新聞の『嘘』
(その一)

新聞の『嘘』
内海丁三著
大阪:銀行問題研究會, 1932.1

 筆者である内海丁三は大阪朝日新聞の記者であるとのこと。業界内から見た新聞の問題点を記述したものである。まずは序言を紹介する。


序 言

一、さゝやかな新聞從業員の一人として本書を書いて見た。同僚並に先輩記者諸君に對しては、一つの問題を呈出して批判を仰ぎたいといふのが目的の一つ。從て本來ならば自費出版して配布すべきものであるかもしれない。しかし著者にはそんな財力がない。のみならずあはよくば印税でもつて生計の一助にもしたいといふ事情にさへあるのである。

一、また一般讀者に對しては、一種の『新聞の見方』を暗示して、多少でも新聞製作者の立塲を理解して貰ひたいといふのも目的の一つ。特定の新聞のアラ探しになつたり、裏面の暴露になつたりすることは著者の本意ではない。『新聞の嘘ならばもつと非道いのがある』などゝいつて、本書の例示を不十分であるとする人があつても、それは別問題だと答へたい。

一、嘘といふ字を括弧に入れて置いたわけは、自分が新聞記者であり乍ら嘘、嘘と繰り返すのに氣がさすからである。『いはゆる嘘』といふ意味に解して頂きたい。

   昭和六年十月
著者記す   

 文中に「本書の例示を不十分であるとする人があつても、それは別問題だと答へたい。」とあるように、それほど新聞の誤報が数多く挙げられてはいないのでちょっと拍子抜けだが、今回はその中から、「一万円チップ事件」をとりあげてみる。

 最も悪辣な新聞宣傳は全然嘘を事實らしく書かせようとする。その最も著しい例は恐らく大阪に起つた一萬圓チツプ事件であらう。昭和六年三月五日の東京××新聞には、『チツプのレコード、一萬五百圓、果報は孝行女給へ』と標題して次のような大阪電話の記事を掲げてゐる。

例四のA=不景氣も何のその、これはまたベラ棒に景氣のよ過ぎるチツプレコード金一萬五百圓也といふ夢のやうな高級チツプにありついた女給が大阪に現はれた、この幸運女給は大阪千日前カフエー「君ヶ代」の君子こと角野すみ(二○)さん、二月末足繁く通ひ始めたマーさんと呼ぶ五十格好の爺さんが君ちやんの哀れな身の上に同情して金一萬五千圓也のチツプをポンと投だしたといふのである。
そしてその新聞は同時に其れを貰つたといふ當の君子の金を貰つた前後の詳しい説明とそれを裏書きするようなカフエー主人の談話を掲げてゐる。(中略)

 ところが總ては『嘘』であつたのである。新聞記者の追窮と、怪しいと睨んだ警察の嚴重な取調べに、最初カフエー經營者の書き下した筋書きに從つて芝居をしてゐた女給君子の母と祖母とが口を割り、總てがカフエー君ヶ代の宣傳のための嘘とと判つた。この種は最初カフエー經營者(?)の出した投書から記者の活動となつたとのことであるが、貰つたといふ本人の言明、カフエー主人の裏書 本人の伯父の言明など記者が直接確め得た事實---それも關係者の言葉にすぎない---を根據に、記者がまだ確めないこと、即ち一萬圓の贈與が眞に行はれたといふことを事實として報道した一の例である。(pp.25-27)
「カフェー」というと、今でいえば、ちょうど「キャバクラ」といったところか。キャバクラ嬢にちょっくら貢いで同伴してもらおうという感じであろう。その貢ぐ金のことを昨今では何というかは知らないが、当時は「チップ」と称していたのである。一万円といっても金銭価値の違う現在ではピンと来ないが、当時の新聞1ヶ月分が90銭ぐらいである(※昭和5年の値段。『値段史年表 週刊朝日編』より)。現在、新聞の月ぎめ価格は大体4,000円であるから、4400倍。これを単純に当てはめれば、当時の1万円は、現在の4,400万円(!)となる。また、はがきが当時1.5銭(※昭和5年の値段。『値段史年表 週刊朝日編』より)で、現在50円だから、3300倍。この場合は3,300万円ということになる。どちらにしても、キャバクラ嬢に当座に手渡す金額でない事は確かだ。埋め草記事としては話題性十分というところである。しかし、「君ヶ代」って店の名前は大丈夫なのか。不敬罪じゃないのか。

 文中では「東京××新聞」となっているが、当時「東京××新聞」と言えば、「東京朝日新聞」(現在の朝日新聞の前身)か「東京日日新聞」(現在の毎日新聞の前身)のどちらかだろう。で、当日の新聞を見比べてみたら、どうも東京朝日新聞の記事らしい。現在の朝日新聞なら、いくら埋め草でも「キャバクラ嬢に5,000万円貢ぐ 消えた謎の男の正体!?」なんて記事が載ることはあり得ないだろうが、当時はこんな「ナイタイ」みたいな軟派な記事も載せていたんである。この記事を引用してみる。


東京朝日新聞 昭和6年3月5日 朝刊7面

チツプのレコード
一萬五百圓也
日本一の果報女給


【大阪電話】不景氣も何のそのこれは又ベラ棒に景氣のよ過ぎるチツプレコード金一萬五百圓也といふ夢のやうな高額チツプにありついた女給が大阪に現れた、この幸運女給は大阪千日前「カフエー君ヶ代」の君子こと角野すみ(二○)さん二月末足繁く通ひ始めたマーさんと呼ぶ五十格好の爺さんが君ちやんの哀れな身の上に同情して金一萬五千圓也のチツプをポンと投だしたといふので御本人の君ちやんは

エゝたしかにもらひましてん、五日ほど前の晩見えはつたマーさんがカバンの中から何やら白い紙包みを大事さうにだしはりましてこれだけあつたらお前とお母さんが一生暮すだけはまづ十分やと思ふ、お前の哀れな身の上話に身につまされたによつて何にも條件をつけず進呈する

かういうて無理に押しつけて歸りはりました、あとでマスターと立會の上あけて見ると安田銀行平野支店の定期預金で一萬圓としてあるのでびつくりしながら早速家に持ち歸りお母さんに相談しますと「こんな恐ろしい大金を人さまから戴いては今日さまに相すまぬ、直ぐお返ししよう」といつてすぐ銀行から現金を引だしお返しすることにしてゐましたがどうなりましたやらとオロオロしてゐる又君ヶ代カフエーでは

「君ちやんがマーさんにいろいろ問ひたゞされるまゝに状袋はりして盲目の母を養つてゐたがそれもこの不景氣で立行かなくなつたため女給商賣に出たと話しましたところマーさん-----本當のお名前は阿倍野に別荘をもつてはる大きな食料品屋さんで西川さんといふ人ださうですが-----いたく動かされ二月十日頃二百圓、二十日頃三百圓をもつて見えましたが義理固い君ちやんのお母さんが二度ともお返ししたところ更に二十八日の夜一萬圓を銀行預金にして持つて見えました」と裏書してゐる
東京朝日新聞では、この記事の後に、「実はこのチップはカフェの狂言だった」という後追い記事は掲載されていない。なので、東京でこの記事を読んで、これが本当は嘘だったことを知らぬまま「カフェの女給が1万円のチップを貰った」という都市伝説を信じ込んだままの読者が相当数存在したのであろう。一方、大阪の新聞では狂言の暴露にいたるまでフォローしている。騒動の発端記事は以下の通り。

大阪朝日新聞 昭和6年3月5日 朝刊5面

千日前に現はれた
 一萬圓女給
  親孝行に感じた老人が
   ポンと投出す

不景氣も何のその、これはまたべら棒に景氣の好過ぎるチツプ・レコード----かつて大連と神戸に相前後して五千圓チツプの女給が現れ世間をアツといはしたが、こんどは大阪に、神戸、大連兩女給の貰ひ高を合したよりモ一つ多い金一萬五百圓也といふ夢のやうな高額チツプにありついた女給が現はれた?

この幸運女給は大阪千日前「カフエー君が代」の君子こと角野すみ(二十)さん、一月末から君ちゃんのもとに足しげく通ひはじめたマーさんと呼ぶ五十恰好の
爺さんが、君ちやんの哀れな身の上に同情して『金一萬五千圓也のチップをポンと投だしはつた』といふ噂が昨今同食堂附近でパッと立ち、君ちゃんのお風呂の行き戻りにも『あれが一萬圓女給や、よう見といて、あやかりや』と大變な騒ぎである、これについてご本人の君ちやんは

『えゝ、たしかに一應はもらひましてん、五日ほど前の晩見えはつたマーさんが
鞄の中から何やら白い紙包みを大事さうに出しはりまして、「これだけあつたらお前とお母さんが一生暮すだけはまづ十分やと思ふ、お前の哀れな身の上話に身につまされたによつて何にも條件をつけず、進呈する』かういうて無理に押しつけて歸りはりました、あとでマスターと立會の上開けて見ると、安田銀行平野支店の定期預金で
一萬圓としてあるので、びつくりしながら早速家に持ち歸りお母さんに相談しますと「こんな恐ろしい大金を他人様からいたゞいては今日様に相すまぬ、すぐ
お返ししよう」といふことになりましたが、その後わたしは歸宅しないのでどうなりましたことやら・・・』

と狐につまゝれたやうな顔つきでウロウロしてゐる、また君ヶ代カフエーでは

「君ちやんが、マーさんにいろいろ問ひたゞされるまゝに、状袋貼りして盲目の母を養つてゐたが、それもこの不景氣で立ち行かなくなつたため、女給商賣に出たと話しましたところ、マーさん-----ほんとのお名前は阿倍野に
別荘を持つてはる大きな食料品屋さんで西川さんといふ人ださうですが-----いたく動かされ、二月十日ごろ二百圓、二十日ごろ三百圓を持つて見えましたが、義理がたい君ちやんのお母さんが二度ともお返ししたところ、さらに二十八日の夜一萬圓を銀行預金にして持つて見えました」と裏書してゐるが、肝腎の
盲目の母親くにさんを住吉區平野京町二丁目の宅に訪へば

『めつそうもない、一萬圓どころか、鐚一文お預かりしてはをりません、しかし娘の話を聞いて親身になつて世話してやりたいとて、どこの方か知りませんが、君子の従兄杉本嘉藏の宅までお聞き合せに見えたことはあります』

と頭から否定し母親のみが知つてゐるといふ老人の身許も金の始末も明かさなかつた

噂も知らぬ
  杉本方の話

住吉區平野京町三丁目の杉本嘉藏宅では細君が主人に代つて語る

『十日ほど前君ちやんのことについて小柄のお年寄りの方が訪ねて見えましたが、こちらでは事情もわかりませんので、直接母親くにさんの家へ行きはるやうに教えてあげたところ、角野の家の方角へ行かれたやうですがその結果は何も聞いてゐません一萬圓云々の噂も知りません』
上の東京朝日新聞の記事とほぼ同じ文章も散見されるので、東京のほうは、この大阪朝日の記事を元に抜き書きして記事にしたのであろう。同じ日の大阪毎日新聞にも、この事件の記事が載っている。

大阪毎日新聞 昭和6年3月5日 朝刊7面

春宵一刻の價
 チツプ一万圓也
   ・・・・貰つたといふ女給
    身の上話に同情したお客

春宵一刻價一万五百円のチツプを貰つたといふ女給の噂-----女給のチツプは昨年末神戸の某女と大連の某女が五千円づゝ貰つたのが最高レコードとなつてゐたが本年になつて景氣が回復したのか相塲も二倍以上に上つて實に一万五百円といふベラ棒な額になつた、その貰つたといふ
女は大阪南區阪町十八カフエー君代に昨年十二月廿八日から勤めてゐる角野君子(二○)與へたといふ男は大阪住吉區阿部野町四丁目食料品店主マーさんこと東山松之助(五○)---假名---、君子のいふ所によると彼女は大阪住吉區平野京町二ノ一二に盲目の母親くに(四八)と二人で暮してゐるが三つの年に養子であつた父親と生別し九つの年に母親がそこひを患つて盲人になつてしまつたので、それ以來彼女は状袋張りの手内職をして母を養つてゐたところ
昨今の不景氣でその仕事も失つてしまつたので、女給となつてカフエー君代に現た、さういふ風だから到つておぼこで客にサーヴィスをする術も知らぬ有様、その様子を見て不審に思つたのが兩三年前からこゝの馴染客である前記の食料品屋さん、いろいろ君子の身の上話を聞いてすつかり同情し、一月中に二百円と三百円、二月末になつて手の切れるやうな百円札百枚金一万円也を
君子に與へた、何がさて夢のやうな大金を一時にふところにして君子母子は嬉しさどころか氣味惡くなり三日にその金をそのまゝ親戚に當たる同町の角野卯造氏にあづけ、マーさんに返したものかどうかと迷つてゐる、といふのである

一万圓は確に預つてゐる
  親戚の人の話

君子から金一万円也をあづかつてゐるといふ角野卯造氏は語る

お君さんがお客さんから貰つた一万円は母親のくにさんの手にあつたが目くらだから私のところへもつて來てあづかつてゐます、それでくにさんは恐がつて返したいといつてゐます、御不審なら何時でも御目にかけます

『マーさん』は別荘住まひ

女給にチツプ一万円也をやつたといふ氣前のいゝお客「マーさん」を尋ねたが阿部野四丁目にはそれらしい食料品店はなく交番でも知らぬといつてゐるが、君子は「マーさんは阿部野四丁目の食料品屋さんとだけしかおつしやいません、何でも阿部野橋際で大衆食堂を經營し御自分は別荘に住んでゐられるとか聞いてゐます」といつてゐる
ヒロインの名前が朝日では、「君子こと角野すみ」となっているのに対し、大阪毎日では単に「角野君子」とされている。朝日の方では母親くには、事件を否定してるが、毎日では親戚の角野卯造氏が確かに金は預かったといっている。事件そのものの存在について、朝日は否定的、毎日は肯定的という図式。で、毎日は6日の夕刊でさらに肯定論を展開する。ちなみに言っておくと、当時の夕刊は同じ日付けの朝刊よりも先に発行されている。3月6日付の夕刊というのは、実は5日の夕方に発行されているもののことをさす。現在の夕刊紙、「夕刊フジ」や「日刊ゲンダイ」の日付けの付けかたと同じ。

大阪毎日新聞 昭和6年3月6日 夕刊2面

チツプ一万圓
  まさに事實
   けふ五千圓づゝ
    二銀行へ預金

既報、一万円のチツプを貰つたといふ大阪南區阪町カフエー君代方女給角野君子(二○)につき島之内署ではその客が不明な點を不審とし五日同家に至り取調べ中であるが一方この現金を預かつてゐる同女の伯父角野卯藏氏方へは本紙の記事を見て逸早く駈附けた安田銀行平野支店員と關西信託會社員と鉢合せ、預金の勸誘をした結果、双方へ二分して預け入れることに話が纏まつた
しかし、6日の朝刊発行時には、いよいよ狂言がバレかけてくる。

大阪朝日新聞 昭和6年3月6日 朝刊5面

チツプ一萬圓は大嘘
 本人の女給行方を晦す
   預主といふ飴屋が底を破つた
     カフエーのからくり?

春宵チツプ奇談----大枚一萬圓也を戀でもなく色でもなく、駈け出しの女給の哀れな身の上話に動かされてポンと無條件で投げ出し名前や身許さへ明かさずに立去つたといふ謎のパトロン「マーさん」をめぐつて、一萬圓事件は五日ひねもす別項のやうなナンセンスづくめの渦紋を捲き起こしたが、さらに夜に入つてヒロイン
君子の失踪、つゞいて仕組みに仕組まれた名狂言(?)が半ば底破れといふ悲喜珍劇百出のうちに正念塲が近づいてきた、この事件も結末ちかい六日午前一時ごろ肝腎の大金保管者といふ女給君子の叔父角野卯藏が一日の飴行商を終へて南海平野線終電車で歸宅し夜食を認めた後、直に君子の
母親 角野くにの宅を訪れたところ、待ちあぐねてゐた母と祖母は卯藏の手をとつて泣きながら君子の失踪について語つたので、正直者の卯藏も途方にくれてオロオロと男泣きに泣き出し、居合せた記者に母親くにともども

「何にも知らぬ君子が或る目的のために囮に使はれましたんや最初はどなたが見えても正直に事實を申し述べるはずでしたがつひに餘儀なく中味もてんで知らぬ金包とやらを預ることになりました、あとはよおしくお察し願ひます、われわれ一家のものは甲斐性なしですが正直ではよそ様にひけを取りまへん」

と告白した、この
告白によつて、すべては何者か爲にするからくり芝居だつたことはほゞ明らかとなり行詰まつたカフエー界の邪道へ邪道へと尖鋭化する典型的な一例である

カラクリ曝れるまで
 追駈け廻す銀行屋
    盲の母、聾の祖母を珍くどき
  謎のマーさんはどこへ行つた?

孝行女給 君ちやんこと角野君子(二十)の家庭で四十八になる盲目の母と八十五になる金つんぼの祖母とが大枚一萬圓在中といふ問題の紙包みを預るべき餘儀なくされた後のいきさつはかうだ、五日早朝母くには近所にゐる弟角野卯藏方を訪れ、卯藏に一萬圓の紙幣包なるものゝ保管方を頼みこんだ卯藏さんもその日ぐらしの
飴行商であまりの大金に呆然としてゐたがおかみさん達に勵まされてヤツとこの日本一の大チツプのお守り役を引き受けたが一方一萬圓の金が平野の裏長家にあることを知つた大阪一流の銀行の預金係八、九人朝の九時から次ぎ次ぎに路次裏の家を訪れ、眼の見えぬ母親に名刺をつきつけたりつんぼの祖母をヒソヒソ聲で口説いたり、喜劇百出のゝち、やつと金の保管が卯藏さんの手に移つたことを知ると、住吉から長柄の果まで歩き廻るといふ
ドンドコ飴屋の卯藏さんを追ひ廻し午後二時ごろ天王寺の庚申市に店を張つてゐることをつきとめ、なまめかしい廓女の多い庚申詣での雜沓の中で飴屋を圍んで預金爭奪の一と幕が演ぜられゴタゴタの末一番乗りのY銀行にやつと豫約(?)の札が落ちた

またカフエー君が代の所轄署島之内署では時節柄餘りにべら棒な額なので出所を確かめるため午後三時半君が代の女將と君子を同署に召喚、營業係主任らが同署樓上で二時間ほど取調べたが大たい申し述べの辻褄も合ひ、若い巡査をして「イヤ俺も女に生れて來たかつた」と長嘆さしたほどで

謎のパトロン、マーさんの
登塲には警察さへ固唾をのんでゐたところ、意外!こんどは夜に入つてヒロイン君子の失踪といふ事件が持ち上つた、警察から歸つた君子は

「厭だ厭だ、ひとのご親切から貰つたお金がこんなに祟つてアチコチからうるさい詮議を受けるなんて、つくづく世の中が厭になつてしまふ」

と目に
涙さへ浮べて愚痴をこぼしてゐたが、午後七時ごろ相談のためカフエー君が代に來てゐた母親を送つて上げようとてカフエーを連れ出し、阿部野橋附近まで見送つたが不意に氣を變へたやうに

やはり私はこの事件はマーさんに出て貰はねば片がつかぬやうに思ふ、今からマーさんのお友達を通じてマーさんを探し出し、一しよに實家に來て貰つてあかしを立てます

と稱して母親を同伴したドンドコ飴屋の内儀に託したのち阿部野方面に
姿を晦ましたが、六日午前零時を過ぐるも歸宅せず、不審に思つた母親が午後十時ごろ取つて返してカフエー君が代に行方不明を報じたゝめ、次第に騒ぎは大きくなり、同カフエーでは主人石原賢次夫妻が直に最寄交番を通じて島之内署に保護願ひを出したが同署でも晝間から注意を拂つてゐた關係上、阿部野、平野各署に手當てを出したが、君子の行方は依然として知れず、母と祖母は昨日までの幸運が忽ち逆轉、降つて湧いた災難に手をとり合つて泣いてゐるばかりだった
3月5日朝刊の時点では朝日は、女給の名を「君子こと角野すみさん」と書いていたのに、この6日朝刊では、あっさり「孝行女給君ちやんこと角野君子」とされている。毎日新聞はハナから「君子」としていたところをみるとやはり「角野君子」が正しいのだろう。同じ6日 の朝刊で、一万円チップ事実説をおしていた大阪毎日もついに否定派に変じかけてきている。

大阪毎日新聞 昭和6年3月6日 朝刊7面

『嘘の口紅』?
   どうやら怪しくなつた・・・
      一万圓のチツプ女給

「嘘の口紅」と唄にまで唄はれた女給の嘘も若しこれが本當に嘘ならば由々しきことといはねばならない---それは既報大阪南區阪町一八カフエー君代の女給君子(二○)が馴染客マーさんなる者から一万円のチツプを貰つたことにつき事實とすればそんな大金を與へたマーさんなる人物が當然問題となるわけで島之内署始め各方面でその正體を明かにしようとしてゐたところ俄然君子の母角野くに(五四)は五日夜に至り意外にもカフエー君代の主人から頼まれて嘘をついたと洩らした、くには語る

四日夜君代の主人が來られて一万円を貰つたことにしておいてくれと頼まれました、また娘も伯父の角野卯造を訊ねて同様のことを頼み二人連れ立つて私の方へ相談に來ましたので惡いことと知りながらつい嘘をつきました

君子雲隠れ
 女將はカンカン

君子の母親角野くにの洩らした告白につきカフエー君代の女主人石原ひさのはスツカリ憤慨して「冗談にも程があります、あのおばあさんは何のためにそんなことをいふのか氣が知れません、私の店の宣傳では絶對にありません、そのことは晝間島之内警察でも立派に申上げました、これからくにさんの所へ行つて身のあかりを立てます」とカンカンになつてゐる、なほ當の君子は午後六時ごろ店を出たまま行方が知れなくなつたので島之内署太左衛門橋派出所へその旨届け出でた

なほ島之内署は六日君子と營業主を再び同署に召喚取調べることになつた
ついに7日の夕刊にいたって、両紙ともに狂言説に傾く。

大阪朝日新聞 昭和6年3月7日 夕刊2面

問題の女給
 悄然歸る
  マーさんの正體も判る
     全く狂言の一萬圓チツプ

既報=五日夜行方不明となつた一萬圓チツプ事件の女給角野君子は六日拂曉、悄然として自宅に歸り平野署に母くに諸共召喚され、早朝から鈴木平野署長自ら
取調べたが、その結果全くカフエー側のたくらんだ用意周到な狂言で母くにと叔父角野卯藏は事情を明かして同意を強ひられて一役買つた宣傳芝居と判明した、なほ謎のパトロン、マーさんの正體は南區日本橋筋五丁目旅館業藤屋こと前田貞一(假名)で去月末君子が同店で揃ひのモン・パリ衣裳(五十圓)が調達できず、心配してゐるのに同情し、同店女將を通じて右の衣裳代を出してやつたことが、この狂言を
仕組むヒントとなつたもので

五日夜君子は母親を見送つたのち日本橋の藤屋で暫時かくまつて貰ひ六日午前三時過ぎ藤屋の女將が自動車で君子の宅まで送り届けたものである

取調べを終つた鈴木署長は

行きづまつたカフエー經營策の犠牲として、盲目、聾などの無力な世帯を利用したこの奸智に舌を捲くばかりである、君子は状袋貼りの眞面目な稼業を七年間續けて母と祖母を養つてきたが昨今の不景氣で立ちゆかず氣のすゝまぬ女給商賣を始めた
純眞な娘である、かうした氣の毒な家庭をさんざん傀儡に使ひ廻したカフエー業者の心根に僕は義憤を感ずる

と語つてゐた

君代の經營者
 宣傳を否認

一方島之内署では君代の經營者石原賢次を六日午後一時召喚、山崎主任警部が二時間にわたつて取調べを行つたが石原は店の宣傳にしたといふ點を絶對に否認してゐるが同署では道頓堀、千日前その他同署管内のカフエー業者に對し今後この種の問題を起さゞるやう嚴重なる警告を發することゝなつた

嚴重に處分する
    柘植大阪府保安課長談

大阪のカフエーのエロ、グロ戦術は最近ますます尖鋭化し脱線してゆくので府保安課では各署を督勵し嚴重取締りを行つてゐる矢先今回のチツプ一萬圓事件のカラクリが暴露したことゝて同課では極めて重大視し所轄島之内署に至急調査を命ずるとゝもに處分につき考究中であるが柘植保安課長は語る

「前例のない奇怪千萬な邪道戦術で、一般人心に惡影響を及ぼしたことは無論である、もし業者が營業のためこのトリツクを案出したとすれば芝居茶屋席貸料理飲食店營業取締規則の公序良俗を害する條文により營業禁止處分にせねばなるまい、一方警察犯處罰令の「人を誑惑せしむべき流言浮説または虚報をなしたる者」の條文(三十日未満の拘留または二十圓未滿の罰金刑)にも該當せぬかとも考へられるいづれにしても嚴重な處置を講ずるつもりだ」
大阪朝日では君子とその母くにを取り調べた鈴木署長の口を借りて、君子は利用されただけで悪いのはカフェーの経営者であることが強調されているが、同じ日の大阪毎日では君子の行方は知れないまま。記事も朝日ほどスペースを割かれていない。狂言を見抜けず、朝日と違って簡単に信用してしまったために、ちょっと気恥ずかしくて取材もおざなりになってしまったのかもしれない。

大阪毎日新聞 昭和6年3月7日 夕刊7面

嘘の一万圓チツプ
 營業禁止處分か
  島之内署でからくり自白
     保安課の態度強硬

大阪南區阪町カフエー君代の女給に關する嘘の一万円チツプ問題に對しては、大阪府保安課でもカフエー業者が營業政策から虚構の事實をかまへて宣傳に利用したことは明らかに公安を紊るものであるとして重大視し、六日正午柴山主任警部から所轄島之内署山崎行政主任に對し電話をもつて「早速眞相を取調べの上處罰の必要あるものなら嚴重處置するやう」と注意を與へたので島之内署では直にカフエー君代主人石原賢次を呼出し取調べたところ、嘘であることが判つたので處分方法について考究中であるが、同署ではこの惡傾向を徹底的に取締るため近く管内の全カフエーに對し今後かゝる虚僞の宣傳をなすものは嚴罰に處する旨の通達を出すはずである

柘植保安課長談
もし營業者が爲にするところあつてやつた事實が明白となれば、ゆゝしい問題で直ちに營業を禁止する考へである、しかし何がゆゑにそんな嘘の宣傳までせねばならなかつたといふ點についてはそこに大資本カフエーに對する中小資本カフエーの惱みがあるのだらうか、最近殊に、露骨なエロ戦術やトリツク的なあくどい宣傳方法を業者が競爭的に智恵を絞つて案出する傾向が流行しその弊害も少くないから十分取締るつもりだ

マーさんの
正體
  大阪バスの賄人

ナンセンス劇一万円チツプのヒロイン、女給君子の行方は六日に到るも判明せぬが一方操人形となつたマーさんの正體は大阪住吉區阿部野筋四丁目大阪バスガレージ内の賄人西川松太郎(五四)で同人は「全然さういふ覺えはありませんカフエー君代へは月二三回くらゐは行きますがチツプはせいぜい一円くらゐの程度で私の身分としてはそんな大金を出せるはずがありません、君子をかくまつてゐないかつて?そんなことはありません君子は私の家を知らないですから」といつてゐるが塲内の噂によると松太郎は近ごろ「上玉の女給を手に入れたからそれを連れて伊勢參りでもしてやらう」といつてゐたさうである
面白いのは、二紙とも「マーさんの正体が知れた」としているのに、それぞれ別人を指している点である。朝日では「旅館業藤屋こと前田貞一」であり、かたや毎日では「大阪バスガレージ内の賄人西川松太郎」。確かにどちらの名前も「マーさん」と読めるのだが、今となっては、どちらが正しいのかはわからない。ともかくも最後まで食い違いを見せる両紙の記事なのであった。



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