世相百態 明治秘話
(その一)

世相百態 明治秘話
石田龍藏著
東京:日本書院, 1927

まずは序文の紹介から。

卷頭に

 箱根以東に野暮と化物があつて堪るケイ、是は徳川時代の江戸ツ子達の自惚れ根性だつたと思はれてならない。

と云ふのは、本所に七不思議あり「おいてけ堀」之れを代表紙、麻布に七不思議あり「足洗ひ屋敷」之れを代表す。更に四谷にお岩稲荷を残して居る所を見ると、正に化物と幽靈に相當の御縁があつたものと云つて差支へはあるまい。だが、流石に江戸物には粹者が多かつた。町人では藏前の十八大通の名を殘すあり、武家では

   君と寢やうか五千石取らうか
           何の五千石君と寢やう

の俗謡を殘して居る。更に徳川三百年の基礎は此の粹のために身を喰われたか、糠味噌汁の中毒か、夫れは龍藏の知る所ではないが、鳥羽伏見の砲聲が木頭の代理を務めて急轉直下、徳川幕府に没落して、傾城傾国の名は遂に文字通り眞理である事を痛感せしめられた明治の新時代とはなつた。

 夫れだけ明治時代は總てに於て緊張味を見せて居た、内治外交共に異常なる發達を遂げ、終には世界の一等國としてヤニ下る事となつた明治時代の裏面は果して何んなであつたらう。

 彼の「權妻」なる新熟語も明治時代の特産物であり、花柳界の全盛も亦明治時代であつた。人力車は雲助駕篭を追拂ひ、陸蒸氣が東京横濱間を走つたのも、挙國一致強露を倒したのも亦明治時代であつた。

 斯う考へて見ると是れ等明治時代の世相は果して大正時代へ何を繰越したであらうか。而て昭和の今日に於て之れを如何に扱ひつゝあるか、と云ふ事柄は好奇ならずとも當然思ひ及ぶべき筈。龍藏は敢て警世云々の屁理窟を云ふ者では無い、只單に明治時代の玩具箱を諸君の前にさらけ出した迄で、題して「世相百態明治秘話」と云ふ。乍然、其所に若し何等かの題目が潜在するものとすれば、夫れこそ筆執る者の冥利只幸福ひと云ふの外は無い。

 最後に、先輩諸氏の著書に得る所多ほかりしを謝すると共に、笹川種郎先生、大森金五郎先生の序文を賜り、原某氏は龍藏の爲めに深甚なる同情を寄せられたるなど、龍藏身に餘る光榮にして其謝辭をすら知らず、此所に記して謹んで感謝の意を表す。

  昭和二年盛夏
     淀橋十二社の片傍り
石 田 龍 藏 識  

要するに明治時代の様々な世事に関する逸話を集めた本である。世事の逸話といってもその守備範囲は広く、政治家による疑獄事件から甘栗の発祥まで本当に種々雑多な内容。その中からいくつかの記事を紹介することとする。

 上記の序文中の「權妻」(ごんさい)というのは、「めかけ」のこと。明治の新聞が有力政治家の私生活の乱脈さを攻撃する記事によくみかける流行語である。まず最初に第11代、第13代、第15代と首相を3期勤めた桂太郎閣下の権妻「お鯉」についての文章を紹介することにしよう。

一 成上り者と明治風俗

 著者は更に珍話を紹介しよう、といふのは先年都新聞所載で、時めく桂太郎閣下の愛妾お鯉の方に關する珍話である。

都新聞所載「お鯉物語」

 お鯉(桂太郎の妾、照近江屋のお鯉)さんが女に惚れてお金を絞られたと云ふ可笑しい談があります。其の女喰の女は中村小時と云つて何でも木挽町あたりに立派な家を有つて、女のくせに柳橋や新橋で藝者遊びをしては諸方で女をたらして金を絞るのですが、柳橋ではお鯉さんが其中村に引かかつて丸裸になつたとは不思議ぢやありませんか、何うして女に女が惚れるか、妾(わたし)たちには合點が行きませんが其中村といふ女の履歴を聞くと餘程面白いんです。

 其中村小時と云ふ女は京都の藝子だと云ひます、眼鼻立は今の芝翫(歌右衛門)に似て女にしては凛々し過ぎるとでも言ひませう。美しい割合に男好きがしないのですね、だから京都に居た頃は餘り賣れなかつたんで大阪へ來て確か北の新地だと思ひます、其處で稼いで居たけれど矢張り賣れないで居る内に外國人が引掛かつたのです。

 それは安治川口に時計の會社を出して居る英国人で名は何とか言ひましたが忘れました。其異人が夢中になつてお金を注込んたものですから今までは詰らない藝妓であつたのが一足飛に立身して其頃の贅澤といふものは全(まる)でお噺みたいですわ。他所行に締める帶が一寸幾らするといふ錦の名物片をはいで總體を値段に積ると六百圓からかかつたといひます。其んな具合で全盛で居たのですが其のうちに旦那の英國人が妹藝者に手を付けたのですね。

其所で自分を踏み付けたとでも言ふのでしよう、女だてらに自棄になつて御茶屋遊びを始めたのが抑(そもそ)も女喰の女になつた始めださうです。お金は旦那のものだから惜氣はありませんや、北の新地や南へ行つては毎日のやうに藝妓を上げて遊ぶうちマア女同志の情婦といふものが出來たんです。可笑しな談ですけれど此の間西洋からお歸りなすつた人に聞くと巴里とかいひますね、彼地では女同志で惚れ合ふといふ事が大層流行つて、身分のある奥様や何かで旦那の外に女の妾を持つていらつしやるのは珍らしくないんですつて、中村といふ女が西洋人の妾になつてからそんな事を始めたのは詰り其西洋人の旦那から何か術を教はつたんだと思ひますわ。否え、屹度それに違ひはありません、それで旦那の方は暇が出たとも又自分から暇を貰つて別れる時に三千圓の手切を取つたと云ひます。

そんな氣象な女ですから是れくらひの事は遣つたかも知れません。で今いふ通り女で女を買つて大阪でも中村に關係した藝妓は幾らもありますが、中にはお茶屋の拂ひを背負つたり、身體の皮を剥がれて丸裸にされた者もあるさうです。

其うちに先方から甚(ひど)く惚れた女がありまして、是も名前は鳥渡(ちょっと)口へ出ませんが、此女は中村に受け出されて言はば妾ですね、女が女の妾になつて横濱から東京まで一所に附いて來て木挽町の家に居りました。 それが實に不思議なので、中村は始終相場をしたり花を引いたりして、運の悪い時には家は火の車の苦しみなんですが、そんな時には其妾が元の藝者稼業に出て中村の方へ貢いでやるんです。それで中村の方の工面が好くなると元の通り受け出して自分の所へ引取ると云ふ鹽梅(あんばい)で言はば餘程の深間なんでしよう。

東京へ來てからも其妾を連れて柳橋だの新橋だのと遊び廻つて、妾も一度其座敷ヘ出た事がありますが、頭だけが女で様子は全(まる)で男みたいなもので、風通(ふうつう)でしたか澁い柄の着物に帶は白博多の男帶を締めて、上へは黒縮緬の羽織を引かけてキチンと坐つた上品さは、誰れでも見惚れる程なのです。そして風呂へ這入る所は他に見せなかつたといひますが、足には綸子の股引をはいて、そうして懐中には何時も九寸五分を持つて居たと是は後で聞きました。

それで今の妾が始終ー所に附いて居て勘定は其女が金を預つて居てするのです。自分は御大名見たいに鷹揚に構へて夫れから酒に醉ふと其の妾に巫山戲るのが全で男の客が藝者に巫山戲るやうで、坐敷で見て居られない位なのです。 其通り遊び廻つて居る内にお鯉さんが引かかつたのですが、お鯉さんの前にも橋南(はしみなみ)で小靜さんが此の中村に血道をあげるし、お鯉さんの後でも兼吉といふのが入揚げました。

中村にお鯉さんが引掛つたのは暫くの間でしたが、一しきりは全(まる)で夢中でトウトウ丸裸にされたのです。で不思議な事には中村に引掛つた人は誰れでも糸のやうに痩せますのでお鯉さんも其頃の窶(やつ)れ方といつたら見られたものぢやありません。後で友達の藝者衆が、何うしたものでお前さんはじめ彼(あ)んな女なんかに惚れるのだえ、と聞いても默つたきり何んとも口を利かないつて言ひます。夫れはお鯉さんばかりぢやなくつて中村に引かかつた女は皆他の者に譯を話さないので、彼(か)れは大かた懐中の九寸五分で脅されて、人に喋舌ると殺すとか何とか中村が口止めをするのだらうと其後の噂でした。夫れから彼(か)れは女ぢやない實は男だらうといふ評判もありましたが、西洋人の妾になつて居た履歴を見ても女に違ひないのです。云々(pp.10-13)
「女だてらに自棄になつて御茶屋遊びを始めたのが抑(そもそ)も女喰の女になつた始めださうです。」とあるが、旦那にコケにされ、ヤケになって芸者遊びに走る妾というのも珍しい。普通ならば、若い役者に入れあげたりするところだろう。自分が芸者をしていただけあって、遊び方も熟知していた為か。あるいは昔の苦労を取り返してやろうと思ったのかもしれない。 しかし、「巴里とかいひますね、彼地では女同志で惚れ合ふといふ事が大層流行つて、身分のある奥様や何かで旦那の外に女の妾を持つていらつしやるのは珍らしくない」からといって、「中村といふ女が西洋人の妾になつてからそんな事を始めたのは詰り其西洋人の旦那から何か術を教はつたんだと思ひますわ。」ってのはかなり無理がある推測。ところで、岡本綺堂の「半七捕物帖」に「唐人飴」という作品にこんな一節がある。

常磐津文字吉という師匠は不思議な女で、酒屋の亭主を旦那にしているが、ほかに男の弟子は取らないで、女の弟子ばかり取る、それには訳のあることで、本人は女のくせに女をだますのが上手。ただ口先でだますのでは無く、相手の女に関係をつけて本当の情婦(いろ)にしてしまうのです。こんにちではなんと云うか知りませんが、昔はそういう女を『男女(おめ)』とか『男女(おめ)さん』とか云っていました。(『唐人飴』岡本綺堂著「半七捕物帖(五)」東京:光文社(光文社時代小説文庫), 1986 pp.73-74)
中村小時というのは、ちょうどこの「男女さん」にあたる。明治五年生まれで歌舞伎脚本の作家だった岡本綺堂の書くことなので、本当に江戸の時代から「男女」という呼称があったと見るのが自然なのだろうが、この「唐人飴」を書くにあたって、案外この都新聞の記事がきっかけになっていたかもしれない。

 続いては、宝くじの明治版「彩票(さいひょう)」。こんな、大陸ダネの富くじが流行していたとは知らなかった。

三 慾の皮彩票珍談

 人間といふ動物は何処迄も慾の皮の突張つた者と見えて、舊幕時代も明治時代も千變一律、鐵面皮にも突張り通して來た色と慾との二筋道、之を除くと誰も彼も人間としての香氣がなくなるらしい。(中略)

 大連の彩票は大連宏濟彩票といふ美名で、事業として數へられたものは、大連市の貧民救助、衛生設備、道路修繕杯(など)がまざまざと書き出されたので、關東都督府も夫れは何より結構な社會政策であると一議に及ばず許可される、幸先きよしと、明治三十九年第一囘を開催して、其後引續き毎月二十日(清暦)に開催する事となつた。

 最初の票數は二萬、頭彩五千圓、二彩千圓、三彩五百圓、以下五圓迄の當りぐちがあり、明治四十年からは票數四萬、頭彩一萬圓、其年の十月第二十二囘目からは票數を六萬とし月一囘を二囘に改めるといふ繁昌ぶりであつたのである。

 所が、明治四十一年二月滿鐵大連驛の貨物係り某が頭彩一萬圓に當つたと云ふので、只さへ沸き立つて居た人氣は、殆んど絶頂にまでせり上げられ、次の發賣には即日賣り切れといふ凄まじさ。

 彩票局の門前は買手の人達が犇々(ひしひし)と押寄せ揉みつ揉まれつ、怒號狂亂(どごうきょうらん)、遂に十數人の負傷者を出した結果、大連警察では所員總出で漸く一人一枚を限つて購入させる手段を採って辛うじて鎭靜させるといふ大騒ぎを演じた。(中略)

 所が此彩票は滿州で買ふ分には差支へはないが日本内地で買ふ事は法の禁ずる所であつたが、此法網を潜つて内地へ輸入されたかは記しないで置くが、元來此の彩票は支那人の發行する所であつて、發行所は大連宏濟彩票局で之も支那人の經營で、之が取次販賣店も悉く支那人であつて、日本人には一切許されないのである。

而して明治四十二年頃には一票一圓六万票六萬圓に對して、當りくぢが頭彩一萬圓一本、二彩五千圓二本、三彩一千圓三本、四彩三百圓八本、五彩百圓二十四本、頭彩の前後が二百圓二本、二彩の前後が百圓四本、以下八彩五圓と頭彩の末尾と同數字を有する五千九百九十九票に各二圓づゝを支拂ふまで合計すると四萬二千五百餘圓、次に取次店の手數料が約三千圓と見て差引一萬四千五百圓餘が、大連宏濟票局へロハで這入る譯である。而して毎囘の會場は大連近江町大觀茶園といふ支那劇場で都督府の吏員立會の上で公平に執行されるので、參觀席は目の色を變へた人達でいつもいつも滿員であつた。(中略)

此の彩票が支那人の手で經營されて居る關係から彩票賣渡も、當り金の拂渡(はらいわたし)にも一切銀貨を用ふる事は銀貨國として餘儀ない事である、若し頭彩に當つたとすると五十錢銀貨二萬枚を受取るのだから、幾ら慾の皮が突張つたにしても人間一人の力量では此の二萬枚の銀貨を運ぶ事は出來ない、誰れも彼れもが人夫を雇つて荷車に積込んでエンヤラヤと運んで歸るのだ。そして、偖(さ)て内地へ歸るにしても銀行爲替は心配だといふので、守錢奴ならぬお金の番人となつて歸らうと、會社やら銀行へ兩替を頼みに行く者も尠(すくな)くないとの事だが夫れもエンヤラヤと荷車の後押しをして行くのだから面白い。(中略)

 其當時、大連北大山通りに大山湯といつた錢湯の主人鈴木某が頭彩に當つたといふので其友人達は或る料理店へ押上り飮めよ唄への大散財、宴の最中になつてイザ御當人の鈴木某を招待して四方八方からお目出度う、お目出度う、と盃の雨。

 肝腎の本人鈴木某は頭彩に當つた覺えがないから、何が目出度いのやら煙に卷かれてボンヤリ強ひられるままに二三杯盃を受けた時、友人の一人が、

「鈴木さん、隱さなくつてもいゝぢやないか、君の前途を祝福するのだ」
「何が目出度いのか、僕にや判らないよ」
「野暮に隱しなさんな、頭彩の一件さハヽヽヽヽ」

 鈴木某は驚いた、しかし絶對に當つた覺えがないので、其辧解大に努めたけれ共、結局は反つて友人達の反感を買ふばかりで、

「何だい、男らしくもない、僕逹は其金を貨せと云ふのぢやなし、一口驕(おご)る位ゐが幾らかかるものか、男らしくもない馬鹿にするない」

 斯う出られて見ると鈴木某も誤りであるとは知りつつ此場の支拂ひを引受けるか、僅の金の爲めに友人を失ふかといふヂレンマに引かかり、餘儀なく少なからぬ支拂ひをして其場を切り抜け家ヘ歸つて見ると、例に依つて三越其他の御用聞を始めとじて寄附やら強制やらで大騷ぎ、漸く追ひ返して色々調べて見ると湯屋の鈴木には相違はないが、北大山通りではなく只の大山通りで東京湯の三助鈴木某が當つたのだと知れたが、其三助君は素早く金の仕末をして郷里の越後ヘ出發した後と判明したので喧嘩にもならず口アングリの散財損とは氣の毒な話(pp.33-38)
「所が此彩票は滿州で買ふ分には差支へはないが日本内地で買ふ事は法の禁ずる所であつた」ってのは、ここ最近、聞いたような話ですな。ネットで外国の宝くじを買う話だったっけ。二十世紀の科学の粋、電子計算機をもってしても、人間のやることはあんまり変わらないようで。きっと明治の世でも、「大連の彩票、こっそりお分けします」とかの餌につられて高額で買って運よく当たったはいいが、換金しようとして官憲にお目玉をくらうってことがあったのだろう。

「五十錢銀貨二萬枚」の手渡しというのが面白い。いくら銀貨国だからって、なにも50銭銀貨で渡すこたぁないと思うのだが、ちょっとこれは眉唾か。でもクジにあたった人間が、荷車に銀貨満載して町を練り歩く姿というのはちょっと楽しそうだ。しかし、当時の大連なんか治安は悪そうだし、命の危険はなかったのだろうか。

 江戸時代の富くじでは、当たった者が、近所に酒や魚の大盤振る舞いをするのがしきたりだったそうで、それをしないとトッチメわれたそうな。その伝統がこの頃は生きていたので、鈴木某氏のようなことになったのであろう。今でも、ゴルフでホールインワンをやってしまうと、何かしら周囲に振る舞わなければならないそうだが、これもこの伝統の名残りだろうか。まぁ、何にせよ幸運に恵まれた者が、周囲にお裾分けをするというのは、世界中でどこでも見られることではあろうが。

 続いては、黎明期の映画産業の話。映画好きなもので、フィルムの値段などよっと細かすぎるところまで引用してしまった。御容赦の程。

四 明治の映畫物語

 明治の末期に於ける日本の映畫界は、今日と比較しては勿論お話になつたものではなかつたが夫れでも其當時は珍らしいといふ人氣が八分まで占めて居ただけに、映畫の良否に關せず相當の人氣を呼んで居た。しかし幼稚であつた事はいふ迄もないが、夫れを思ひ出したままに記して見やう。

 伊藤公映畫利用 活動寫眞を廣告其他に利用する事は年々發達して來たが、中にても之を最も有意味に活用されたのは、伊藤公であつた。といふのは伊藤公が日露戦後朝鮮に對する政策に就て、多大の苦心をされた事は誰れもが知つてる通りであるが、皇儲殿下を日本へお迎へ申してから、殿下の日常に就いて多大の注意を拂はれ、殿下が御見學旅行、御避暑其他の御動靜に就いては大低(たいてい)吉澤商店から技師を伴はれて、殿下の御行動を一々ヒルムに収め、之を韓國に送られて、皇室を始め一般に映寫して見せ、殿下のお側には伊藤公が常に附添ふて居る。そして非常なる鄭重な待遇を受けさせられて居る事を目のあたりに見るやうに謀つたので、朝廷を始め一般の人逹の心情は大に融和して、彼の併合でも何の故障もなく運ぶ事が出來たもので、映畫の効カは絶大である事が知れやう。

 だが、此の伊藤公が映畫を利用したと云ふ事に就いては餘り廣く知られて居ないが、夫れが明治の末期、まだ映畫の極めて幼稚なる時代に、既に之れだけの活眼があつた伊藤公も、此の映畫夫れ自身も、共に永く誇るべき事柄であらうと思ふ。(中略)

 ヒルムの價格 映畫利用の有効といふ事は自分が映畫を珍らしがるたけ、夫れだけに十分効力は認めて居たのは事實であるが、何といつても、ヒルムの價格が餘りに高價で、一寸手が出せなかつたのである。

 活動寫眞機は内地製であれば二三百圓も出せば一通りは揃ふ、外國製は何うしても五百圓以上はかゝる。幾ら幼稚だといつた時代でも、外國製を直に模造する位の實力は持つて居た。然し、之は映寫機及び附屬品の話であつて、肝心のヒルムは全然此の反對で、輸入ヒルムは一尺三十五錢から五十錢は取られる。之れが内地製であれば一尺七十五錢から一圓位ゐはかゝる。

 其所で一分間に映出するヒルムの長さは、三十五尺から五十尺とすると、一時間映寫するには二千尺から三千尺のヒルムが必要である。之を興行として二時間以上映寫するには少くとも五千尺の準備が必要な譯である。夫れが一尺五十錢づつだとすれば二千五百圓、多少の格安物を混ぜた所で二千三四百圓は要る。之れだけの金をかけたヒルムを一度や二度見せただけでは迚も算盤が取れやう筈がない。

 斯うなると興行師側は破産の外はないが、苦しまぎれの一策として、地方巡業を遣るといふ事になつたのである。けれ共、此の巡業といふ奴は却々當てにならぬもので、一場所宜くて、次の二場所が惡るいとなれば、夫れこそ元も子も失はなければならない。

 其所で、ヒルム撮影を専門として居た、吉澤、横田、エムパテー、福宝堂などでは競爭して、大都市内に多くの常設館を建設しやうとしたので、淺草公園などでは之れ等の常設館が軒を並べる事になつたのである。

 はてヒルムは何故高い 此當時日本へ輸入するヒルムは、佛國のパテーとゴーモン、伊太利からイ夕ラなどが最も多かつたが、中でもパテー社のヒルムは總てが優れて居るといふので輸入の大半はパテーで占めて居た。

 即ちパテーの映畫を百點とするとイタラが八十點、ゴーモンが六十點だとは各社の特色から見た玄人筋の評判である。之等のヒルムは關税と運賃を除いて一尺平均二十五錢、天然色は二十八錢、極彩色が三十五錢といふ見當である。

 外國物は何故こんなに安いかといへば、パテー社では一つの原板から八九十本は燒付ける。若し夫れが成功したとなれば何千本でも直に燒き付けて輸出するから、最初は何千萬圓といふ大金がかかつた原板でも斯う多數に分けて見ると、一尺の單價は安くなる筈である。要する所十分な資金を抱いた大量生産だ。

 所が日本では資金も少し、技術も外國には及ばないし、夫れに日本映畫は一向に外國へは賣れない。夫ればかりでは無く、内地だけでも同じ映畫を五本も十本も燒付けた所で賣口は無い、だから一枚の原板が諸方ヘ轉々して映寫されるといつた有様である。

 内地で作る原板には、撮影と燒付との二通りの生ヒルムが要る、之れが、殘念ながら日本では出來ない。悉く歐米から輸入して居るので、其値段が一尺十二錢から十四五錢だから、撮影と燒付の二通りのヒルム代だけで二十七八錢はかかる。之に藥品代から技師俳優の手當から種々の費用を加算すると何うしても一尺四五十錢から下では上らない勘定となるのだ。

 一ヶ月十五萬尺 日本出來の映畫は吉澤、横田、エムパテー、福寳堂などで製造しても夫れだけでは營業にならない所から、前記の如く常設館を競爭的に設置して、自分が新しく作つた映晝は、專屬の常設館で利益が得られるだけ取つてからでないと、決して他ヘは賣らない有様である。

 又此の吉澤、横田、福寳堂では撮影するといつても實は撮影だけで、多くは米國の會社へ送つて修正をして貰はねばならない状態で、明治四十年頃には下手乍ら内地で修正する様になつたといふ事である。

 明治四十三四年頃内地で消費されるヒルムの量は大凡(おおよそ)十五萬尺に逹して居たが、之は前記の通り撮影と燒付の二通りに使用するから出來上りは約其半數七萬五千尺の勘定であるが、實際の出來上り尺は六萬尺を越えないだらうとの事である。

 此のヒルムは主に米國イースマン會社から輸入するが外に吉澤はロンドン支店の手から、横田はエムパテー社から直輸入をやつて居たのである。

 此外ヒルムの撮影は東京では淺草公園大幸館の齋藤幸次郎と鶴淵寫眞店で、大阪では寺田清次郎、と外一名、臺灣では同仁社などが在つたのである。(中略)

 ヒルムの交換業 右に記した通り日本製のヒルムは何うしても技術の上からも算盤の上からも見込がないとすれば、外國物をドシドシ輸入すれば宜いぢやないか。といふ考へは誰れも思ふ所であるが、其處に又一ツ難關が在るのだ。

 夫れは、日本と風俗習慣が違ふだけに、キツスをして居る所やら、抱き合つて居る所などが澤山あると、其筋から映寫を禁じられる。折角輸入した面白い映畫も映寫が出來ない爲めに倉の中で寢かせて置かねばならぬ場合が幾らもあつた。だから、外國物を買ふにしても先方に支店でも在つて日本人が選ばない限り之は甘く行かない。

 又好い場所に常設館を持つて居ても、名のあるヒルム屋と共同でなければ映畫が都合よく手に入らない。さればといつて共同すれば利益の大半は映畫屋に取られて了ふ、といふ困つた状態であつたのである。

 恰度明治四十年頃ジヤパン、プレツス、ヱヂエンシーといふ名前で映畫の交換賣買を專門とする會社が出來たので此の方面には大變便利になつた。勿論取扱ふ映畫は各社から提供するもので皆二度の勤めをする古物であつたが、新品が一尺五六十錢もするのに、此の手で行けば古物にしても一尺五錢から三十錢位ゐの相場であるから、吾が活動寫眞界では正しく地獄で佛に逢つた様なものであつた。(中略)

 かうして今日の日本の映畫界は發達したもので、今日から見れば正しく前世紀の遺物といつても良いであらう。 (pp.40-48)
 朝鮮半島の植民地化政策にあたって、伊藤博文が映画を利用しようとしたというのは興味深い。海千山千の策略家だけに、メディアに対する嗅覚も鋭いものがあったのであろう。逆に言えば、朝鮮半島の人々の日本に対する反感を敏感に感じそれを恐れていた証しと言えるかもしれない。文中では「朝廷を始め一般の人逹の心情は大に融和して、彼の併合でも何の故障もなく運ぶ事が出來たもので、映畫の効カは絶大である事が知れやう。」とあるが、故障がないどころか、後に伊藤博文は安重根に暗殺されてしまった。

 明治期においては、まだアメリカ製のフィルムでなく、フランスやイタリアのフィルムの輸入が盛んだったようだ。時期的にもまだハリウッドのスタジオができる前で、映画といえばヨーロッパの時代だったのであろう。しかし、国内の映画よりも海外からの輸入もののほうが値段が安かったというのはちょっと驚き。まだ技術が未熟で日本国内で現像を完成させることができなかったためなのであろう。「日本と風俗習慣が違ふだけに、キツスをして居る所やら、抱き合つて居る所などが澤山あると、其筋から映寫を禁じられる。」という点については、この推薦図書でも扱った。「檢閲室の闇に呟く」「これ以上は禁止---ある檢閲係長の手記---」を参照のこと。

「興行として二時間以上映寫するには少くとも五千尺の準備が必要な譯である。夫れが一尺五十錢づつだとすれば二千五百圓、多少の格安物を混ぜた所で二千三四百圓は要る。之れだけの金をかけたヒルムを一度や二度見せただけでは迚も算盤が取れやう筈がない。」

とあるが、明治30年頃の10円が現在の貨幣価値にすると、大体20万円ほどだというから、2500円は500万円というところ。残念ながら、この当時の平均的な映画館の入場料に関する記載がないので、一興業でどれくらいの収入になるのかがわからないが、500万といえばかなりの金額である。映画で当てて一設けした者、外して落涙に及んだ者、様々だっただろう。

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