世相百態 明治秘話
(その二)

世相百態 明治秘話
石田龍藏著
東京:日本書院, 1927

前回に引き続き「世相百態 明治秘話」の紹介。最初は、葬式に出没する怪しい男の話。

一○ 珍談葬式博士

 ここに一言御斷りする事がある。明治時代は勿諭、昭和の今日にも此の葬式博士が澤山横行したり又しつつある爲め、之れ等の人達は自分の事を素つ破拔くかと氣を廻す者もあらうし、今日相當の地位に居る人達の内で、此の葬式博士をやつた人もあらうと思ふが、余輩は君逹の意氣地なき手段方法の一端を素つ破拔く者だと承知して貰ひたい。(中略)

 先づ此の葬式博士の平常の生活から筆を起すのが順序であると思ふから、其大略を述べやう。

 其當時の家賃で先づ三十圓以上の邸宅を構え、書生の二人位に小間使ひ仲働き、飯たきの者を抱え、勿論自用車は用意して居る。家の内部はと見ると、西洋間の一つ位はあり、日本間、西洋間共に綺麗に粧飾して、讀めもしない洋書や美しい装釘の書物が適當に配置され、床の間には本人の趣味の高尚を表徴する手段として、一流畫家(がか)の軸物が掛けてあり、其前には遠州とやらの生華、事毎に一分一厘の虚があらう筈はない。

 一寸外出するにも定紋つきの抱え車、書生や下女に送り迎えをさせる。服装はといへば季節季節の流行物、五分も透(すか)さぬ贅澤好み。金時計に金ぐさり、これで葉卷を啣(くは)えて車上に悠然と構え込んだ所は、どんな白痴(たわけ)の質屋に見せてもエライ官員樣か、會社の社長さんと値踏みをするは知れた事。

 とはいへ、其實(そのじつ)別に是れといふ財産もなければ、給料も配當も入る譯ではない。さうかと思ふと晦日(みそか)々々の諸拂(はら)ひは十分五分の待つたなしでキチンキチンと拂つて行く。町内の諸掛りや寄附なども構え相當、人には後れない心掛け、町内の人達は只もう偉い人として奉り、譯もなく煙に卷かれて終ふ。この偉いお方が葬式博士といふ偉いお方なのである。

 さて、そこで何ういふ風に此の博士が葬式を利用するかといふに、先づ第一着として朝々配逹して來る二三の新聞の中で、外國電報も政治問題も、如何にならうと一向お構ひなしザツト目を通すにしても夫れは唯話しの要領を心得るまでに過ぎない、只チラリと目を通すだけ。偖(さ)て三面となるとギヨロツト、博士の眼は輝く。勞働爭議の大騷ぎも小作爭議の大喧嘩も冷い眼で素通り下の下に五行程、某會社々長某氏逝去の記事でも、眼に止まるならば、博士の手はブルツと慄(ふる)ヘ眼の色はサツと變(かは)つて、新聞は早くも廣告欄を開いて瞳は電光の如く黒輪廓付きの死亡廣告の上を走つて居るのである。

 そして、其廣告主は果して如何なる人か、華族か豪商か、それとも政界有力の名士かと彼の心は紳士録のページを繰るやうに働いて居る。次の勳作は、彼が是れと目星をつけた廣告から、葬式の日取り、時間、式場など落なく手帳に書き留める。

 之が唯一の資本なんだ、多數ある場合にはカード式に配置して手落ちなく準備は出來て居る。そして、葬式の當日となると、其前日には普通二圓三圓の香奠の所をズツト張り込んで五圓十圓又は向ふ仕第で二十圓位包んで、例のリウとした服装で押しかけて行く。そして先方へ行くと、遺族の方や親族の人達に逢つて丁寧に弔詞を述べる。そして準備して來た香奠を差し出す。其挨拶の要領は次のやうである。

「エヽ今回はまた存じもかけぬ事で、嘸(さぞ)かし御殘念の事で御座いませう。實は御主人には先年何何の件で種々御厄介になりました者で其外何によらず御在世中は、一方ならぬ御懇命を蒙つて居りましたが、両三年事業上の都合で地方(又は海外)へ參つて居りましたので存じ乍らもツイツイ御無沙汰を致して居りまして、漸く十日程前に歸京致しました許りで、御病氣とは一向に存じませぬので、何れ其内に御訪ね致す心得で居りました所が、今朝の新聞紙で御不幸の廣告を拜見(はいけん)吃驚(びつくり)致しまして取る者も取り敢へず御伺ひ致しましたやうな仕誼で、何か、相當の御用でも御座いますれば御役に立ちませぬが、何なりとも御遠慮なく仰しやつて戴きますやう………」

 懸命の辯舌(べんぜつ)を以て滔々と述べたてるのである。

 そこで都合の宜い事には、相手の主人が死んで居るのだから、死人に口なし、の筆法で、

 「イヤ、一向に存じませんが………」

てな事をいふ心配がない事である。だから、遺族や親族の人逹の中に偉い賢い人が居た所で、之れが判らう筈もなく、不幸を禮儀をつくして弔(くや)みにて來て呉れたのであるから死んだ人も随分交際が廣かつたから、何處(どこ)かで懇意にして居た方だらう。それにしても、廣告を見て弔(くや)みに來て呉れるとは見上げた方だ。と服装がリウとして居るだけにウツカリ鵜呑にしてしまうのは無理からぬ心理作用。ここが博士のつけ込み所である。

 葬式の日は素より會葬する。そして、頼まれもせぬに何やかやと手傳うのである。親切らしく又眞情こめて、こうすると、一日の新聞廣告やハガキ位で濟まされなくなり、主な親類か又は年輩であれば相續人となつた者や未亡人が態々(わざわざ)出向いて御禮に來る。所が、來て見ると、前記の通り何事にも一分一厘の虚もない構へ、そして親切に眞情を吐露して之を送迎するから、この不幸に依つて感傷的になつて居る時だから、一も二もなく此の人物を相當の人物であり、親切な人であると信用の先入主を作つてしまう。

 そこで十日十五日と經てから博士は忌中見舞を口實として、

 「定めし日増しに御淋みしい事とお察し申します」とか何んとかいつて菓子折の一ツも持つて行く。

 此時は先方も大體片附いて居て實際の淋みしさがシミジミと感傷的な胸を襲つて來る。そして矢鱈(やたら)に人懷かしく思ふ際であるから、マアマアと引き留める。さうして時分時になると膳部が出る。「マアお近かづきに」とか何とかいつて盃の交換が出來る。

 こうなると、最早大半の目的は達しられたもので、四方山の話から相手方の趣味を洞察して、政治方面、實業方面、又は文學などそれぞれ如才なく先方を籠絡する。こうして、氣長に半年なり一年なり紳士的な交際をつゞけて行く。而して、潮時を見澄(みすま)してソロソロと仕事に取り懸る譯であるから、氣骨の折れる事は一通りではない。

 仕事といふと何か、それは、此の博士が永らく苦心して居る所の大目的で、其時次第で何んといふ定(きま)つた物はない。譬(たと)へると、廉(やす)い地所家屋があるといつては買はせたり、有利な會社が創立されるからといつては株を持せたり、先方の持株を知つた場合には夫れは見込みがないから、有利な何々株に買ひ換へるが良策だとか、書畫骨董品の賣買の世話、又は自分の計畫して居る事業を、他所事の様に話し込んで、自分も少し出資する考へだが、と出て先方にも資本を出させ、自分は夫れを踏臺(ふみだい)として更に他方面から出資させる。

 こういつた風で大仕掛けに喰ひ込むのであるが、さればといつて、極端な無法な事やら常識を逸した話を持ち込んではならないのと決して先方に損をさせない方法を講じなければ駄目である。先方にも現實に利益を與へて自分も幾分利益を得るといふ方法でなければ永く根強く先方を利用する事は出來ぬ。依つて此邊の事情は博士はチヤンと心得た者である。而して、一度先方の信用を得ると、何かの機會に先方の親族知人に近づく方法を講じて、夫れから夫れと四方ハ方ヘ斬り込んで行くのである。

 この手腕は實に物凄いばかりであるが、只此の方法ばかりでなく、かうして絶えず名士の葬式に會葬して居ると、其度毎に各方面の名士と顔を合はせる。夫れがニ度となり三度となると中には、何かの機會から言葉を交す事がある。すると直ぐ名刺の交換となり、双方とも御交際を願ふてな事をいふ。よし先方では單に形式的な、其場限りの事と思つて居たにしても、此方は一生懸命の機會であるから、之れを其場限りと考へる筈はない。

 かうして一年二年と經つと、東京市内でも相當の名士には可成(かなり)澤山の面識位は得られる。

 かうなれば最早一人前の事業家か政治家として立つて行ける。たが、此れ迄に運ぶには尠(すくな)からぬ資本と多大の知識と努力とが必要である事を痛感せずには居られない。此の意味から昔のお葬ひ師などの比ではないから、相當の素養あり資本も多少ある者のやるモグリ處世法で、甘(うま)く成功すれば夫れこそ非常に立身する者もある。

 世間では之を眞似やうとして幾多の人逹がよし夫れが葬式を利用しない迄も、色々と縁故を求めて活躍して居るが、其内で成功する者は三分位ゐで一割とは逹しない。其原因は何れにあるか、と云ふと、功を急ぐのと、運動資金に困惑して、失敗と知りつゝ自己本位の金の相談を持ち込むが爲めである。だから、普通の人達では到底だめ、といつて押が強く、強請が上手な手合も成功は一時的で小さく、之も失敗。やはり大慾は無慾に近しと云つた風の人でなければやり切れまいよ。

 此の葬式博士の起源に就いては確な事は知れないが、何んでも明治初年に佛國の法律大家ボアソナード博士が來朝したが、其門人で佛國へも二三年留學した某才子の新案だと云ふがヒョツトすると、此の才子が佛蘭西で教はつて來て日本で實行したのかも知れない。兎に角此の才子は佛國の法律博士の稱號を持つて居るとの事であつたから、此のお葬ひ師の本人が博土であるといふので此の「葬式博士」と云ふ名が出來たのであらう。然し此の才子は流石に本家本元であるだけに此の道では成功し某侯の幕僚となり、朝鮮へ渡り可成り羽振りを利かせて居たといふ。尚ほ明治時代といはず勿論昭和の今日でも東京市中には此の博士が新聞の黒輪廓廣告に目を皿の樣にして居るといふから面白い。 (pp.89-98)
平成の現在でも、偉いサンの引き合いやコネクションというものがハバをきかせているが、明治の御代ではそういったものの御威光も現在より遥かに強力であった。その御威光を得る為に編み出されたワザが「葬式博士」というもの。しかし、「決して先方に損をさせない方法を講じなければ駄目である。」というのだからまるきり詐欺という訳でも無い。「無責任シリーズ」の植木さんのような役回りを演じるというところか。しかし、何の定職も無いのに、「三十圓以上の邸宅を構え、書生の二人位に小間使ひ仲働き、飯たきの者を抱え、勿論自用車は用意して居る。」なんてのは、親の遺産をたんまり受け取った後でもなければ不可能じゃないかと思うのだが。

一五 物凄い廣告詐欺

 鹽(しほ)の味と世の中は昔から辛い物と相場が定つて居る。今更取り立てて辛い説明をする迄もない事だ。だが、世の移り變りに連れて其の辛さに相違があるから面白いといふものだ。

 徳川時代の辛さ、明治時代の辛さ、大正時代の辛さそれぞれ面白い味を持つて居る。(中略) 新聞雜誌の廣告を利用して嘘八百の文句で釣込む物凄い人達がウヨウヨして居るから恐ろしい。だが、要するに相手になりさへしなければ安全第一なんだ。それにも拘らずムラムラと湧いて來るセシメてやらうといふ淺ましい心から、そしてまんまとせしめられるとは引かかる奴も馬鹿の骨頂だ。左に二三明治時代の内情を記して御參考に供する。

注 意富に達する道を知らんとするに
は下名へ郵券十錢送れ詳報す
東京市何區何町何番地 OOO吉

 こんな廣告が新聞や雜誌によく見受けたものだ。之に十錢の郵便切手を封入してやるとハガキで返事が來る。それには日本銀行へ行く東京市内の道順が書いてあつた。之は小額な郵券詐僞であるが、他の者はこんな手緩(てぬる)い奴ではない。
  誰にも出來る、永久取引、遠近不問、
◎自宅内職婦人大部集 金儲思ひのまゝ
     東京OOOO合資會社 ○ ○ 商 會
 こんな廣告もよく見受けたものである。又中には工賃現品着拂ひ、各地無料教授、照會三錢送れ美本案内送るなどといふのがある。

 こんなのは多く編物で、レース糸毛糸の輸出向きが多い樣である。そして賃金は早くて一ケ月遅くてニケ月後でないと決して送つて來ない。夫れもいゝとして其工賃は何うかといへば、弗入一錢から五錢迄で、皿敷二錢から二十錢迄で、テーブル掛は二十五錢から三圓位とある。

 夫れで最初は一圓又は二圓は保證金として預けねばならぬ。一ケ月以上仕事が続けられぬ場合には保證金は沒收される。解約手數料として別に五十錢取られる規約などがある。

 之などは比較的良い方であるが、此道の人逹のやる事はとても恐ろしい。警察で氣が付く頃にはチヤンと他所へ移つて他の商賣をして居るのだから、少々の詐僞行爲があるにしても御用と來るまでには又相當の罪を犯して居るのだから更に恐ろしい。

 次に形を異にした種々の廣告を示さう。

 之れなどは兎角弊害のある御連中ばかりで繪葉書製作の内職で一日三四十錢、それも繪の素養のある者はいいとして、無經驗者には無料教授とはいへ多少の練習費が必要だといふから結局は同じで一向に働き榮えがないらしい。

 中でも自宅寫字生云々、之は手本を示すから其通りに書き上げると、之では不可ない。彼れは何うのと文句をいつて殆んど不合格ばかりそれに用ひた紙代は取り立てられる、だから何んにもならない。

 さうかといつて嶄新云々の方へ郵券九錢送ると名前の變つた所から返事が來るといふ筆法だから何をやる事やら知れた者ではない。

 繪葉書にしても示定(してい)の郵便切手を送ると直ぐ元價五厘位の繪葉書二枚と説明書一枚を送つて來る。之れで早や切手代の半分以上は取られて居るのだ。説明書には素人でも本商會の教授書によれば極めて短時間で立派に成功するとある。更に見本以外の新作品を作れば特別高價に引取る外に褒賞を出すと記して居る。そして最後に材料品、器具薬品、繪型代として金三圓送れば傳授書を無代にて添へる外に、製品に對しては永久現金取引を約束し地方へは直に爲替にて送る。

 かうした御都合の宜い文句を並べて居るからウツカリ引掛かるのも無理はない。

 そして永久取引云々と書てあるが、製品の捌けロなどは一向に考へて居ないのである。といふのが、根が一本五錢か十錢位の刷毛、二三錢の繪型、五六錢の傳授書などを送つて二圓なり三圓をふんだくるのだから、製品の賣口などを考へる必要はない。

 又製品にしても見本通りの物は却々(なかなか)出來るものではない、いや決して出來ない。何故かといへば、見本より上等に出來れば之は品が揃はぬから不可(いけ)ないといふ。大抵な所まで出來た品に對しては何とか難癖をつける。手細工であるから見本と寸分違はぬ物は出來ないが、若し出來たとしても、相手が難癖つけて引取らないといふ腹なんだから、話がまとまる筈はない。其内に材料がなくなる、又買はねばならない。一體正氣でやつて居るのかといひたくなる程馬鹿にされるのである。

 然し、かうして突放しては商賣にならないから、製品の内から特に出來の好いのを少しばかり買取つて金を送つて來る。すると又之に釣込まれてせつせと無駄働きをするといふ事になる。若し詐僞だとか何だとかで騷がれたにしても事實出來の好いのを買つて居るのだから、よしやそれが詐僞的行爲だと知れて居ながら其筋の手は徹底しない。只誇大な廣告に對して内容が件はぬといふ理由で科料か拘留だ。

 然し一度處分された以上は其まま續けられないから………とはいへ甘(うま)い味は忘れられないといふので住所を替へたり、名前を替へて又しても毒手を振ふのである。そしてたまに買取つた繪葉書は露店商人の手へ廻つて賣られる仕組になつて居る。(中略)

 之は、過去の歴史だが、之を基本として昭和の今日を考へる事は最も賢明なやり方といはねばならぬ。大正末期に於けるクロツスワードに依る各種の詐僞などを考へると、世の中は一時も油斷が出來ない。

 だが、之れは自分の慾さへ忘れる事が出來たなれば何といつても引掛る者ではないが、自分の慾が八分まで手傳つて居るのだから、幾ら損をしても餘り勝手な泣き事はいへた義理ぢやないよ。ホントに馬鹿々々しい。

 そんな人逹は毎日二三度顔を洗ふ事だ。そうして慾を離れて考へる事だ。其處に安全な生活の道が開けて居るといふ譯だよ………。 (pp.126-136)
 「富に達する道」に「日本銀行へ行く道順」ってのは、なかなかに気がきいているが、なんだか落語のマクラみたいだ。「牛の丸子」「つぼ算」なんかの上方落語に似合いそう。

 「内職商法」については、最近も話題になっている。「悪徳商法?マニアックス」のトピックス2000年08月23日(水)のページ参照。コンピュータを使った内職を紹介するからハードを買えというもの。時代がかわって、客を釣るエサが絵葉書からコンピュータになったとはいへ、商法の骨格は全くかわっていない。騙す人と騙される人の世代がかわっているだけ。これだけしぶとく生き残っているということは、この商法がなにかしら、人間の本性を非常に上手くついているからなのだろう。

一七 明治珍聞女角力

 明治元年以後は各地の祭禮などではキツト此の女角力の見世物があつたものだ。中には女角力の一團を以て各地へ巡業に出掛けたといふから相當盛んであつたに相違はない。

 此の女角力が禁止された理由は何であつたかは別として、人間といふ者は男も女も一樣に助平根性を持つて居る動物で、若し人間から此の助平根性を除いたならば殘る所は鬼なんだ。であるから誰れしも此の助平根性を大切にして人間らしい生活をしなければならない。(中略)

 それはそれとして愈々本文に移る事にしやうが、東京で此の女角力を單獨で興行した最初の最後といふのは、明治二十三年十一月十三日から兩國囘向院で女角カを興行したそれなんだ。

 此の一團は其團長の齋藤祐義といふ長野縣の士族上りの興行師が、士族の商法から逃れて儲けたいといふ所から、此の女角力を思ひ付いたのだが、それには少しの順序があつた。

 此の齋藤祐義が明治十六年頃に羽前山形に住つて居て、或る見世物を見た時に此の女角力の一組があつた。此の取組が非常に彼の興行心を動して、ついには妻のキン(日光山)を此の一座ヘ加入させ、次で妻の妹キワ、モトの二人をも加入させて大いに女角力を研究させたのであつた。

 自分は女角力團組織の計畫を立て、其經營其他の研究を始め、終には近縣から大力の女達を募集して、山形の力土勇駒を師匠として角力を學び四十八手裏表の皆傳を受けた。

 其所で愈々明治十九年春山形に於いて自分の團體を以て女角力を興行したのであつた。それが運好く大當りだつたから、益々力を得て一團を率ひて秋田縣下、青森縣下、北海道などと巡業して尠からぬ利益を納めた。其所で二十年の末頃には一時山形へ歸つて休養やら力士の募集に日を送つて居たが、

 フトした事から東京の興行師から招かれて歩合其他の相談も出來たので、愈々休養中の一團を率いて東京へ乗り出し、明治二十三年十一月十三日から兩國囘向院で興業する事となつたのであるが、之が蓋を開けてから僅にして禁止されやうとは、夢にも知らず櫓大鼓の音も勇ましく、非常な人氣を集めたのであつた。今其時の東西の番附を記して置かう。

東  方西  方
大關 富士山およし大關 遠江灘たけ
關脇 北海道きわ關脇 東海道もと
小結 妹脊山りん小結 日高川くの
前頭 唐獅子かん前頭 鯱鉾なゑ
同  淡路島なみ同  日光山きん
同  蒸汽船はや同  珊瑚樹さき
同  電氣燈わか同  八丈島えん
同  大島山しめ同  電信いま
同  金剛石きく同  入舟とり
(此外に名取川、親不知の二名休業とあり)

 本所相生署の調査に依ると、女角士の身元其他は大略次の樣である。

 日光山事 齋藤きん年齢二十七年十一ケ月、山形縣東村山郡高揃村石山勘五郎三女、身長五尺一寸三分、體重十四貫三百。十一年前齋藤祐義に嫁し、現在は此の女角力の隊長として取締りをなす、技倆は早業に妙を得て、一本脊負を得意とする。

 北海道事 石山きわ年齢二十四年七ケ月、前記日光山の妹、立會活溌なるを以て毎度、初切の役を勤む、身長四尺ハ寸三分、體重十六貫三百。

 遠江灘事 神保たけ年齡二十一年六ケ月、福島縣信夫郡飯坂村神保角二の長女、齒力殊の外強く、二十七貫の土俵を前齒に啣(くわ)へ、左右の手に四斗俵を提げて土俵の上を往來する、一行中の怪力士、身長五尺二寸四分、體重二子一貫三百。

 金剛石事 石山きく年齡十五年四ケ月、日光山の妹、技倆は尚ほ初心なるも腹櫓の上乗りを務め、一行中の美人、身長四尺九寸五分體重子二貫五百。

 富士山事 高橋よし年齡二子六年八ケ月、山形縣東村山郡大高根村高橋佐吉の長女、技術に長じ體格よく一行中の有望力士、身長五尺二寸五分、體重子六貫二百。

 東海道事 飯野もと年齢二子年三ケ月、山形縣東田川郡松山村飯野元吉の三女、技倆巧者にして前記北海道と共に初切りを務む。身長四尺九寸、體重十五貫二百。

 妹脊山事 櫻井りん年齡二十年九ケ月、宮城縣遠田郡涌谷櫻井重松の二女、大力にして腹櫓に評判よく、田舍に在りし頃は四斗俵四俵を脊負ひて往来したりといふ。此年一行に加はりし爲め技術は初心なるも腕力驚くべき程強し、身長五尺四寸三分、體重十九貫。

 鯱鉾事 佐藤なゑ年齡二十一年一ケ月、山形縣東村山郡高揃村佐藤紋四郎の長女、身長四尺七寸、體重子五貫。

 入舟事 遠藤みつ年齢二子四年四ケ月、山形縣山形市小姓町遠藤末吉の三女身長四尺九寸三分、體重子六貫五百。

 唐獅子事 須藤かん年齢二十一年五ケ月、山形縣東村山郡干布村須藤淺吉の二女、身長四尺九寸五分、體重十五貫五百。

 日高川事 手塚くの年齡二十四年九ケ月、山形縣置賜郡漆山村手塚春吉の長女、力量衆に勝れ齒力練習中なるが十五六貫は容易に啣え上ぐ、身長五尺一寸、體重十七貫。

 八丈島事 梅谷えん年齡二十二年九ケ月、山形縣飽海郡酒田下荒町梅谷善藏の四女、身長四尺九寸三分、體重十六貫三百。

 禁止 明治二十三年十一月二十七日其筋よりの達により禁止されたのであつた。 (pp.151-157)
この文章には、土俵での装束が書かれていないのだが、やはり上半身は裸で下半身は褌一丁だたのか、はたまた上にはさらしを巻いたりしていたのか定かではない。まあ、さらしを巻いた女同士が相撲を取るというのも、それはそれでかなりエロティックなものだっただろう。その為、「風俗壊乱」と官憲に睨まれたのも容易に想像できる。

 ちなみに、1尺は30cm、1寸は3cm 1分は3mm。1貫は3.75kg、1匁は3.75g。大関の日光山の身長五尺一寸三分、體重十四貫三百というのは身長約154cm、体重約54kgというところ。今から見ればそんなに大きくはない。当時としては大きいほうだったのだろうが。

 うろ覚えで恐縮だが、明治初期には男子の相撲でも、「陸蒸気太郎」(←このシコ名はいい加減です)といった最新テクノロジー応用のシコ名があったと聞いたことがある。なので、当時はこれらのシコ名もギャグではなかったのだろうが、今見るとなんとなく可笑しい。特に、「蒸汽船はや」とか「電信いま」、「淡路島なみ」など、シコ名と下の名前のコンビネーションが素晴らしい。現在の大相撲のシコ名も、最新テクノロジーを応用すれば面白いのではないか。「ATHRONはや」とか「バイアグラきく」とか「光通信さげ」とか。あ、最後のはテクノロジーじゃないか。

 次は「天津甘栗」の日本上陸についての記事。なんでも、最近駅のキオスクなどで皮を剥いた甘栗が売れているらしい。今だに人気があるお菓子である。

二五 支那名産甘栗物語

 明治四十三四年頃、淺草仲店ドラ燒の手前に金升屋と新しい看板を出した燒栗屋があつた。尤も燒栗屋といへば、「丹波名産」「淺草奥山名産」などの名を付けて賣つて居る店は各地の縁日などでよく見受けるが、此金升屋の燒栗は此等の燒栗屋とは全然違つて居るから面白い。そして、明治時代の特産として龍城の手にかかるだけの價値を持つて居るから更に妙である。

 仲店金升屋には支那服に辯髮(べんぱつ)の一青年が番頭さん格で悠然と構へこんで居る。この支那人は金さんといつて本名は李金章、光緒十七年に山東省登州府城袴東大街の町家に生れたので、其當時まだ十九か二十、青二才と馬鹿にするかも知れないが、此金さんは本國でさんざん苦勞を仕拔いて日本へ渡つた程であるから案外老成になり、支那人一流の面長なやさしい顏に愉快さうな微笑を浮かせながら、三錢、五錢のお客様にも愛嬌を振りまくだけの事は承知して居るらしい。

「入らつしやい」「有がたう御座んす」

 の挨拶なども、まるで女のやうな柔かい聲(こえ)で圓滑(えんかつ)に口を突いて出る所は實に手に入つたものだ。それで、普通の會話だつて田舎芝居に出る支那人のやうなワザとらしい不味い會話はやらない。失敬な話だが仙臺(せんだい)あたりの人が話す日本語よりは、確かに日本語らしい日本語を使ふ。一度金さんの會話を聞いた人は必ず此支那人は日本へ來てから餘程長らく經つと見えるな、と一人合點をする者だが、當の金さんは意外も意外明治四十三年九月二十八日に大連出帆といふのだから漸く一年足らず。

 尤も大連では常に日本人に接近して居たから知らぬ間に日本語に精通する樣になつたので日露戰爭當時(とうじ)には苦力として日本軍に使役されたが戰後、大連へ出て甘栗屋を始めたのである。

 所が始めは相當に利益を得たが、軈(やが)て有力なる競爭者が現はれたので、さんざんに敗北して終に店を閉ぢてしまつた。其後一二年は失意に日を送り、苦力の拾ひ仕事で僅(わづか)に生命を維持するといつた有樣であつた。

 其内にフト一人の日本人と肝膽相てらすといつた新しい仲となつた。其日本人は九鬼國次郎といつて、前記金升屋の主人である。

 こうしてニ人は色々協議を重ぬ(ママ)た結果、金さんは明治四十三年九月二十八日大連を出帆十月上旬横濱へ上陸して直ぐ甘栗屋の準備に取りかかつた。そして十一月三日天長節の日を卜(ぼく)して淺草仲店にて日本唯一の甘栗屋を開業したのであつた。それから神田猿樂町に少し遲れて一軒開業したが此家には前記九鬼が主人となり之を本店とし、淺草の店を支店として金さんは番頭さん兼技師長として納まつて居るのである。

 只の栗を燒いたのでは殊更に甘栗と名乘る資格はない。此金升屋の甘栗とは果してどんなものか、昭和の今日からいへば何んだ甘栗か、アリや君銀座が本家だよ、位な事は皆樣先刻御承知だらう。が、明治時代に東京で、否、日本で甘栗屋が始めて出來た常座の事を考へると、此の甘栗とは抑々(そもそも)如何なる栗か、と皆樣も不審がられたに相違ない。斯くいふ龍城もワザワザ牛込から淺草まで十錢の甘栗を買ひに行つた者なんだ。

 そこで、甘栗といふ理由は人工的に甘味を加へるから甘栗といふので、其方法は金升屋の店には直徑三尺ばかりの鐵(てつ)の圓(まる)いかまどが据えてあり、それに深さ七八寸の釡が掛けてある、之は今日の動力利用と大差はない。

 釜の中には眞黒に光つた小豆大の小石が山形に盛り上げてある、一寸見ると小石を煎れば甘栗に化けるのかとも思はれる。そこで金さんは親切に説明して呉れたがそれに依ると、此小石が甘栗製造の種子で、先づ小石五升の所へ適當に砂糖を入れて熱を加へながらまぜると、砂糖は溶けて小石に着くから、そこへ栗を入れて小一時間も攪(か)き混ぜながら煎る。さうすると小石に着いた砂糖は更に栗の外皮に着き、之を透うして滲(し)み込んで行く。そして始る(ママ)て甘栗といふ燒栗が出来る譯なんだ。

 然し取り出した栗は冷めない樣にお櫃入れの中へ入れ賣れる毎に出すのが本式だといふ。そして、那知黒(なちぐろ)の樣な小石はポンポンながら日本の石ぢやなくて、遠く支那芝罘(ちーふー)の田舎から來るのだといふ。

 如何にも甘栗の理由は判明したが其値段が日本の燒栗に比較すると非常に高い。栗は甘いが値は高いといふ事になるが、其處にも理由がある。燒き方が手數で其上に砂糖を加へるだけでも高いに定つて居るが、之れに使ふ栗が實際は日本物を使はないのである。此當時百斤に付き六圓五十錢の關税を拂つて支那から輸入したのだから百目二十五錢に賣つた所で餘り高いと不足もいへない。

 何故甘栗に日本栗を使はないかといふと、其處に又相當の資格を供へて居るから妙だ。支那栗は恰度柴栗の樣に小さい上に粒が不揃ひで、日本栗の樣な大きな物はないとの事、そして、其味に於ては、甘栗に燒かなくとも日本栗よりは確に味が好い。そして外皮を剥くのが容易である事も支那栗の誇りである。

 其當時金升屋の廣告に次の文句が記してあつた。

 かはをむくには、一寸かるく栗のまんなかに爪形を入れて、おやゆびと人差指で上下につまめば、口があいてしぶ皮がつかずにきれいにむけます。

 これは確に詐(いつは)りなしで、面白い程むけやすいものだ、それが澁皮がきれいに取れて居るのだから申分はない。味は流石に金さんの自慢だけあつて甘(うま)く喰はしたものだ。

 此栗は主に大連から輸出されて來るのであるが、實際の産地は天津と芝罘(ちーふー)である、そして天津産の方が實が締つて居るだけに上等とされて居る。

 こういつて金さんはニツコリ笑つた。(pp.227-231)
実をいうと、何故甘栗が甘いのかよく知らなかったのだが、こういうやり方だったんですな。なんだか久しぶりに甘栗を食べたくなってきた。 「普通の會話だつて田舎芝居に出る支那人のやうなワザとらしい不味い會話はやらない。失敬な話だが仙臺(せんだい)あたりの人が話す日本語よりは、確かに日本語らしい日本語を使ふ。」とあるが、現在だと山形弁なまりの日本語を話すダモエル・カール氏が、「すごく日本的」などと評されるのだから妙なものだ。

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