世相百態 明治秘話
(その三)

世相百態 明治秘話
石田龍藏著
東京:日本書院, 1927

「世相百態 明治秘話」紹介の最終回。展覧会にいくと、ガードマンとは別に監視人というのか何というのか、要所要所におとなしく座ってあたりを窺っている女性がいるが、この監視人の初登場についての文章。

二〇 紫匂ふ畫會の美人

 明治時代の新しい職業婦人の一ツで、若紫のリボンに海老茶の袴、見るさへもなまめかしい年頃の娘逹か上野の森にチラリホラリ、其頃の經師屋(きょうじや)や狼連中の仲間では早くから、兎や角問題にして居たといふ各畫會の看守美人、之も亦明治時代の特産物として淺薄乍ら少しく其内容を御披露する。(中略)

 上野公園櫻ケ岡(さくらがおか)に始めて美術展覽會を開いたのは確に明治十年頃と記憶する。此の團體を美術協會といつて毎年春秋二囘開會する事になつて居たが、此會では始めから看守には多く舊幕臣(きゅうばくしん)の隱居さん達を傭入れたのであつた。

 つまり比較的人品も賤しくなく、多少文筆の才もあり、殊に武士氣質として實直な人が多いといふので御隠居様達に御苦勞を願ふ事にしたのださうだが、斯うした御隱居さん達もさう何時迄も生きて居られず、殊に時代の推移は婦人の職業といふ事が、世間一般から問題にされる樣になつた日露戦役以後は、各畫會では競争的に妙齡な海老茶式部(えびちゃしきぶ)を採用する状態であつたから、保守的とさへ定評されて居た美術協會でも大勢には抗し難く、數年來看守として御苦勞を願つた御隱居達を廢して遂に妙齢の美人を採用した。

 文部省の展覽會では明治四十一年の十月上野公園櫻ケ岡美術協會で開催した第二回文部省主催の展覽會(竹の臺別館共)に約二十名の美人看守を採用したのであつた。

 そこで、此等の美人看守達の内面であるが此の當時の噂には根津、谷中、駒込千駄木邊から通ふ者が殊に多く、又嬋妍(せんけん)たる尤物(ゆうぶつ)が多いといはれた。そして其多くは明治四十年の春上野で開かれた東京府の博覽會に看守を勤めた者で、容貌の美と品性の良好なる者を選拔したのは同會の進藤氏とやらが特別の盡力であつたといふ話。

 明治四十一年十月上野竹の臺に開會した玉成會の畫會にもやはり十數名の海老茶美人を採用したが、之れ等は同年春開會した巽畫會で勤めた者であつたといふが之は同一幹事の手に依つて周旋される結果であらう。

 而して面白い一現象は、此等各畫會の看守美人達の産地は、文部省の畫會の看守美人達の産地と全然異にして居る事である。即ち櫻ケ岡の方は駒込から谷中邊の高地であるが、竹の臺の美人は概して根岸、元金杉邊の低地から來る者が多いとは妙で、更に之を美醜の點から見ると、櫻ケ岡の美人は自ら靜艶櫻の如くであり、竹の臺の美人は自ら清楚竹の如しとでもいへやう。兎に角前者は貴族的であるに對し後者は平民的である事は當らずとも遠くはあるまい。

 女看守採用に就いて某畫會の幹事は次のやうに話された事があつた。

 畫會の婦人看守は確に新しい新需要だと思ひますが、場所柄だけに容貌も相當美しい方を望みます。尤も本人の品性が下劣では致方(いたしかた)がありませんから、此點は充分に注意して居りますから今日では何れの畫會でも醜業婦などを知らずに採用して居る所はなくなりまた。然し、何分手當が僅少であるから一度醜業に依つて泡沫的金銭を握つた女は如何にしても畫會の看守では辛抱が出來ませんから勢ひ此種の女看守は減少するものと思つて居ります、云々。

 そこで女看守の給料に就いて話さねばならぬが明治四十年春上野で開設された博覽會に於いては、會計が違つて居るだけに給料は割合ひによく、第一にキヤラコ黒紋附の袷とカシミヤ海老茶袴を一般に給與し、日給は一等一日四十錢、二等一日三十五錢、三等一日三十錢と定められて居たが、文部省を始め他の畫會では豫算(よさん)が一般に小さいので博覽會程の給料を給與する事は出來ないから、大抵の標凖は日給二十錢から二十五錢位ひの定め、東京美人として多數の有識者を迎送する女看守が月額僅に六圓から七圓五十錢で傭ひ得るとは餘りといへば慘酷である。酉の市のおかめよりも更に更にお安いとはお笑ひ事ではあるまいと慨嘆之れ久しくするといふおキヤンも在つたとやら、さもあらう姫御前。

 女看守の服装について其當時某畫會の看守長は自分の經驗から次の樣に話された。

 何れの畫會でも一定の規定がある譯ぢやありませんが何分高尚な會場の事ですから各自に清潔でさつぱりした服装をする樣に注意して居ります。何をいひましても薄給の事ですから、紡績かすりの羽織、綿大島の綿入位ですが、それでも一枚三圓五六十錢位はかかります。此外袴に雨コートに三圓から四圓は費ひますから、年若い女としては心苦しい事で御座います云々。

 女看守の身元に就いて某氏夫人の話を聞くに、

 某畫會の女看守は私の手で人れて居りますから、其身元に就ていは相當詳しく判つて居ります。本人の品性は申すまでもありませんが其家庭の事情も一應は調査致しますから、某會の看守には相當の家庭の娘さんやら若い妻君、といつた方ばかりでして生計に苦しんで居る樣な方はありません。

 然し、何と申しましても、感情の人間同志の事ですから、會に屬(ぞく)する男の方と女看守とが戀愛關係に落ちたといふ様な事はないとは申されませんが、此の動機が美術家に對する高尚な憧れから戀に導かれる者が多い樣で、金銭慾や肉慾の爲めに囚はれた者は殆んどないといつて宜しいでしよう。然し、藝術家の性格が一般の人とは餘程違つて居りますから、此點から見ると案外なローマンスがある事と思つて居ります。

 勤め方は一體に気樂で事務に馴れた者は受附へ其他は各室に配置されてボンヤリして居れば良い譯で、晩餐會などの時は若い美しい方がお給仕役となる位の事で、一番困りますのは退屈で居寢りが出る事で、こんな時には時たまアミダをする事もあり又自分々々で長い袖の中へおさつを忍ばせて置く事もあります、といつて小使ひはそんなに入るものではありませんが、只下駄が減るのが實に驚くばかりです、云々。

(pp.178-183)
今では、展覧会で座っている人が話題になったりすることもあるまいが、なんでも始まりのころは騒ぎになったりするものだ。江戸時代にも、草双紙屋なぞは、小奇麗な娘を店において販売増進の手段として若い男を呼び寄せたりしていたのだから、「看板娘」事体がものめずらしい訳でもあるまいが、「展覧会」という、西洋のニオイがするちょっと高級な場所にいる、令嬢風な姿にコロッとまいってしまったのだろうか。なんとなく、昨今の「女子アナ人気」に通じるものをかんじさせる。

「月額僅に六圓から七圓五十錢」とあるが、明治30年頃の10円が現在の貨幣価値にすると、大体20万円ほどだというから、月に12万から15万といったところであろうか。「各室に配置されてボンヤリして居れば良い譯で」「一番困りますのは退屈で居寢りが出る事」なんだから、まあいい給料だとは思うのだが。薄給を嘆く姿を描いて、「酉の市のおかめよりも更に更にお安いとはお笑ひ事ではあるまいと慨嘆之れ久しくするといふおキヤンも在つたとやら、さもあらう姫御前。」とつづった文はなかなか秀逸。「さもあろう姫御前」ね。

 退屈をまぎらわせるのに「こんな時には時たまアミダをする事もあり」とあるが、この「アミダ」の意味がわからない。まさか「あみだくじ」のことではないと思うのだが。読者の皆様からのご教示を待っております。

 海老茶式部というのは、当時の女学生の袴の色からできた言葉。ここのページに海老茶色の見本が載っています。

 展覧会に続き、次も美術関係の話。

二一 曲線美モデル女珍話

 良くいへば神聖であつて畫家や彫刻家の大恩人、惡くいへば畫家や彫刻家達の生きた玩具、それにモデルといふ婦人の職業がある。なんて今更いふ迄もなく先刻御承知の筈、其所で明治時代のモデルに就いて少しばかり聞いた所を書いて見る。

 明治時代の畫家や彫刻家達の内で『モデル屋のお菊婆さん』といへば誰れ知らぬ者もない筈、若し知らぬとあれば失禮ながらコンマ以下の藝術家たるの資格しか與へられない譯だ。

 いや唯知つて居るばかりではない、其お菊婆さんの世話にならない者は殆(ほと)んどないだらう。一方にはモデル志願の女達に職業を與へると同時に他方には美術家達にお好み次第のモデルを提供して満足させて來た、東京で只一軒しかないモデル問屋の主人公宮崎キクさんである。

 此のお菊婆さんのモデル供給は普通の口入屋のやり方とは大變な相違で、元來此の種の女達は興味と道樂でやつて居る事で招介料を得るための稼業としては考へる點が多過ぎる。

 明治四十年頃モデルの日給は三時間で四十五錢(裸體(らたい)になる分)から二十五銭(着衣のまゝ)といつた相場である。最初は此のモデルの志望者がなくて要求に應じられなかつたといふが、日露戦争以後にはポツポツ志望者も出來四十年頃には殆んど如何なる注文にも應じ得るだけの準備があつたといふ事である。

 誰れでも初めての者は裸體になるのを嫌つて「着物のまま」といつて居る。

「多くの學生さん達の前で素裸體になつて立つて居て、之を寫させるなんて………幾らお金になつても……之ればかりは出來ません」

 となかなか鼻息が荒いさうだが何時の間にやら、モデル気分に染つてしまつて自分から進んで裸體を望むやうになるとは面白い。

 こんな風だから、最初は一日三時間で一圓出すといつた所で誰れも望み手はなかつたのでお菊婆さんの苦心は一通りでなかつたといつて居る。一寸道を歩くにしてもスリか刑事の樣に注意深い目玉を四方に配つて、茶屋女の上りでもよい、子守女でもよい、飯たき女中でもよいといつた風に女といふ女は片つ端から注意をする。而して若し「アノ女………」と婆さんの頭ヘピンと來た女が見付かれば直ぐ何を捨ててでも其女の後を追かける。漸く家を探し出すと、今度は面會してロを酸つぱくして説き勸める。けれ共之れは十中殆んど全部が失敗で身銭を切るばかりで實に悲慘であつた。

 所が幸ひに良いモデルが一人でも得られると直ぐ美術學校へ納める。其時に學校の先生達から一言其骨折をほめられようものなら、今日までの苦勞も損害も夢のやうに消えて了つて、言ふに言はれない嬉しさがこみ上げて來るのだと御當人の婆さんが話して居た。

 それでも四十年頃には此の婆さんの手からモデル臺に立つ女は凡(およ)そ八百人にも達して居たから美術家達は誰れ知らぬ者もないといふ理由が此處(ここ)にある譯なんだ。

 始てモデルに立つ人。  モデルといふ商賣は美術家のいひなりの姿勢を作つてそれを寫させるのだが、時によると、全裸體で立たねばならぬことがある。併し、

「畫室は神聖なもので、畫家やら書生達は美の神であるから嫌らしい考へなどは藥にしたくもない所だ。決して臆するには及ばんから………」

 とは美術家の口から千變一律(せんぺんいちりつ)にダラダラと流れて出る文句であるが、偖(さ)ていよいよモデル臺(だい)に立つとなると、誰れだつてハニカムのが常だ。

 十七八の少女が恐る恐るモデル臺に立つたとしても、要求通りにはなるが、兩手は決して上げる者ではない。

「そんな姿勢ではいかん、兩手をずつと上げて」

 と學生やら先生達からやかましくいつた所で決して上げない。といつて無理に學生達が手を取つて自由の姿勢に作るといふ譯にも行かないが、其時には、女を壁の方へ向けて立たせ、學生達は女の後に居るのです。すると、女は手を上げねばならぬとは聞いて居るから、前に誰れも居ないを幸ひに、何時の間にか左の手がとヨロヨロと上る。其時に學生は、後から、

「左の手を眞直ぐに、腰を何うの、足を何うの………」

 と色々注文して姿勢を改めさせる。所が女は直す方へ気を取られて、後生大事にして居る右の手をウツカリ夢中で少しばかり上げる。其所(そこ)を付け込んで學生達はグルリとモデル臺を前へ廻す、女はハット驚いて兩手を下すのを、今度は「それでは不可い」と無理に手を取つて上げる、かうすると女は反抗するでもなく其ままになつて了ふ。

 一度かうしてモデル臺に立つた女はもうハニカム心は消え失せて二度目からは世話がやけず、日が經つにつれて良いモデルだなんて賞められる樣になるのだとは面白い者だ。

 其頃、或る軍人の未亡人で此のモデルを動めて居る方があつた。此の婦人は八ツになる男の子を連れて居たが、或る時此の子供をモデルに頼んだのである。所が此の子は何うしても着物を脱がない。

「此所で着物を脱ぐのですよ」

 かういつて色々いつて聞かしたが、

「人樣の前で裸體(はだか)になると失禮だから」

 といつたきり、とうとう裸體(はだか)にならずに了(しま)つたといふ話がある。

「餘程(よほど)嚴格な家庭で育てられたのだらう」

 と先生も學生も迷惑さうな賞め方をして居たのは滑稽であつた。

 熟練したモデル 初めてモデル臺に立つ女が○○○○○事は前にも記したが、之れが熟練すると、○よりもお尻を向けるのを嫌やがるのが普通であるとは妙に變るものだ。

 又同しモデルにしても、男と女とでは其忍耐力が甚だしく違つて居る。男で三十分以上も同一の姿勢で手を張つて、足を踏張つたりして居る者は少い。直ぐに震ひが來てもう駄目になるが、女は一時間以上も同じ姿勢で居る者もある。中には全身紫色になるまで耐えて、臺(だい)から降りると直ぐ卒倒する者もある。一體(いったい)モデルが卒倒するのは決して珍らしくない。水を吹つかけ、ブドウ酒を少し飮ませば直ぐ正氣づくものだといふ。

 醉狂なモデル志願 女子美術學校の卒業生といへば何れも誰劣らぬ花の樣なお孃さん揃ひだが此のお孃さん方がモデル女を苛め困らす事といへば、それは又特別なんで、自分の親や兄弟でもそんな事までは云はない筈である。

 だから如何な裏店(うらだな)住居のお轉婆(てんば)娘でも此のお嬢さん方にかかつちや顏を赤くせずには居られない。卑猥極まる、しかも此のお嬢さん達が知つて居まいと思ふ樣な事までも、わざとらしく聞えよがしに聲高に話し合つて皮肉る。けれ共、モデル男に對してはそれはもう、電氣學の講義ぢやないが、いたつて温和だといふからチヤンチヤラおかしい。だから、モデル女は女子美術學校へ行くのを好まないとは、嘘の樣な事實だ。

 此所に一人、東京美術學校の生徒で(男子)此のお菊婆さんの手から女子美術學校へ數囘モデルに出た者があつたといふが、道樂とはいへ、變り者もあつた者だ。

 大學生がモデルに 目白の女子大學の學生で其頃にモデルをやつて居る者があつた。最初は或る小説を讀んで、モデルといふ者は神聖な者だと教えられてからは、何うしても自分もモデルになつて見たくて堪(たま)らなくなり、終にお菊婆さんの世話でモデル臺(だい)に立つ事となつた。年は二十一で立居振舞は全く令嬢といつて恥かしくない。尤も金錢慾でやつて居るのではないとしても、寧ろ氣の毒に思はれたと語つて居る人があつた。

 そして此の女は文章は確に上手で遠からず文壇に名をなす人であるに、妙な心を起したものだと思はずには居られなかつたといふ。

 そして、此の女は泣く癖があるのが又妙で、世間話し位を話して居ても、直ぐホロホロと涙をこぼし、しやくり上げ、終ひには聲を上げて泣くので、全く精神の完全な人ではあるまいとさへ思つた。

 其女が語る所によると、或る青年畫家に望まれてモデル臺に立つたが、その歸るさに、

「貴女の樣な方が、モデルになるなどはお考へ直しになつたがよいでせう、一體(いったい)此のモデル女といふ者は職業としては如何にも神聖であつても現在では事實に於いて恐しい亂脈(らんみゃく)になつて居るのでありますから……」

 と彼女の將來を思つて親切に勸告して呉れたのであつた。それを彼はヒステリックの有勝(ありがち)な考ヘから、

「私が折角(せっかく)此の神聖な道を進まうとして居るのに、兎や角(とやかく)難くせつけるとは世間は餘(あま)りに冷(ひやや)かすぎる、冷酷ぢやありますまいか………」

 と何が何んだか判らない事をいつて泣くのであつたといふ事だが、不幸にも彼女の家庭が暗い暗い影に包まれて居るといふ事情の爲めにアンな神經質になつて横道を辿る事になつたのだらうと語る人があつた。

 モデル女の身の端て。

 其頃のモデル女には未婚者が一番多かつたが、此の女達は將來如何なる方面に流れて行くかが面白い問題とされて居た。

 或る知人の話に、七ツから十一年間の長い間モデル稼業を續けて、よく顏の賣れて居る女が、突然知人の所ヘやつて來て、

「近々に、柳橋ヘ出る樣になりましたから、おいとま乞ひに來まじた」

 との挨拶だつたので、知人は

「では、僕も往つて見やうか、柳橋の何家だヘ」

 と訊ねると、彼女は、

「旦那方はあんな所ヘ往らつしやるもんでありませんワ」

 といつだだけで他は多く語らなかつたが、

「彼の女が藝者になつたら、得意の裸體(はだか)踊りでさぞかしよく賣れる事だらう」

 と生徒の控所で噂の種であつたといふ。

(pp.183-191)
 前掲の展覧会の監視人を募るよりは、全裸モデルを見つけるほうがはるかに難しかったであろうことは、容易に推察できる。この問題を引き受けたのが「東京で只一軒しかないモデル問屋の主人公宮崎キクさん」だった。しかし、「モデル問屋」ってなんだかプラモデルの問屋みたいだな。三時間、裸体で四十五銭 着衣で二十五銭とあるが、前述の「明治治30年頃の10円が現在の20万円ほど」というのを当てはめれば、それぞれ、1万円と5千円といったところ。展覧会の監視人の仕事に比べればあんまり割がいいとは思えない、というのが正直なところ。何せ、「全身紫色になるまで耐えて、臺(だい)から降りると直ぐ卒倒する者もある。」っていうんだから。

 また、最初のところで、「若し知らぬとあれば失禮ながらコンマ以下の藝術家たるの資格しか與へられない譯だ。」とあるが、「コンマ以下の藝術家たるの資格」という言い回しが面白い。他で言い換えるなら、さしずめ「もぐりの芸術家」といったところか。

 「目白の女子大學の學生」モデルの話などは、今でも時折見聞するたぐいのものだ。感情の起伏の激しい躁鬱系の女性や、その他精神的に不安定な女性の突拍子もない冒険が、自身や周囲の破滅を招くという物語は、フィクションの世界でも現実社会でもよく見かけるもの。今、話題の「東電OL殺人事件」の被害者もその一種かもしれぬ。また一時、村西とおる氏とともに、アダルトビデオ界を席巻した黒木香女史もその後の自殺騒動などを見れば、この典型と言えるのかもしれない。「不幸にも彼女の家庭が暗い暗い影に包まれて居るといふ事情の爲めにアンな神經質になつて横道を辿る事になつたのだらうと語る人があつた。」という説明も、現在に通じるものがある。それにしても、

そして、此の女は泣く癖があるのが又妙で、世間話し位を話して居ても、直ぐホロホロと涙をこぼし、しやくり上げ、終ひには聲を上げて泣くので、全く精神の完全な人ではあるまいとさへ思つた。
とは、何か気になる描写だ。その後、どうなったのだろうか。

四六 法界節(ほうかいぶし)書生の門附(かどづけ)

 苦學といふ事はいふべくして實行の難いもので、之に依つて大成しようとする人は再考を要するものと自分は考へて居る。といふのは苦學するに最も必要なのは體力(たいりょく)で、苦學の種類が何んであらうと身體(からだ)が丈夫でない限りは恨みを呑んで歿落(ぼつらく)せんければならぬ運命に逢着するのだ。次は頭が良いといふ事も必要條件の一と數えて差支へはない。

 かうした條件が揃つて居て始めて苦學に一歩踏出すベきで、でない人達は他方面に向つて自已の進むべき道を拓(ひら)くのが萬全(まんぜん)の策だらうと思つて居る。

 それは兎に角として此の苦學といふ事は何も明治の特産ではない。けれ共明治時代になつてからは、土百姓であらうが町人の子弟であらうが腕次第では大臣やら參議に迄も立身出世、而(そ)して吾が國の重要政務に加はるといふのだから男子の本懐之れに過ぎたものはあるまい。それだけに之を目標として進む人達は随分多く出來て來た。かうなつて見ると學問をする資金のある有福の家庭に生れた者は何もいふ事はあるまいが、氣慨ばかりで金のない者は一體何うするか、金がない爲めに一生埋れ木で暮さねばならぬか、何とかして自己の目的を貫徹したいと日夜苦心するが其結果として得た所の名案は先づ二つある。

 一、先輩に養はれる事。二、獨立して苦學する事。

 此の先輩の人達が良い都合に養つて呉れれば最も安全な策であるが、其人を得る事が難事であり先輩にした所で無制限に澤山の人達を養ふ事は不可能であるから、此の手段は多くあぶれる者と見ねばならぬ。而してあぶれた者は何うするかといへばお先き眞暗で第二の苦學に移る。そして新聞配達、牛乳配達、街燈點火(てんか)、其他の仕事を探して一生懸命に働く事になつた。

 サアこうなつて來ると前に記した通り身體が丈夫であり頭が良くない限りは大成は出來ないといふ理由をまざまざと體驗する譯なんだ。

 斯うした事柄は明治時代には澤山あつたのだ。そして澤山失敗して來たのだ。けれ共、大正となり昭和となつてもやはり此の難路を辿る人達は決して尠(すくな)くない。そして判度が改正されたが爲めに苦學は殊に困難となつて來たから、失敗者も實に恐ろしい數に上る事と思ふ。

 之れ等の失敗者は如何なる方面へ流れるかは大に研究を要する事柄であらうと思ふが、之を明治時代に就て考へて見ると悲慘な運命に落ちた者が尠(すくな)くない。殊に標題の「法界屋(ほうかいや)」なんども正しく其一つで、苦學生、堕落生の裏面を語る涙つぽい話てなければならぬ。

 サア是れから法界屋(ほうかいや)の話となるのだが其れに學生堕落の經路を少し記して見やう。世間では學生が酒を飮み、茶屋遊びをすると全で敵を見付たように恐ろしく攻撃をする。それは御尤もな話なんだ。けれ共ね、幾ら學生だからといつて、十二三の子供ぢやない以上は生理的に美しい物はやはり美しいと思はれるのは防ぐ事が出來ますまい。そして性の衝動は人間五十年として其内で最も旺盛でなければならぬ時代なんだから、さうです之ればかりは男女共に共通です。(中略)

 斯うした場所へ出入りすると先づ第一に金のなる木を持つ事が必要なんだが學生の身として親から送られる金は殆んど一定して居るのだから燒芋代にも事缺(ことか)くのは有勝(ありが)ちだ。さうなつて來ると、參考書代だの洋服代だの靴代だのと父や母から取れるだけはセビリ出すが、之れとても限りのあるもので結局はボロが出る。

 苦學をして居る者は自活をしなければならないだけに、藝者買ひの金はないが近所の娘やら女中やら、ミルクホールの娘などそれ相當(そうとう)の相手を探し出して一苦勞をして見る。

 だから女の爲めに助けられて大成した學生は幾らもあつた。けれ共、其九分九厘までは失敗に終つて首が廻らなくなり、相手の女と協議の結果、世の中を茶にして暮さうといつた寸法で色々な方法が考へられる。勿論親から學資は止められるし其上に勘當(かんどう)とやらいふ舊式(きゅうしき)の制裁が加へられるのはお定りだ。

 かうした立場になると、生んが爲めの欲求と戀愛のもつれとの爲めに女とは別れられず止むなく苦學生といふ美名を賣物として色々の事をやつて見る。縁日商人となる者もあれば、人力車夫となる者もあるが、中でも最も浮つ調子な者が此の法界屋(ほうかいや)となつて都大路を横行するのである。

 此の法界屋は何時頃から流行したかは不明であるが大體明治二十年頃から流行して三十年頃が最も盛んであつたようである。尤も之れは東京市中を流し廻つて最早(もはや)人に飽れたと見たなれば地方へ出稼ぎに行くのであるから東京では既に影さへ見ない法界屋が、地方では案外に人氣よくそれからそれと渡つて行くといふから世間は廣いものだ。

    書生さん、月琴習つて何にするの・・・・・・・
         金がなくなりや門に立つササホーカイ。

 子守の二三人は斯う唄つて行つた。酒屋の御用聞きが勝手口の傍まで聲高らかに唄つて來た。家の女中までがお釜の尻を洗ふ手つきで調子を取つて唄つて居るではないか。

 其頃の書生さんは流石にヴワイオリンには氣が付なかつたと見えて、月琴又は胡弓を用ひたり尺八の出來る者は尺八、琴は用ひるが之は多く針金を糸の代りに使つたもので(大正琴の樣に)華美な音色を出すが、全部が混るから何うしても飽つぽい音色である事は兔れぬ。

    書生、書生と輕蔑するな
         今の大臣參議は元書生。

 やるせなさ相な聲が月琴や胡弓の音色に彩どられて餘韻に憐れつぽく人の耳に流れて來る。

 色の生白い年の若い男が編笠で顔をかくす樣にして吹き立てる尺八の音色は、餘りに素人ばなれがして居る。此の時分にはセルのアンド袴はなかつたが、白の勝つた立縞の荒い袴、目の覺める樣なかすりの着物、金ぶちの眼鏡は忘れない。縦から見ても横から見ても相當身を持つた家庭に人となつた者と、其品格から見ても、身のこなしから見ても、さう思はせられるのである。

 此の法界屋は一人で來る事は殆んどない、必ず女を連れて居るか又は夫婦者が二組一緒になつて居る事もある。女はエビ茶の袴をこれみよがしに、荒いカスリの着物に頭は流行のエス卷きとやら、表情に富んだ色白の顔(かんば)せ、金ぶちの眼鏡が如何にもよく似合ふといふ尤物、これとても、近所の飯盛や牛肉屋の女中とは思はれない。粹(すい)が身を食ふといつたなれのはてかと人の好奇心を引く事は頗(すこぶ)る非常なものであつた。

 此の人達は之が職業であるから押し強く大道を括歩(かっぽ)して居るが、其代り苦學とか勉強とかは遠くの昔に忘れて居るから氣樂なもの、艶つぽい歌を唄つて五錢なり三錢なりのお金を得て面白く其の日を暮らせばそれでよいのだが、しかし、諸業無常の風もそよそよと吹きそめて、密(ママ)よりも尚ほ甘かつた二人の仲に不味い事情が出來たり、男が逃げたり色々な事件は引切りなしに起る。そして一歩一歩と暗黒の世界へ落ちて行くのだ。

 かうした女は多く淺草の六區其他の魔窟へ落ちて行くのだから、六區には吉原以上の玉がゴロゴロと集つて居るのに不思議はない。

 次に法界屋が唄つて歩いた歌を三つ四つ記して見るがこれとても多數の中から比較的言葉の美しいものを集めて見たので、其多くは人前で唄はれない樣な淫らな文句が並べてあるのだから驚く。

 之れが明治の末期になつてピタリと東京では見なくなつた。勿論地方へ出てしまつたのだが、それに代つて東京市内では唄本の讀み賣りが流行して來た。これは文章から見ても曲節から見ても相當面白いものがあつた。大正から昭和へかけて縁日で黒山の樣に人を集めてヴアイオリンに合して唄つて居るのがそれで相當に賣れたものである。

 最後に一言仕度いのは、之れ等の人達は明治大學や早稻田大學の制帽を冠つて居る者が多い樣子であるが、其實は全然學生でない者又は二三ケ月通つて見たといふ程度の者が殆んど全部であるから之れを見て直ちに今時の學生が何うの斯のといふ事は出來ない。今日苦學の名にかくれて新聞配達をして居る者の中に眞實通學して居る者は幾人あらう、十人中二三人あれば上等だと思ふ。却々喰へた者にあらずといふ譯なんです。

法 界 節 二 三
(pp.427-437)
学生ということで、当時の大学生なら「東大の法科」が最も世間に名が通っただろうから、法律の世界という意の「法界」をとって「法界節」とでもなったのかと、見当をつけたのだが、まったくの予想外れだった。「物語 江戸の事件史」という本によると、

中国語の歌詞の終わりに、不開=フォーカイという言葉があったこところから法界節とよばれたのだが、九つの輪が連なる知恵の輪が開かない------という意味の歌詞で、終わりに不開(フオーカイ)とうたわれた。正式の題名は『九連環』である。月琴を持って酒席、といっても飲み屋が多かったが、そういうところで法界節をうたって報酬をもらう流しの芸人は法界屋といわれた。(『駱駝の江戸入り』加太こうじ著「物語 江戸の事件史」東京:中央公論社(中公文庫), 2000. p.181)
とのこと。また、法界節の歴史と月琴は、このページに詳しい。このページによると、まずは中国から、「九連環」が渡ってきて、これが和風の「かんかんのう」(落語の「らくだ」でおなじみですね。死体を踊らせるところ)に変わり、それから明治になって「とっちりちん」や「梅ヶ枝」→「法界節」・「さのさ節」→「船頭小唄」(大正)という流れになっているようだ。

 ミルクホールってのは、女給のいるカフエーほどには色気で売った店でなく、今の喫茶店に近い感じの店。小津安二郎の「落第はしたけれど 」という映画で田中絹代がやっていたような店のこと。といったって、見てなければわからないですな。

 それにしても、女で失敗大学からは放校親からは勘当された挙句、「相手の女と協議の結果、世の中を茶にして暮さうといつた寸法で」町中を楽器もって練り歩くとは、粋なもんですなぁ。当節ならば、「夢をおいかけるため」「本当の自分の可能性をみつけるため」なんぞという極めて色気のないお題目を立て、大学やめて音楽の専門学校に行きつつプロを目指して街頭でギター弾くといった、とっても艶消しな姿になってしまうのだろうけれども。ま、粋だけじゃメシは食えないのも事実ではあるのだが。

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Industrial Rock & Roll Productions 2000
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