性における笑いの研究 -西と東の風俗ばなし-

性における笑いの研究 -西と東の風俗ばなし-
金子登著
東京:光文社, 1959.6

 今も続く「カッパブックス」初期の本である。タイトルだけを見ると、西洋と東洋のエロ小咄の比較などをして文化の違いをあれこれ考察するといった類の本のように思えるが、実際はそうではなくて、エロ小咄を材料にフロイト流の精神分析を試みるという不思議な本なのである。

 まずはまえがきの紹介。


ま え が き

 小咄は心のイメージを再現させたものである点で、一つの「夢」であります。したがって、その分析によって、ゆがめられた性の諸相を読みとり、笑い話の中に秘められた精神的外傷や、その痕跡をさぐり、異常なる性の怪奇な姿を見つめることによて、私たち自身のうちに起こるかもしれない数かずの倒錯から離脱できるとすれば、風流小咄はきわめて有用な実験材料だといえましょう。

 (中略)

 ところで、本書の中で分析された性心理の大胆な断定には、心理学専門家は大いにあきれ、またその独断には、手きびしく抗議をされることでしょう。しかし、それはすでに私の計算にはいっています。そしてまた、ここには正規の心理学書では強調されない若干の「愛情の知恵」や、「恋愛への忠告」もくわえられています。

 私が、この本をぜひ読んだいただきたいのは、人の父母である方たちであります。とくに、子供さんの健康な性的成長を祈っておられる世の母親には、どうしても一度は目を通していただきたいとねがっています。そしてまた、これから楽しく美しい青春を迎えようとなさる若い方たちにも、あなた方のすこやかな性の愛のために、ぜひ目を通していただきたいと思います。

 そして、そろそろ性的に迷いと不安を感じはじめた三十後期の女性と四十代以後の男性は、かならずや、ここに身に沁みる忠告の声をお聞きになることでしょう。この本は、心理学専攻者には、性的異常の素材として役立ち、また、小咄愛好者には、風流小咄のちょっとした集大成として、よろこばれることと信じます。

 性の正常と異常とは紙一重だと、よく言われています。私は、それを「量」の差ではなく、「質」の差だと考えます。正常とは生命の持続のための「生の本能(エロス)」と「性衝動(セックス)」が男女相互間にかんぜんな「人」としての共同体を実現することです。しかし、正常な性と、そうした結合にいたるとちゅうで足ぶみし、逆もどりし、横道へ迷いこんだ「異常なる性」との間には、かなり分厚い重なり合いがあるのは事実です。ですから、「その差は紙一重だ。」と見えますし、また、そう見ることの中にある、「あまえた考え方」に大きな危険がひそんでいるのです。

 (中略)

私はこの本にフロイトの学説のような学問的権威など毛頭自負してはおりません。ただ、これが、彼の偉大な著書に少しでも似て、読む人にとって反省の糸口となり、さらに深い分析への最初のキッカケになれば、とねがっています。そうすれば、この小さな本も、その方がたにとって、おもしろおかしいばかりでなく、一生忘れ得ない本の一冊になるでしょうから・・・。

   昭和三十四年四月
金子 登   

 「異常なる性」と「正常な性」の区別を曖昧にすることに警告している事をみれば分かるように、著者は、性における倒錯についてかなり厳格な考えを持っているようで、「とくに、子供さんの健康な性的成長を祈っておられる世の母親には、どうしても一度は目を通していただきたいとねがっています。」というほどに「健康な性」に熱をいれている。戦後の本とは思えないぐらいの19世紀的性道徳観である。まあ、そういった熱意は分かるのだが、著者が実際に示して見せるのは、「エロ小咄を、異常者の症例と見なし、それに対し分析を加えること」なのである。ともかく、実例を一つ紹介してみよう。

[小 便]
息子が小便するを、おやじが見て、「アアいまの若い者はとんと役にたたぬ。おらが若い時はツイにつかまえ小便なぞしたことはない。」と言えば、むすこが「ナニつかまえねば顔へかかる。」
[日本・江1]
(注)ある本には「鼻へはいります。」とさえなっています。


 この咄も一見、たわいない「お道具自慢」の一例としか見えますない。しかし、もうすこし念を入れて、会話の心理を分析してみますと、つぎのようなことも考えられるのです。

 親父の方は---じつは、もう性行為は不能なのではあるまいか。それゆえ、息子の用便の「のぞき」をやっても、じつは不能者独特のやきもちがその動機で、その埋めあわせに、昔自慢をさせたのではあるまいか。

 また、

 息子の方は---これは、いさましい男根性格の青春謳歌ととりたい。

 しかし、この咄には「顔にかかる」という気がかりな誇張がある。もし、このホラが性的不能や、その恐怖症をみなもととすると考えれば、ぎゃくに、このホラを分析することによって、読者はそうした恐怖症を直さねばならないし、もし器官的欠陥があるばあいには、その治療をおこたると、この咄のような「ホラ吹き」になることを知ることでしょう。
(p.16)


 小咄の最後についている[日本・江1]は出典の略号である。巻末に対照表がついている。[日本・江1]は「仕方噺口拍子」。

 根本的な疑問は、小咄の中の登場人物について「親父の方は---じつは、もう性行為は不能なのではあるまいか。」と推測することがどれだけの意味があるのか?という点にある。で、架空の人物の分析から始まりながら、いつの間にか 「もし、このホラが性的不能や、その恐怖症をみなもととすると考えれば、ぎゃくに、このホラを分析することによって、読者はそうした恐怖症を直さねばならないし、もし器官的欠陥があるばあいには、その治療をおこたると、この咄のような「ホラ吹き」になることを知ることでしょう。」と読者自身の問題に変質しているのである。問題といっても、「ホラ吹き」になるぐらいだったら、別に構わないのではないかと思うのだが。

[松 茸]
雪隠で五人組(五本指での自慰)をつけて、八百屋の娘をあてがき(相手を念頭においての自涜)のよくなったとき、こたえられず、
「アア八百屋の娘、むすめ、むすめ。」
と大きな声を聞きつけ、娘、戸をあけて、
「なんだえ。」
返答にこまり、「フフ、こんな松茸はないかえ。」
[日本・江17]
(注)昔、長屋の便所は家の外にあって、共同になっており、入り口の戸は半分ぐらいの高さで、立てば上身が現れたものです。


 この小咄は、一見けっして露出行為ではありません。あてがきの最中、ご当人にみつかってしまったのですから、なんともバツの悪いことであったろうと思います。ここにある露出は、作中人物によるのではありません。作者が、八百屋の娘に「見させた」ことにあります。

 そして、作者が「男」に同一化したと判断すると、娘に見られてしまったという失敗には、マゾヒスト的な快感があり、また、娘に発見されたということには自慰にたいする処罰があります。そして、全体としてこれを見れば、これは作者が「つい、見つけられたような形で」自慰を娘に見せたい---というイメージが浮かんでいます。

 このように、露出には自己性欲を中心として、サジズムが複雑な形で入りまじっています。
(p.88)

 [日本・江17]→「地口しなん」。

 こちらでは、問題とされているのは登場人物ではなく小咄の作者の「露出癖」という「異常なる性」行為である。「ここにある露出は、作中人物によるのではありません。作者が、八百屋の娘に「見させた」ことにあります。」とある。しかし、この小咄を読んだだけで「娘に見られてしまったという失敗には、マゾヒスト的な快感があり、また、娘に発見されたということには自慰にたいする処罰があります。」と断言するってのも、一昔前のフロイトかぶれの物言いが思い出されて懐かしいものがある。

 次は、「のぞき」行為に関しての言及。

 「見る」という行為が性行動の予備的段階にあることは、まえにももうしました。たしかに、接触にさきだち、相手を(主として女性を)裸にし、その体つきを検査し、あるいは乳首の色を調べ、全体に散在するほくろを数えつくして、その位置を動物の乳ぶさになぞらえ、三連星(囲碁の布石の型の一つ)に見たて、また、恥毛の色と密度を調査するといような行為は、「のぞき」に固定してしまったり、とくにこれが強調されないかぎり、ごく正常であります。
(p.60)

いや、それは異常。どう考えても異常でしょ。乳首の色ぐらいまでならともかく、「全体に散在するほくろを数えつくし」以降は、かなりキツいデス。

単純な残忍行為にはつぎの例がありますが、これは、行為者が子供であるために性的要素はすくなく見えますが、子供はなんらかのおさえつけられた衝動を、馬に向けているのでありましょう。


[馬の尾]
つないである馬の尻を、子供がぐいぐいとひっこぬくを、近所の男、「これこれ、子供よせよせ、馬のしりを抜かねえもんだ。」「なぜ。」「わけがある。」「なんの抜いてもいい。」「いんにゃわけがあるから抜かねえものだ。」「そのわけというはなんのこった。」「いんにゃ、手前たちの聞いて役にたたぬことだ。」「それでもそれを言わぬと、おら抜かァ。」「よせよ。」「そんならなぜ抜かねえもんだ。」「ハテサテ馬がいたがる。」
[日本・江24]

 こうした加虐、または被虐によって性的満足を得ようとする性的倒錯は、けっして、その体験が直接性感と結びついているのではありません。生命あるもの(生活体、有機体)の安定をおびやかす肉体的苦痛が快感をおこすなどということは、生物学的一般法則からみてあり得ないことです。

 いためつけられて、なお快感を感じるというのは、人間存在の全体性が、心と体との分裂の危機にひんしながら、なお、「人」であろうとするはげしいいたましさ---人間が動物的水準まで転落しかけている存在の危機にあるのであります。性的陶酔感にあっては、自我と自己の肉体とは融合し、渾然たる全体的体験となるのにはんし、苦痛においては、自我は身体から切りはなされ、はげしい苦痛の叫びをあげ、あがきもだえるのであります。そして、「自我」は苦痛にさいなまれている肉体から脱却しようとします---こうした人間的危機が倒錯者に快感をあたえるのであります。したがって、自我にそうした危機を与えようとする、もう一つの自我があるわけで、一つの自我の中で、苦しむ自我と、それの契機をあたえ、それに快感を覚えるもう一つの自我が奇怪な「全体」をつくり、しかも、自己は時計の振りこのように、その両極間を行きつ、もどりつするのであります。
(p.114-116)

 [日本・江24]→「新口花笑顔」。

 おなじみの落語「馬のす」の原話の小咄。この項は「サディズム」を扱っているのだが、まさか「馬のす」で「サディズム」を論ずることができようとは。 桂文楽師匠が「馬のす」をよくやっていたが、まさか師匠もサディストだったのだろうか。


 では、つぎに、動物愛願望を底にもつ小咄を一つ二つ調べてみましょう。
[人馬ともに]
さる町の僧正、老馬に乗って教区巡視に出かけた。山間の小教会をおとずれ、意外のご馳走になった僧正、寝るときに、
「わしの馬は、老いぼれじゃが長年かわいがっている。どうぞたいせつにしてやってくだされ、わしと同じようにな。」
小教会のぼうさん、僧正に床をゆずって自分は隣家に泊まったが、馬が気になり、夜中、住居に帰って見ると、なんとご機嫌になった僧正さまが、女中のマリーを引きいれて寝ている。憤慨したぼうさん、さっそく厩へ行き、僧正の老いぼれ馬に、自分の牝馬をあてがった。老いぼれ馬は大喜び。さて翌朝、僧正が馬に乗って帰ろうとすると、昨夜がたたって馬がふらふら。十メートル行っては足がガタガタ、二十メートル行ってはヨロヨロ。僧正おどろき、
「わしの馬をどうされた。」
「たいせつにしてやりました、僧正さまと同じようにな。」
[西洋・O]

 この咄は、ほんらい、僧正への腹いせに僧正の馬をくたびれさせただけのことでありますが、そうしたことをたくらんだ小教会のぼうさんの意識にあるものは、「馬による、馬への凌辱。」なので、分析すれば、彼は老いぼれ馬を誘惑した「牝馬」にほかなりません。
 小咄作者は、動物を見て刺激を受ける女性などを好んで描くものですが、こうした空想は自分の獣姦願望を女性に投射し、「責を他に帰する」というという例のきたないやり方にすぎないのです。それによって、女性への悪意をカムフラージュしている性的衰弱者か、自分を虐待して、自分を動物の地位におちた空想の上において、女性との接触をねがっているのです。
(p.132-133)

 [西洋・O]→大久世凡「シャンパン・グラス」(世界文学社)。

 この小咄で獣姦願望を持ち出すのはちょっと無理があるような気がするが。「分析すれば、彼は老いぼれ馬を誘惑した「牝馬」にほかなりません。」って、そういうもんかいなぁ。ちょっと納得いかないが。

[ある会話]
出生まえ、数週間のある日、二人の双生児(もちろんまだママの胎内である)が語りあっている。
兄「オヤ、ごらんよ。パパがいらしったらしいよ。」
弟「ちがうよ。お兄ちゃん、パパじゃありませんよ。お客さんにきまってるじゃないの。だって手袋をはめていらっしゃるんだもの。」
[西洋・Y]

 この作者は「胎内復帰の夢」のイメージを描いているので、そのかぎりにおいては、精神的未発育の危機にあります。話の内容に見る姦通は、その夢を複雑にし、ボカスための常套的テクニックで、「手」にこまると、「姦通」をもってくる小咄の常識には、いささかあきあきさせられます。
(p.169-170)

 [西洋・Y]→矢野目源一「パパ・ラブス・コント」(西沢弘文堂)。

 確かに、好色小咄には、やたらと姦通話が出てきて食傷気味になる気持ちも分からなくもないが、「姦通は、その夢を複雑にし、ボカスための常套的テクニック」という記述には首を傾げざるを得ない。元来、小咄というのは、別に性的な夢想を吐露する為の手段ではない。オチでもって人を笑わせるのが本来の主旨なのである。オチもなく、単に「胎内復帰の夢」を語られても聞く方は困ると思うのだが。

 最後に紹介するものも、上の例のように、小咄に対する無理難題が含まれている。

[法螺(ほら)の音]
吉野にてのことなるに、ある若き者山中にて、山の芋を掘りけるが、深く根へ入りければ、うつぶしになり、腰より上を穴の中へ居れ、尻をもったてて掘る。おりふし、山伏の通りけるが、この者の尻を見て、日本一のことよ、と思い、むりにたしなませて通る。この男迷惑してようよう穴より起きあがるところへ、友だちの来たりければ、「さてさて ふしぎや、ただいま わが尻からあれなる山伏が出ていくが、なんとしたることぞ、跡損じたるか見てくれよ。」と、言えば友だちさしうつぶきて しばらく見て、「いやいや、また小山伏が出るとみえて、奥に法螺の音がするぞ。」
[日本・江7]


 この咄は、男色の強姦でありますが、話のはじめの部分は、現実的で、「若き者」の「尻をもったて」などに、生きいきとした描写が見えます。ここまでは、この作者のイメージであり、願望を示す空想であります。ところが、終わりの部分はまったくの作り話で、ここに作者の自分の意図のボカシがあり、面はゆさの告白があります。小咄作者のずるさであります。
(p.117)

 [日本・江7]→「昨日は今日の物語」。

 いや、「終わりの部分はまったくの作り話で」って言われても。徹頭徹尾はじめから最後まで作り話です。小咄なのだから、最後にオチが付かなければ成立しないのは自明のことであって、それがなければそもそも小咄ではない。「小咄作者のずるさ」と言われようがどうしようが、上記の話で、山伏が「むりにたしなませて通る。」の件で話を終わらせるワケにいかない。小咄を聞いているつもりの人が、「山伏が、芋を掘っている男をみかけ、行きずりにオカマを掘っていった」というだけのオチのない話をされたら、滅茶苦茶気色悪いに違いないだろう。


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