腦力集中法及其休養

医学士河合三郎著 『腦力集中法及其休養』
 東京 三徳社 , 大正10年

ちまたでは、今、自己実現本がおおはやりのようであるが、この手の本は今始ま ったものではなくて、明治、大正の頃から存在している。むしろ、「立身出世」が今 よりも照れもなく大声でがなり立てられていた時代だから、より盛んだったとも言え るかもしれない。この「腦力集中法及其休養」もその手の本の一つである。

まず、この本の大意を書いておく。

  1. 「腦力」とは、人格のことであり、人の総てを指す(この本で言う「腦力」は能力 に近い)
  2. 「腦力」の大きさは遺伝と、育った環境の相互作用で決まる。
  3. 「腦力」の大きさは人によって異なる
  4. 「腦力」は集中していないと、その総てを活用できない。たとえ、持てる「腦力 」が大きくとも、使いきらなければ凡人と同じ。
  5. 人の幸福とは、持てる「腦力」の大きさにあるのではなく、持てる「腦力」を完 全に働かすことにある。
御覧になって解るように、至極まっとうなのである。「思考は現実化する」などと 大仰なことは言わない。「プラス思考であたればなんでも解決」だの「誰でもがすご い潜在能力を持っているのです」だの「自分を信じて突っ走れ」だの「人間は脳味噌 の3%しか使っていないのです」などとはおくびにも出さないのだ。なんという奥ゆ かしい自己実現本だろうか。しかし、この本の魅力は奥ゆかしさだけにあるのではな くて、文章の味にある。ちょっと長くなるが引用してみよう。


第四章 「社会と腦力」より

「社会はこの異なりたる人の力に顧慮する事なく、一定の法則のもとに一様に律しよ うといたします、丁度税務署の官吏が支出の如何を眼中に置かず、月給の高に応じて 一定の所得税を徴収して行く様に、万事をこの筆法でやるのです、満六歳になつたら 必ず小学校へ入りて一定時間の教育を受けねばならぬ様に定めたのから始まつて、統 計と平均との掛合を軸にした車の上に一束として積み入れて、或る年月の間に或る場 所まで運んでしまひます、そこで車から一同をほおり出してこれでお前たちは同じ人 となつたのだぞと申します、同じ人でなくてはならぬのだと申します、又こう申され て自分共も同じ人間となつた様に考へてしまふのです、すると又はたから彼れも人な り我れも人なぞと一杯機嫌で焚つける人もあります、其処でますます増長して碌に考 へもせずに、成程人と云ふ字は裏から見ても表から見ても同じだわいなぞと狼狽して しまふのです。

この我等は同一の人であるわい、同一の人でなければならぬのだと思ひ込ませたり 、思ひ込んでしまふのが生涯に渉りて取り返しの附かぬ失敗の始まりとなるのです。

高等遊民、不良青年、厭世自殺、神経衰弱、放蕩、強盗、詐欺、万引等、社会の罪 悪の根元は皆その源泉をここより発して居るのです。(中略)

親父自身が既にこの始末(引用者注・・・親父自身が人はみな同じ腦力を持ってい る筈だと思っていること)ですから、自分の息子も世間一般の息子と同じにして且つ 等しきものと定めてかかって居ます、中学を卒業すると何でもかんでも高等学校の入 学試験を受けさせます、一度や二度落第しても驚きません、息子がヘトヘトになつて 居ても、ウンウンと涙をこぼしながらもけしかけて居ます、息子自身は尚ほ更に自分 は同窓と同じにして且つ等しきものなりと、幾何の先生はじめ校長さんに教はつたば かりですから、彼れが工科へ入学したから自分も是非工科へ入学せねばならぬと力み ます、かくて四五度も繰返してる内に成程決して彼れと自分とは全く等しきものでな いと考へます、気の弱い子は厭世自殺を致します、少し生意気なものは道楽を始めま す。

いづれも之れは自分と他人とは同じ人であると思ひ込んだり、思ひ込ませたりする 結果なのです。

社会がいくらお前達は同等のものだと大きな声で申しましても、決して人は一様な ものでないと云ふ事を忘れてはなりません。」 (pp.17-24)


「成程人と云ふ字は裏から見ても表から見ても同じだわいなぞと狼狽して終ふのです 。」(p.18)というのはいい文章だ。こういう「したり顔でトンチンカンな納得をする 」という状況に対して「狼狽」という言葉を使えるとは知らなかった。「これでお前 たちは同じ人となつたのだぞと申します、同じ人でなくてはならぬのだと申します」 (p.17)の「同じ人」という言葉を二回繰り返して盛り上げるというのも憎いテクニッ クである。

次の第五章はタイトルがすごくて、「おれの両親は馬鹿だ」という大変力強いもの 。その次の第六章「我が腦力」もいい。また、引用する。


第六章 「我が腦力」より

「人の腦力は上述の如く各自、必ずそれぞれ異つたる特色を持って居ると同時に、各 方面に対してそれぞれ力の程度を異にして居ります。

果たして自分の力はいくらであらうか、自分の現在の力は五十でも良い、三十でも 仕方がない、よし二十に低下して居ても止むを得ぬとする、然しその力を常に完全に 働かせて居るであらうか、自分の意志通りに自由に活用させて居るであらうか、此の 事をここに論じたいと思ふのです。(中略)

囚はれざる自由なる境遇に在つて、人の腦力は始めて遺伝により教育によりて蓄積 せられたる力が、充分にその特色を発揮し、力量の限りを尽くせるのです。

到底自分の力は二十より無くとも良い、その二十の力が、自由に活用せられた所に 、生存の意義も明確に表はれて来るのですし、個性の尊さもあるのです。」(pp.29-31)


惚れ惚れする文章だ。 「自分の現在の力は五十でも良い、三十でも仕方がない、よ し二十に低下して居ても止むを得ぬとする、然しその力を常に完全に働かせて居るで あらうか、自分の意志通りに自由に活用させて居るであらうか」、なんて、たたみか け方が素晴らしい。もし、私が道徳の先生だったら、ここはテストに出すね。 あるいは授業の度に暗唱させるな、きっと。

この本はたった140ページしかないけれども、昨今のボリュームだけはあるが中身 の薄っぺらい自己実現本なぞに比べるべくもない。文のコクが違う。この本は某図書 館で借りたのだが、読者もこの文のコクにあてられたのか、やたらに落書きが多い。 第十八章「勉学の仕方」に「厭だと思ふ学課に向ふと、外の事のみ頭に浮び来て更に 読書が進行しない、よし頁数は相当に進行しても更に記憶に残らないと云ふ愚痴は常 に学生間に語り合されて居る事です」(p.114)という文があるのだが、その横に手書 きで「俺も困ってゐる、俺も」と落書きがあった。「俺」を二度繰り返すところなん ざ、医学士河合三郎先生の文にすっかりかぶれてしまったと見える。「困ってゐる」 のゐが旧字だから、この悩みの主もかなり昔の人だろう。



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