モダン語漫畫辞典
(その四)

モダン語漫畫辞典
中山由五郎
東京:祥光堂書房, 1932.1

 引き続き「モダン語漫畫辞典」の紹介。


すごい

賛美の最上級に用ひられる語であるが、「すげえ」と發音した方が凄えやうだ。「Kのアミ(恋人の意。引用者註)見たか?とてもすげえぞ・・・」聞いただけで身慄ひをしさうだ。(p.266)


「すごい」という言葉が流行語だったといわれても、なんだかピンとこないが、どうもそうらしいのである。広辞苑第四版によると、「すごい」という語の意味で、「程度が並々でない。」という現在の一般的な意は、一番最後の5番目なのである。最初に掲げられている意味は「寒く冷たく骨身にこたえるように感じられる。」2番目の意味は、「ぞっとするほど恐ろしい。気味が悪い。」となっている。「骨身にこたえ」たり「ぞっとするほど恐ろしい」とは、現在の語感からはかなり離れている。

涼しい顔(すずしいかお)

学生用語。自分も關係して居ながら、表面は無關係であるかのあ如く装ひ、すまし込んでゐることを云ふ。「おい涼しい顔してないで、何とか考へてくれよ」などと使はれる。(p.266)


この言葉も昭和初期の学生用語から流行ったものだそうな。今(1999年4月現在)資生堂の化粧品のプラウディアシリーズのキャッチコピーとして「涼顔(すずがお)」という語が使用されている。CMのタレントには広末涼子が起用されている。広末涼子の起用が先に決まっていて、「涼子」の「涼」にひっかけてキャッチコピーを考えたのか、あるいはキャッチコピーが先にあってタレントが後に決まったのか分からないが、しかしどうにも「涼顔」はいただけない。どうしても、「涼しい顔」というネガティブな言葉が頭に浮かんでしまう。広末涼子が、この先不倫問題かなんか起こしたら、女性週刊誌などは「広末涼子さん(24) 本妻の涙の告白にも、涼顔(すずがお)の冷笑!!」とか絶対書く。間違いない。

すッとする

ソーダ水でも飲んだ後のやうな、清一色でも作つたやうな胸のスーッとする氣持になつたことを云ふ。「彼奴がペチヤンコにやられたんだから、すッとしたよ」の類。ふだん威張つてゐる奴の時ほど、パーセンテイジは上るやうだ。(p.269)


確か薬の仁丹の昔のCMソングで、
ジンジン仁丹ジンタカタッタター
ジンジン仁丹ジンタカタッタター
スーッとね スーッとね
一口飲んだら スーッとね
というのがあった筈だが、ここでも「すッとする」のバリエーション、「スーッとする」が使われている。似たような言葉にコカコーラの宣伝で使われる「すかっと」というものがある。ソーダ水などの炭酸飲料や仁丹のようなメンソール系統の下に適度な刺激を与える味覚に対して「すッ」という語が与えられたのがいつ頃かはわからないが、それにしてもうまく当てはめたものである。言われてみれば確かに「すっ」という感じだ。ら行の音、たとえば「り」ではどのように用いても清涼感が出ない。「りーっとさわやかコカコーラ」っていわれてもピンとこない人が大半だろう。また、たとえさ行の音でも、「す」以外の音ではあの感じは出ないであろう。炭酸飲料やミント、メンソールなど明治以前にはおそらく一般的ではなかった新しい飲食物の普及に伴って、新しい言葉が生まれたことになろうか。そして、この言葉が味覚以外の形容に用いられるようになったのが昭和初期ごろなのである。

セクシュアル・アッピール(英Sexual-appeal)

「女冥利」「性的魅力」「性の訴へ」なぞと譯される言葉で、女なるが故に持ち得る特權の義、閨秀の二字を冠される作家が、實質以上に持て囃され、夫人聴講生が良い點を貰ふなど。此の反對に「男なるが故に」と來たら因果なもので、電車野中では立たされ、入場券一枚買ふにも、押し合ひへし合ひしなければならぬから情ない。(p.289)


この言葉が、昭和初期に流行語だったということは、特段驚くべきことではないのだが、ここで紹介されている訳語の「女冥利」が気に入ったので紹介した。また、「セクシュアル・アピール」が女の持つ性的魅力についてのみ触れられているのも目を引くところだ。しかし、訳語「女冥利」はいいですな。たとえば、エロ本で極めてハレンチな写真があって、野郎がその写真をみた感想として「はー、女冥利に尽きるねぇ」と述べることが可能なわけだ。よし、これからしばらく個人的に使ってみよう。

 ちなみに広辞苑第四版では、「女冥利」とは

女に生れた身のしあわせ。
とあるだけで、性的魅力については一切触れられてはいない。

萬年床

「敷き放しの寢道具」のことで、一高寄宿舎の名物である。(p.300)


ま、これはいかにも流行語という感じはする。ただ、もう少し古い言葉かと思っていた。明治中頃にあったとしても違和感のない言葉だ。

そんなことあるかってんだ

トテもふんだんに使はれるモダン語で、意味は讀んで字の如く、「そんなことは無い」だ。「あいつ昨日井の頭へアヴェックで行つたつて、そんなことあるかつてんだ」「ナニ慶應が負けるつて、そんなことあるかつてんだ」エトセトラ。(p.305)


しかし、こんな散文的な言葉でも流行語になるんですなぁ。なにか特別なイントネーションとかアクセントがあるフレーズなのだろうか。この辞書の説明では「意味は讀んで字の如く、「そんなことは無い」だ。」とあるが、用例を見た限りでは、「信じられない事象が起こったとき(あるいは起こりそうな時)に、その信じられなさを言外に含んでいる」言葉であると言えよう。ちなみに、上の用例で「慶応が負ける云々」は当時盛んだった学生野球の勝敗のことである。

だあ

驚き且つ呆れたことを、音樂にも造詣深きモダン語學者が音で表はしたもの。「向ふから來る女、一寸シャン(綺麗の意。引用者註)だらう」「一寸どころか、トテモぢゃないか」「其のトテモの彼女が、俺のアミ(恋人の意。引用者註)になつたんだ。見てろよ」「だあ」斯う云つた調子だ。(p.308)


今では、「だあ」といっても誰もこの言葉を発した人間が「驚き且つ呆れ」ているとは判断してはくれないだろう。今「だあ」っといえば十中八九、「なに?猪木の物まね?」と返されること必定。下手をしたら「春一番?」と言われかねない。「音樂にも造詣深きモダン語學者」も「燃える闘魂」にはかなわなかったということか。逆に言えば、猪木はリングに上がる度に「驚き且つ呆れ」ているのかもしれない。しかも満員の観衆にも一緒に「驚き且つ呆れ」ることをお願いしているのだ。一体何に「驚き且つ呆れ」ているのか、それは分からないが。

闘ひ取る(たたかいとる)

本來は無産語で、「八時間制を闘ひ取つた」なぞと、無産戦線の勝利品を謳歌する言葉であるが、此語もモダン語氏の手にかかつては、ほほ笑ましき「得戀」を意味する場合に使はれ出したことは、一九三一年の戀愛戦線に勝鬨のラッパ嚠喨と響き渡ると云つた觀がある。(p.315)


以前からいくつか紹介しているが、これも労働運動用語から生じた言葉のようである。今では左翼言葉はすっかり低調になってしまったが、学生運動が盛んだったつい最近まで左翼言葉は日本語の造語マシンとしてまさに馬車馬の活躍を担っていたのである。このあたりについては、モダン語漫畫辞典(その二)の「獲得」の項を参照のこと。

駄べる(だべる)

駄辯を動詞化したものである。愚にもつかぬことをペチヤペチヤ喋ることである。これをやる者を「駄ベリスト」と稱し、石川五右衛門氏とは關係は無いが、濱の眞砂の如く種は盡きぬと云はれてゐる。(p.317)


「ダベル」の「ダ」が「駄」だとは、寡聞にして存じませなんだ。「さぼる」と一緒で、何か英単語を略したものかと思っていたのだ。広辞苑第四版にも
(駄弁を活用させた語) 駄弁を弄する。べちゃべちゃしゃべる
と、ちゃんと「駄弁」が語源だと書いてある。日本語の二字熟語をわざわざ、英単語を日本語の動詞化するときのように接尾語「る」をつけた言葉が人口に膾炙したのは、やはり「ダベル」という言葉の語感がすばらしいからだろう。いかにも、ぐたーっとだらけて愚にもつかぬ話をしている様子が感じられる言葉である。

盥廻し(たらいまわし)

社會運動用語では、取調べの都合上、社會主義者等を順次に數個の警察署へ廻して、不法の拘留を續けることを云ひ、「政權のタラヒ廻し」と云へば、政黨の首領や有力者が妥協して、いとも圓滑に政權の譲渡をやることを云ふ。濱口内閣が若槻内閣に移つたのは此例である。其他、一人の女を數人の男が順に弄ぶのも、かう云つてゐる。(p.318)


広辞苑第四版では、一番目の意味としてこうある。
足で盥をまわす曲芸。
もともとは大衆芸の一つを指していたようだ。足で盥をまわすということだから、おそらく仰向けに寝て、足で盥をぐるぐる回していたのだろう。ちょうど、ねずみが輪をまわすのを上下逆にしたような感じか。まわす人間がまったく位置を変えずに、物だけをまわす姿から、モダン語的な用法が生じてきたのだろう。

斷然(だんぜん)

ダンゼンと片假名で書いて貰ひたい。さうでないと氣の抜けたソーダ水のやうでピリッと來ない。此語、どんな語とでも引つつくモガ式の語で、「ダンゼン面白い」「ダンゼン凄え」てなことになる。(p.320)


「青い山脈」を代表とする、戦後すぐの時代の青春映画を見れば必ず聞かれる言葉である。よく女学生が使う。親の反対を押しきって結婚する女性に対して、その姪の女学生が「わたし、ダンゼン応援しちゃうわ。結婚だってなんだって親の言いなりにならなきゃいけないなんて、封建的よ」と用いるのはよくあるシチュエーションだ。「ダンゼン」とか「封建的」といった言葉が朗らかに飛びかうこの頃の邦画をぼーっと鑑賞するのは、ノンキな私にはなかなか楽しのである。「ダンゼン」は意味の上で言えば、現在だと「チョー」とか「鬼のように」といった語で代替できるのであろうが、それでは「封建的」という言葉と釣り合いがとれない。ダンゼン「ダンゼン」でなければならないのだ。

チェイン・パース(英Chain-purse)

如何にチェイン流行の世だとて、これはあまり有難がられない變な迷信。コツンと足に觸れた蟇口、「〆めたぞ」と拾ひ上げて見ると「倍にしてお捨てなさい。幸福が貴下を見舞ひます」と云ふ紙片と共に、五十錢銀貨が一つ入つてゐる。巡査が拾へば拾得品係へ、ルンペンが拾へば其儘ポケットへ姿を消す。何しろ原料が五十錢で、あとに成ればなるほど幾何級數的に喜捨額が殖えて行くので、チェイン・レターほど問題にされずにしまつた。(p.326)


これは、流行語として取り上げたというより、単に面白かったので引用してみた。実際に起こったことなのか単なる噂だったのかどうかは分からないが、不幸の手紙ならぬ幸福の財布というのがあったらしいのである。しかし、不幸の手紙ほどには流行らなかったようだ。確かに、財布を拾って中に「倍にしてお捨てなさい。幸福が貴下を見舞ひます」と書いてあったからって素直に従う人間は、いくら昭和初期といってもそうはいるはずはないだろう。逆に、まだまだ根強いマルチまがい商法の隆盛を見ればむしろ昭和初期よりも人間が甘くなっているのかもしれない。チェイン・パースもマルチまがいも原理的にはあんまり変わらないようだし。

ちっとも

「ちっとも」と來たら否定の「ない」が附くのが普通だが「失禮、痛くありませんか?」「いや、ちつとも痛い」と云つた具合に、否定のつかない用法なのだから變つてゐる。思ふに「ちつとも」と一應禮節を守つては見るが、敢て感情までは僞らないち云ふ所に、モダン語としての存在價値があるらしい。ところが此語、時として「奴ちつともひでえ」なんて使はれるから面白い。思ふに「とても」と同意味なのだらうが、何としても使用法は滅茶で、亂暴で、「何が何だか分らないのよ」的である。(p.327)


今で言えば「全然」にあたるものだろう。通常の用法なら「全然」とくれば「―ない」と否定形が来るはずなのだが、昨今では「全然すばらしい」などと用いられたりする。この「ちっとも」はその類だ。しかし、ここであげられている「ちっとも + 肯定形」は結局根づかなかったようで、現在では見られない。伝統的に正しいとされる「ちっとも + 否定形」の用法が生き残っている。ということは、全然に関しても「+ 肯定形」はやがてすたれていくのであろうか。

テレミン(英Telemin)

テルミンとも云はれ、數年前、若きロシア人の發明した樂器である。ラジオのセットに似た機械で、十字形に突出した棒の上で手を動かすと鳴り出すと云ふ。便利のやうで始末の悪い樂器だ。金庫にでも取りつければ早速盗難報知器に代用し得ると云ふものだ。(p.356)


意外なことに、テルミンは昭和初期に既に日本で流行っていたのだ。この楽器が発明されたのが1920年で、この辞書は1932年出版だから、発明後10年以内には日本に上陸していたらしい。本当の綴りは"Theremin"らしいのだが、モダン語辞典では"Telemin"と、かなりいい加減な綴りがなされている。「便利のやうで始末の悪い樂器だ。」というコメントが泣かせる。現在、入手可能なテルミンについては、イシバシ楽器のこちらのページを参照のこと。


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Industrial Rock & Roll Productions 1999
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