モダン語漫畫辞典
(その二)

モダン語漫畫辞典
中山由五郎
東京:祥光堂書房, 1932.1

 引き続き「モダン語漫畫辞典」の紹介。


解消(かいしょう)

英語で云ふリクィデイションのこと。勞農黨の小岩井、細迫の兩氏が「勞農黨即時解消論」を稱へてから流行り出した語。「おい、此間借りた一圓、解消にして呉れ」なんて使ひ方をされる。(p.132)


リクィデイションとは"liquidation"(弁済、清算、整理、廃止)のこと。昭和5年、労農党大阪支部で分裂騒ぎが起こったとき、一方の陣営が「労農党解消同盟」を名乗ったことをさしている。昭和5年8月29日の朝日新聞長官から記事を引用する。
労農党大阪支部
分裂の兆
左翼民主主義に反対し
勞農黨解消同盟生る

【大阪電話】大山郁夫氏及び其一黨が合法的左翼を標ばうする勞農黨を結成してまだ二年経たぬ内に同黨大阪支部聯合會本部から「勞農黨解消」運動が起こり非常な衝撃の波紋を左翼の政治的分野に展開するに至った(中略)
その主張する論據は
現在の勞農黨の如き左翼民主主義は徒らに反動的役目を遂げるばかりで階級の利益を護ることが出来ぬ寧ろ大衆の成長を妨害するものである、階級的闘争のみがプロレタリヤを解放するものである
といふので大阪市議小岩井浄、赤松五百磨氏等を表面にたてて既に勞農黨解消同盟が生まれている(中略)
この解消派は当然大山委員長と対立することになる
 全黨の解消に-------黨員を合法主義の泥ねいから救へ

をスローガンとして各地の形勢を注視している

「解消」という言葉自体は、この騒動よりも以前から存在していたのであろうが、現在のように一般的な言葉になったきっかけが「左翼」問題だったのは意外な感じがする。今でもこの言葉は、上記のモダン語風に「婚約解消」「コンビ解消」など気軽にもちいられ続けている。

解放(かいほう)

すべての束縛から逃れて自由になること。なほ詳しくはエマンシペイションの項を見よ。(p.132)


エマンシペイション(英Emancipation)

「解放」。束縛されて又は虐げられていたものが、自由に放たれること。モダン語では「遊蕩な老人」を指して「解放された爺さん」と云ひ、いはゆる新しい女を「解放された女」なぞと云って、「放埒な」とか「自由な」と云ふ方の意味に用ひてゐる。(p.95)


中国で「人民解放軍」といっているぐらいだから、上記の「解消」と同じく、このころに新しく生まれた造語というわけではないのだろうが、本来の意味から少しねじれてしまったのがこの時期だったのであろう。いまでも、「南の島のリゾートホテルで優雅にすごしていたら解放的な気分になって云々」などというときにこの用法は生きている。

顔負けする(かおまけする)

單に「負ける」とも云はれ、あまり他人様の厚かましいのに壓倒されて顏の赤くなることを云ふ。「ヤア!」「ヤア!ご無沙汰、紹介しよう。此の麗人は僕のアミ(恋人のこと。引用者註)でY子さん」と平然と浴びせられたやうな場合に「ダア!」となる、それを顔負けするとは申すのである。(p.134)


現在でもよく使われる言葉だが、用法がちょっと違う。「大人顔負けの子供」等というのが、現在の普通の用法で、この場合「(本来であれば劣っていて当然であるのにも関わらず)一方より優れていること」といった意味である。「モダン語辞典」のような用法は最近ではトンと聞かれないが、広辞苑にはちゃんと載っている。
【顔負け】
相手が一段上で、圧倒されること。また、ずうずうしいのにあきれること。
しかし、広辞苑を見てもモダン語辞典を見ても、この二つの用法のどちらが古いものかはよく分からない。最初に「ずうずうしいのにあきれること」という意味があって、後で「相手が一段上で、圧倒されること」の意味も持つようになり、その後で前者の用法がすたれたのだろうか。あるいは、その逆で、「相手が一段上で、圧倒されること」があって、その後で「ずうずうしいのにあきれること」の意味が生じたが先にすたれてしまったのか。

獲得(かくとく)

無産語である。大山郁夫氏などの口から出るに及んで、ピタリと板につく言葉である。「闘ひ取る」と云つても、同意語である。モダン語では「彼女との戀を獲得した」なぞと鮮やかな使ひ方をする。(p.134)


「無産語」とは現在でいえば「左翼語」とでもなろうか。上記の「解消」と同じく左翼関連の言葉である。戦後も「自己批判」とか「総括」など、左翼運動から生まれ、日本語の語彙に入りこんだ漢字の言葉は多いが、戦前からこの傾向はあったと見える。流布のパターンも戦前戦後共通で、しかつめらしい顔の革命家が勇ましく用いる語を、ちょっと不真面目な場で使ってそのギャップで楽しむ、というものである。「獲得」の「彼女との戀を獲得した」という使い方がそうであるし、連合赤軍事件で一世を風靡した「総括」という言葉なら、たとえば「本日の忘年会の総括を課長から一つ・・・」と宴会幹事がちっちゃな笑いをとる、という感じであろうか。しかし、これ以降すっかりソフトになった左翼運動からは、この系統のお堅い流行語は見られなくなってしまった。この流れにあるのは、左翼ではなく新宗教の団体であろう。オウムの事件から流行った「ポア」はまさにこの流れの流行語だ。しかし、彼らの場合「漢字の国」中国を飛び越えてチベットにまで行ってしまった。

 関係ないが、児玉清がアタック25で「パリ挑戦権獲得!」と怒鳴っていたのをふと思い出した。


ガッチリ

四つ角力のやうに寸分の隙も抜目も無いことであるが、モダン語では、「頼もしい」とか「堂々としてゐる」なんて意味は影を潜めてしまつて、専ら「惡強く押が利く」「酒ア酒ア(しゃあしゃあ)してゐる」「吝だ」と云ふ部の方面委員になつてゐる。「奴、赤い電車切符をだしやァがつたぜ、がつちりしてるな」(p.138)


上の用例で、「赤い電車切符」とあるが、意味が分からない。何か特別な割引切符なのだろうか。それとも小人用の切符をこっそり使っているということなのだろうか。読者の御教示を乞う。


この件に関して、弊産業掲示板に、よしおか@日鉄連さんから御投稿いただきましたので紹介させていただきます。

● 赤い電車キップ 投稿者:よしおか@日鉄連  投稿日:1999年03月01日(月)19時53分00秒

はじめまして、
よしおか@日本鉄道研究団体連合会 と申します。

日頃よりこのサイトでは楽しませて頂いております。久方ぶりに訪れると、推薦図書のコーナーに新着が。

で、中に出てきた、「赤い電車キップ」云々ですが、おそらくは3等車のキップの事ではなかろうかと思われます。

当時の感覚では3等車(現在の普通車)は貧乏っタレの乗る車両で、町の名士のようなブルジョア階級は2等車(現在のグリーン車)、貴族や華族といわれるような人々は1等車に乗るのが当然だったようです。

当時の方面委員はおそらく、町の名士から選出されていたと思われますが、その名士たる人間が2等の緑のキップを持たずに3等の赤いキップを持って電車に乗っているのを見て、「ガッチリしている」(つまり金持ちのくせにケチ)と揶揄されたのでしょう。

http://plaza.across.or.jp/~nakada-t/tetsuren/index.html


赤いキップとは3等のキップだったのですね。御教示ありがとうございました。安い3等キップで旅をしようとしたので、「ガッチリしてやがる」と陰口をたたかれたということでしょう。よしおかさんは、モダン語辞典の上の用例で用いられている方面委員を、「奴、赤い電車切符をだしやァがつたぜ、がつちりしてるな」の「奴」と同一人物とされていますが、この方面委員は必ずしも同じ人物を指しているとは限らないと思います。この点については補足させていただきます。

 上の「顔負け」では、当時のモダン語としての用法は今ではすたれてしまっているが、こちらの「ガッチリ」は、いまだに現役である。「顔負け」の新しい用法が死んで、「ガッチリ」が生き残ったのは何故か、も考えてみると面白い。どちらの言葉も、似たような場合に使うことができる。大体の場合「ずうずうしい」に置き換えることができるのだ。「顔負け」の用例なら、「すっかりのろけられちゃったよ。ずうずうしいったらありゃしない」と言うことができるし、「ガッチリ」の場合なら、「奴、赤い電車切符をだしやァがつたぜ、ずうずうしいったりゃありゃしない」と言うことができる。ただ、微妙に異なる点は、「顔負け」の場合、ずうずうしい事を言われた人間が逆に恥ずかしくなって負けを認めてしまうところにある。昭和の初め頃はおそらく、今よりも「恥知らず」な人が少なかったのであろう、時々出合う「ずうずうしさ」にとりあえず負けておいてやろうという心の余裕を持つことができたのだ。その後、「恥知らず人口」が激増するにつれて、いちいち負けていては身体が持たぬ、という状況にまで「非恥知らず人口」がおいこまれてしまった。そうなれば、「顔負け」という使い方がすたれるのも首肯できようというものだ。

カネリ・プルネリ(伊Caneli pluneri)

この言葉の入つてゐないモダン語辞典は、モダン語辞典たるの價値がない、と云はれる程のモダン語で、「何が何だか分からないのよ」が自分の心を云つたものであるのに對し、これは他人のやつてゐる事で、一體どう解釋して善いのか分からない場合に使用されるのだ。「あの男、女房を寝取つた下宿人と仲善く暮しているさうだね」「ウム、そんな話だ。全くカネリ・プルネリだな」と云つた工合である。カネリもプルネリも共に墓地發掘の現行犯として留置場へブチ込まれた男の女房だと稱して本人引取のため警察へ押寄せた伊太利婦人の名前だ。引取人が二人なので持てあまし、遂に裁判沙汰にまでなつたが、肝心の本人が過去の記憶を失つてゐるため埒明かず、一時保養と稱してカネリ夫人の別荘へ引取られたが、プルネリの勝利と云ふ判決が下つた時には、カネリ夫人が男の胤を宿してインハラベビー(妊娠のこと。引用者註)になつてゐたとは益々もつてカネリ・プルネリな話だ。(p.140)


 この言葉は現在使われているものではないが、面白いので載せてみた。「インハラベビー」というのも当時の流行語で「in 腹 baby」と和洋折衷の造語、「妊娠」の意。ちょっと他の文献を調べたが「カネリ・プルネリ事件」は確認できなかった。なので、本当にあったことなのかどうかは分からない。

彼女嬢(かのじょじょう)

女性の三人稱代名詞として作られた言葉である。彼女と云ふよりは日本語的色彩の濃いのが取柄であらう。(p.141)


彼氏(かれし)

三人稱の代名詞に「氏」と云ふ尊稱めいたものを張りつけたモダン語で、彼女嬢に對して西の大關とでも云ふべきところだ。「彼氏カムフラージュしてゐるぜ」「彼氏いやにソワソワして居やがる」廣告マッチのやうに、男と見たら誰にでも呉れてやる語。だが貰ふ方でも擽つたい。(p.146)


カレトカノジョ

かれは彼かのぢよは彼女で、何の變哲もなく「あの男」「あの女」の意であるが、モダン語では「妾の愛する彼」「ボクのアミ」と云ふ意味になる。「妾のかれ、とてもシーク(シックのこと。引用者註)なのよ」なぞと、近頃の女学生、手離しで屡々これを用ひるから驚く。(p.146)


いささか旧聞に属するが、TososhinのCMなどで話題となった「彼氏」の語源などについて。アクセントをどこに置くかは別にして、「彼氏」という言葉は何の違和感もなく日々の生活で用いられているが、考えてみれば不思議なかたちをしている。「彼」という代名詞に、無理矢理「氏」という尊称の接尾語がくっついているのだ。一方、現在「彼氏」と対になってい用いられる言葉は「彼女」である。男の恋人であれば「彼氏」、女の恋人であれば「彼女」と呼ばれる。しかし、「彼女」には「彼氏」のように尊称の接尾語はついていない。はて、これは男尊女卑の封建的な名残かしらん、と思っていたら、なんと昔はちゃんと「彼女」にも尊称の接尾語を奉っていたのである。それが「彼女嬢」。「彼氏」と使うならば、きちんと「彼女嬢」と使うべきであることは言うまでもない。もし、またToshoshinでCMをうつならば、「なぜ、「彼」には「氏」をつけるのに、「彼女」には「嬢」をつけないんだ」と煩悶する中年男を登場させるべきだ。

 「彼女嬢」の説明で、「彼女と云ふよりは日本語的色彩の濃いのが取柄であらう。」とあるのも興味深い。西欧語の流入まで、あまり馴染みがなかったであろう三人称の代名詞をより親しみやすくするために、尊称の接尾語をつけたということらしい。


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