モダン語漫畫辞典
(その五)

モダン語漫畫辞典
中山由五郎
東京:祥光堂書房, 1932.1

 「モダン語漫畫辞典」紹介の最終回。


てんやわんや

大勢してワイワイと騒ぎ廻ることを云ふ。「てんや組」とか「わんや組」と云へば、何時もガヤガヤ騒いでばかりゐるオツチヨコチヨイの連中を指す語だと思つて差支えない。 (p.357)


この語も昭和初期に流行した言葉だということだが、広辞苑第四版にはこうある。
てんやわんや
(「てんでん」(手に手に、各自勝手に、の意)と「わや」「わやく」(無茶苦茶の意)との二語が結合してできた語) われがちに騒ぎ立てるさま。互いに先を争って混乱するさま。てんでんがって。黄、稗史億説(クサゾウシコジツケ)年代記「はてさて何処からも―な事はいわせますまい」。「―の騒ぎ」
こうみると、そんなに語源的には新しいものではなさそうである。おそらく、それほど多用されない言葉だったのが昭和初期に突如ブレークしたのであろう。この後、昭和23年の獅子文六の小説「てんやわんや」(読んでいないので、内容を紹介できないです。失礼)で復活、再び流行語となった。「ぴっぴっぴーよこちゃんじゃ あひるでがーがー」というフレーズでおなじみだった、漫才の獅子てんや瀬戸わんやさんの芸名はこの獅子文六の小説「てんやわんや」に由来しているとのこと。最近はちょっと聞かなくなってしまったこの言葉だが、なかなか蘇生力があるようなのでさらなる復活を期待したい。

動向(どうこう)

英語のコネイションに與へられた新しい譯語で、哲學上では「意慾」心理學上では「能動」と云はれていた語である。一般には心が動き向つて行くことの意味に用ひられてゐる。(p.361)


「自民党内では、中曽根氏や竹下氏などの長老グループの動向が焦点となっている」などというのが、現在の一般的な「動向」という語の用法であろう。この場合は単に「動き」「出方」といった意味であって、特に「心が動き向つて行く」というような心理学的な含みは持っていないのが普通である。ところが、広辞苑第四版を見るとこうある。
動向
(1)心のうごき。
(2)事態の情勢、または個人・集団などの行動の現況や将来の方向。なりゆき。うごき。「―をさぐる」「―を見守る」
現在の一般的な例としてあげたのは、(2)の意味だが、それに先立って(1)として掲げられているのは「心のうごき」の意なのである。初めは哲学・心理学上の翻訳語としてあったのが、しだいに一般に使われるようになって、意味も一般化したのだろうか。文中コネイションとあるのは、conationと綴るらしい。そこらへんの英和中辞典には載っていなかったので、研究社の新英和大辞典第四版を見たら
conation
《心理》動脳(意欲・努力などに見られる行動への意識的傾向)、意欲感[活動]
と難しいことが書いてあった。これが本来の「動向」の意味らしいのである。これで、上記の例文を書き換えてみると、「自民党内では、中曽根氏や竹下氏などの長老グループの意欲・努力などに見られる行動への意識的傾向が焦点となっている」となって、なんだかボケ老人の徘徊を診察しているみたいな文言になって楽しい。

獨善的(どくぜんてき)

他人が何と云はうと、そんなことには頓着せず、自分だけ善い氣持になつてゐる「獨りよがり」の意味や、エゴイズムと同じく、他人などは如何でも善いと、「只管自己の利益のみを圖る」意味と、兩方に用ひられてゐる。(p.366)


現在でもよく使われる言葉である。また、昭和初期ごろに流行語となった、と聞けば「ああ、なるほど」という感じのする言葉でもある。いかにも書生連中が

「この腐った世間で、一体どうすれば、我が精神を汚さずに生きていけるというのか」
「貴様は、自分さえ汚れなければいいのと思っとるのか。世間が汚れているなら、自ら身体をはって奇麗にしようとは思わんのか。そういう考えが独善的だと言うんだ」

といった感じの青い議論をするときに多投しそうな言葉だ。

トッチャンボーイ

家にあれば「アナタ!」と甘へるワイフあり、「パパ」と絡みつく子供あつて、ダンゼンとつちやんであるべき紳士が、何事ぞ勤め先の會社では思ふ存分若返り嬉々として女事務員と談笑を交換し、一旦緩急あつてカフェへコースを轉ぜんか、嫌に目尻を下げ、娘のやうな女給を抱擁しては、ガゼン「わたしや夜咲く酒場の花よ」と、聲もあへかに唱ひ出す。おとつちやん兼モダン・ボーイといふ、世にも珍しからぬ二重人格者に捧げ奉る稱號である。(p.368)


似た語で現在でも一般的なものは「とっちゃんぼうや」である。年齢の割に精神年齢の低い男、あるいは年齢の割に外見が幼く見える男に対して用いる語。残念ながら「とっちゃんぼうや」という語がいつ頃から使われだしたのかは分からないが、おそらくこの「とっちゃんぼうや」という語が先にあって、その洒落として後から「トッチャンボーイ」という語が出来たのではないだろうか。もう既に分別もついているはずの大人をさすものとして「とっちゃん」という語を先行させ、続いて分別盛りの人間にあるまじきものとして「ぼうや」なり「ボーイ」という「B」で始まる名詞をつけるという構造でなりたっている語である。後ろのBで始まる語を変えればいろいろ応用がきく便利な言葉だ。試しに考えてみよう。

「とっちゃんベドウィン」
いい歳をしたとっちゃんであるにもかかわらず、急に砂漠の遊牧民になろうと思いたった世にも珍しからぬ放浪マニアに捧げ奉る称号である。

「とっちゃんブゥードゥー」
いい歳をしたとっちゃんであるにもかかわらず、急に暗黒魔術師になろうと思いたった世にも珍しからぬ呪術マニアに捧げ奉る称号である。

「とっちゃん文化大革命」
いい歳をしたとっちゃんであるにもかかわらず、急にプロレタリア文化大革命を起こそうと思いたった世にも珍しからぬ革命マニアに捧げ奉る称号である。

「とっちゃんバラモン」
いい歳をしたとっちゃんであるにもかかわらず、急にインド哲学に目覚めてしまった世にも珍しからぬ輪廻転生マニアに捧げ奉る称号である。


とても

元來「とても」なる言葉は「とても駄目だ」とか「とても敵はない」と云つた具合に、否定の語を伴ふべき筈であるが、これが一たび近代式使用法に從ふと、反對に「とても好き」とか「とても善い」と云つた風に、最上級を現はす場合に使はれて、しかも百パーセントの効果を収めてゐるから面白い。時には「とても」の次に置くべき語を省いて、近代味を一層漂はせることもある。例へば「信子さんは帝大のMさんと、とても・・・なんですって」の如く。(p.369)


モダン語漫畫辞典(その四) で「ちっとも」という語をとりあげたが、この言葉も「ちっとも」と同じく、否定形の語が文尾に来るはずのところを肯定で終わる形式の「モダン語」である。現在でいえば「全然+肯定形」というところであろう。「ちっとも+肯定形」は今では見られない用法だが、こちらの「とても+肯定形」は完全に根付いている。「ちっとも+肯定形」がすたれたので、「全然+肯定形」もすたれるかもしれないと以前は書いたが、逆に「とても+肯定形」は完全に違和感がなくなっている。となると、「全然+肯定形」も生き残る確立は零ではないのか。

華やかなりし頃(はなやかなりしころ)

「武士道華やかなりし頃」と云ふ映畫の題名から急に流行し出し、「彼女との戀愛華やかなりし頃」なんて、一寸詠嘆的に使ふものである。勿論全盛時代のことである。(p.429)


テレビのドキュメンタリー番組のタイトルやサブタイトルなんかで今でも時折見かける言葉である。もともと映画のタイトルから流行りだしたとは初めて聞いた。

(ばり)

「張りつける」と云ふ句からでたもので、「○○気取り」と云ふ時の「気取りや」、「○○式」といふ時の「式」の意味で、傳明とか時彦と云つたやうな、人氣ある人の眞似をすること。(p.431)


この言葉も今でも使われる語。「鈴木その子ばりの化粧」「ジェームス・ブラウンばりのシャウト」「フランク永井ばりの低音の魅力」などと用いる。いつもひらがなで見かけるので、「張」という漢字をあてるとは知らなかった。ちなみに「傳明」「時彦」というのは当時人気の男優「鈴木傳明」と「岡田時彦(女優岡田茉莉子の父)」の事である。

ヒコペイジ

最近女學生間に盛んに用ひられる語で「顏」のこと。「あの方ヒコペイジにトテも自信を持つてるのよ」なぞと使はれる。出所は?顏と云ふ字は彦扁に頁と書いてあるからだ、とは随分人を食つた話だ。(p.445)


マメペイジ

形は英語だが、實は最近生れた日本語である。マメ扁に頁、即ち、「頭」のことだ。モダン語氏うまくも考へ出したものだ。「あの方ヒコ・ペイジは八十點だけれど、マメ・ペイジは零よ」なんて、女學生の會話の中にも現はれる。(p.546)


聞いたことも見たこともない語。だが、昭和初期の女学生がいかにも使いそうな雰囲気のある言葉だ。百人一首文屋康英の句「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐と云ふらむ」ですな。ヒコペイジとくれば、当然マメペイジもあったとのこと。頭脳明晰さを鼻にかけるやつは「あの方マメペイジにトテも自信を持つてるのよ」と陰口をたたかれていたのだろうか。ちなみに、ギターの腕を自慢するやつを「ジミーペイジ」というかどうかは定かでない。

標榜(ひょうぼう)

「正義を標榜して」とか「國民の福利を標榜して私腹を肥やす」などと使はれる語。標は「しるし」、榜は「立札」で「モットーとして」と云ふのと同じである。(p.453)


現在では、特に流行語という意識なく普通の言葉としてつかわれている「標榜」という語が昭和初期からのものというのには、ちょっと驚いた。広辞苑によると
標榜
(1)人の善行を賞揚してその事実をしるし、里門に掲げて衆人に示すこと。
(2)主義・主張などを公然とかかげあらわすこと。「フェミニストと----する男」
とのこと。おそらく(1)の意味は古いものであって、昭和の初めに(2)の意味があらわれてモダン語扱いされることとなったのだろう。

雰囲気(ふんいき)

英語のアトモスフィアの譯語で「気分」又は「情緒」のこと。詳しくはアトモスフィアの項を參照されたい。 (p.494)


アトモスフィア

「雰圍気」とか「あるものを包んでゐる氣分」の意味であるが、「情調」例へば「今夕の會合は和やかなアトモスフィアに包まれて終始した」など使ふ場合もある。 (p.20)


この言葉も現在普通に使われるものだが、かつてはatmospherの訳語である「モダン語」だったらしい。広辞苑で「雰囲気」をひくと、一番目に
(1)地球をとりまく気体。大気。空気。
とあるのをみても、atmospherの訳語であることがわかる。しかし、現在は「空気」あるいは「大気」の意味で使われることはほとんどないですな。次の日本人宇宙飛行士には、「窓から地球が見えます。地球の雰囲気が見えます」とスペースシャトルから叫んでほしいものだ。

ぽしゃる

シャッポが顛倒して生れた隠語で、原語と同じく「失敗する」「おじやんになる」又は「駄目になる」の意。「昨日は待つてたのに來ないから、リーグ戦とうとうぽしやつちやつた」と云つた工合なのはまだ善いが、ポケットへしまい忘れた彼女の手紙を見つけられて、遺憾なくぽしやつてしまつたのなどは、餘り恰好の善いざまぢやない。(p.522)


シャッポがひっくり返って「ぽしゃる」の語源とは初耳。「シャッポ」とフランス語でつばのついた帽子。「シャッポを脱ぐ」の「シャッポ」のこと。この言葉も未だ現役。

ぼやく

ブツブツ文句を云ふこと。「彼奴、スグぼやきやがるんでね」と云つた工合だ。あんまりぼやくとギロチンに掛けられますぜ。   (p.528)


「ぼやき漫才」という言葉もあり、もともとは関西の言葉なのではないかと思っていた。広辞苑によると
ぼやく
[自五]ぶつぶつと不平を言う。ぐずぐず言う。また、泣き言をいう。浮世床初「悪態ばかりぼいぼい―・きくさつて」。「―・いても始まらない」
式亭三馬の浮世床にあるというので、必ずしも上方種の言葉ではないらしい。しかし、何故江戸で使われていたことばがあらためて昭和初期にモダン語の仲間入りしたかは謎。御維新前後の大騒動でぐずぐず泣き言を言ってはいられない世の中になってしまった為だろうか。それはともかく、「あんまりぼやくとギロチンに掛けられますぜ」という文句は、よくわからない。なにか当時の逸話と関係があるのだろうか。読者の御教示を乞う。


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