徳義ある我同業者が、妄りに之を記載するの理なけれバなり、是に於て我輩ハ少しく其消息を繹ねしに、果然、果然、警視廳ハ前夜を以て之を許せりと云ふ。但し片言ハ以て訟を聴く可からず、故に更に電話を以て之を警視廳に質したり、警視廳ハ曰く、
實ハアノ事件ハ大分漏れたので昨夜黙許することゝし、聞きに來ない新聞社にハ當廳から電話で其旨を通じました。
我社員ハ、同夜我社の編輯局にハ宿直の者詰め居りしも、深夜まで貴廳より何等の電話にも接せざりし旨を告げしに、彼ハ今其電話を掛けし者不在なるも、貴社(我社を指す)にも掛けし筈なり、と云へり。
電話の交渉ハ右の如し。此電話に於て答辯せし人の何人なるやハ、我輩之を知らず、加之其答辯者ハ、右交渉中に慥に其人を代へたり。電話の交渉、或ハ精確を缺くに似たるも、我輩ハ既に之によりて顛末を詳らかにし、復此以上の手數を盡くすを要せずと信じ、無用の勞を避けたり。
氏名すら聞かざりし人の言葉尻を捉へんハ我輩の屑よしとせざる所。而も彼ハ責任を帯びての答えなり。而して曰ふ、事件の漏れたるが故に許せり、と。何ぞ其言の自家撞着なるや。漏れたれバこそ記載禁止の要あれ、漏れたるが故に許すとハ、餘りに常識なきものに非ずや。
然れども記載の許否ハ、豫審々理上の都合如何によるべく、其都合を知り得べき警視廳が之を許せし事自体ハ、固より我輩の容喙すべき要なし。唯だ漏れたるが故に許すものとせバ、條例の明文ハ遂に徒法たるべく、少くとも現警視廳の下に於てハ、我輩ハ將來總ての豫審事件に付、無遠慮の筆を執るも、警視廳ハ必ず之を問ハざるべきを信ず。
且夫れ一旦印刷せし注意書を發せし後に於て電話を以て其禁を解くと云へるハ、其事の餘りに輕忽なるのみならず、現に今回の事の如く、各新聞社に對し、甲にハ之を通知し、乙にハ之を怠るの過失を免れざるに至る。我輩ハ之を過失と云ふ、マサカに故意の不公平なかるべけれバなり。
事甚だ小なりと云へバ、即ち小なり。然れども由來諸官廳殊に警視廳等の新聞社に對する、往々不注意、失體等の弊風を見る少からず。故に特に之を云ふ。
一時ハ萬事なり。請ふ少しく警醒せよ。

●寧齋氏の墳墓發掘

一代の詩人博識の君子として人に貴ばれゐたる麹町區下六番町六番地故寧齋野口一太郎氏を五月十四日に葬りし青山墓地の土まだ乾かざるに再び五十日祭に當る去る三十日發掘さる〃の不幸を生ずる事となつた、當時氏の死状について忌しき説さへ傳へらる〃ことハ聞き居たれど窃)かに其説の眞ならぬことを祈り居るに偶然今回の事件を生ずるに至るハ氣の毒な事なり
▲野口家の兄妹   父松陽氏逝きて後寧齋氏ハ未亡人と令妹そゑ子令弟文三郎氏以上三人と樂しく日を送り文三郎氏ハ島家を嗣ぎて大學の業を卒へたるが其後大坂生れの一書生にて後に令妹そゑ子の婿となつた野口男三郎を食客とせし處そゑ子と通じて一子を擧げし時寧齋氏の悲しみハいかなりしか思ひやらる
▲兄妹の誓ひ   三人ハ曾て打寄り我一家ハ血統に汚れあれバ永く世の累ひとなるハ忍び難き事なれバ兄妹相誓つて婚姻ハ止め一家を天の運命に任せ清き自然に歸る事を期すべしとて寧齋氏も泣きて誓ひそゑ子も涙を垂れて誓ひしこの瞬間の美しさ氣高さハ譬ふるに物ない
▲令妹の拘引   寧齋氏の死因に就て種々探偵の結果去三十日東京地方裁判所より清水檢事、石井豫審判事警視廳の宮内警部金子刑事等青山墓地に出張し死體を發掘して帝國大學に送り直に解剖に附したりしに其結果全く毒殺なること判然し一日の午後六時犯人嫌疑の一人として寧齋氏の實妹そゑ子(三十一年)を拘引し同時に石井豫審判事ハ巡査數名を率ひて同家に臨み家宅捜索を行ふに至る
▲令妹と男三郎   そゑ子と養子男三郎との關係についてハ五月三十日の本紙に『自殺ハ毒殺』と題して記した男三郎が麹町四丁目の小西藥店の主人都築富五郎を殺害した事件に詳しく記いたから此處にハ省くとして男三郎ハ大坂西區新町通り三丁目四十番屋敷度量衡商武林龍橘の弟にして寧齋氏の許に寄食しそゑ子と通じたので寧齋氏も一時ハ深く之を憤りしも妹を愛するの餘り自分ハ不治の難症に罹かり一家を治めることが出來ねバと養子にいれ一女(二年)を設けしが男三郎の放蕩無頼を寧齋氏が看破りて昨年十一月離縁さる
▲事件の原因   ハ無論男三郎がそゑ子との縁をバ寧齋氏の爲に絶れ両人間の關係ハ尚ほ親密な痴情も確かの一原因であれども寧齋氏の家財ハ東京電車鉄道の株券九十五株を初め有價物件二萬圓と藏書亦二萬卷餘もあれバ寧齋氏を失きものにすれバ其財産を横領し得らる〃と云ふに其筋の調べも重きを置かれてゐるらしい
▲毒殺とすれバ   その毒ハ何れより得たるか又何ものが手を下したかの疑ひを起さなければならないが此點に就てハ充分に聞込んだ事もあるが豫審中に属する事柄でもあるから暫らく筆を謹みて公判の決定を待つより外ハない
▲秘密函の發見   野口家にハ男三郎所有の秘密函とかいふものがあつて常にそゑ子の手に保管せられてありしが第二回の家宅捜索の際にその秘密函を發見せしも堅牢にして蓋を開くにかたく僅かに抽斗の一部を窺ひ其儘裁判所へ押収されたが此秘密函の裡果して如何なる秘密を包みゐしや明かならねど不思議の文殻などあつて其文により大に此回の事件を明かにせることを得たるやにも云へど元より巷説に過ぎないから只だ一ツの風説として記しておく
▲犯罪露顯の源   は云ふまでもなく男三郎が五月廿八日飯田町停車塲で捕縛された藥屋毒殺事件より口が開きしものであるが前項の秘密函が彼等の二人に關する秘密中の秘密を暗黒より明白に持ち出したとも云ふが何れにしても總ての事が豫審に關すれバ今回ハ先づ之れにて筆を止めおく
讀賣新聞 第一萬八十八號 (明治三十八年七月六日)三面

●警視廳の辯解
左の記事ハ「新聞記事の注意に關し警視廳當局の談」と題して例の東京通信社より通信し來りしものなり是れ恐らくバ一昨日の本誌「そゞろ言」に對する辯解ならんと思はるゝを以つて兎も角も茲に掲ぐ本誌の「そゞろ言」より端なくも警視廳をして其の裁判所との内情を暴露せしむるに至りしハ寧ろ意外なりしが去るにても警視廳が今後各新聞社に對する傳達の粗漏なきハ我輩の尚切望する所なり
本日の新聞紙中野口寧齋氏毒殺嫌疑事件の記事に関し警視廳が各新聞に對して掲載せざる様注意しながら勝手に之を記載したる新聞あるも不問に附したるより新聞社の徳義として掲載を遠慮し居りたる新聞のみ報道遅延となり読者に對して新聞の無能を表白したる譯となりたりとて警視廳の矛盾を攻撃せるものあるも新聞社より見れバ如何にも無理ならぬ次第なれども警視廳の立塲よりすれバ右ハ總て檢事の指示依頼により新聞社に注意したるまでにて即ち豫審事項として掲載すべからざるものなるか否かの判斷ハ消極の地位にある警視廳にてハ知る處にあらず一に檢事の云ふ通りに注意する外なきなり然るに後に至り豫審判事より事件の顛末を聴きたりとかにて自由に之を掲載するものもあるも不問に措かざるを得ざるが如き畢竟檢事と豫審判事との間の打合せなきより出でたるか兎に角警視廳も無駄の手數を取りたること〃なり新聞社も爲めに迷惑を被りたるべく又過日のプクアン事件の如きも同様にて檢事の依頼により嚴重に注意し違反者に對してハ刑事の訴追まで爲したるに忽ち不起訴とするが如き警視廳が物好に仕た様に思はれたる次第なれバ今後ハ豫審判事と檢事との間に其記載すべからざる範圍を打合せの上に警視廳に依頼するか又ハ直接に檢事又ハ判事より新聞社に注意すること〃して貰ひ度き考なり云々
●野口寧齋氏の墳墓發掘事件
   ある筋にて取調べの一部

野口寧齋氏の墳墓發掘事件に就てハ續々記しましたが今又ある筋にて取調べになつた事實により漏れたところと新しき事實とを記さう
▲男三郎の事ども   野口男三郎ハ明治三十二年大坂市桃山英學校に在校中同級生で石川理学博士の甥の又木幸藏と竹馬の友で両人相談の上同年七月中出京して石川博士の宅へ同宿し麹町區飯田町三丁目五番地至誠學院の寄宿舎に入り獨逸語を學びゐたが其後度々紛失品のあるので吉岡校長ハ心配し種々取調べの上男三郎に疑ひをかけ退校を命ぜられ同區紀尾井町三番地矢島下宿屋へ止宿して所々の學校に入學せしも不品行の爲め退校させられ三十三年五月中豊多摩郡淀橋町字角筈町の會社員伊澤雄司方へ雇はれても矢張り不品行で解雇された
▲初めて言葉を交す   男三郎ハ其後毎日遊び歩きある日麹町區清水谷公園にて初めてそゑ子に逢ひ言葉を交へたが抑その始めでそれより甘言にてうまく取り込みて情を通じそゑ子の口添へで寧齋氏の門弟となり同家に入り込み母堂榮子(五十六年)にも取り入りて三十四年春野口家の食客となつたのである
▲堕胎の相談   昨年八月そゑ子ハ男三郎の種を宿し隠す事が出來ず男に相談すると堕胎せよと勸められそゑ子も其意になつたが折角宿つた子を暗へやるハ哀れと母や兄に泣き付き公然結婚するに至り昨年九月男三郎の入籍手續きをして十一月女子を分娩したのだと
▲離縁後の男三郎   昨年十二月廿三日の夜男三郎夫婦ハ些少の事から喧嘩をしたを幸ひに寧齋氏ハ今後そゑ子に關係なしといふ証書を取つて離縁したが双方の間ハ舊の如くで尚ほ密會をしてゐた其手引ハ麹町區下六番町廿七番地の女髪結一柳八重と云ふものであるとの事
▲男三郎の脅迫   男三郎ハ京橋區釆女町の浦島醫學士又ハ麹町區土手三番町廿八番地の手島秋水に頼み元々通りそゑ子と夫婦にならんと運動し或る時の如きハそゑ子の一身上に苦心し妙藥を與へた事などの秘密を新聞紙に發表すると迫りしこともあつたが寧齋氏が取り合ぬので男三郎ハ立腹して居た事もある
▲劇藥を求む   本年四月十五日麹町區三番町廿番地細谷藥店にて芝區田町三丁目醫士山田男三郎の名義で劇藥ストリキニー子の大瓶一本を買ひ求めた者あるが其筋にて取調ると山田男三郎と云ふハ其の人相野口男三郎に似たりと
▲寧齋氏死去の前後   五月八日男三郎ハ右手に負傷したるを火傷と云ひ紛らし五月十一日知人に頼み横須賀より野口家へ手紙を送るなど小刀細工をして肴屋の和田が二階に潜伏し五月十三日の夜寧齋氏死去の當時ハ東京に居らぬ体に装ひ居たとか
▲新しき押収品   和田方の二階より小西富五郎所有の鞄と箱硯を其筋へ押収され又野口方よりハ大坂砲兵工廠高橋技師より野口の母に與へた書状又伊澤方よりハストリキニー子二瓶と玩弄物を押収して檢事局に備へあると聞く

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