精神科医とは何者であるか



精神科医とは何者であるか
頼藤和寛著.
東京:PHP研究所, 1999.7.


刊行年をご覧いただいてお分かりのように、このコーナーで扱うにしては大変新しい本である。これまで一番新しい本が、「学校の管理下の死亡・障害 平成10年版.」だったが、これを抜いて最新記録更新である。どうしてこの本を今回選んだかと言うと、内容の面白さは当然として2005年7月現在この本は新刊としては入手できないようだからだ(絶版なのかどうかは不明。amazonや他のオンライン書店でも「ただいま入手できません」表示がでる)。

 まずは著者の紹介から。巻末の著者紹介を引用する。

頼藤和寛(よりふじかずひろ)

1947年、大阪府生まれ。大阪大学医学部卒。麻酔科、外科を経て、精神科へ。現在、神戸女学院大学教授。医学博士。専攻は心理療法、精神病理、性格論。
 残念ながら平成13年4月8日に既に亡くなられている。また、産経新聞で長く人生相談コーナー(「人生応援団」)を受け持たれていたので、ご記憶の方も多いのではないだろうか。

 最初に著者のあとがきをご覧いただこう。

おわりに

 これは世界一とまでいかずとも日本一、いやせめて関西一ぐらい正直な精神科医になってみようと思い立って書き下ろした精神科物語である。

 もともと、差し障りのあることをずけずけ言ったり書いたりするのが好きなので、こんな機会を与えていただいた書肆には感謝している。

 二十年も前には本の著者になるというだけで感激し、わたしに書けるテーマならなんでも書きますと発憤したものだが、さすがに最近は食傷気味で、書きたいものしか書く気が起こらない。(中略)

 それはさておき、本書は正直に書いたのだけが取り柄だと断言できないところもある。

 人間、なかなか正直になれないもので、これでもまだ不足なのである。特に飾って言ったつもりはないのだが、別に内部告発を意図しているわけではないからドロドロした部分ばかりをすくいあげているのではない。(中略)

 一読されて生物学的な側面に肩入れし過ぎているように感じられるかもしれないが、これは1990年代が「脳の十年」であったことと、昨今の研究潮流に沿ったまでのことであって、主に文系的な一般書を通してしか精神科の情報に接することのない読者を慮ったためである。精神分析やその亜流にみられる文学的な発想は、書店の心理コーナーで受ける印象に反して、もはや精神医学において支配的でない。

 ただ私見として、二十一世紀に精神分析がもう一度盛り返すチャンスを与えられるのではないか、と予想はしている。もっとも、事例Aがどうしたとか症例花子がどう言ったとかの感想文めいた「研究」によってではないだろう。遠からずフロイトの生まれ変わりみたいな天才が現れ、しっかりした恣意的でない科学的な方法論を駆使して無意識の実態を明らかにしてくれるはずである。

 初期のフロイトが「科学的心理学草稿」において十九世紀の脳科学を下敷きにしていたように、未来のフロイトも二十世紀の脳科学の成果を踏まえているだろう。

 単に臨床経験の後知恵解釈を脳科学の術後で言い換えた体のものではなく、検証が可能で他の科学的知見との整合性も備えた脳力動論(ちなみに過去の精神分析理論は精神力動論とも言う)を展開してくれるだろう。精神分析に負わされた疑似科学という汚名が晴らされる日もやってくるに違いない。弟子筋の放縦にやきもきしていた泉下のフロイトも、これでようやく浮かばれるというものである。
(p.249-251)
読んでお分かりのように、精神科医による業界内幕もの、といった本である。筆者は「人間、なかなか正直になれないもので、これでもまだ不足なのである。」などと書いてあるが、結構辛辣な部分も多い。例えば、こんな記述。

※サンプリング・バイアス---偏った人間観

 まじめな精神科医は仕事に熱心である。家族を別にすると、患者とつきあっている時間がいちばん長い。研究室や学会でのつきあいとなると、相手は同業者である。あとはテレビやパソコンの画面を見たり本を読んだりぐらいであろう。

 こんな生活を多くの精神科医が当たり前のように思っているかもしれないが、むちゃくちゃ世間が狭いわけである。神経質な相手か高学歴(これも大半が学力の高い神経質者である)の相手としか交流がない。無神経な連中は患者にならないし、高学歴でない人々は交際範囲にない。このため、彼らの人間観はずいぶん偏ったものになる。

 思春期にはアイデンティティ確立のため悩むのが当然で、家族システムによって精神衛生が左右されるのが当たり前だ、などと思い込んでいる。冗談ではない。世間には、思春期の悩みは金欠病だけで、家族が崩壊していてもどこ吹く風といった人種がわんさと棲息している。精神科医のお得意やお友達にならないだけである。

 診察室にめげたサラリーマンがやってくる、というだけで現代企業の矛盾の代表みたいに受け取ってしまう。考えてもみよ、めげたサラリーマンだけで現代企業がやっていけるか。サラリーマンを代表とする標本とは、不景気やリストラぐらいではめげないようなサラリーマンである。まして「職場の人間関係で悩む」などといった軟弱な手合いではない。むしろ職場の人間関係を悩ましている張本人だが業績がよいので一目置かれているような人材こそが企業の求める健常者なのだ。(中略)

 精神科医が、人間関係や実存的葛藤ばかりを重視するのは、そうしたソフトな負担によってもめげてしまう顧客だけを相手にしているからである。これをサンプリング・バイアスと言う。標本の偏りという意味だ。

 文弱な精神科医や臨床心理士にすれば、嫁が舅にいやらしい目つきで見られるのは「大変なストレス」かもしれないが、軍事関係者からすれば敵の狙撃兵があちこちに潜む密林へ斥候に出るのが「大変なストレス」なのである。どだいレベルが違う。わたしなら躊躇なく、斥候に出るより舅にねめまわされるほうを選ぶがねえ。
(p.222-223)
身もふたもないと言えば、身もふたもないが、そりゃ確かに「敵の狙撃兵があちこちに潜む密林へ斥候に出る」ほうがストレスはきっついでしょうな。

 こんな記述も。

※お人好しでセンチメンタル

 こうした消息によって、精神科医は人間をすいぶんデリケートで脆い生き物だと前提してかかるようになる。好き勝手している粗雑な非行少年や成人犯罪者を、「内心では罪悪感に苛まれて無意識に自己破壊を求めているのだ」などと謎解きしたつもりになる。

 概して、日頃の顧客層と正反対の資質をもった人間に関する精神科医の観点は、ほとんど見当はずれである。つまり、不安の低い逸脱者や、柔軟でしたたかな健常者に関しては、精神科医のコメントなど参考にするべきではない。

 一例として、反社会的な性格について考えてみよう。精神医学で反社会性人格障害というと悪人の典型みたいに受け取られるが、その診断基準を適用すると犯罪者の八割が該当するので囚人の鑑別類型としては役に立たない(概して精神科の患者さんは善人揃いなので、反社会性の基準が甘くなるのである)。

 これに対し精神病質専門家であるR・ヘアのチェックリストを適用すれば、囚人の三割程度に収まるから、本当に悪質な犯罪者と単に運の悪い犯罪者を鑑別するのに有用である。

 また、人間は権威者から命じられた場合に他人をどれほど傷つけられるかを電撃の高圧で推定させたところ、精神科医は学生や一般成人に比べてもっとも低い電圧値を回答している(人間にはそれほどひどいことはできない、といった甘い人間観をもっていたわけである。実験の結果からすると学生や一般人ですらずいぶん甘かった。S・ミルグラム)。つまり、精神科医の人間観は、ちょっとしたことでもめげて精神変調をきたすような顧客を基準にしているため、かなりセンチメンタルなのだ。

 こんなにお人好しの精神科医が人間性に関する専門家だとはちゃんちゃらおかしい。もっとも、医者一般が高学歴高資格で卒後の生計を立てやすいところから、箱入り娘みたいに初心なところがある(これに比べると弁護士でさえずっとしたたかである)。医者などというと、セールスや勧誘を生業にする海千山千に狙われやすいカモの代表職種なのではなかろうか。
(p.224-225)
「不安の低い逸脱者や、柔軟でしたたかな健常者に関しては、精神科医のコメントなど参考にするべきではない。」とは、なんとなく普段から私も感じていたことではある。最近では、少年犯罪に関する精神科医のコメントなどで、似たような感想を持った人は結構多いのではないだろうか。

ここで書かれている『不安の低い逸脱者』って、ちょっといい言葉ですな。いわゆる「サイコパス」を指しているのだろうか。「良心の呵責などとは一切無縁で善悪の矩を超える」という感じがよくでている。「村井長庵」といったところか。

 精神科医の内幕を語るに際して、この本で柱としているのが、業界内部での、文系-精神分析・心理療法と、理系-生物学的療法・薬物療法との対立である。

・研修医のおびえ

そこで、なにかの立場にすがろうとする。なんでもよい。信じられるものならなんでもよい。精神薬理学でも、精神分析でも、脳病理学でも、実験心理学でも。そして目前の患者を、セロトニン受容体過剰とかエディプス期への固着とか青斑核の機能障害とか異常行動が強化されたものとか決めつける。決めつけてしまえば、あとは安心である。それに対して、SSRI(抗うつ薬の一種)を投与したり幼児期の経験を思い出させたり不適応な反応を「消去」する操作を加えたりすればよいのである。いずれもそれぞれの理論によって正当化されているからだ。

 どの理屈を選ぶかは、ほとんど個人的趣味に近い。医学部教育における自然科学的・生物学的偏りに同調していたなら精神障害を脳の故障と受け取ればよいわけだし、それに反発した文学青年崩れなら「実存の危機」ぐらいに信じればよい。

・精神科医には「鰯の頭」が必要である。

 いずれにしても精神科医一年生や二年生は、帰依すべき流派を切実に求めるのである。わけのわからない患者に対して自身をもって働きかける方針や基準の根拠が必要なのだ。それがウソであってもかまわない。医者が信じられる、あるいは信じたいような内容の理論なら大歓迎である。そこで、即物的な者は脳機能障害説に飛びつき、文学・哲学好きな者は精神病理学にしがみつく。

 幸か不幸か、どちらを選んでも現実のケースはその信念を補強してくれる。たとえば、かなり偏った性格の母親に連れられてきた思春期症例の場合、脳機能障害論者によれば「母親もおかしい、子どももおかしい。これすなわち脳障害の遺伝である」。文学好きな精神科医だと「こんなおかしい母親に育てられたなら誰しもおかしくなってしまう」。つまり何を信じていても、日々の診療経験はその信念を裏書きしてくれる。これでは何十年やっていても最初の信念が修正されるということはないであろう。

 このこと自体に問題があるとは思わない。

 精神科医には鰯の頭が必要である。患者さんから見ても、そのほうがよいのである。なにか尋ねると「教科書にはこれこれと書いてありました」とか「クレペリンやアンドリアセンによると脳の故障ですけど、フロイトやサリヴァンに言わすと二歳ぐらいまでに心の発達がとまっているらしいです」とか答えられても困る。これではユダヤ教のラビがロザリオをまさぐりながら法華経を誦しているようなもので、信者がなにを信じていいのやら混乱する。だから、若い研修医がなにか一本筋の通った立場に依拠することは一種の人助けなのである。

 問題は、若い研修医のその後にある。

 いったん、どちらかの道を選んでしまうと、その後、その筋の学会や人脈の中に埋もれて同化してしまい、筋違い・畑違いの書物や文献をほとんど読まなくなる。もっとわるいことに、読まなくなるというより読めなくなる。脳だの神経だのの専門家になっていくとラカンは羅漢のことかと思い、コフートは古風な人ぐらいにしか想像できない。みすず書房や岩崎学術出版などから出ている翻訳書を読んでも一頁で投げ出してしまう。

 他方、無意識の世界や対象関係論の専門家になってしまうとG蛋白だの海馬萎縮だのを忌まわしく感じるようになる。そんなもので心が変わってたまるか、と反発する。あるいは「脳の変化なんて心の変化の二次的な結果にすぎない」という理屈をひねりだす。

 かくして脳・神経屋は心理治療における転移関係の処理に無頓着になり、心理・実存屋は薬物効果にすぎない改善を「かなり洞察が進んだ」ためなどと誤解する。

 まあ、このあたりまでは治療者としての趣味なので大目にみられないこともないが、このように「わが道を行く」と専門外の領域で進展があっても、それを知らないか、最悪の場合、知りたがらないものだから知ろうとしなくなる。
(p.51-54)

『「クレペリンやアンドリアセンによると脳の故障ですけど、フロイトやサリヴァンに言わすと二歳ぐらいまでに心の発達がとまっているらしいです」とか答えられても困る。これではユダヤ教のラビがロザリオをまさぐりながら法華経を誦しているようなもので、信者がなにを信じていいのやら混乱する。』 ここは傑作。むしろここまで正直な精神科医だと信頼がおけるような気もする。

筆者が上掲のあとがきで書いていたように、1990年代は「脳の十年」で生化学的な研究が一気に進んだ時期だったのだが、とはいえ脳の動きを完全に化学的に解明できたわけではない。そこに文系型研究者がイチャモンをつける隙間がある。

・アミン説のウソ、精神療法のウソ

 最初、精神病や躁病は伝達物質が溢れるためで、うつ病は伝達物質が枯渇するためだと思われていたのに(直感的には、いかにもそれらしいのだが)、本態の解明はそれほど一筋縄ではいかないことが判明してきた。最近では、複数の伝達物質が脳内のあちこちの部位で複雑に増減してわるさをしているという仮説が有力になってきたが、全体として収集のつかない展望であることには変わりがない。

 こうした神経化学の混乱を横目に見て、「ほら、やっぱり理系のシンプルな発想ごときでは複雑きわまりない人間心理は割り切れないのだ」とほくそえんだ精神療法・精神病理学の陣営はどうなのか。対岸の火事を嗤っておられるうちはよい。しかし、自分たちの尻にも火がつけば笑ってなどはおれまい。 (p.62)
『ほくそえんだ精神療法・精神病理学の陣営はどうなのか。対岸の火事を嗤っておられるうちはよい。しかし、自分たちの尻にも火がつけば笑ってなどはおれまい。』とあるが、精神療法・精神病理学の陣営ではその内部で更なる対立があるという。大きな対立は、「無意識学説派」と「無意識の病根に重きをおかない療法」との間のものである。

・心の病の原因が幼児期にあるというウソ

多くの文系的精神科医たちが依拠するのは、基本的にフロイト以後の心理治療パラダイムである。すなわち、患者やクライエントが不適応の輪廻を転生するのはすべて、「無意識」にひそむ未解決な問題を引きずっているためだとしている。したがって、それを自覚し、自分のものとして引き受けるほどの境地に達しないかぎり治癒はあり得ないものと考える。薬を飲んだぐらいで症状がおさまってしまわれては困るのだ。

しかし、このパラダイムは、行動療法、家族療法、ブリーフ・セラピー(短期療法)などからの挑戦をもちこたえることができなかった。それらは無意識の葛藤や乳児期の母子関係を原因として前提しないで開発された技法から成る。

 当初、無意識学説派の治療者たちは、単なる症状除去や現在の状況改善・技能開発では一見よくなったようにみえても再発が必至であると批判していた。なにしろ「無意識の病根」に手を加えていないのだから、必ず再発するはずなのである。そうでなくてはならない。そうでなくては困る。

 だが、現実は流派の思惑を裏切った。客観的で、統計的検討にも耐えるいくつもの予後調査によって、「無意識の病根」と関係なく、いったん改善した行動療法や認知療法の患者たちは再発率の点で他の治療による改善と遜色がなかったのである。

 精神障害の原因が幼児体験や「無意識の病根」によるという仮説の信者たちに危機がやってきた。もちろん彼らが、なだれをうって改宗を始めたというわけではない。彼らは、単に、新しい研究成果に目をつぶり、ダチョウのように頭を砂の中にもぐらせるだけでよかったからである。自分たちに不都合な現実は「あってはならないこと」なのだ。
(p.62-63)
20世紀前半のフロイト主義の流行は恐るべきモノで、医学上の一理論という枠を越えていた。哲学・芸術全般を席巻したといって過言でないほどだった。シュールレアリズムなどは精神分析学の存在無くしては生まれ得なかったと言っていいだろう。それぐらい大きな存在の根本がグラつくというからには「ダチョウのように頭を砂の中にもぐらせる」という気持ちも分からぬではない。いわゆる「認知的不協和回避」状態だ(精神科医自体が最近流行の心理学タームの典型例になるとはいかにも皮肉)。

 この予後調査についてはもう少し説明がある。

※心理治療を科学的に実践する方法とは

 生物学的な治療、つまり薬物や手術であれば基本的には科学技術であるから、そう心配はない。間違っていれば、たいてい論敵が、わざわざ動かぬ反証まで示して修正してくれる。ところが心理的な治療では、このことがむつかしい。だから、いつまでも好き嫌いだけが選択の基準となってしまう。

 心理治療をこうした文芸的なレベルから引き離すにはどうすればよいのか。

 実際には、似たような状態のクライエントを何十人かずつに分け、ひとつのグループは単に話し相手になるだけのダミー治療、他のグループは精神分析なら精神分析、家族療法なら家族療法に振り分ける。そして三ヵ月後、半年、一年、二年と追跡調査をしていけばよい。もちろん治療効果を判定するのは中立的な第三者で、できればどのクライエントがどの治療グループに属していたかをしらされていないのが望ましい。効きめを評価するのには、なんらかの数量的な指標を用いる。これによって、初めてグループ間に偶然以上の確率で効果量の差があるかどうかを統計的に検証することができるのである。少なくとも薬物の有効性はこのような手続きを経て確認されている。

 こうした方法論に問題がないわけではないが、それを批判する側がもっと信頼性の高い代案を提出したためしはない。意地悪く勘ぐれば、心理治療のようなあいまい領域でも厳密に研究しはじめられると自分たちの言いたい放題路線が危うくなるので足を引っ張っているだけのよう見える。(中略)

 心理治療の領域でそんなに手間暇のかかることが本当にできるのかというと、アメリカではかなりの数の研究が報告されている。米国人というのは、本気になるとマジに実行してしまうようなところがあるから怖い。わが国だと「そんな露骨なことはできないし、負けたほうが気の毒ではないか」といった遠慮もあるのか、この種の研究はきわめて稀である。(中略)

 さて、心理的な治療法同士のトーナメント研究をたくさんしてきた米国からの報告を総合すると、なんと流派間の有効率にそれほどの優劣はなさそうなのである。精神分析も、来談者中心法も、行動療法も、認知療法も、家族療法も、グループセラピーも、成績に僅かな差しかなく、しかも治療しない群と比べても軒並みに「やらないよりは少しマシ」といった程度なのだ(ただし精神障害の種類によっては優劣が明らかな場合もある)。(中略)

 中には傑作な実験もあって、ヘビ恐怖の治療を二群に分け、片方は行動療法のインプロージョン(いちばん苦手な状況にさらす技法)、片方は四十分ほど単に体操をさせる(もちろん参加者にはもっともらしい理論を説明してある)という効果比較研究である。

 参加者が進んで「治療」に臨んだ場合、ヘビ恐怖の改善率は両群で統計上の有意差がなかったらしい。こんな報告なら、行動療法以外の流派が大喜びするかもしれないが、ではおまえの流派も体操と効果比較をしてみようかと迫られたら尻込みするはずである。(中略)

 要するに、総じて心理治療の流派間には治療効果の点で優劣がない。それどころか、治療めいて見えるだけの単なる作業ですら似たような効果を示す。

 さて、そうなると困るのは、各流派が下敷きにしている理論や人間観である。これは流派によって大きく異なる。治療技法もそうした理論に基づいたものというタテマエがある。しかるに、治療効果には大差がない、どれもそこそこに治す、放置しておくよりはいくぶんかはマシである、というのが実情らしい。

 こうした結果がたしかめられるまでは、多くの流派のどれかが正しいはずであった。つまり各流派が主張する精神障害の原因論のいずれかが正解であり、そのいずれかに賭けるようなつもりの追随者を傘下に集めていた。不適応の原因は、出産時のトラウマかもしれず(O・ランク、A・ヤノフ他)、不適切な条件づけかもしれず(J・ワトソン他)、非合理な信念かもしれず(A・エリス他)、家族システムの歪みかもしれず(S・ミニューチン他)、良い母親と悪い母親のイメージ統合不能かもしれなかった(M・クライン他)。そして、身の上話にコメントする技法、遊びや創造をさせる技法、苦手克服訓練の技法、一家総出でランチを食べる技法、これらのうちのどれかが他を圧して有効でなければならなかった。それによって勝ち残った流派の主張する原因論がいちばんもっともらしいと判断できるはずであった。こうした期待は見事に外れたのである。

 要するに、どれもどんぐりの背比べだったわけだ。

 これの意味するところは大きい。大きすぎて、どの専門家にも総括ができていない。いや、専門家であればあるほど、いずれかの流派にコミットしすぎているので、これは悪夢なのである。これまで相当いいかげんなことを言い散らし書き散らしてきたことの報いがついにやってきた。実を言うと、なんらかの流派に埋もれている専門家ほど、こうした実証的な比較研究の集積に無知であったり無関心であったりする。いや、無関心なのか、恐れて目を塞いでいるのかわかったものではないのだが。

 なぜ、こうした醜態をさらすに至ったのかというと、それは各流派が技法だけでなく基礎理論から人間観・人生観までをセットにした体系で他から差異化していたからである。それはなによりも宗教の宗派に似ていた。治療効果研究の成果は、言ってみれば信じたのが仏教であろうがキリスト教であろうがイスラームであろうが、どれでもそこそこの天国(まあ坊主が宣伝するほどの極楽ではないのだが、まったく信心しない場合よりはマシな彼岸)へは行けますよ、ということを示したのである。

 なぜなら、お題目を唱えるのも、教会で祈るのも、メッカに向けてひれ伏すのも、似たような効き目しかないことを明らかにしたからだ。

 こうなったら、天上には如来と、イエスと、アッラーが揃っているか、それともそれらが同じものの別名にすぎなかったのか、ということになる。信者にすれば耐えられないことである。なぜなら信者というのは総じて排他的なものだからだ。同様に、精神分析家も行動療法家も家族療法家も、こんな結果を受け入れたくはなかろう。

 ひょっとして、信じることで救われていたのはクライエントではなくて治療者のほうだったのかもしれない。
(p.156-165)
新薬の効き目を調べる際に、偽薬と薬を服用させて有意な差(いわゆるプラシーボ効果)が出るかを調べることはよく知られているが、心理療法にも似たような効果がありうるということである。まあ、これについては純然な化学物質たる薬ですらプラシーボ効果があるのだから、心理療法に「鰯の頭も信心から」効果があるのは当然だ、とするほうが自然かもしれない。

文系流派の中での対立は大して意味がないことは分かった。それでは「脳の十年」と言われた90年代に進んだ薬物療法は、文系療法に比べて圧倒的な優位を持っているのか?

※不思議なことに治るのだ

 と、ここまで書いてきたことには少し誇張がある。

 現実には、100%の左翼と100%の右翼しかいないのではない。ごりごりの脳科学信者や言いたい放題の精神主義者といった両極端は、むしろ稀なのだ。精神科医がいかに変人であっても、クロイツフェルト=ヤコブ病をカウンセリングで治そうとか失恋の苦悩を脳波で計量しようとかるうような者はめったにいない。二極化していくのは、あくまでイデオロギーであって、現実の患者さんを前にすればほとんどの精神科医が折衷的な立場を採る。問題は、その医者がどちら寄りか、である。

 もちろん、生物学派寄りの治療を受けても精神論派寄りにカウンセリングしてもらっても、相当数の精神障害は治っていく。これは事実である。

 医者というのは自分が専門とする病気については「治る、治る」と公表しすぎるもので、筆者も医者のはしくれゆえこんなことを書いて人心を慰撫するのだろう、などとはお考えにならぬように。精神障害のように毎年何万何十万と発病する病気、しかも簡単に死なない病気がもし治らないものなら、日本の国債みたいにどんどん累積していくわけで、実質一万人ぐらいしかいない精神科医の仕事はアッという間に飽和して業務がパンクしてしまうはずなのだ。

 しかし、待合い室や病棟にはいつも同じほどの患者しかいない。ということは、初診の患者数と同じだけは、来なくなっていなければならない。来なくなった患者というのは医療に愛想を尽かしたか治ったかである。全員が愛想を尽かしたとも思えないから、やっぱり相当数は治っていると考えるしかない。このように単なる算数と確率による推論からでも治るという現実は明らかである。

 注目したいのは、薬好きの精神科医も話好きの精神科医も、愛想を尽かされたり治ってしまったりの比率と総数がさほど違わない、という点である。

 わたしが駆け出しの頃、先輩の診療を観察していて驚いたことがある。薬物を処方する以外には常識的なアドバイスをするしか能のない先輩も、むやみにもってまわった精神療法・精神分析をする先輩も、患者が通い続けたり治っていったりする率は似たようなものだった。外来の看護婦さんたちは、このことを不思議ともなんとも感じておられなかったようである。たぶん昔からそうだったためであろう。主剤をプチロフェノン系にすべきかベンズアミド系にすべきか、熟慮している治療者も、そんなことはお構いなしにここで葛藤の核心に直面させるべきか解釈を控えるべきか悩む治療者も、治療効果は似たようなものなのだ。

 しかし、このことは「薬を飲めば治る」ということも証明しないし、まして「セラピストとお話すると治る」ということも証明しない。そんな薄弱な根拠でよければ、アスピリンが風邪の原因治療であることも、信心すれば幸運がやってくることも証明できるからだ。たしかにアスピリンを飲み続ければ風邪は治るし、信心しておればいつか幸運が舞い込んでくる。だからといって効果が実証されたわけではない。なぜかというと、アスピリンを飲まなくても風邪は治るし、信心などしなくてもいつかは幸運が舞い込んでくるからである。

 もし薬や対話だけで本当に治るのならば、ほとんどのケースで例外なく、薬をやめたあとも精神障害がずっと治りっぱなしでなければならず、あるいはまた心理治療は半年以内にめざましい成果を上げなければならない(一年以上カウンセリングしてなんとか治ったように見えるケースの多くは、カウンセリングなど受けなくても自然治癒する)。
(p.67-69)
いくらなんでも、『精神科医がいかに変人であっても、クロイツフェルト=ヤコブ病をカウンセリングで治そうとか失恋の苦悩を脳波で計量しようとかるうような者はめったにいない。』そりゃそうだろう。「クロイツフェルト=ヤコブ病をカウンセリングで治す」の域までいくと、そこら辺の新興宗教の親玉と変わりがない。

薬物治療を主にする先輩と、精神療法・精神分析を主にする先輩で治癒率が変わらないのも面白い。また、看護婦たちがその様子をみても「それはそういうものだ」という感じで気にもかけていないというのも面白い。その先輩たちの間で手法の違いと治癒率の大差が無いことについて、話題になったりはしなかったのだろうか。看護婦たちだけでなく医者同士でもそれについては特に議論する必要もない日常の光景だったのだろうか(ここでも「認知的不協和」からの逃避メカニズムが働いていたのかも)。

 ではなぜ、一服盛る治療者も身の上話を聞く治療者もそれなりに治していけるのか?

 たぶん多くの患者やクライエントの脳が「このままでは具合がわるい」ので「なんとか工夫して生き方をマイナーチェンジしていく」からであろう。薬や対話による治療は、このプロセスをいくぶん促進するのかもしれない。その証拠に、「このままで具合がよい」ようなケース、たとえば病気を続けることで傷病手当がもらえるとか、社会的責任が免除されるとかのメリットのあるケースは、薬を盛ろうが話し相手になろうがめったに治らないという原則がある。これをフロイトは「疾病利得」と名づけた。病気であり続けるほうが諸事好都合な事情のことである。

 不思議なことにというか当然なことにというか、こうした慢性化への動機はほとんど患者本人に自覚されない。本人は自覚しないかもしれないが、まわりから見れば事情は丸見えである。この疾病利得があるかぎり、まず何をやっても治らないと考えてよい(ただし、この逆は真ならず。治らないケースのすべてに疾病利得があるわけではない)。これを看破した精神分析の元祖はさすがに慧眼の持ち主であった。

 ということになると、結局は「治る必要のある患者は自ら治っていく」のであり、「治ると困るような事情のある患者は、その事情が解消するまでは治らない」わけである。治るか治らないかは、ほぼ患者やクライエントの資質や事情によって決まる。外科医みたいに治療者が無理やりに治してしまえるものではない。これこそ本当のクライエント中心原理であろう。

 現にバージンとランパートによる多数例の分析(1978)によれば、心理治療の効果量の六割までが患者の特性で左右され、治療法のいかんは効果の一割、治療者の人柄は三割を決めるにすぎないと見積もられている。おそらく薬物療法の効果も似たようなものではないか。

 多くの臨床家に気づかれているように、信頼できる医師が素直な患者に処方した薬物は安心して服用されるためか少量でも有効率が高い。患者が気持ちの上で薬効に抵抗するような場合は、むやみに大量の向精神薬を投与しなければならず、したがって副作用も多くなる(中井)。そして、なにより薬物効果は、その銘柄が患者の体質や心理に適合しているかどうかで決まるのである。

 効果を決めるのは治療者ではなく患者なのだ。
(p.69-70)
「結局は「治る必要のある患者は自ら治っていく」のであり、「治ると困るような事情のある患者は、その事情が解消するまでは治らない」わけである。」なんという救いのない結論。確かに間違いなく「クライエント中心原理」ではあるが。

 薬物療法については、即効性があって確実に症状を抑えることができるが、必ずしも治療に成功するとは限らないとの記述もある。

・薬を飲んで治るのか

 要するに「薬を飲んでおれば必ず治る」といった信念もおかしいし、「無意識の病根を自覚すれば自由になる」というパラダイムも時代遅れである。

 しかし、精神科医療の現場では、精神療法が苦手な医師は服薬を続けさせること以外の努力をしないし、薬理学が苦手の医師はただただ無意識の発掘を心掛ける。このような今や見当はずれと言ってよい治療方針でも、かなりの割合の患者さんはそこそこに安定してくるから不思議である。

 精神分析や認知療法に不案内な精神科医でも薬さえ飲ませ続ければ、そのうちなんとかなるのはなぜか。おそらく薬物の効果によって情緒的に安定し、病的体験も軽減するので、患者さん自身が独力で人生を切り開いていけるのだろう。また、脳科学や神経薬理が苦手な精神科医でも適当に薬物は使うわけだし、また精神療法で濃厚に患者さんと交流するから心理的なサポートにはなっている。

 単に服薬するだけの患者と、心理療法を受ける患者とで、長期の予後が異なるかどうかについて、比較対照した研究が欧米ではいくつかある。こうした客観的な調査研究に協力する流派の代表が認知療法や認知行動療法である(だいたい自信のある流派は協力的になる)。

 うつ病に関しては、抗うつ薬は確実に効果が現れる。しかし、服薬をやめると過半数が再発するものである。他方、認知療法では速効しないものの、いったん治まると一年後や二年後の再発率が薬物療法のみに比べてやや低くなることが多い。それはそうであろう。薬など飲むのをやめると血中濃度が下がって、元の木阿弥になる。しかし心理療法では治療終結のあとでも本人の心がけやものごとの受け取り方が変化しているかもしれない。こんなことを書くと、いかにも心理療法のほうが良いかのごとき印象を与えるかもしれないが、実は何をしてもしなくても途中経過に若干の差があるだけで、数年後の帰結は似たりよったりといった報告もある。

 このように他流試合をどんどん試みる流派はよいとして、精神分析各派では他の治療法との比較実験に概して非協力的である。もちろん、いろいろもっともらしい言い訳はするのだが、歴史家のE・ショーター(1997)によると「自分たちの信じている理論が間違いであることが判明するのを恐れるためだろう」と容赦なくコメントしている。

 いずれにしても、ほとんどの精神障害の原因が「無意識の病根」「不都合な乳幼児体験」にあるという二十世紀前半から中葉にかけて支配的だった仮説はもはや有効ではない。

 かといって向精神薬の効果は、飲み続けて血中濃度を維持しないかぎり、数時間のうち消失する。かつてA・アドラーは「錠剤を飲んだからといってフランス語が上達するわけではない」と言った。まさにその通り。向精神薬を飲んだからといって社会適応能力そのものが改善するわけではない。結果として適応がよくなることは多いが、それは社会適応を阻害していた症状が軽減したためであって、世渡りの才能が伸びたわけではない。

 向精神薬は服用している期間中に限って、不快や症状を抑えるだけなのだ。女性が化粧したり美容整形をするようなもので、本質を変えるわけではないから、これを美容精神薬理学(コスメティック・サイコファーマコロジー)と言う。もっとも化粧や整形手術の助けを借りて値打ち物の男でもつかまえたために、そのあとの人生が安楽になるという可能性だってないわけではないのだが。

 残念ながら現段階では、薬を飲むだけでも、幼児期の謎を思い出すだけでも、精神障害の原因が解消するわけでないことだけはたしかなのである。精神科医たちは、この現実から目をそむけたいであろう。

 だからこそよけいに精神科医たちは、向精神薬による脳機能調整で「精神障害が治る」と信じたり公言したりする生物学派と、無意識の葛藤をどんどん自覚していくことで「精神障害が治る」と信じたり書いたりする精神論派に二極化していくのである。

 このような二極化は精神医学の歴史において二百年近くの歴史がある。精神障害を脳の故障とみる身体論者と、魂の迷いとみる精神論者とが論争を続けてきた。今だって愛想のない唯物論者と夢見る浪漫派との反目は引き継がれている。
(p.64-67)
「向精神薬を飲んだからといって社会適応能力そのものが改善するわけではない。結果として適応がよくなることは多いが、それは社会適応を阻害していた症状が軽減したためであって、世渡りの才能が伸びたわけではない。」風邪薬でよくいわれることだが、熱を下げたり頭痛を抑えたり鼻水を止めたりと症状を抑える薬はあってもそれは対症療法であって風邪そのものを治療するものではない。向精神薬も風邪薬で例えるならば熱を引き下げるような役割を果たすだけで病気そのものを治療してしまうものではない、というワケだ。

では、対症療法でなく根本的な治療とは存在するのか。はたして病気の根本とは何か?

これまで治療家の多くが、科学者面をして原因論にまで口を出してきたのは僭越というものである。毒矢に当たったときにまずしなければならないことは矢を抜くことであり、犯人や矢の材質や毒の成分を調べるのはあとからその道のプロにまかせればよい。矢を抜く名人になったからといって毒物学がわかるようになるわけではない。

 これまで、われわれは「まず原因がわからなければ治療ができない」というドグマに縛られすぎていたものだから、治療家は原因がわかっているような顔をしなければならず、そのため無理矢理に手前味噌の原因論を捏造してきたのである。特に、これまで心理治療家が提唱してきた原因論は、どれもこれもトンデモ本のたぐいに近い(アイゼンク、ハインズ他)。原因がわからないまま治療をしていくのはたしかに居心地のわるいものであるが、だからと言って、確証もされていず、もっとわるいことに確証が不可能(たとえば前世療法)であるような原因論をでっちあげて自ら信じたりすがりついたりする必要はない。要するに、現段階では原因がよくわからないのである。少なくとも、単一の原因によって確実に発生するような不適応はひとつもないと言って過言ではない。

 原因はよくわからない。したがってなぜ効くのかもよくわからない。しかし、やらないよりはやったほうが経過はマシである。それで今のところ十分ではないか。治療される側からすれば「わかっているが効かない」よりは「わからないがとりあえず効く」ほうをのぞむだろう。
(p.218-219)
ソクラテスではないけれども、分からないことを分からないと正直に認めることは難しいモノだ。そういう意味で「要するに、現段階では原因がよくわからないのである。」という筆者の言葉は重く響く。

原因が分からないとしても医師は治療をする義務はある。「治療される側からすれば「わかっているが効かない」よりは「わからないがとりあえず効く」ほうをのぞむだろう。」まさに、医師としての 本能。

※先天性か、後天性か、最大公約数を探せ!

 精神障害の原因として、実にさまざまなことが言われてきた。しかも、わることにどの流派も自分たちがいちばん正しいかのごとく主張してきたし、もっとわるいことにほとんどすべての精神障害が自分たちが興味をもつ要因によって生じるかに言い募ってきた。

 そして、自派が正しい証拠として独自の技法によって「ほら、こんなに治るんですよ」といった単なる逸話を山のように報告してきた。

 これがひっくり返ったのである。欣快これにすぎるものはない。(中略)

あらゆる生物は環境の中で生活しているが、いかなる環境も相手の特質によっては与える影響が異なる。ごく当たり前のことである。

 そうなると、精神障害の原因というのはずいぶん多様であるはずだ。

 遺伝や素質が原因に決まっているといった憶断が誤りであるのと同様に、母親がわるいためだというのも社会や文化が元凶に決まっているというのも見当違いであったのだ。皮膚の内部の要因と皮膚の外部の要因がたまたま運悪く結びつかないと、精神障害だの不適応だのは完成しない。(中略)

治る条件さえ揃っているなら、治療法が薬物であろうが、身の上話であろうが、練習であろうが、クライエントの背中を、治っていく方向へと軽く押すだけのことで効果を発揮するのである。それぞれの治療者が個人的に大好きな理屈とはほとんど関係ない。理屈は後知恵であり、あとから辻褄を合わせて自派に都合よく拵えられたフィクションにすぎないのではないか。(中略)

 もうそろそろ、専門家自身が得意な領域の要因だけでなにもかも説明してしまえるなどといった子どもっぽい主張は取り下げるべきである。
(p.165-167)
「治る条件さえ揃っているなら、治療法が薬物であろうが、身の上話であろうが、練習であろうが、クライエントの背中を、治っていく方向へと軽く押すだけのことで効果を発揮するのである。それぞれの治療者が個人的に大好きな理屈とはほとんど関係ない。理屈は後知恵であり、あとから辻褄を合わせて自派に都合よく拵えられたフィクションにすぎないのではないか。」辛辣ではあるが、現状を踏まえた冷静な提言ではないだろうか。

 「よく拵えられたフィクション」ということでは、フロイトかぶれの文学青年だったという筒井康隆氏がかつてこんなことを書いていた。

ユング、アードラー、メニンジャーなども派生的に読んだが、やはりフロイトがいちばん文学的だから面白い。今ではフロイトは仮説の文学だと思うところへ落ちついている。
筒井康隆『 狂気の沙汰も金次第 』(「筒井康隆全集 14」新潮社、1984),p.263
フロイトの理論が精神医学界では忘れられたとしても、その文学的芸術的な意味を失うことはないだろう。20世紀前半の芸術(文学、絵画、芝居、映画などあらゆる面で)を解釈する上でフロイトの著作は必要不可欠だからだ。このような生き残りのあり方を地下のフロイトが喜んでいるかどうかは分からないが。

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